世襲坊主の独り言

世襲の事情から会社退職後に真宗寺院住職に転身した男が、自分の信心もないのに他人さまに信心を語る苦しさを白状する記録です。

生命(いのち)の連鎖 その3

2006-12-25 22:53:03 | Weblog
 きょうの内容は生命の連鎖とはすこし外れるかもしれませんが、前回の結論から派生した考えなので、その3ということにしました。

 私は「私」であり、「私」以外に私はいないと思っていたのに、永遠の生命、生命の連鎖を考えていたら、その連鎖の中で「私」の存在が見えなくなってしまったように感じました。生命は第1層の「細胞レベル」と第3層の「種族レベル」だけで維持されているように見えるのです。身の回りの動物や植物を見ても、この考えは正しいように思えます。然らば「私」、第2層の「個体レベル」の「私」、苦しみを抱えながら生きる私、死に怯える私は、悠久の生命の流れの中では何者なのか、何の為に存在を許されたものなのか、存在する意義は何なのか、実に不思議な、不可解な存在のように見えるではありませんか。
 片や、仏教哲学などの書でよく出会う内容に、『私』という実体はない、という解説があります。『私』とはその場の、その時の条件で、自分の心の中に映った影かもしれず、実体的な『私』などは存在しないのだ、というわけです。人の心がその影を『私』だと思い込んでしまうために、現実とかけ離れてしまい、苦しみから逃げられなくなるのだ、と教えていただいています。
 霊魂はあるか、魂というのはあるのか、などがよく話題にもなりますが、ここで第2層の「個体レベル」と名付けた『私』は、まさに第1層の細胞レベル、生物としての身体の中に納まっている魂(タマシイ)なのでしょう。この魂は実体はなく、周囲の条件を移した影、映像のようなものなのでしょうか。実体がないのに実体があると勘違いし、悩みを抱え、救いを求めながら、真実を直視することもできない可哀そうな存在...実は存在すら否定されている存在なのでしょうか。このような『私』を救う方法として自らを鍛えて「自我」を捨てる訓練をすることがよく勧められています。ならば、『自我』をすべて阿弥陀如来の前に投げ出しても救いが得られるのでしょうか。

生命(いのち)の連鎖 その2

2006-12-18 20:11:29 | Weblog
 前回の「生命(いのち)の連鎖」が長くなりましたので途中で止めましたが、今回はその続きです。 前回の結論は、生命は第1層「細胞レベル」と第3層「種族レベル」によって維持・継承され、第2層「個体レベル」はこれに寄与していないように思える。にも拘らず、人は自分の生と死を第2層だけで考えており、これは個体の人間が強い自我の意識を持っているからであろうか、という内容でした。
 宗教や哲学の本には、人はどのように生きてどのように死ぬべきかを論じた書は沢山あります。しかし、ここで論じられるのは、やはり個体としての人間の自我意識についてです。仏教で論じられる「我」も「無我」の我もすべて個体の人間が持つ意識を相手に語られるものです。個体の人間が半ば本能的に主張する自我に対して、その自我意識をどのようにコントロールして生きるべきかを論じているように聞こえます。それを論じているのも「我」、論じられているのも「我」、そして冒頭に論じてきたように生命の流れは個体の我の外に超然として維持されている奇妙な現実。宗教者や哲学者はこのような現実をどのような論理で説いているのでしょうか。私はそこにたいへんな興味を抱いています。
 この問題については、今後も考えて行きたいと思いますし、何か良い書物を見つけたら読んでみたいと思いますが、今の私が浅学なままに直観的に感じているのは、やはり弥陀の世界、阿弥陀如来の世界は広い、広い、ひろ~いナ、ということです。「我」を論じ、「無我」を論じる私どもをもそのまま包んで細胞のレベルで私どもを生かしてくださり、種族のレベルまで永遠の生命をお守りくださる、この不思議の中に阿弥陀仏の存在を感じさせて頂くのです。

生命(いのち)の連鎖

2006-12-17 17:59:32 | Weblog
 生命の大河、命の連鎖、などと以前にも書きました。ここで、改めて生命(いのち)について考えたことを、メモにします。
 私どもの命には3層の構造があります。1層目は「細胞のレベル」、2層目は「個体のレベル」、3層目は「種族のレベル」と名付けましょう。
 まず1層目の「細胞のレベル」とは、私達の体を形作っている皮膚とか、筋肉とか、骨とかのレベルです。私たちが生きているのは、こういう肉体の組成が生きているからです。しかし専門の先生たちは、こういう細胞には寿命があり、古い細胞が死んで新しい細胞がその機能を受け継ぐという新陳代謝を繰り返しているのだと教えてくれています。私たちの体は3か月ですっかり新しい細胞に入れ替わるのだそうです。今、冬を迎えようとしている私は、夏にいた私とは別人?? なのだそうですが、私が連続して「私」であるのは、肉体が入れ替わろうとも、私の意識が連続して「私」を維持しているからにほかなりません。しかし、ここで分かったことは、私という意識とは別に、新陳代謝を繰り返して、つまり、「生」と「死」を繰り返している細胞レベルの肉体があるということです。
 次に、2層目の「個体レベル」とは、両親の子として生まれ、育てられ、そして今ここに生きている私のことです。一人の人間として認知され、他の人とは区別されて認識されている「私」のことです。何時の日にか死を迎えるはずです。「私」は「私」を意識して日々を生きており、苦を感じるのも「私」、未来つまりこれから迎えようとする日々の安楽を願うのも「私」です。まさにこの「個体レベル」は自我そのものであり、自分の肉体までも自我の意識の中に組み入れて意識しています。
 最後の3層目「種族レベル」は、日本人とか、モンゴリアンとか、あるいは大きく分類してホモサピエンス、人類でもよいです。とにかく自分たちの生命を永遠に伝えるために子孫を残すことができる生物としてのグループのことです。先祖の生物としての記憶はほんの微かな進化を伴いながら遺伝情報として伝えられ、子孫によって受け継がれます。最近の科学が解明したDNAの仕組みは実に驚くべきものです。
 しかし生物的な遺伝とは別に、この先祖から子孫に繋がる生命の鎖は、実に不思議な認識のされようをした存在のように感じます。先祖をどのように位置付けて意識するかは、民族によって、教養によって、信教によって違うようです。神の領域に入った人、つまり神として認識されることもあり、粗末に扱うと祟りがあるかも...と恐れられる霊として覚えられることもあります。しかし多くの場合は2,3代以降の子孫になると忘れ去られて名のみ、場合によっては名前すら忘れられた存在となります。また、子孫については、自分の財産や特権を受け継ぐ存在としては意識されますが、自分のイノチを受け継ぐものとしての認識はどの程度のものでしょうか? ましてや、自分自身が永遠の命を残せるのは子孫の中しかないとまでは誰も考えていません。このように、先祖も子孫も自分、「私」とは別の存在として認識されています。
 さて、長々と書いてきましたが、「私」が自我を意識するのは第2層目の「個体レベル」だけです。1層目の「細胞レベル」は「私」を存在させている実体であるけれども、「私」という意識とは別の存在と認識されています。3層目の「種族レベル」も「私」を生み出した母体であり、「私」の寿命が切れた後も私のイノチを将来に繋ぎ留めるものであるにも拘らず、「私」の「死」は「私」の消滅であり、子孫の中に「私」が残るものとは認識されないのです。
 しかしながら、神仏の何にも囚われない公平な目から見ると、実は1層目、2層目、3層目は同じ生命維持の仕組みの一部分にすぎないのではないでしょうか。私どもは自分の自我意識が邪魔をして、神仏の公平な目に映じた仕組み、または神仏が意図された仕組みを見ることができなかったのではないでしょうか。また、これは恐ろしいことだと思えるのですが、ここでいう第2層の「個体レベル」という層は、人間以外の動物にはないのではないでしょうか。いや、人間ですら、本来はこの層はないのかもしれません。生命の誕生、維持、将来への継続は第1と第3の層で完結します。第2の層は「私」が「私」の誕生と消滅を意識するがゆえに思い付いただけかもしれません。それどころか、イノチとはこれしかないと思い込んでいたではないですか?
 こういう意味からも「我」を離れないと真実は見えないものだ、と考えさせられます。

寺に投資勧誘の電話

2006-11-18 17:00:30 | Weblog
 お寺というところには投資や何かの先物取引のお誘いの電話がよくかかってきます。「名古屋の○○商事のXXと申しますが、ご住職ですか?」などという電話は必ずその類です。ご住職ですか、というからには、当方が寺院であることを知ってかけてくるのでしょうが、こういう電話がかかってくると、私の煩悩が激しく反応して、怒りに近い感情がムラムラと...
 で、適当にあしらって電話を切るのですが、まぁ、向こうさんは懸命に働いていらっしゃるわけだから...と落ち着いてから反省するのですが、次にまた同じような電話がかかると、反省など忘れて声を荒げてしまうのです。
 仏具とか何かの売込みはダイレクトメールが多いですから、電話での勧誘というのは投資か先物と考えて先ず間違いありません。私は東京の自宅に居るときは普通のサラリーマン定年退職者ですが、そういう普通の所帯にもこのような電話がかかることも結構あります。しかし、寺にかかってくるこの種の電話は、私の感じでは倍以上ではないでしょうか。
 寺にはこういう電話が多い、ということは、寺にはカネが集まっている、と世間では見られているということでしょうね。確かに寺によっては何十年に1度の本堂の改修とか、屋根の葺きなおしとかで一時的に檀家さんからの寄付が一定の額になって蓄積されることもあるでしょう。
 我が寺のように檀家が10軒余りの寺には関係の無い話ではありますが、私がこういう電話で腹が立つ理由はそういうことではありません(実は、少しはそうなのかも知れませんが)。やはり、溜め込んだ金銭を投資に回して増やしていらっしゃるお寺さんもおられるのかも、と邪推して腹が立ってくるのです。お釈迦さまの戒めはその日の食べ物を在家の方から喜捨いただければ、それ以上の物を頂戴することを戒めていらっしゃいます。よく新宿の西口などでどこかの禅家の修行僧が喜捨を受けていらっしゃる姿を見て、若いお坊さんの立派な姿に胸を打たれることがありますが、寺でカネ勘定に明け暮れている住職というお坊さんが居るのかと思うと、暗然とするわけです。

千の風になって

2006-11-07 23:56:45 | Weblog
 NHKのBS hi で新井 満さんの「千の風になって」をテーマにした2時間番組を放送していました。それを観ながら次のようなことを考えました。
 そう、生きているものは必ず次の世代にすべてを託して死ぬのだけれど、決してお墓に行くのではないのです。自然に還るのです。自然に還るということは、風になり、雨や雪になり、光になり、鳥になり、森になり、草木や花になるのです。
 生きている私たちはそうした自然に守られて生きています。そして死んだらあとに残してきた人たちを守る側になるのです。
 大自然の調和を私たちは「法」と呼んでいます。人は「法」と一体化しようとして仏になろうとします。逆に衆生済度のために「法」からお出でになった仏として、阿弥陀如来の存在を感じ取り、阿弥陀如来に帰依することによって無事に「法」と一体化できるように願いをかけます。
 新井 満さんの日本語の詩のもとになったのは作者不詳のネイティブアメリカンの詩らしいのです。彼らは死者を高い樹木の上に寝かせて風葬にする習慣を持っていたそうです。死者を自然に還す、死者は鳥になって空を飛ぶ、風になって大空を吹き渡るのです。そして天から子孫を守るのでしょう。ネイティブアメリカンはそう信じていたに違いありません。彼らは仏教の、ましてや浄土教の信者ではないでしょう。しかし私は、彼らの信じたことが、何と自然で、無理のない発想であることに感動を覚えました。そこにお浄土を感じたのです。
 浄土真宗では阿弥陀仏を信じ、すべてをお任せすることによってお浄土に迎えていただき、仏と一体になると、今度は仏となってこの世の人々の救済のための力となるのだ、と教えられています。善行を心がけてもついつい自分の利益やメンツに拘ってしまう私でも、阿弥陀仏を信じてお浄土に迎えていただけるのです。もし私もお浄土に迎えていただけるならば、風や、鳥や、雨や、雪や、草や、木になって戻ってきて皆様のお役に立ちたいと願っております。

    原詩/作者不詳 日本語詩:新井 満
 
       千の風になって(部分)

   私のお墓の前で  泣かないでください
    そこに私はいません  眠ってなんかいません
   千の風に  千の風になって
    あの大きな空を  吹きわたっています
   秋には光になって  畑にふりそそぐ
    冬はダイヤのように  きらめく雪になる
   朝は鳥になって  あなたを目覚めさせる
    夜は星になって  あなたを見守る
   私のお墓の前で  泣かないでください
    そこに私はいません  死んでなんかいません
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菩提薩婆訶

2006-10-27 12:47:35 | Weblog
 羯諦、羯諦 (ギャテイ、ギャテイ)
 波羅羯諦  (ハラギャテイ)
 波羅僧羯諦 (ハラソウギャテイ)
 菩提薩婆訶 (ボジソワカ)
  
 これは般若心経の最後に出てくる真言、つまりサンスクリッド語(梵語)で近い発音の漢字を当てはめた部分です。このままでは意味がわからず、まさに呪文のように耳に響きます。元のサンスクリッド語は、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」で、仏典の研究に大きな功績のあった中村元(はじめ)博士は「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全(よ)く往ける者よ、悟りよ、幸いあれ」と訳されています。「彼岸に往ける者」とは真理を悟った者、ほとけの境地を体現したもの、という意味です。そして、最後の「菩提薩婆訶」は般若心経を愛する人たちから、究極の悟りの成就を願い、敬い、讃える呪文であると理解されてきました。
 ひろさちやさんはこの真言を解釈して、「来たよ、来たよ、ほとけの国に、みんなと一緒にほとけの国に、ほとけさま、ありがとう」という喜びの歌であると味わっておられます。
 浄土真宗では般若心経は仏前での読経には用いません。それだけでなく、声高に浄土真宗門徒は読むべきではないというお坊さんもいらっしゃるようです。自力で仏に近づこうとする聖道門の匂いがするのでしょうか。しかし、私は阿弥陀如来のお浄土にあこがれる心をもってしても、般若心経の教えは素直に心に響くものであるという気がします。阿弥陀佛は彼岸のお浄土にいらっしゃる方ですがいつも此岸の私たちを見守ってくださると言います。そのようなことを考えているとき、小学館発行の「あなただけの般若心経」(中村 元監修、阿部慈園著)の「波羅僧羯諦」のページに道元禅師の「正法眼蔵」の「生死」の巻に次のような文章があることを紹介されているのを見つけました。
「心をもてはかることなかれ。ことばをもていうことなかれ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれて仏となる。」
 真にありがたいことと感じました。 菩提ソワカ...

人を信じること

2006-10-02 14:21:54 | Weblog
 ブログへの書き込みをサボっている間に、セミの声も聞こえなくなり、彼岸花が咲き誇る季節となりました。私どもでは秋になると、年中行事としてはもっとも大切に守っている宗祖親鸞さまの御命日法要、報恩講法要を地域の同派のお寺と組んで修める習わしとしています。私どもでは5ケ寺で組んで、互いに日が重ならないように計画して、お互いに参り合うことになっています。
 私のお寺は建物は大きく古いお寺なのですが、歴史的にはいろいろな不運に遭遇して檀信徒は15,6軒程度で、その運営は楽ではありません。前住職の父からお寺を引き継いだのですが、信心も不足、寺の運営は雨漏りの修繕もままならないなど、私の煩悩は刺激を受けるばかりです。
 こんなときに今年の報恩講法要の季節が巡ってまいりました。檀信徒方へのご案内に、追伸として「最近のお寺の法要へのお参りが少なくなっております。ぜひお参りを...」などと書いてしまいました。もともと7,8名の決まった顔ぶれのかたがたのお参りがあったのですが、その中から3名の方が亡くなられ、1名が腰の骨を折って遠出できなくなられたのです。春のお彼岸の法要の際のお参りは3名程度という寂しさでした。
 私はこのような追伸を入れたときの気持ちは、正直いってもうこんな寺は投げ出したい、住職でなく、一人の信徒として信心が得られるよう努力したほうがよいな、というものでした。他の檀家の多いお寺にお参りして、本堂いっぱいのお参りの方を目にするにつけ、半ば本気でこんな風に考えての追伸でした。
 そして昨日の日曜日に、1日だけ(午後と夜の2席)のわが寺の報恩講を勤めました。
 お坊さんの数より檀信徒方のお参りは少ないのではと勝手に心配していたのですが、お経が始まる前に目を走らせてびっくりしました。大勢さまというほどではないけれど、亡くなられたお婆さんの家族の方、以前はよくお出でになっていたけれど最近足が遠のいていた方、など7名の方のお参りがありました。
 信心を云々する前に、人を信じなさいと親鸞さまに叱られたような気がしました。皆さま、本当に失礼を致しました。

自信教人信

2006-08-30 11:28:57 | Weblog
 ご縁があって京都の中央仏教学院を訪ね、1時間ばかり布教、伝教を中心とするご講義を拝聴してきました。
 先生のお話は「自信教人信」から始まりました。「自信教人信」のもともとの意味は「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」ということで、浄土教の祖師の一人である善導大師の言葉で、親鸞さまや蓮如さまも大切にされた言葉です。
 先生の講義では、「自ら信じ、」と「人を教へて信ぜしむること」との2つの部分のどちらに力点をおいてこの言葉を頂くか、実践するかということについてはいろいろな考え方があるようにうかがえました。
 私は、自ら信じていないことを人に教えて信じさせることのないように...という坊主に対する戒めの言葉かと受け取ってきましたが、自分の信心もそう簡単には獲得できないのが実情です。これでは、坊主も勤まりません。先生は、意味はそれで良いのだが、伝道、つまり「人に教えて信じせしむ」のほうを中心に実践して、その実践を通じて自らの信心も固めて行く、という方法が実際的である、と講義されました。これについては一緒に講義を聞いた十五、六人のご同行のかたの中から、やはり自分の信心をしっかりと持たなければ、というご意見もでましたが、なかなか難しい問題です。
 私は、このブログの目的を、信心も固まっていないのに世襲で住職を勤めることになった自分の信心獲得の記録とする、と以前にも書きましたが、信心を共有する前に、同じ悩みを共有するという意味の「ご同行」がたくさんいらっしゃるような気がしました。心強いというか、おぼつかないと言うか...

お浄土ってあるの?

2006-08-14 22:20:15 | Weblog
 お盆は檀家の少ない私どもの寺でも、お盆直前の土曜、日曜にお参りが集中します。そういったお盆の檀家参りのときのことです。法話を終えてお茶をいただいているときに、参列されていたご親戚の方から質問が出ました。「きょうは来てないんですが、主人がお浄土ってほんとうにあるのか、よく聞いてきてくれ、というんですけど...」とおっしゃるのです。なんでも、その方のご主人があるお坊さんに同じ質問をしたら「お浄土には行ったことがないから分からない」と言われたので、別のお坊さんの話も聞きたい、ということのようです。

 こういう話題は話題としては面白いのですが、中には重い精神的な荷物を背負って同じ質問をされる方がおられますから、お坊さんとしては真面目に答えなければなりません。ですから、私はその席ではあまり深入りしないで、真面目な答えを返しておきました。「阿弥陀如来の教えを信じてお浄土があると信じる方にとっては、お浄土は間違いなく在ります。しかし、お浄土が信じられない方にとっては、いくら考えても無いものは無いのです。」と。そして付け加えておきました。「死んでからのことをあれこれ心配することもいいのですが、大切なことは生きている現在から、死ぬまでの時間をどのように正しく過ごすか、ということのほうがずっと大切なことですね。」

 ところで、お浄土は在るのか無いのかにこだわることは、以前にこのブログに書いた有無の見の典型ですね。お浄土は在るに違いないのですから、阿弥陀さまにお任せして、今生きている人生の中に阿弥陀さまからの確かな光を見出して有無への拘りを離れるならば、生きている中で阿弥陀さまのお救いを頂くことができます。有無への拘りを離れるということは、自我を捨てる、我執を離れることにもなります。こうして、心の平安を頂くこと、換言すれば極楽往生が約束された境地を得ることが出来るといいます。阿弥陀如来を信じきることが出来て、不退転の境地(再び疑いや迷いに戻ることのない境地)に達すれば、いざ、臨終という瞬間に至っても、既にお浄土往きの切符を手にしているわけですから、その気持ちのまま、阿弥陀さまのお膝元に参ることになるのです。

 考えてみると、死んでからもまだ自分と言う自我がいて、その自我がどういうお浄土に居れば満足だと言うことになるのでしょうか。私は、そのような気持ちの悪い自我が残らないように、阿弥陀さまによくお願いしておきたい気持ちです。

回向(えこう)

2006-08-13 22:54:37 | Weblog
 わが国に伝わった大乗仏教には、自分が善行を積んで獲得した功徳を、他人にも振り向けることができるという思想があります。これを「回向」と言います。

 ところが、自分は善行の一つもなし得ないという深い自覚を覚えて阿弥陀仏に救いを求める浄土教では、人は他人に振り向ける功徳は何も持っていないことになります。

 これはビックリする話ですが、私はビックリする前に、親鸞さまの教えに「回向」には往相(おうそう)回向と還相(げんそう)回向の二つがあることを知っていました。ですから、ビックリではなくて、え? 仏教一般に言う回向と、浄土真宗で言う回向は違うの? と考えてしまったのでした。そこで、改めて親鸞さまのおっしゃる往相回向と還相回向の意味を考えることにしました。

 往相とは、とか、還相とは、と順を追って考えてゆくと、分かったようで分からない理屈論議に陥ることになるような気がします。そこで、私なりに理解したとおりの順番に書きますと、こういうことです。

 先ず、真宗における「回向」には往相と還相の2つがあるが、そのどちらも阿弥陀仏の本願力のお働きであり、決して私たちの自力の働きによるものではない、ということを理解しなければなりません。そうした上で、往相回向とは極楽浄土に往生する私どもの救われた姿であり、還相回向とは往生して仏の仲間入りした私どもがお浄土より帰ってきて衆生の済度に勤める姿である、と理解させていただくのです。

 ただ、これでも難しい、いや、かえって難しくなった、とおっしゃる方もいらっしゃるようです。私はそういう門徒さんには「あなたが『南無阿弥陀仏』と称えることが往相回向、その声に併せて既にお浄土においでになった懐かしい方があなたに向けて、あるいは周りの人たちに向けても、『南無阿弥陀仏』と称えていらっしゃる声が聞こえます。それが還相回向」とお話しています。どちらも阿弥陀仏の本願力のお働きですと...