きょうの内容は生命の連鎖とはすこし外れるかもしれませんが、前回の結論から派生した考えなので、その3ということにしました。
私は「私」であり、「私」以外に私はいないと思っていたのに、永遠の生命、生命の連鎖を考えていたら、その連鎖の中で「私」の存在が見えなくなってしまったように感じました。生命は第1層の「細胞レベル」と第3層の「種族レベル」だけで維持されているように見えるのです。身の回りの動物や植物を見ても、この考えは正しいように思えます。然らば「私」、第2層の「個体レベル」の「私」、苦しみを抱えながら生きる私、死に怯える私は、悠久の生命の流れの中では何者なのか、何の為に存在を許されたものなのか、存在する意義は何なのか、実に不思議な、不可解な存在のように見えるではありませんか。
片や、仏教哲学などの書でよく出会う内容に、『私』という実体はない、という解説があります。『私』とはその場の、その時の条件で、自分の心の中に映った影かもしれず、実体的な『私』などは存在しないのだ、というわけです。人の心がその影を『私』だと思い込んでしまうために、現実とかけ離れてしまい、苦しみから逃げられなくなるのだ、と教えていただいています。
霊魂はあるか、魂というのはあるのか、などがよく話題にもなりますが、ここで第2層の「個体レベル」と名付けた『私』は、まさに第1層の細胞レベル、生物としての身体の中に納まっている魂(タマシイ)なのでしょう。この魂は実体はなく、周囲の条件を移した影、映像のようなものなのでしょうか。実体がないのに実体があると勘違いし、悩みを抱え、救いを求めながら、真実を直視することもできない可哀そうな存在...実は存在すら否定されている存在なのでしょうか。このような『私』を救う方法として自らを鍛えて「自我」を捨てる訓練をすることがよく勧められています。ならば、『自我』をすべて阿弥陀如来の前に投げ出しても救いが得られるのでしょうか。
私は「私」であり、「私」以外に私はいないと思っていたのに、永遠の生命、生命の連鎖を考えていたら、その連鎖の中で「私」の存在が見えなくなってしまったように感じました。生命は第1層の「細胞レベル」と第3層の「種族レベル」だけで維持されているように見えるのです。身の回りの動物や植物を見ても、この考えは正しいように思えます。然らば「私」、第2層の「個体レベル」の「私」、苦しみを抱えながら生きる私、死に怯える私は、悠久の生命の流れの中では何者なのか、何の為に存在を許されたものなのか、存在する意義は何なのか、実に不思議な、不可解な存在のように見えるではありませんか。
片や、仏教哲学などの書でよく出会う内容に、『私』という実体はない、という解説があります。『私』とはその場の、その時の条件で、自分の心の中に映った影かもしれず、実体的な『私』などは存在しないのだ、というわけです。人の心がその影を『私』だと思い込んでしまうために、現実とかけ離れてしまい、苦しみから逃げられなくなるのだ、と教えていただいています。
霊魂はあるか、魂というのはあるのか、などがよく話題にもなりますが、ここで第2層の「個体レベル」と名付けた『私』は、まさに第1層の細胞レベル、生物としての身体の中に納まっている魂(タマシイ)なのでしょう。この魂は実体はなく、周囲の条件を移した影、映像のようなものなのでしょうか。実体がないのに実体があると勘違いし、悩みを抱え、救いを求めながら、真実を直視することもできない可哀そうな存在...実は存在すら否定されている存在なのでしょうか。このような『私』を救う方法として自らを鍛えて「自我」を捨てる訓練をすることがよく勧められています。ならば、『自我』をすべて阿弥陀如来の前に投げ出しても救いが得られるのでしょうか。