不幸のブログ

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宇宙の法則について

日本人の血・旧約聖書の民 800年の壁

2009-06-27 16:27:47 | 日記
今日の記事は以前の記事を読んでくれた事前提で
書いています。





記事はここからです
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イスラエル王国とユダ王国の分裂。
そこにはもしかしたら民族的な争いがあったのかもしれません。

ヘブライ人やユダヤ人と言う一言で
私達はイスラエルやユダという古代の国の
住人をまとめて説明していますが

彼らがどうやら一つの民族だと考えるのは
地理的にも歴史的にも無理があるようです。

そして歴史の中のある時点で
ユダの主流であった民族とイスラエルの主流であった民族が
覇権を争って分裂した。。

ヘブライ人の研究家にはその説を主張している方もいるのです。 聖書にもあるように、ヘブライ人と呼ばれる人間達の軌跡は
中東のあちこちで見つけることが出来ます。

時にはバビロニア、時にはアッシリアやメディア
そしてエジプトいった具合にです。

行く先々で彼らは現地の住人と交配を重ねたであろう事も
可能性としては考えられますし

元々中東付近は多くの民族に分化していて
彼らヘブライ人の血統は決して一つでは有り得なかった。。

それを主張する人もいます。

確かに中東には紀元前の2000年間の間には
アッシリア、バビロニア、エジプト、メディア以外にも
シュメール、フルリ、ミタンニ、ハッティーと多くの国が乱立していて

その国同士が、もしも全て民族毎に分かれていたとしても
地理的に色んな意味での交流があった事は否めません。


そしてユダ王国の主たる民族ユダ部族の多くはハッティー、
つまりヒッタイトの人間であったと言う話もあるのです。

(古代のヒッタイトの領地は今現在のトルコ付近。
最大エジプトまで含む国でした)

それが事実ならヘブライ人と言われる民族は
決して一つの民族ではなかった、
ヘブライ人という定義自体も怪しいと言う事になりそうです。

いずれにしてもまずは聖書という物を編纂したのは
イスラエルの民ではなくて

イスラエルの民が消えた後に
ヤハウェという神と契約を交わしたと言われるユダの民。


考えようではユダ王国の民とイスラエル王国の民は
全く別の民族で

その思想も価値観も全く異なっていたという
可能性も高そうです。



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ヘブライと言う言葉が”移動する民族”と言うような意味を持つと
以前聞いたことがありますが

その名の通りイスラエルの民はその居住地を移動し続け

以前の記事で紹介したように
東へと向かった可能性が高そうです。

そして噂では争いを望まない民族ゆえに
他の民族の侵入が続くたびに結果的に
居住地を追い続けられたと言う話もあります。

そしてたどり着いたのは一体どこだったのか。。


一方”ヤハウエの神”と契約を交わしたとされるユダの民は
イスラエルの民が消えた後で聖書を編纂する事になります。

簡単な歴史を参考にして欲しいので
ここでもWIKIから抜粋します。

紀元前11世紀頃 - パレスチナの地に古代イスラエル王国が誕生。

紀元前922年 - 内乱のため南北に分裂。

紀元前721年 - 北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされる。

紀元前612年 - 南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされる。

紀元前538年 - ペルシア王国が新バビロニアを滅ぼし、
バビロニアの虜囚イスラエル人は解放される。

紀元前334年~紀元前332年 -
マケドニア王国のアレクサンドロス3世による東方征服で
パレスチナの地が征服される。その後、マケドニアは分裂し、
プトレマイオス朝、そしてセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入る。


紀元前143年 - セレウコス朝の影響を脱し
ユダヤ人がパレスチナの地の支配を確立する(マカバイ戦争)。

その後、ローマ帝国の属州となる。

66年 - ローマ帝国の属州であったユダヤの地で
ユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。

独立を目指すが、70年にローマ帝国により鎮圧され、
民族の多くは各地に分散する。

132年 - ユダヤ人バル・コクバに率いられたバル・コクバの乱
(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時イスラエルは政権を奪還したが、
135年に再びローマ帝国に鎮圧される。

その後、さらに多くの住民が各地に離散し、
現代イスラエル国が誕生するまで長い離散生活が始る(ディアスポラ)。

イスラエルの民が東に消えてからも
ユダの民の受難は続く事になります。

彼らは何度も占領されては開放されてを繰り返し
西暦70年にはその多くが世界中に離散し

その後歴史の中で近代のヨーロッパに突然現れる事になります。

そしてその離散した人間達の末裔が
1950年以降に世界中から現イスラエル王国に集まってきた
人達と言う事になっているわけです。

彼らは何度もの侵略を受ける中で
旧約聖書を編纂し、

実際に契約を交わしたかどうかは別として
神が自分達に定住の地を約束してくれたという
意識を持つようになったと推定できます。

それは受難の続く民族を勇気付けるため
聖書に盛り込んだ人為的なものではないかと思います。

勿論聖書を信仰するが故の話ではありますが。。

そして彼ら旧約聖書を信仰する民が流れて行った場所では
そこで他の部族との交流も起きて

ユダヤ教を信仰するようになる他部族も
当然出てくるようになったはずです。


そして今現在世界中でユダヤ人といえば
多くの方が想像するのは白人タイプである
アシュケナージやセファラディ。

恐らくは彼らはユダヤ教信仰を
先祖から引き継いだ人間達の末裔です。

勿論中にはユダの民と交流し交配し
その血を引いた人間もわずかには存在していると思いますが
恐らくはその多くはユダの民の血をひいてはいないと思います。

有名なユダヤ資本の人間は
まさにこのアシュケナージの事を指していて

その多くは南ロシアあたりに生息していた
カザール人の末裔だと言われています。

彼らは只の遊牧民ではなく
天文学・地理学・数学・歴法に精通した頭脳明晰な民族。

ヘブライ語辞典を作り
聖書を翻訳した事もあるそうです。。。。

彼らは聖書を翻訳した。。。

翻訳には誤訳があったり訳者の恣意的な感情も
入りがちですよね。。。。

(この時から聖書の改竄は始まっていた?)


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イスラエルの民に遅れる事800年。

西暦70年に分散し始めたユダの民。

彼らの主流は一体どこに姿を消したのでしょうか。。。

旧約聖書の神との契約や約束によれば

”失われた10部族を連れ帰って来い
その時こそ神の国が実現する”

と言うことになっているわけで
ユダの民は信仰のためにもその一部の人間は
イスラエルの民を探索し続けたかもしれません。

聖書に自らを縛り付けてしまった彼らは
その後聖書だけを残して
その姿を世界中にくらます事になったわけです。

勿論そのうちの一部には伝説を元に東へと
向かって行った人間もいるはずです。

神が聖書の中で
 ”10部族であるイスラエルの民を探せ” 
としつこく命令しているのですから

熱心な信者はイスラエルの民の軌跡を追ったはずです。

そして噂として残されていた歴史書に
”遥か東にイスラエルの民が繁栄している”

という伝説があったのですから
その軌跡を追った可能性は否定できません。

それに現実問題としてアフガニスタンの一部の民族で
自分達をイスラエルの民と名乗る人間達の祖先は
習慣から判断するとユダ民族の末裔であると言われていますし

中国の開封にもユダヤ教はその足跡を残しています。

少なくともユダの民は中国までは東へと進んだ足跡を
シルクロードに残しているのです。

そしてイスラエルの民を探して東へと進んだとしたら
ユダの民の集団は、その後一体どこに行き着いたのでしょうか?

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話は飛んで、日本において有名な
ユダヤ人の噂がある人達と言えば

弥生時代末期に日本にやってきたユダヤ人と言われる
秦氏ですよね。

WIKIから抜粋してみます。



秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。
東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。
秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない


日本書紀によると応神天皇14年に弓月君
(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が
朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、

加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている
(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)

また一説には五胡十六国時代に氏族の苻氏が建てた
前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、
朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。

この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、
「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えても
さほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。

ハタ(古くはハダ)という読みについては
朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、
機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。

また、俗説の一つには、ハッティー(ヒッタイト)から
きているというものもある。


日本に渡来してきた秦氏とその集団が
ユダヤ人であったと言う話がありますが
これは決して信憑性のない話ではありません。

彼らは秦の始皇帝の末裔と言う話もありますが
ハッティー(ヒッタイト)がその秦という苗字の
元になっているという話もあります。

そして先述のように、
そのヒッタイトの民族の血を引いている
ヘブライ人こそ恐らくはユダの民。

いわゆるユダヤ人だからです。

秦氏は、実は一万人近い大群で
日本にやってきたと言う話もありますが

それは決して日本侵略を目的としたものでは無かったはずです。

日本にやってきたきっかけは
朝鮮半島の百済や新羅、高句麗等の
争いから逃れるためであったと言う可能性が強いのですが

いずれにしても彼らは元々は
朝鮮半島に由来する人間達では無かったと思います。


彼らは元々西方から来た職人集団であって
朝鮮半島に其の起源をもつ人間達ではないのです。

(職人集団と言うその能力の高さと技術力を考えて下さい。)

では其の人間達の祖先は一体どこから来たのか。

彼らがイスラエルの民を追ってきたユダの民であった可能性が
実はそこで浮かび上がる事になります。

それは年代的にも不自然ではありませんし
歴史的整合性も持っていると思います。

そしてもしも秦氏がユダの民で有ったとしたら
彼らはこの日本にイスラエルの民を発見できたのでしょうか?

どうやら日本史を疑り深く研究していくと
其の答えの全てが見えてくるようです。


続く。



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P.S.

秦氏が朝鮮半島から来た人間であるから
朝鮮人であるような取り上げ方をする人間もいますが

日本人に朝鮮半島からの人間が入ってくるのは
其の少し後だったと思っています。

取り合えず俺は当初の
秦氏=朝鮮人 ではないと言い切っておきますね。
後で混じった可能性は否定できませんが。


1 コメント

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同感 (何かの本で同じ意見を20年前に読んでそう思ってましたので納得できる記事です)
2009-06-27 21:54:42
秦氏はコーカサスから来たからハタノカワカツ(秦のコーカサスがなまって)と後の世まで語り継がれていて、中国や朝鮮半島からとは違うと思います。
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