良いかげんに生き抜いていく

良いかげんな働き方、生き方、映画のすすめ、読書のすすめ、リフレッシュ方法そしてビジネス論評などを思うがままに書き綴る

ニューヨーク・ニューヨーク

2008年10月08日 11時15分43秒 | ビジネス
10月5日から5週間、夢を追う物が集う街ニューヨークに滞在する。
情けない話、5週間は海外滞在の最長記録である。

10月の途中からcolumbia business schoolの短期プログラムに参加する。
その前段として、少しばかり英語スクールに通ってる。 生徒は日本人、韓国人、中国人をはじめとしてヒスパニア系やイタリア系も けっこういる。

しかし、これだけ様々な人種の多数の人が、たった一つの言語を獲得するのに費やす時間と労力は地球規模で考えた場合、なんと非効率なんだろう。

今はプライベートレッスンを受けているわけだが、しかしもはやスピーキングが伸びる気がしない。 いったい日本語と同じように流暢に話せるようになるためにはあと何時間が必要なんだろう。
言いたいことは言えるのだが、新しいことを言おうとすると、とたんに詰まり気味になってします。
まるで、弾ける曲は弾けるが、初見の曲になるととたんに弾けないピアノみたいである。 新しいことの表現に挑戦するときに、日本語ならばその出来栄えはさならが絵を鑑賞するかのように、「にゅあんす」で感じることができるが、英語だとそうはいかない。言語は不便なツールである。

言語の誕生、そして文字の誕生が人類を進化を加速させ、科学を発展させた。それによってもたらされた効率性と、多言語になってしまったことによって生まれた非効率性はどちらが大きいだろう。
グローバルの波が世界中を飲み込んでいる。数字という単一言語で交わされる金融市場はあっというまに、白から黒、黒から灰色と色を変えていく。
それに対してリアルの世界では、「言語のギャップ」が溝となり、グローバルの波を飲み込んでいる。

ここニューヨークではまだまだ街角にスタンド型のベーグル店が立ち並ぶ。まさにこれは言語ギャップのたまものだろう。日本ならば、すぐにコンビニができて、あらゆる製品が「おーとまてぃかりー」に配送されてくる。言語ギャップの溝があるいみ多重構造化の助けとなって、いたるところに非効率性を残す受け皿となる。

またこうした溝があるからこそ、自己主張をし続けて生きていかざるを得ないことになるんだろう。推し量る、なんてことをしていたら、それこそ溝に落ちて這い上がってくることができなくなる。まさに呼吸するかの如く、自己主張をし続ける。それが多様な生態系の上に存在する世界の道しるべ。

ニューヨークでひとり歩いていると、すぐに溝に落ちて言ってしまう、挑戦的な溝がそこかしこに存在する、そんな心地よい不安感が充満してくる。俺はここにいるぞ、と叫ばなければすぐさま忘れ去られて、いつのまにか溝の中にいる、そんな幻惑が周りを取り囲む。それもまた心地よい危機感だ。


日本とアメリカ:データ分析の追及

2008年02月03日 23時18分35秒 | ビジネス
往年の名選手が曰く、
「あいつの、あのスイング。音に迫力がある。あれは大物のスイングだ」
「あの鋭く切れ込むストレート。あれはメジャー級だ」

野球を知らないアナリスト曰く、
三振÷四球 この数値が高い投手をスカウトするべきです。
(塁打数+四球+死球+盗塁-安打)÷打数
この率が高い野手をスカウトするべきです。

さて、このどちらを信じるべきか。

メジャーリーグ ボストンレッドソックスのオーナー、ジョン・ヘンリー。
彼はヘッジファンドのCEOでもある。
彼は野球を徹底的にデータ分析し、上記指標で野手と投手を判断することが最も勝利に繋がるという結果を導き出した。
その結果、岡島の獲得などを意思決定し、
2004年、2007年と2度のワールドシリーズ制覇につなげている。

データ分析、されどデータ分析。
ジョン・ヘンリー曰く、勝率は4割で良い。

もちろんだ、イチローでさえ、打率4割も打てないのだから。


転じて、システム工学としての営業活動。
これも正確性は4割で良いのか?

人事も経理も総務も中国へ

2008年02月03日 22時56分20秒 | ビジネス
この間、「人事も経理も中国へ」というNHKスペシャルを見た。

マニュアル化できる作業はすべて中国へ持っていく。
人事の給与計算、キャリアパスデータ管理、経理交通費精算処理、総務におけるリース車輌管理。。。

あらゆるものをマニュアル文書化し、それを中国大連のアウトソーシング請負会社に移管する。
単価コストは3分の1にも、10分の1にもなる。

乱暴に言えば、移管業務しかできない社員は、高コスト過ぎるという話になる。
この番組で取り上げられていた会社では、アウトソーシングを理由に社員のリストラはしない、という方針を持っている。
つまりは、日本、日本人にしかできない業務、自分にしかできない業務とは何なのかを問い直さなければならない。

印象的なのは、そういうことじゃない。常に付加価値のある業務を追求することは、社会で給与をもらう人間の宿命である。
最も心に突き刺さったのは、その業務移管のために、日本に研修に来た中国人の女性である。
彼女は研修中に、移管予定の業務を理解し、マスターし、本国へ持ち帰る。その後本国の社員らによって、その業務を遂行していく必要がある。
彼女の達成度そのものが、その後のアウトソーシング業務の効率へと直結する。

彼女は昼間は会社で研修。夜は、それを日本語によるマニュアル化。
マニュアルは数百ページにも及ぶ。誰が読んでも、同じ業務ができるようにと、
徹底的な工夫が凝らされたマニュアルだ。
彼女はそのマニュアル作成のために、CASIO製の電子辞書を買って日本に来た。
その電子辞書は彼女の「1か月分の給与に相当する」という。

彼女はおおよその日本語はマスターしている。それを支えたのは、大連の大学生活。
その大学への学費は、地方工場で働く父と母の月給のほぼ全て。
彼女は稼げるようになって、早く故郷の両親に仕送りをしてあげたいと、
「目を輝かせて」NHKのインタビューに答えていた。

日本語という聖域はなくなりつつある。あと5年、楽観的に見て10年、
つまりは2018年。そこまでの命運かもしれない。
その時期には、中国のGDPは日本のそれを超える。
その絶対額が逆転するところがポイントというよりは、アウトソーシングの請け先としてのコストメリットを享受しきれるまでの、格差がいつまでつづくかというところがターニングポイントか。
日本語という聖域が取られ、日本の仕事がグローバル化、つまりは海外移管されつくされ、その後日本の高コストが低コストへと下がるまで、せいぜい30年。
その頃まで滑落が続きそうな、そんな恐怖感が垣間見えた。
テレビに映された、目を輝かしている女性の瞳から。

猛烈におかしいテレビドラマとテレビ局

2007年04月28日 00時26分35秒 | ビジネス
今回のテレビドラマは学校ものが多い。
テレビ朝日の「生徒諸君」
フジテレビの「わたしたちの教科書」

いずれも学級崩壊、学校崩壊、いじめなどを取り扱っている。
そうした題材を取り上げるのはいいと思う。

しかし!
しかしである。

内容があまりに誇張しすぎたものになっている。

集団で先生を無視する生徒
受験勉強以外のものを教えることを無意味と平気でいう先生
いじめを隠そうとする学校
いじめがないものと振舞う生徒

こうしたことを、極めて滑稽に、極めて非現実的に、極めて低レベルに
表現している。

いじめがあるのは由々しき問題である。
それに対して真剣に取り組む学校、先生、生徒、親がたくさんいることと思う。

今回のこうしたドラマの表現手法は、真剣に取り組んでいる方々を
あざ笑うかのようなものに思えてならない。

残念だ。

gooブログの利用規約 ブログの著作権について

2007年03月07日 01時13分51秒 | ビジネス
今週の東洋経済で、ブログの著作権についての記事があったので、早速このgooブログの著作権を調べてみた。
以下、利用規約を参照しながら、考察を加えてみたい。

第10条(ブログ情報の著作権)

**コメント
なるほど、著作権は10番目の条項くらいの位置づけか。

1.ブログ情報のうち、記事及びコメントにかかる著作権は、当該記事又はコメントを投稿した会員に帰属するものとします。但し、会員は、gooブログサイト及び当社が単独で若しくは第三者と共同で運営するその他のWEBサイトの運営の目的に限り、対価の請求をすることなく、以下に定める権利を当社に対して許諾することを予め承諾します。なお、当該権利許諾は、会員が会員資格を喪失した後においても、有効に存続するものとします。

**コメント
さて、冒頭の第1項。最初は会員に帰属すると前向きなことを書いておきながら、よくよく読めば、gooはなんでもできます、します、といっているな。この条項は。
ただ、会員に帰属しますと銘打っているわけで、なにかがあればそれなりの手段をとったとしても、正当性は主張できると思われる。続いて、この第1項の文中にある「以下に定める」という内容はというと、次の通り。

(1)会員が投稿した記事及びコメントの全部又は一部を複製する権利、公衆送信する権利、編集する権利、改変する権利及び翻案・翻訳する権利
(2)会員が投稿した記事及びコメントの全部又は一部が表示される画面において、当社が選定する任意のコンテンツ(第三者が投稿した記事又はコメントを含みますがこれらに限られません)を表示する権利
(3)会員が投稿した記事及びコメントの全部又は一部が表示される画面において、当社又は第三者の有料又は無料の広告を掲載する権利。なお、当社は、当該広告について、会員ページ上における表示/非表示を会員が選択できる機能を提供する場合があります。
(4)前各号に定める権利を当社の委託業者及び共同事業運営者に再許諾する権利

**コメント
さてさて、これは、ほんとになんでもgooはできます、やります、という主張の念押しである。あげて落とす。そういうロジックのようだ。

2.会員は、当社に対して、自己が投稿した記事及びコメントに関する著作者人格権を一切行使してはならないものとします。

**コメント
続いて第2項。著作者人格権は行使してはならない、とこちらは断言している。
これは、つまり記事やコメントの改変については、gooは自由にやるし、それについては文句言うべからず、といっている。これはちょっと横暴な。ブログってこんなもんか?


3.会員は、自己が投稿した記事若しくはコメントに関する著作権を第三者に譲渡する場合、当該第三者をして本条に定める内容を承諾させるものとします。

**コメント
これはまぁ致し方がないところだろう。

4.ブログ情報のうち、記事及びコメント以外の情報にかかる著作権は、原始的に当社に帰属するものとし、本条第1項第3号に基づき掲載される広告にかかる著作権は、次条第1項に定義する広告事業者、当該広告の作成者又は当社に帰属するものとします。

**コメント
??? これってどういう意味だろう。。。特に「原始的に」。
この言葉の意味を辞書で調べてみた。「自然のままで進歩していないこと。素朴で幼稚なこと。 参照:大辞林 第二版 (三省堂)」
これだとまったく意味不明である。
ここで気になる点。記事及びコメント以外であるが、ブログのhtmlソースコードの著作権もこの「以外」に含まれるわけか・・・?
オープンソースといえばそれまでだが、ちょっとやりすぎか。


他のブログの利用規約を読み比べたわけではないので、一概には言えないが、
やはり弱者(ブロガー)に不利ではあるな。これは。

無料のブロガーと、月額いくらかのお金を払っているプレミアム会員とで、適用利用規約を変えても良いのではないだろうか?

本屋の陳列とウェブ公開

2007年03月06日 01時30分47秒 | ビジネス
はてなの近藤社長、mixiの笠原社長は1975年生まれである。
私も同い年である。

私の場合、情報発信する結実として本という形で本屋に陳列されることはやはりうれしいこのなのだと思う。それに対して、今のウェブ世代はどうだろうか。
はてなもmixiも、あらゆる情報をウェブ上に置こうということを目指したビジネスを展開している。
ウェブ上に公開することと、本屋に陳列されることを同列に比較するのはあまりに乱暴である。それはロングテールでいうところのヘッドとテールを比較しているに過ぎないからである。
では、こうした問いかけはどうだろうか。
本屋の片隅で、総売り上げ部数が5000部の本と、1日10000アクセスあるサイトに自らの主張を公開すること。さて、この二つどちらが意義深いだろうか。

もうひとつ違う比較を。300万部の発行部数である日経新聞に自らの寄稿が掲載されることと、自らのブログで情報を発信したことが、1日アクセス数6億を超えるYahoo!のトップページで紹介されること。どちらが意義深いだろうか。

こうした問いかけによるこの比較、自明のことのようにも思えるが、それでもやはり私は迷う。

どちらが意義深いだろうか。違う言い方をすれば、どちらが満足感が高いだろうか。

1990年以降の、本も新聞も読まない世代にとって、この問いかけは無意味なのだろうか。

ブログが変えた書く力、次はネットを読む力を変えるとき

2007年03月06日 01時09分07秒 | ビジネス
ブログに限定する必要はないが、人々の書く力というものは近年格段にあがって来ているのではないかと思う。

この10年でインターネットは爆発的に広がった。さて、読む量と書く量、どちらが相対的に増加したであろうか。

私はまちがいなく書く量だと思う。
いやいや、読む量に決まっているとお答えになる方も多いだろう。それはこれだけ日々情報を容易に取り出すことができるインターネットに触れているためだ。

しかし、ここで考えてもらいたい。インターネットを利用したとき、情報量はインターネットがない時代に比べて格段に増したと思う。
しかし、「読む量」はどうだろうか。
インターネットがない時代、目当ての「情報」を発掘、発見するためにどれだけの回り道を必要としたことか。インターネットは、獲得したい情報を効率よく得ることができるツールである。望田氏の「ウェブ進化論」の中で引用がある。羽生将棋士の言葉である。「情報の高速道路の先で大渋滞が起こっている」。つまりインターネットがない時代に比べて圧倒的に効率よく獲得したい情報を多く獲得しているため、読む量が増えたと錯覚しているにすぎない。
実は明らかに読む量は減少しているのである。
また、さらに読むということを順序だてて、本の最初の一文字から最後の一文字まで読むということだとするならば、相当現代のわれわれは読むことを放棄している。

インターネット上で「読む」とは、実際に読むというよりは、目当ての情報がある仕組みによってソートされ表示されている情報を流し見ることと道義といえる。

さて、続いて書く量である。ここまで説明すればお分かりだと思う。書く量は、圧倒的に増大している。間違いなく、インターネットがない時代に比べ、はるかに人々は今、書いている。書く、ということは原稿用紙であれ、PC上であれ、やはり1文字は1文字である。斜め書き、なんてものはない。(あればそのやり方はぜひ教わりたいところではあるが)
携帯電話がない時代、人々は、友人に家族に、手紙を書いたことが一月に何回あったであろうか。現代の人々は一日に何度もそれを行っている。

そして、人々の書く力もまた、格段の向上している。最近本を書きたい人が増えているという。しかし、その人は読書量が増えたという意識はない。インターネットを通じて、目当ての情報を流し見ることで、頭の中で、必要な情報を構造化していっている。その結果として、表現することを欲していることとなる。

ここで1つ異なる視点の話を。ブログであれ、なんであれ、インターネット上で表現されたことは、表現したいことの一部を切り出したものであるはずなのに、なぜだか読み手にとってはそれが表現したいことのすべてだと感じられているという現象がある。
自分の主張の中のある一部を、自分の感想のごくさわりを、自分の気持ちのほんのひとかけらを。表現している人は、そう思いながら、投稿ボタンを押している場合が多い。にもかかわらず、インターネット上ではその情報は独り歩きする。デジタルデータでネットワーク化されているため、いつまでたってもこの膨大な情報の海、インターネットをゴーストシップのように徘徊することとなるのである。

この乖離は、書き手と読み手のギャップに問題がある。
書き手は、インターネット上で書く場合は、いわゆる「垂れ流し書き」しているに過ぎない。容易に情報を発信できる媒体であるインターネットを活用して、この刹那に頭に過ぎる言葉を表現し、保存しているに過ぎない。
それに対して、読み手は、求める情報を探索する手段としてネットを活用するため、そのある一部分が切り出された文章を情報と判断し、斜め読みするわけである。

このギャップによって、誹謗中傷に発展している事象も少なくないと思われる。
読み手と書き手の認識のギャップの大きさは、今一番大きいときなのではないかと思う。
まず人々はインターネットの普及、ブロードバンドの普及とともに、読む力を手に入れた。そのとき、ネット上には、膨大な「情報」のみが公開されていた。
その次に、人々はネット上で書く力を向上させた。その結果として、ネット上には、
「情報」と、「情報になりきれていないデータ(文字)」が公開されることとなった。

今が、その状態である。今後、人々は、インターネットの読み方をさらに洗練することで、またひとつ進化を遂げるだろう。

ヤフーショッピングカンファレンス:情報大航海時代のEC市場動向

2007年02月03日 23時59分07秒 | ビジネス
2月2日、ヤフーショッピングカンファレンスで「情報大航海時代のEC市場動向」と題して講演してきました。

場所は六本木のグランドハイアットのメインホール。
聴衆は1200名ほど。

一言で言うと、気分が良い。いつからプレゼンをこんなに好きになったんだろう・・・
聴衆が多ければ多いほど、気持ちが良い。

反応はというとまずまずというところか。
満遍なく聞いてくださった方の顔を見たが、けっこうメモをとっている人も見受けられた。
まぁ中にはあくびしてしまっている人もいたが・・・

さすがに1200名なので、後ろのほうは顔がわからなかった。

グランドハイアットのメインホール、いわゆる「基調講演」というやつだったので、かなりのVIP待遇だった。

講演の後は、ヤフーの井上社長にご挨拶する機会も得られたし、上々というところか。

ちなみに、これは来週は大阪の帝国ホテルでも同じ講演をする予定。大阪は500人から600人らしい。

講演資料に少し、ボケを入れてアレンジしようかな。

ドロップシッピング、ネット通販の巨大事業となるか-模索する企業も

2007年01月06日 00時21分17秒 | ビジネス
ドロップシッピング、ネット通販の巨大事業となるか-模索する企業も

先日ブルームバーグから取材を受けたことが、アップされてました。
ドロップシッピングについて。

そういや、以前日経新聞に取材を受けたこれは、どうなったんだろう・・・。

いずれにせよ、私はドロップシッピングは流行らない、リスクが高いと判断している。

Second life

2007年01月05日 23時45分54秒 | ビジネス
Second life。
その名の通り、第2の人生。この題名のゲーム・ソフトウェアが話題を呼んでいる。
すでに会員数は2百数十万人。
この8週間で100万人の増加を果たしている。
今日、Japan timesから、このゲーム・ソフトウェアについて取材を受けた。そこで、今日はこれについて論じてみる。

このゲーム・ソフトウェアは、仮想のコンピューター上に3次元世界を作り出し、そこで、まさに生活するゲームなのだ。

ここで敢えて、ゲーム・ソフトウェアと表現しているのは、この”ゲーム”にはすべてのプレーヤーが目指す目的がないからだ。
なんらかの悪の権化を打ち倒すとか、天下を統一するとか、そうした指針はない。
ただ、好きなことをするのだ。
ただ生活をするだけのプレーヤーもいれば、そこでカフェや、ファッションのお店を開き商売をするものもいる。

またこのゲーム上では、リンデンドルという通貨があり、それですべてがやり取りされる。
このリンデンドルは、実際のお金で「買う」ことができる。
また、プレーヤー同士でお金は流通し、まさにこのゲーム・ソフトウェア上でお金を「稼ぐ」こともできる。
そして、そのお金を、実際のお金に換金することもできる。

つまり、そこには経済が成立し、このゲーム・ソフトウェア上で稼がれた利益に対して、米国では、課税対象として扱うべきだとの指摘も始まっているほどである。

さて、ここまで念のため概要を説明したが、このゲーム・ソフトウェア、果たしてそれほどはやるものであろうか。
近年のネットビジネスはわずか3年から4年で普及期に入る。それと同じく、このゲーム・ソフトウェアも普及するだろうか。
ここで普及期とは、日本で1000万加入を超えると定義する。
私は現状の仕組みでは、普及はしないと考える。

将来、こうしたコンセプトのゲーム・ソフトウェアがコモディティとなるのことに対しては疑わない。ただ、「現状のSecond life」の枠組みでは、普及は難しいだろう。理由はいくつかある。その中でも主だったものをあげると、

・まずITインフラ。基本的だが、この3Dの世界空間をストレスなく扱えるITインフラを備える世帯はそれほど多くない。軽いといっても、やはりスループットで30Mbpsは必要だと思う。日本では、800万世帯がFTTHだといっても、実のところ、スループットで30Mbpsを安定的に確保している世帯は1割から2割ではなかろうか。
これはFTTHの問題というよりも、インターネットのデータ通信量全体が増大するが故の根本的な技術的なものだ

・現状のsecond lifeはあまりに専門的、マニアック的すぎる。DSやWiiがウケル時代に対して、逆行している。

・これは第4の波かもしれない。農耕革命、産業革命、情報革命、そして仮想革命。ただ、人生の時間の多くの部分を、この仮想空間のプレイに費やす人はまだまだ多くない。これだけ普及したかに見える、インターネットとて、全人口における1日の平均利用時間は40分ほどだ。この世界に時間を費やすことが、実生活を補う労働活動になるかどうかの、境界線を超えるのは、なかなか難しいのではないか。

結果、日本での利用者数は100万、実利用者数は30万、程度ではなかろうか・・・

と、ここまでネガティブなことを書いたが、これが上述のように、仮想革命に昇華するための、必要条件の一部について提言してみたい。

・CGW(Consumer Generated World)の要素が付加されれば、普及するだろう。そして、それは自然と付加され、成熟化されることだろう。ただ、それがこのsecond life上かどうかは、定かではない。
現在のこのマニアックなインターフェース、使い勝手のsecond lifeではあまりにもユーザー層が限定される。それを例えていうならば、Wiiのように直感的操作のデバイスとインターフェースに変革されれば、指数関数的にユーザー数は拡大するだろう。そしてWeb2.0的にいうならば、これはSecond lifeでも可能だろう。
second life上の仮想空間内のサービスとして、インターフェースを変更するなど・・・

最後に、広告について。
この仮想世界の中では、もうすでにTOYOTAやロイターなど様々な企業の広告やオフィスが存在している。
特に仮想空間上にある広告や企業のプロモーションのためのオフィスであるが、これについて、成り立つのかという声を良く聞く。
これは、私に言わせれば、バナー広告となんら変わらないと思う。
ウェブサイトでは、クリックする、検索ボタンを押す、その結果切り替わる画面上で広告が表示される。
それと、仮想空間上で、前に数歩進める、ある門で右に曲がる、その結果、3D画面上に広告が表示される。
こう考えてみれば、この2つはまったく同様のことだと思えてくるだろう。
ただ、より体験に基づいた広告であるかどうかの違いであり、データ処理的にはなんら変わらない。


こうしたコンセプトのゲーム・ソフトウェア、いや世界は、確実に世界を席巻するとは思う。ただ、今のsecond lifeにはその魅力・期待感は私は感じない。
ただ、ではもっと完成度が高いソフトウェアはいつごろ出るのか、という質問は、旧世代がするものだ。
適切な質問は、では、このsecond lifeはいつごろ、プレーヤーたちの手によって改善され、爆発的に普及するものに変わるのか、である。
そして、それはわずか数年のことだろう。