葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

将棋が駄目なら囲碁?

2017-04-24 13:39:01 | 家族
 先日、仕事から帰宅すると、チーコさんがパソコンで囲碁の練習をしていた。
 なんでも「将棋だとアユ君に敵わないから」囲碁で目にものを見せてやろうということらしい。
 最近ではアユ君の方が六個駒落ちでも負けたりするそうだ。

 もっとも将棋に関しては、アユ君から見ればチーコさんも私も大差は無い。
 以前に将棋の入門漫画本を与えて以来、アユ君は一人だけ強くなり、我が家ではまあサイヤ人とまでは言わないがナメック星人ぐらいの力があるのだ。

 そして地球人の中でも恐らくはヤムチャレベルのチーコさんが(ちなみに私とカミさんはクリリンか天津飯辺りかと思われる)、将棋の腕を磨くよりも、囲碁という別のゲームで勝負することを選んだのは、中々解っているではないかと思う。
 まあチーコさん本人としては、単に最近親戚の家で読んだ「ヒカルの碁」に影響されてその気になっただけかもしれないのだが。

 勝負とは本来、何らかの技術を磨くために、細分化して設定した状況への適応性を比較するものだ。
 それは一種の遊びであり、技術を磨くモチベーションを維持するための方便なので、可能な限り、公平に行われるのが理想だ。

 だが勝負ごとというのは非常に面白いので、世間は勝負自体を目的にしてしまう。
 そうなると、どう言い繕っても負けることは悪いことで、とにかく勝つことが最優先であり、いかにして自分の得意な分野なりルールなりで戦うか、となってしまう。

 こうなるともう厳密には勝負というより、サバイバル技術だと思う。
 ただ私は、サバイバル技術を磨くのなら勝負の形に固執するのは不合理だと思っている。
 サバイバルの本質とは、技の応酬などせず、一方的にやり込めるために、常にルールの外側にポジションを取るものだからだ。

 いずれにせよチーコさんが、既にアユ君とは巨大な実力差がついてしまった将棋で今から追い付くよりも、今はまだ同じスタートラインに立っている囲碁で勝負しようというのは戦略的に非常に正しいと思う。
 彼女の目的は将棋が上手くなることではなく、あくまでもアユ君に勝つこと(それも余裕で)だからだ。
 ついでに言うなら、オセロゲームならチーコさんの方がアユ君よりも僅かに強いといえなくもないらしいから、余計に「だったら囲碁だ」と考えたのではなかろうか。
 実際、オセロで差をつけることも検討しているらしく、彼女の机には図書館で借りてきた「オセロの勝ち方」なる本が載っていたりする。

 さて、チーコさんは思惑通りに「威厳のある姉」として生き残れるのだろうか?
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積極的な受け方。

2017-04-17 12:58:32 | 仕事
 私は運動には極力道具を使わないようにしている。
 今使っているのは、カウントアップ機能付きのタイマーぐらいだ。
 動きが雑になったりダラダラしたりしないように、これでチェックしている。
 エクササイズギアといえば、まずはダンベルやチューブだろうというような人にとっては、タイマーだけなんてのは道具を使っていないに等しいだろう。

 だが、別に運動に道具が不要と思っているわけではない。単に優先順位の問題だ。
 私は動きそのものを練ることを最優先にしている。その結果として筋肉が増えたり、心肺機能が上がるのは大歓迎だが、それはあくまでも二番目以降の目的だ。
 それはつまり、毎日使える動きを練りたいからで、だから休養日や期分けといったことは重要視していない。
 これは競技で勝つことを目的として鍛えている人にとっては、非効率的なやり方だろう。

 動きを練るのに道具が必要となると、何かの理由で、その道具が使えなければ、それが休む理由になってしまう。
 道具を使わないのは、そういう懸念を減らすためでもある。
 同様の理由で、運動は畳一畳から二畳の空間があれば出来るようにしている。
 いわゆる拳打臥牛だ。
 だがこれもまた競技で勝つことを目的として鍛えている人にとっては、効率の悪い方法だろう。

 また、道具を使う、揃えるといった行為は、それが目的の全てになってしまいかねないぐらいに楽しく、時間を浪費し過ぎるということも、馬鹿にならない問題だ。
 いや、そうして揃えた道具をちゃんと使えばまだ良いのだが、すぐに飽きてしまうことも珍しくないから困る。
 どんなに優れたトレーニングギアも、ただそこにあるだけでは効果は無い。

 ちなみに鍼灸も、受身一辺倒ではなく、積極的に感じなければ効果は薄いと思う。
 按摩やマッサージは、かなり直接的に触れるので、一種のコミュニケーションだということを比較的実感しやすいのだが、鍼灸は間に道具が介在する分、かえってされるがままにはなりやすいのではなかろうか。
 鍼灸治療を受けるなら、それこそダンベルを扱うように、「受ける」という行為を通して積極的に鍼や艾に働きかけるのが理想だと思う。

 だがこういった手法は商売として考えるなら、お客様目線に立ったやり方とは言いかねるだろう。
 私が仕事で鍼を打つのは気が進まない理由のひとつだ。
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触れ具合の質。

2017-04-10 12:37:01 | 仕事
 無資格でマッサージをしている人(正確にはマッサージをしているとは言えない)に多いのが、反動を利用して圧を加える手技だ。
 この傾向が強いほど、施術を受けている側の体は大きく揺れる。

 このやり方は、とにかく簡単に強い刺激を加えることが可能で、受ける側が鋭角的な刺激を好むタイプであれば、軽いコンタクトスポーツのような爽快感がある。
 動的ストレッチに近い効果が得られる場合もあるだろう。
 何よりも大した技術が要らないから、無資格の施術者を粗製乱造するにはピッタリだ。

 だがそのリスクは大きい。
 反動のついた圧は一度放たれたらコントロールが効かないし、どうしても瞬間的に増減する。
 だから受ける側は反射的に緊張してリラックスできず、筋肉や腱などの軟部組織は緩まない。
 受ける側の体が大きく揺れるのはそのためだ。

 さて、マッサージは受けているその時に気持ちいいだけだとか、揉み過ぎると癖になるとか、かえって組織を痛めるとか、最近では筋膜を歪ませるので凝りを悪化させるとかいった風評を耳にするが、これは先述の反動を使った手技のせいであり、厳密にはマッサージではない。

 本来の按摩やマッサージは、極力反動を排除するように努める。
 筋力によって発生したエネルギーをそのままぶつけるのではなく、施術者自身の体重を骨格で支えるようにして圧にする。
 筋力は主に、そのための姿勢を維持するために使う。
 だから漸増・漸減や持続圧・間欠圧といった制御が可能になる。
 つまり、打つのではなく按ずるのだ。

 しかし、今はもう無資格者の方が有資格者よりずっと多いし、有資格者でもキチンと按ずる手技を使える人は少数派だろう。
 何しろ反動を使う手技の方が見栄えがするし、解りやすく刺激的だから受けが良い。
 あとは接遇と店構えに力を注ぐ方が効率的に経営が出来る。
 これでは地味な上に努力も才能も必要な技術の追求など割に合わないわけだ。
 だからまあ正直いって有資格者自身が、按ずる手技を真摯に追求してこなかったというのもあるとは思う。

 かくして按摩もマッサージも、多くの伝統的な技術と同じく、形骸化していくのだろう。
 まあ世間は世間、私は私だ。
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楽しむのが王道。

2017-04-04 08:01:27 | 養生
 費用対効果だのコストパフォーマンスだのという言葉はあらゆる場面について回る。
 テレビで健康情報番組や、運動器具やサプリメントのコマーシャルを見ても、そのことをヒシヒシと感じる。

 より効率よく運動したり、栄養を摂取したいと思う、それ自体は悪いことではない。
 それがいわば「ゲームをより楽しくするため」の工夫であるなら、大いに結構な話だ。

 だが、世間に流布している情報の多くは、そういう前提で編まれてはいない。
 その行間には「このメソッドなら」「この器具を使えば」「このサプリを飲めば」「面倒で辛いだけの運動なんて最小限で済む」というメッセージが込められている。

 それは多分、運動というのは競技スポーツのことで、それはつまり勝つことを目的としていて、そのためには苦練が必須だという固定観念からきている。
 ほとんどの人にとってスポーツは観戦するものだから、余計にそうだろう。
 他人であるプレイヤーが苦労して這い上がっていくのは、見世物としてはとても楽しい。
 だがその楽しさの裏側で、「運動=辛い」という思い込みが増幅されていく。
 そういった思い込みは、「辛い運動をせずに済む商品」を売りたい人達にとっては追い風になる。

 いや、全うな運動を指導している人でさえ、「プロのトレーニングこそが本物の運動で、一般人の運動はそれを簡略化した、一段低いもの」という考え方をしがちだ。
 まぁ運動を仕事に出来るような人は、元々の身体能力が高く、アスリート出身であることが多いから、それも仕方のないことかもしれない。

 だが、一般人はプロじゃないから楽しむ程度の運動で良いなんて、ある意味からだを動かすことを冒涜していると思う。
 苦しい鍛練で勝負に血道を上げるのは、心身と向き合うという見地からすれば邪道であり、動くことを楽しむことこそが王道だ。
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