なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

東京・鎌倉散歩(2015 4 12~13)

2015年04月21日 | 旅行
<その1 鎌倉>

 坂出からちょうど4時間で新横浜、在来線に乗りかえて東神奈川駅に着いた。人の混雑に加え構内は何となく騒然として落ち着かない。早朝、秋葉原駅近くで架橋倒壊事故があったらしくダイヤは乱れていた。特に京浜東北線の遅れのアナウンスが絶え間なく、掲示板を見上げる乗客の眼も忙しい。
 そんな中、なんとか横須賀線に乗り込みお昼前に鎌倉到着。一級の観光地だけあって人の賑わいは半端じゃない。観光客の半分以上は外国人だろうか、一見して白人は目立つのだが、顔かたちが日本人と変わらない中国人や韓国人が潜在しているようだ。駅から北に延びる若宮大路を歩き始めると、耳には様々な言語が飛び込んでくる。


 今回の旅の目的は次男坊夫婦の長女誕生祝してのお宮参り。人ごみを縫うように先を進むと鶴岡八幡宮の鳥居が見えてきた。源頼朝ゆかりの八幡宮、以前は「いい国(1192)作り鎌倉幕府」と覚えたものだが、最近の教科書では、頼朝が全国の軍事権・警察権を掌握した「文治の勅許」の1180年をもって幕府成立と教えているらしい。時代が変われば歴史認識も変わるものだ。というよりも、そもそも時の政権の総称「幕府」という言葉は当時にはなかったようで、源政権は単に「鎌倉殿」と呼ばれていたらしい。「幕府」が使われ始めたのは江戸中期以降で、大政奉還のような正式な公布のない時代は、明確な時代の区切りなどあろうはずがない。後年の歴史学者が便宜上区切っているに過ぎないのだ。そして「鎌倉幕府」の成立年は諸説あるようだ。

 親族一同、鳥居をくぐり社務所の受付を待つ。正面の長い石段左横にポカリと空いた更地に目が留まる。そこには先の台風(2010年)で倒木した銀杏の大きな切り株が生々しい。直径2m以上はあるだろうか、樹齢800年とも1000年とも云われていた大銀杏、切り株の大きさがその年月を物語っている。あった大木はかつて「隠れ大銀杏」と呼ばれていた。頼朝の子実朝が拝賀した際、甥である公暁(くぎょう)がこの木に身を隠し暗殺を実行した。その後、公暁も殺されたため暗殺動機等の真相は藪の中だ。
 倒れる前の大銀杏はきっと壮大だっただろう。夏は青々とした新緑、秋は黄色く色づいた紅葉、冬は落葉した枯れ姿、悠久の年月と共に四季折々の表情を見せていたに違いない。幸運なことに樹木医の努力によって、すぐ横には移植された実の発芽(ひこばえ)が小さく見えている。また何百年もすると堂々とした立ち姿を見せてくれるに違いない。
 

 本殿内は健康と成長を願う家族であふれている。あちこちで赤ちゃんの泣き声、誕生したばかりの0歳児の住所と名前を、神主が粛々とマイクで読み上げていく。最後に、伏せた多くの頭を大きく祓って終了。息子夫婦も満面の笑顔を見せている。大銀杏の萌芽ように、強く元気に育って欲しいものだ。


 参拝のあと大仏の鎮座する高徳院に行ってみた。駅前からは「大仏行き」の路線バスが何本も出ていて15分で到着。幸運なことにまだ花びらを残したソメイヨシノが数本残っている。


 この阿弥陀如来像は1252年に完成し、1495年の大津波で大仏殿が倒壊。それ以降は青天井の露仏のままだ。だから約250年間は奈良の大仏のように屋内にあったことになる。時の流れとともに、歴史のいたずらは何と面白いことだろう。



〈その2 浅草の夜は更けて〉

 地下鉄浅草線に乗り雷門の前を通り過ぎるころ、陽はすっかり落ち、街は商店からあふれ出た様々な光が通りを染め、夜の歓楽街は昼間の喧騒とは違った落ち着きを見せている。国際通りに出て北進するとホテル京阪浅草。慌ただしくチェックインすると、さっそくお目当てのブラジル料理「Que Bom(キ・ボン)」を目指す。ホテルから徒歩5分、国際通りからほんの少し西へ入った地下にあった。
 階段を下りるとドアの向こうはブラジル一色。壁には国旗が掛かり、中央の大型スクリーンにはサッカーの試合映像。ローストした肉の香しい匂いがたちこめ、8割がた埋まったテーブルは談笑するお客でにぎわっている。

 「さあ、飲んで食べまくるか!」対面に座る歩き疲れたカミさんに笑顔が戻る。まずはブラジル地ビールで乾杯、乾いたノドが音をたてて喜んでいる。カミさんの笑みを見ていると、30数年前のブラジル旅行を想いだす。サンパウロのリベルダージ通りを歩き、リオのコルコヴァードに登り、そしてコパカバーナの海岸で泳いだ。あの時二人は若かった。(あれから40年、、、)

 シュラスコというのは、牛や豚、鶏肉などの大きな塊を長い鉄串に刺し塩だけで味付けし、炭火でじわりじわりと回転させながらローストする肉料理。脂きったところで肉の表面だけを長いナイフで削ぎ落とす。シンプルな味付けだけに肉本来の風味と食感が楽しめる。

 
ビールのあと赤ワインを注文した。数々の肉のブイ、ソーセージのカリッとした歯ごたえ、口の中は赤ワインと肉エキスが混ざり合い、グチュグチュのミキサー状態。「お~、たまらん!」頬っぺたが落ちたかと思った。


 シュラスコは黙っていると次から次へと持ってくる。そのためテーブルには、上下を赤と緑に塗り分けたコケシのような木片が置いてあって、緑色を上にしているといつまでもウエイターが串を持ってやって来る。終了したければ赤色を上に。この方式は本場ブラジルのもので、リオのレストランでも緑を上にしていると、まだ食べきっていないのに次々と肉を盛られ、皿が山のようになったことを思い出す。
 この店のシステムはバイキング方式。奥のカウンターには、フェイジョアーダ(黒豆を煮込んだ塩味の家庭料理)などいろいろな料理やサラダ類が取り放題で、ブラジルの味を十分に楽しませてくれる。


 満腹中枢は徐々に満杯を告げはじめ、酔いも回ってきた。このあたりでサンバ・ボサノバが流れてくれば気分も絶好調になるのだが、それはない。周りは談笑する声だけだ。
 最後の仕上げはやはり”田舎の娘”の意のカイピリーニャ。ブラジルの地酒ピンガ(サトウキビを原料)をベースにしたカクテルで、少々甘いがアルコール度数は高い。

 席を立つ頃には完璧にでき上がってしまった。店内がゆらゆら揺らいでいる。お代はいたって良心的。男性3240円女性2700円のセット料金に、追加ドリンク代を加えても一人5000円だ。


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 浅草の夜をひとり歩いてみることにした。10時をまわった六区ブロードウエイは人通りもまばら。しかし赤や黄や緑のネオンが街を彩り、まだまだ寝静まらない歓楽街の灯りは、暗い夜を拒絶している。

 
 雷門の前まで来た。ここで気分は荷風先生の描いた小説へと突入していく。

 『雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなりたてられないのだという』(『寺じまの記』昭和11年作)

 後日調べてみると、雷門は過去何度も火災にあっているらしい。江戸時代だけでも2回あり、現在の形になったのはあの家電王、松下幸之助が昭和35年に大提灯を寄進し、再建される運びとなった。だから前年の34年に79歳で没した永井荷風はこの提灯と門は見ていない。


 吾妻橋前の大きな交差点はまだまだ車の往来が多い。左手に見えるアールデコ建築の松屋浅草駅ビルが、クラシカルな外観でいにしえのモダン浅草を伝えている。ふたつの通りを脇に抱えた細長の建物は、見ようによってはNYフラット・アイアンビルにも似ている。


 赤い欄干の吾妻橋、荷風先生は生涯を通じ、隅田川に架かるこの橋を渡っている。

 『道子は橋の欄干に身をよせるとともに、真暗な公園の後に聳えている松屋の建物の屋根や窓を色取る燈火を見上げる眼を、すぐ様橋の下の桟橋から河面の方へ移した。河面は対岸の空に輝く朝日ビールの広告の灯と、東武電車の鉄橋の上を絶えず往復する電車の燈影に照され、貸ボートを漕ぐ若い男女の姿のみならず、流れて行く芥(ごみ)の中に西瓜の皮や古下駄の浮いているのまでがよく見分けられる。』(『吾妻橋』昭和28年作)

 東の対岸に見えるのは、朝日ビールの広告の灯ではなく、黄色くライトアップされたビールの泡を模したオブジェ。そして暗いビル影の間に燦然と輝く東京スカイツリー。川面に眼を転じると、浮いた西瓜や下駄を確認するどころか漆黒の闇が広がっている。ああ~、荷風先生ならこの素晴らしい夜景をどう表現するのだろう。
 

 橋の上は風も人通りもなく、また暑くも寒くもなく、酔った身体にちょうどよい。欄干沿いにふらふら歩いていると時折タクシーが渡って行く。橋中央の欄干に両腕を乗せ、しばらく川の夜景を楽しむ。両方の川岸は建物や高速道路の灯が集積し、足下の闇の川面とは対照的に、その灯を映す川面あたりはゆらゆらと揺らいでいる。東の夜空に眼を移すと、白色と淡い紫色でドレスアップしたスカイツリーが、まるで巨大なクリスマスツリーのように光り輝いている。(やはり荷風先生には遠く及ばない。)

 画像は酩酊状態のためブレています

 ちなみに吾妻橋の歴史は古く、江戸中期に最初の木橋が渡される。明治20年(1887年)に隅田川で初めての鉄橋として架けられたが、関東大震災(1923年)でかなりの損傷をうけ、昭和6年(1931年)に現在の鉄橋に架け替えられている。

 橋を渡りきりオブジェの下へ。高いビルに囲まれた空間は、まるで未来都市にいるかのようなオープンスペースになっている。一角にある珈琲カフェのオープンテラスにもなっているのだろうか?見上げると黄色い物体の下底が、暗い夜空を背景に、異様な存在感を際立たせている。

 
 そろそろ帰ろうか、、、。いや、もう少し歩いていたい。酔いと夜景と先生と、、、夢のごとく浅草の夜は更けていったのでした。


〈その3 葛飾柴又〉

 カミさんがどうしても土産は寅さんの草団子にしたいというので、急きょ柴又帝釈天に行くことにした。方向音痴のカミさんは、生まれてこのかた帝釈天が浅草にあると思ってたらしい。さっそくガイドブックを開くと浅草からは意外と遠い。東の隅田川、荒川、新中川を越え、更に向こうの江戸川の西岸にあるようだ。もう川向うは千葉県だ。
 地下鉄浅草線で目指すは京成高砂駅。地下鉄は途中から地上に這い出し、川を越えるたびに高いビルはなくなっていく。

 高砂駅で京成金町線に乗り換え、ひとつ目の柴又駅に着いた。駅を出ると確かに東京近郊の下町風情。

 駅前広場の寅さん像を見ながら帝釈天への参道に入る。

 両側には土産物屋がずらりと軒を並べ、そのほとんどが団子屋。文字通り団子状態だ。人気のある寅さんとはいえ、団子一本で数十軒の店が商売として成り立っていることに改めて驚かされる。「それを云っちゃあ~、おしめいよ!」

 参道の突きあたりが柴又帝釈天。
 
 門をくぐり小さな本堂に上がり、商売繁盛を祈り手を合わす。おみくじは「妻が大吉、私が小吉。山でするのが大キジ、小キジ。けっこう毛だらけ、猫灰だらけ。馬の小便とくらぁ~!」

 
 アホな語呂合わせをやってると、曇り空がとうとう泣き出した。天気予報も大当たり。寅さん記念館や矢切の渡しを早々に諦め、来た参道を戻り、「とらや」の軒先に飛び込んだ。

 カミさんは土産をいくつも購入、ついでに店内に入り団子セットを食べてみた。多めの粒あんに載った草団子、それにみたらし団子とお茶が付いて350円。口の中は甘さが広がり、歯ごたえのある団子生地は嬉しいが、胃の中はまだ昨夜の肉と酒が残っている。なんとなく重い。店を出た途端、下り坂の天気のように、下腹部がグルグルいい始めた。
                

 柴又駅のトイレは和式。我先にと駆け込み慌ててズボンを下ろすと、ものすごい勢いで、ものすごい音と共にほとばしった。おまけにものすごい量の排泄物で、白いスリッパ状の便器はまたたく間にいっぱいになった。あふれるのかと思った。
 落ち着いたところで汚物をよく見ると、未消化の牛や豚の肉片が確認され、所々に白や赤の野菜の繊維質が点在している。そして全体はブラジル産の赤ワインで赤みがかっていて、その色付きの濃淡は一応ではない。極端に赤い部分や、黒に近い濃い赤であったり、茶に近い淡い赤であったりする。
 また我慢ならないのが臭いだ。鼻を突き上げるような強烈なアンモニア臭は、凝視する私の眼に、まるで真夏の強い日差しのように容赦なく浸み込んでくる。眼が痛い。
 こんなに栄養価の高い有機質肥料なのだから、産み落とした私の証しとして、流さず名刺でも刺して出てやろうかと思ったが、そうもいくまい。名残惜しいと思いながらもレバーを押すと、水は勢いよく出たものの、一度にザッーとは流れない。川の流れが堤の弱い部分を徐々に浸食するように、少しずつ少しずつスリッパの頭に消えていく。そして二度目の水勢で耐え切れなくなったのか、私の立派な有機質肥料の塊はとうとう消滅してしまった。

 外に出てみると、カミさんが他人のような顔をしている。強烈な臭いは女子トイレまで伝わったらしい。
 又つながりの葛飾柴又、思い出深い地となった。



〈その4 隅田川クルーズ〉

 再び地下鉄浅草駅から地上に上がると、街は本降りの雨に打たれている。吾妻橋前の交差点を慌ただしく渡り、クルーズ船乗り場に駆け込んだ。

 昨夜、フラフラと歩いた吾妻橋を乗り場から見る

 『(略)客を呼込む女の声が一層甲高に、「毎度御乗船ありがとう御在ます。水上バスへ御乗りのお客さまはお急ぎ下さいませ。水上バスは言問から柳橋、両国橋、浜町河岸を一周して時間は一時間、料金は御一人五十円で御在ます。」とよびつづけている。』(『吾妻橋』昭和28年作)

 隅田川と荷風先生は生涯通じて切り離せない。先生の数多くの小説、随筆、そして『断腸亭日乗』には、隅田川とその数々の橋が、明治、大正、昭和へと移り変わる街の情景とともに鮮やかに描写されている。
 隅田川は荒川下流の分流で、海に入るまでの流路はわずか23.5㎞。架かる橋は道路や鉄道のほか、ガスや水道管だけを渡す橋を合わせると35もある。そして橋梁工学の立場からは近代橋梁の博物館とも見本市とも云われているらしい。先生の作品に頻繁に登場する吾妻橋、清洲橋、永代橋など、それぞれが古い歴史と変遷を持ち、またそれぞれが独自の工法と形状で「水の都」東京を演出している。

 「御一人50円」ではない水上バスに「御一人740円」払って乗り込んだ。観光船は2階3階の造作を諦めて、そのまま天井を塞いだ平らな形状をしていて、まるで足を取った大きなアブラムシにも見える。船内はできる限り多くの観光客を乗せるために、一切の無駄と装飾を省き、二層になったフロアには前から後ろまで整然と長ベンチが据えつけられ、唯一艫だけが広いオープンスペースになっている。
 
 残念ながら折からの雨模様。船のガラス窓から見る川風景は、すべてが灰色に染まり、色あるものさえその明度を落としている。遠くに見える高層ビル群は霧でかすみ、すれちがう船の軌跡だけが川面を白く泡立たせている。
 永代橋の向こうに佃島の高層ビル群
 
 私が一番見たかった清洲橋。隅田川の橋で最も美しい橋と云われていて、ふたつの脚で支えられた吊り橋型の橋は、全面青く塗装され、曲線のシルエットは女性的な印象を与えている。竣工したのは昭和3年3月、関東大震災の復興事業として架けられ、国の重要文化財にも指定されている。
 雨にむせぶ清洲橋
 NETより引用
 竣工当時の清洲橋

 『(略)この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横たわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳しているので、市中川筋の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。』(『深川の散歩』昭和10年作)

 荷風先生の詳細にして絵画的な描写は臨場感にあふれている。まるでそこに立っているようだ。

 それからもうひとつが永代橋。この橋の歴史は古く、月島などの埋め立て前の江戸時代には隅田川の河口にあった。江戸中期の1807年、深川の富岡八幡宮の祭礼に訪れた群集がいっきに橋に押し寄せ橋板が崩壊。約1500人の死傷者を出した悲しい歴史もある。(参考『街道をゆく36/本所深川散歩』司馬遼太郎 著)
 明治30年に日本初の道路鉄橋として架けられたが、大震災で多くの避難民とともに橋板が炎上。そのため清洲橋同様、大正15年復興事業として再架橋され現在に至っている。
 現存最古のタイドアーチ橋で、径間100mを越えた丸いデザインは、清洲橋の女性的な姿とは対照に、男性的な力強さと重量感を見せつけている。
NETより引用
 ライトアップされた永代橋
 
 私の好きな先生初期の作品『夢の女』にはこう描かれている。
 『長い鉄橋の欄干には既に電気灯が輝いて居る。淡き夕の星光も三ツ四ツと、陰鬱なる蒼白い空から煌き初めると、広漠たる河口の空を遮る佃島や石川島の建物、さては両岸に立蓮なる人家の屋根は、等しく暗い夜の影の中に沈まうとして、新しい燈火の光が殆ど数限りなく水の上に流れた。林の如く帆柱を蓮ねて停泊して居る帆前船からも、同時に青い色や赤い色の灯が、或は高く或は低く、恰も美しい花火を見る如く散乱したので、お浪は今、丁度橋の半程まで行き掛けながら、立止るとも無く、自然と欄干の傍へ引止められたのである。』(明治36年作)

 先生は先代の鉄橋の上から、主人公お浪の陰鬱な心情と夕暮れの情景を重ね合せながら、見事な筆致で描いている。

 クルーズ船は浜離宮岸壁まで約40分、写真撮りに追われた船観光はあっという間。でも真っ当な橋の写真は一枚も撮れず、その代わり暗いお浪ではなく、明るい表情のカミさんと一緒に、雨の浜離宮へと歩き出した。


〈その5 浜離宮〉

 東京のど真ん中にあって、これほど緑豊かで閑静な場所に正直感動した。都会の喧騒などいっさい閉め出され、わずかに小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
 正式名称は「浜離宮恩賜庭園」。徳川将軍家の別邸で浜御殿と呼ばれ、現在の姿になったのは11代将軍家斉の時代。私達は水上バス乗り場から築地川沿いに、大手門橋まで歩いただけだが、その広さと歴史は容易に想像できる。

 右手には川を挟んで築地市場、左手の梅林の向こうには深い森。その森が切れるあたりから内堀広場のお花畑が広がる。内堀は海水を引き込みボラやハゼが泳ぎ、耳には野鳥の鳴き声が絶え間ない。広場の向こうには汐留のビル群が林立し、こちらの公園とはちぐはぐな都市景観を作っている。


 6代将軍家宣が庭園を大改修したときに植えられた「三百年の松」。太い枝が地面低く張り出し、まるで大蛇がそのまま剥製になったかのようだ。



〈その6 芝増上寺〉

 地下鉄大江戸線汐留駅から一つ目の大門で降りた。地上の通りに出るとすぐ大門が見えてくる。柴又で買ったビニール傘をさし、車の往来の激しい日比谷通りを渡り、威風堂々とした三解脱門をくぐり、静かな境内へと入った。
 
 
 球場を思わせる広々とした石畳、正面の石段の上には壮大な大殿本堂。二層の大屋根は鷹が大きく翼を広げたようにも見え、徳川の菩提寺として見事な威容と威厳を放っている。そしてその右手後方には赤い東京タワーが聳え、ここでも過去と現代のミスマッチが異様な景観を作っている。


 本堂礼拝の後、将軍家墓所に入ってみた。六人の将軍と正室、側室らが埋葬され、大きな灯篭のような墓石が立ち並んでいる。
 2代将軍の秀忠公とお江の方、14代将軍の家茂公と皇女和宮など、歴史の時系列がそのまま形となって建っているようだ。その時代を駆け抜けた彼らや彼女らの姿が眼に浮かんでくる。大河の映像や司馬先生の世界が、今でもここで繰り広げられているようだ。

 将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)と呼ばれ、戦前には大殿周辺に立ち並んでいたが、1945年の東京空襲でそのほとんどが消失。その後改葬されて現在の形になっているが、古写真で見るその霊廟は徳川三百年の悠久の歴史と重さを語っている。

 運よくその霊廟を詳細に再現した模型が、本堂地下の資料室で展示されていた。この模型は霊廟を10分の1のスケールで再現したもので、英国ロイヤルコレクションの所蔵品。1910年ロンドンで開催された日英博覧会に出品され、東京市が英国王室に贈呈したもので正式には「台徳院殿霊廟模型」と云う。
 部屋中央を占拠する大きな模型は、東京美術学校(現東京芸大)の監修のもと、屋根、瓦、軒そして数々の装飾が詳細に復元されていて、思わず息を呑むほどの出来だ。なお室内は写真撮影禁止のため画像はない。

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 この後、ついでように近くの東京タワーに上り霧にむせぶ大東京を眺望。このあたりで体力と脚の限界を訴えるカミさん。確かによく歩いた。鎌倉を歩き浅草を歩いた昨日がずいぶん前のような気がする。階段を上り下りする地下鉄はもうイヤだ、というカミさんの小言を聞き入れて、芝公園からタクシーで東京駅へ向かい、札幌出身だと云う初老の気の良さそうな運ちゃんに送られた駅構内は、また人の海。一体この人たちはどこから湧いてくるのだろう?
 地下街でゆっくり醤油ラーメンを食べ、カミさんはまた土産物を物色し、夕方になったホームに上がると、そこは数分おきに到着しては出発する電車の往来、降りては乗り込んでいく大勢の乗客、そして絶え間ないアナウンスで戦場のような騒ぎ。そんな時、運よく開業したばかりの北陸新幹線が入って来て、真新しいW7系の車両が眼にも鮮やかだ。
 ビールとつまみを買いこんで、のぞみに乗り込むとやっと落ち着いた。分刻みの二日間、孫娘のお宮参りが大事なのか観光が目的なのか、本末転倒の「東京物語」は無事修了したのでした。


 画像は長野新幹線車両E2系