64年目の終戦の日―靖国再考

今日は、8月15日、64年目の終戦の日である。
今年も、日本武道館での全国戦没者追悼式に参列したのち静かに靖国神社に参拝し、改めて、先の大戦で尊い命を落とされた戦争犠牲者の皆さまに対し、心からの哀悼の誠を捧げるつもりだ。

さて、今年も靖国参拝をめぐる議論がかまびすしい。
私は、現状の靖国神社のあり方にも、無宗教の代替施設建立にも、抜き難い違和感を覚える立場であるから、本ブログでは4回目の「靖国再考」となるが、私の中に確立した靖国論を掲載させていただき、皆さんの議論に供したいと思う。


『戦争責任と靖国問題』(2006年7月23日のブログ再掲)

そもそも歴史というものは、ある瞬間だけ切り取って観ても十分な理解を得ることは困難ですから、昭和16年冬の重大な国家意思決定を導くことになった多岐にわたる大小の意思決定の積み重ね―たとえば、満州事変およびその不拡大方針を徹底できなかった当時の政府など―もまた再検証する必要があると思っています。その意味で、コメントにもありましたが、読売新聞や朝日新聞が連載を通じて戦争責任をめぐる再検証を試みているのはその努力の一環で、意義深いと思いますし、私自身も昭和20年夏の敗戦にいたる近現代史におけるいくつかの分水嶺についてさらに検証を深めて行かねばならないと自覚していることを冒頭に記しておきます。

さて、結論から言えば、「靖国問題」というのは、じつは我が国が戦争責任について主体的に議論した結果として生じているのではなく、むしろ主体性を失って、連合国による極東軍事裁判に振り回された結果起こった問題であることがわかります。言い換えれば、極東軍事裁判によって「平和に対する罪」(A級)に問われた人たちが、その後、厚生省引揚援護局の作成した祭神名票に登載され、靖国神社により「昭和殉難者」に列せられた結果、靖国神社の伝統からいっても異例な形で合祀されてしまったことが、問題を複雑にしてしまったのです。そもそも靖国神社は、近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において戦没した軍人・軍属を慰霊、顕彰、崇敬の目的で祭神として祀る神社です。(なお、合祀の対象が、朝廷側、日本政府側に限定されて、「怨親平等」との本来的な神道の伝統から逸脱していることは、この際措いておきます。)

たとえば、戦争に反対し、なぜ「平和に対する罪」に問われねばならないのか、かねてから疑問の声が上がっていた廣田弘毅元首相・外相などは、そもそも軍人・軍属ではない生粋の文官であり、極東軍事裁判でA級戦犯として起訴されなければ、靖国神社とは無縁の人物でした。その意味では、今回のメモで昭和天皇から名指しされた松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使はじめ、平沼騏一郎元首相、東郷茂徳元外相らも同様です。また、南京事件の責任を問われた松井石根元陸軍大将は、平和に対する罪ではなく、戦争犯罪(B級)および人道に対する罪(C級)に問われ処刑されたもので、厳密には「A級戦犯」ではありませんし、判決前に病死した永野修身元海軍大将や刑期中に病死した小磯国昭元首相(陸軍大将)、梅津美治郎元陸軍大将らについても、すでに祀られている軍人・軍属の方々と合祀されるのは甚だ違和感のあるところ。

とりわけ、中国戦線を無用に拡大し、ヒトラー頼みの戦略なき日独伊三国同盟を締結し、真珠湾攻撃に端を発した無謀な戦争を指導し、結果として260万もの尊い命を奪う原因をつくったすべての国家指導者たち(閣僚および陸海軍統帥部の要職にあった人々)は、これを靖国神社合祀の対象とすべきでないと思います。

すなわち、靖国神社が「戦没者を慰霊、顕彰する施設」という本来のあり方を取り戻すためには、極東軍事裁判からは断じて切り離す必要があると考えます。その一方策が、「分祀」なのです。つまり、極東軍事裁判に対する反発からそれまでの靖国神社の伝統を逸脱して合祀された方々を、靖国の本殿とは別の社殿にお祀りし直すことです。(実際、筑波宮司(当時)は、厚生省からの祭神名票を受理した後、本殿への合祀を留保し、昭和40年に創建された「鎮霊社」という境内社にその霊を祀ったとのことです。ちなみに、鎮霊社には、本殿に祀られていない全ての日本人戦没者および世界中の戦没者が祀られているそうです。これが、本来の神道のあり方です!)

分祀については、「靖国神社が神道の信仰上ぜったいにあり得ない」との見解を発表していますが、神道においては複数の祭神の一部を分離して別の場所に遷す(分遷、遷座)ことは、記録に残っているだけでも8世紀以来行われているそうです。たとえば、数週間前の『AERA』には、明治政府が神田明神から平将門の霊を将門神社に遷した事例が紹介されていました。

こう考えてくれば、靖国問題で、外国からの容喙を許したり気にしたりする必要はなくなるでしょう。「勝者の裁き」である極東軍事裁判の正当性についても、靖国問題とは切り離して、国際法の観点からより自由に議論ができるのではないでしょうか。ちなみに、当時の国民の多くがそれを不当だと判断したからこそ、サンフランシスコ講和条約(第11条)によってすべての判決結果を受け入れたものの、これら戦犯は「国内法で裁かれた(戦争)犯罪人ではない」との解釈から、1953年の国会決議によって一斉に名誉回復が果たされたのです。

それでも、政治の結果責任から逃れることはできません。中曽根元総理がよく述べておられるように、政治家というものは、「歴史法廷の被告人」であるからです。私自身、そのような立場に身を置いていることを胸に刻んで、政治家として後世に恥ずかしくない言動を心掛けて行きたいものです。
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