名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

¶ 【感性革命 爆笑死続出ー スクリューボール・ジョーク】 名邑十寸雄著

2017年08月02日 | 日記
 極め付け冗句集がお好きな方は、下記を御読み頂ければ幸甚です。(アマゾン、紀伊国屋、楽天、ROMANCER他)

ー感性革命 爆笑死続出ー 「スクリューボール・ジョーク」

 文学でも映画でも、一番難しいのは喜劇だと云われます。現代日本の笑いは、ギャグや楽屋落ち、駄洒落や下ネタ、詰まりは作為的な話法をベースにしたものばかり。一過性の可笑しみに慣れてしまうと、喜劇の本質を見逃す事に成りかねません。エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー、フランク・キャプラ、チャップリン、黒沢明の映画。或いは名作古典落語で醸し出される笑いには、深い世界観に根差した得も云われぬ可笑しみがあります。そう云う伝統を鑑み、三千を越すネタ帖から約15年程掛けて厳選したのが拙著「スクリューボール・ジョーク」です。ひと言お断りしておきますが、著者のオリジナルは約半数であり多くは古典的なジョークの新たな校閲作品です。「これは、あのジョークがオリジナルだな」と見破る方々は、笑いの通と云えるでしょう。
 
 とはいえ、ジョークの面白さと云うものは本来卓越した話芸から生まれるもの故、読者御自身の想念に「溜め」と「間」が無ければ笑いの本質を味わえない。本当の可笑しみというものは読者が陥った勘違いに根差しているゆえ、読む側に笑いの対極にある正しい見地がないと心から愉しむ事は出来ません。狭い論理で捉える方々には、ピンとも来ない。落語を聴いて「なるほど」と考える方々に直観出来るものではありません。禅の想念に似ています。

 笑いには、本来古いも新しいもありません。本ものとにせものがあるだけの事です。名作落語や古典のコメディ映画を愉しむ感性のある読者諸氏であれば、腹を抱えて大笑いする。しかしながら、面白くないと思われる方がいるかも知れません。そう云う方々は、「笑い」と云う重要な人生の要素を見失っているのです。本ものは、何度も繰り返し鑑賞する内に可笑しみが増幅されます。騙されたと思って無料の「立ち読み」をトライなさる方々は、話術の妙味を多少なりとも会得なさる可能性がございます。

 笑いは、人間社会の重要な要素です。あらゆる交渉事の必要条件は、先ず親しみを得る事。十分条件は、信を得る事とも云えます。その前提には、洒落た可笑しみを生みだす才能がある。そういう感覚に縁の無い方々は、日々目の前に転がっているチャンスを逃しているものです。一度可笑しみのある話芸を身に付けると、チャンスが膨れ上がる。それを実感して頂く事が、この作品の効用とも云えるでしょう。「スクリューボール・ジョーク」が、人生の扉を開く機蜂となる事を切に願っております。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする