葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

膝からのようで、やっぱり腰から。

2017-02-27 13:34:41 | 養生
 スタートダッシュなど、静から動への素早い切り替えと共に重心を移動させる時の要領に「膝を抜く」というのがある。

 普通に立っている時に、いきなり後ろから膝裏をトンと打たれると、体勢がガクンと崩れて前方によろめいてしまう。
 この、いわゆる「膝カックン」のイメージで膝にかかっている荷重を外して、地を蹴るような無駄な予備動作を不要にするのが「膝を抜く」という動きの概要だ。

 ただ、この手の「ちょっとしたコツ」というのは、意識し過ぎると逆効果になりかねない。
 膝を抜くことでいうなら、あまり強く意識し過ぎると、その場に座り込むような動きが強くなってしまう。
 目的は素早く水平移動することだから、沈んでしまってはいくら予備動作が減っても意味がない。
 起動はあくまでも骨盤が先行して、その結果として膝が「抜ける」ことで効率的な水平移動ができる。

 だが人間は、意識を強くかけた部分に無駄な力が入りやすい。
 骨盤を先行させようと意識し過ぎれば、その周囲に余計な緊張が生じやすくなる。
 それに体は中心に近付くほど鈍感なので、骨盤周辺などは意識の加減が難しい。

 例えば、みやすのんき氏が提唱されるように大転子を意識すれば、意識は置きやすいが慣性モーメントが大きくなりやすい。
 では手塚一志氏が提唱するように、弓状線を意識したなら、慣性モーメントは小さくなるが、位置的にイメージも意識も難しい。
 一長一短であり、どちらが正しいというよりは相性の問題かもしれない。

 かといって意識の置き所に迷っていたら、敏感な足先に意識を持っていかれて、それこそ小手先の動きになってしまう。

 となると、それなりに敏感かつ末端ではない膝に意識をかけるのは、それなりに現実的な落とし所かもしれない。
 まあ最終的には、どこに意識を置くかというより、無意識に動けるのが理想なのだが。
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数値化の境界?

2017-02-20 12:33:34 | 雑感
 数値化できないものはたくさんある。
 が、何が数値化できて何ができないかの区別は難しい。

 鍼灸や漢方など、東洋医学に関わる人の多くは、数値化への執着心は薄いだろう。
 また、数値化への執着心が薄まるほどオカルト寄りになる。理系の人でも何かの切っ掛けでオカルトに染まることがあるから、油断は大敵だ。

 念を押しておくが、ここでいう数値化というのは裏付けや客観性のある情報を作ることだ。
 数値化のための数値化や、自分勝手な物語を装飾するための数値化は、オカルトと変わらない。

 私自身も数値化できない世界はある?と思う。
 ある?としたのは、疑問というよりは、「ある」という表現が不十分だからだ。

 数値化できないというのは可視化できない、見えないということに通じ、見えないということは人間にとって「無い」こととほぼ同義だ。
 だから私は数値化できない、見えない世界は、「ある」ことと「ない」ことを両立させていると思っている。
 ちなみに私は自分自身が、用心を怠るとオカルトにハマりかねない人間だと自覚している。

 ただ、あれもこれも数値化できないだの科学で割り切れないだのといって片付けてしまうのは、その場限りでは手っ取り早いかもしれないが、実は話を面倒にしているだけだろう。

 この世に起こる事象で数値化出来る物事は思った以上に多い。
 「この世の全ては数値化出来る」なんていうピタゴラスの言葉を真に受けるつもりはないが、あまり簡単に「これは数値化できない」と決めてしまう人は、数値化というと一次関数の世界しかイメージしていないのかもしれない。

 私も理数系ではないが、XYZ軸を展開し、高次の関数を利用し、虚数を駆使するだけでも、かなりの事象が数値化できるだろうとイメージできる。
 考えてみれば、人間が明確に認識できるのは、なんといっても視覚で捉えられるものなのだから、その時点でほぼ数値化が可能だろう。

 だが同時に、XYZ軸や関数や虚数の外側にある世界というのも確かにイメージできる。
 イメージできるだけで証明できないのが、私の凡人たる所以だが。
 いや、証明どころか言語化すらできずにいる。 形而上?無分別?こういった言葉の意味を私が正確に理解しているかどうかは非常に怪しいものだが、とにかく数値化できない世界を言葉に置き換えようとしても、どうしてもズレが生じてしまう。
 この感覚のせいか、私は数学の証明を読むと、しばしば騙されているような気分になる。

 だから私は物事を数値化する能力に長けている人や、公正さをもって数値化された情報にはそれなりの敬意を持っている。
 そういう人や情報があってこそ、数値化以外の方法で深く掘り下げて考えるべきことが何なのかを判断できるからだ。
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ウエイト?感覚的にはグラビティ。

2017-02-17 12:26:50 | 養生
 私は筋肥大を目的としたトレーニングはあまり好きではない。
 といっても筋肉そのものは好きだし、動くために筋肉は不可欠だと思う。

 だがいわゆるウエイトトレーニングは、直線的、平面的な動きが主なので、それが癖になるとパフォーマンスの低下を招いてしまう。
 その不自然さが生理的に苦手なのだ。

 しかし今はもう、何かの競技を現役でやっている選手なら大なり小なり、動きの微調整をしながらでもパワーアップのための筋力トレーニングをしなければ、勝つのは難しいだろう。
 やっぱり勝ち負けのための運動は苦手だ。

 そういう私は現在、夕方に自重で腕立て伏せやスクワット、ランジなどをちょこっとやっている。
 負荷が軽いから当然、筋肥大は望めないし、基本的に毎日やっているからウエイト「トレーニング」とはいえない。
 あえていうならエクササイズか。

 トレーニングではなく、重力を感じ、身体の重さを感じ、その重さなりに動き、その重さを利用して動く練習ということだ。
 だからそこは割り切って、トレーニング的な動きをしている。
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誉めてない。

2017-02-16 12:47:51 | 雑感
 「どうしてそこまで出来るんですか?」という言葉がやり取りされている場で、それを発する側と、逆にそれを聞く側の心理を想像すると、どうも釈然としない気分になる。

 言う側は疑問の体裁をとってはいるが、往々にしてそこには幾ばくかの侮蔑が含まれ、それを賞賛のニュアンスを上塗りして隠している。
 そんな風に感じるのは、この言葉の響きの中に嫉妬と保身が混じった卑屈な臭いがするからだ。
 素朴な疑問や純粋な賞賛ならば、もっと単純で具体的な言葉に出来るはずだ。
 本当にシンプルな疑問と賞賛だけで「どうしてそこまで…」と言える人は、余程純粋か、少々鈍感かのどちらかだろう。

 そして聞く側は、うわべだけは賞賛のニュアンスをすくい取り、これまたうわべだけの謙虚さを織り混ぜて対応する。
 この時聞く側は、賞賛ではなく、相手の卑屈さに気付いていながら気付いてない振りを楽しんでいる。
 これが本当に誉められていると受け取れる人は、これまた余程純粋な人か、相当な自信家のどちらかだろう。

 こういった、意味の歪んだ言葉のやり取りや、そんな言葉で繋がっている人間関係を見るのは非常に疲れる。
 いやむしろ逆に、私のレベルが低いだけかもしれないが。
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チーコさん画。

2017-02-14 20:47:47 | 家族
 今日はバレンタインということで、チーコさんとアユ君がカミさんからチョコをもらっていました(一応、私ももらいました)。

 するとチーコさんは、自分のチョコの箱にサラサラッとイラストを描きました。

 いや、小さい頃からお絵描きの好きな子供でしたが、こんなに可愛いイラストを描けるようになりましたか。
 感無量です。
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腹はまとまっている。

2017-02-13 13:11:56 | 養生
 気功や太極拳の要訣に「提肛」がある。
 これを肛門を締め上げることだと解釈する向きが多いようだが、それなら「締肛」と表すのではなかろうか。

 それよりも私は提肛とは、伸び伸びと呼吸をした結果として、肛門がお腹の中から概ね受動的に提げられて持ち上がるイメージの方が使いやすい。
 この、お腹の中というのは、その人がイメージし易く動き易ければ、横隔膜でも肺でも丹田でも構わないだろう。
 厳密には、横隔膜も肺も受動的に持ち上がったり縮んだりしているわけだから、肛門が先に締まって持ち上がるというのが順序としては正しいのだが、それを意識し過ぎると、締め上げる感覚を得るために伸び伸びとした呼吸が損なわれがちになる。

 試しに、前屈みになったり無闇に腹部を凹ませ過ぎたりせずに大きく息を吐いてみよう。
 かなり自然に提肛が出来るはずだ。

 そういえば、提肛は息を吸いながら行うという解釈もある。
 まあやってやれなくはないが、上記の理由から、私は息を吐きながらの方が、少なくとも自然だと思う。
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出どころは同じ。

2017-02-11 11:50:14 | 養生
 人間という動物に特有の動きは、二足走行(歩行)と投擲(打撃)だと思う。

 この、走ることと投げる(打つ)ことの根本は同じだろう。
 脊柱のうねりから発生した力で四肢の末端を加速させるということだ。 それができているかどうかのチェックポイントになるのが、骨盤の切り返しで脚を閉じる(挟む)シザースという動きだ。

 力が連続して繋がるようにすれば、走行や歩行、連打になるし、一気に使いきるようにすれば跳躍や遠投のような動きになる。
 その使い分けもシザースという仲介があるとスムーズだ。

 ちなみに形意拳の要訣に「磨脛」というのがあって、いかにもシザースだなと思う。
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不自然な重さ。

2017-02-10 12:39:16 | 養生
 トレーニングによって筋力を上げたり筋肥大を起こすなら、適切な負荷をかける必要がある。
 だから自重のみのトレーニングでは、大抵負荷が足りなくなる。
 まあ日常生活を快適に送るための筋力を維持するなら、自重トレーニングで充分だし、私もそうしている。
 だが、それ以上に鍛えたいと思ったら、自重だけでは難しい。

 いや、自重だけでそれなりの負荷をかける方法もあるにはある。
 片手での腕立て伏せや片足でのスクワット、もしくはシシースクワットのような特殊な動きだ。
 ただこの手の動きは、身体に無理なバランスを強いることになる。

 ではそれがバランストレーニングになるかというとちょっと疑問だ。
 バランストレーニングというのは、身体にとって無理のない姿勢を維持するために行うのであって、無理な体勢を無理に保つのは変な話だからだ。
 それに、ちょっとバランスが崩れるとその瞬間に負荷が大きく変化してしまう。
 負荷が逃げてしまえば休めてしまうし、急激に増えれば怪我の危険がある。
 また、わざわざ不安定な姿勢を身体に覚えさせてしまうというリスクも馬鹿にならない。

 とにかく筋肉を大きくしたい、パワーが欲しいという人が、ベーシックな自重トレーニングでは負荷が軽過ぎるようになったなら、もうダンベル等のウエイトを持つ方が、自重で危なっかしい動きをするより安全で効率が良いかもしれない。
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ドン、ではなくシュッと。

2017-02-07 12:35:29 | 養生
 体当たりという動きのイメージは、とにかく身体全体で直線的にガツーンとぶつかる、といったものだろう。

 ただ、体当たりにも色々ある。
 レスリングやラグビーなどは、名称こそ同じ「タックル」だが、各々の競技特性に応じた、引っこ抜く、捕まえるなどのノウハウがあるだろう。

 ちなみに太極拳の体当たりは、もたれ掛かるように行うらしい。
 太極拳というと、ヒラヒラフワフワと柔らかいイメージがあるが、相手に体重を預けるようにぶつかって吹っ飛ばす技法が沢山ある。

 だが試しに、体幹をただ直線的にぶつけるのではなく、脊柱を回旋させ、慣性力で指先まで走るような動きで肩から当たってみると、ガツンとぶつかるのとは違い、キレのある衝撃がある。
 東洋的な表現をするなら、指先まで氣を通す感覚で体当たりをすると、肩先が走るといった感じか。

 拳で突こうと思ったら、距離が近かったので、肩から当たったというのも、ちょっと苦しいが動きの意味は大体そういうことだ。

 ただどちらかというと、体当たりをするつもりで腕を伸ばして踏み込んだら、肩より拳が先に当たる感じ、という具合に、突きの要領として表されることの方が多いか。
 この場合はキレがあるというよりは、体当りのような重くて吹っ飛ばす突きになりやすい。
 力の伝え方も色々だ。
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不動ならそのように。

2017-02-06 12:17:05 | 養生
 仙腸関節は、ほとんど動かない。
 だがわずかに「ずれる」程度の可動性はあって、それが動きのキレに大きく影響している。

 しかし、仙腸関節の動きは非常にイメージしづらい。
 それは動きが小さいということもあるが、恥骨結合の存在も大きいと思う。
 何しろ仙腸関節は仮にも関節なので一応動くわけだが、恥骨結合はその名称からして動く気配がないし、実際動かない。
 だがそれが仙腸関節の動きを損なうイメージに繋がるのなら、それは誤解だろう。

 左右の寛骨が恥骨結合でしっかりと一体化していることは、むしろエネルギーを無駄なく仙腸関節の動きに使い、そのキレを増すことに役立っているからだ。

 もし恥骨結合がぐらついていたら、身体の動きは軟体動物モドキのキレが無いものになりそうだし、大事な臓器を納めて保護する役割が疎かになりかねない。

 身体の構造に、そうそう欠陥など無いということだ。
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