空に問う。

空に問うても果てがない

まあ、いいのだけれど

2015-10-02 15:26:17 | 日記
まあ、どうでもいいのだけれど・・・・・。

親戚相手に兄弟連名で弔電一本って・・・・・。おいら喪主なら「こんななら送ってくるな」と思うかなぁと。実の伯母さんがなくなった時も連名で送ったと胸を張られた。果物かごじゃないんだからさ・・・・なんか微妙にズレてる。

に、しても電報打った後に兄弟に連絡ってなんだ。兄の考えもあるだろうし。するかしないかの判断もない。でも筋が違う。流れが違う・・・。

まっ、ウチの母方の姉妹の不幸ごとなのですがね。台紙0円でも別々にして欲しいな。故人をすごーーーーーーーーーーく安く見積られた気がして、おいらなら今後の付き合いを考えるぞ。〇〇×× 外一同じゃないんだから。

はっきり言って父方の血縁は濃い。反対に母方は薄情だし、葬儀とか法事とかの意味がわかっていない。じいちゃんの23回忌に兄弟のみ(子供らには声すらかけていない)で行ったから、頭に来て出なかった。田舎なので田舎の流儀で見送ってあげたかったなぁ。それが今でも心残り。

でも実際にどうなんですかね?家のそばにお寺があって、家の宗派とは違うのだけど、近いからって理由で宗派替えするのは。それに厳密に言えば水子とは生まれてこなかった子供を言うのに、生まれてすぐ亡くなった子供に水子供養をすすめるのって。お寺も商売だから分かるけど、お寺で行う施餓鬼供養ってなんだろう。一回も感じないぞ、成仏感。元々の信仰と違う宗派で供養されるってね。

厳密に言えば双子みたいに言われているけど、浄土宗と浄土真宗は、そもそもの「教え」が違う。浄土真宗は人間の霊性は認めていない。これどういう言かって言うと、死んだらおしまいということ。極端に言うと霊性がないとは幽霊はいないと言うこと。すなわち生まれ変わりもなし。霊性を認めないと言うことは神社にも当然行きません。極端には神社は神様の霊廟だから。高い霊性を持つモノが日本でいうところの神様なのです。だからすごい真摯に浄土真宗を信仰されているお宅には神棚はありませんよね。まあ国家神道に反旗を翻した勇敢な宗派ではあります。

霊性を認めないと言えば他には日蓮宗にキリスト教。霊性=魂の存在を否定的だから、キリスト教圏ではゴーストをあまり怖がらない。その代わりにドラキュラやオオカミ男や宇宙人は信じてる(笑)。日本でぼんやりした人影を見たら「幽霊では」と思うところが欧米人には「宇宙人」に見えるわけだ。人は死んだら、天国か地獄に行くことになっていて、彷徨ったりはしないのです。

だから母方の墓前に立つと、いつも疑問が湧く。「じいちゃん、ばあちゃん本当に成仏していますか?」と。

そういう疑問がまったくない、母の兄弟たち・・・・。菩提寺の宗派も知らないんじゃないのかな?お墓参りに来るって言っても線香だけ持参する。思わず「花は?」と言いたくなる。久しぶりに健康になって死なずにすんだ姿を見せに来たんでしょ。本当に母方の祖父母を思うと不憫な気持ちになる。孫のおいらたちだって個人的に参るときは花を持っていくぞ。来たから偉いって訳じゃない。思いがあるかないかだ。病床の母の見舞いに鉢植えを持参するような伯父さんだ。ばあちゃんは孫のおいらに「捨ててくれ」と言った・・・・・。

本来ならばご先祖の怒りや願いは家を継いでる方へ行くんだろうが、おいらみたいなへっぽこ霊感あんちゃんがいると、寄り道する。もうそういう流れや筋違いのことは遠慮したいと思ってる。

まあ、この間気まぐれに伯父さん夫婦といとこである長男が墓参りに来た。誰か具合でも悪いか、不運があったんだろう。ネットでサクサク出てくるもん。”最近お墓参りにいっていますかと・・・・。これなきゃ毎日お茶のいっぱい故人を偲べばいいだけなのに。縁をつなぐどころか、切れてるよね。せこい話だけど仏壇に供える菓子は持ってきたけど、いつも墓守をしてる妹家族には菓子一個なかった。「お供えして食べてよ」って。間違っていないけど、この伯父さんの態度や言動みてると腹が立つ。思いやりの欠片もないのに人の気持ちの先回りをするからだ。まっ、法事があって食事をしても弟に支払いを平気でさせる男だから。父の次に嫌いな大人の男だ。

ああいう人に「ああしてほしい、こうしてほしい」って思っても届かないから、ちょっとでも分かる人間に先祖は訴えかけてくる。だけど助けちゃくれない。ああしてあげても、こうしてあげても、ハイそれきり。で、温かくは見守ってくれる。心を温めてくれる。そんな存在でいい。仏さまになった途端に普通の人がスーパーサイヤ人みたいな存在になって子孫を守ってくれるはずはないでしょう。小さく背中を押してくれたり、バスの中で肩を叩いて起こしてくれたりね。そういう時は感謝しましょう。それでいいんです。実のところは。

今回の親父の癌の発見も神様系のお蔭でした。もちろん怪しんでくれたお医者さんのお蔭なんですけどね。癌が発見される経過が仏教的な要素ではなく、神道的な幸魂的な奇跡でした。

さてはて一攫千金を望む気持ちの中には祖父母の墓を浄土真宗にしてあげたい気持ちもあるからです。今のお寺とは変なしがらみや因縁があって、おいらは個人的に×なのです。今の住職さんとは知り合いだしいい人だけど、先代には少し禍根があるんです。ああいう狭量で慇懃無礼な人が眠る場所にいて欲しくない気持ちもあるんですよね。でも母は嫁に出た身であるから、本来と言うか、もう深くは関わってはいけないと今は思います。

それこそこれ以上抱えたら、おいらたぶん死んでしまうと思う。それは、それだけは実に本意ではない。まだしもユダヤの件とか自分の気持ちの上でケリをつけたいと思う。

で、電報は連盟に・・・・。止めたんだけどね。窓口で「連名ではダメですか」って訊いたら「結構連盟の方もいらっしゃいますよ」との返答を受けたので母は自分の意見を他人が共有したと自信満々。しかし相手も商売ですからね。「ダメ」とは言わんでしょ。電報なんて礼節の一つだからさ。それに「連名でもいいですか」と訊いた時点で、”この人せこいんだろうなぁ”と相手は思うから、別々がいいですけど、このくらいかかりますよとは言わんだろう。自分がすでに相手の答えを導き出す言葉を使っていることに永遠に気が付かない人なんだろうなぁ。我が母。閉口一番「大丈夫だっていいんさったよ」と自信満々でした(笑)。

底はかなり浅いけど、仏教や神道や宗教については少しだけ詳しいと思います。だから知人や友人には変な人と思われるような発言はもちろんしません。あくまで常識人で通します。明らかに間違っているときは指摘します。

高校三年生の時に友人が亡くなって葬儀に行くことになったとき、一人の友人が白シャツにガラタイで緑地のチェック柄のズボンでやってきた。その頃はDC(デザイナーズブランド)ブランドって言うのが流行ってて、おいらと友人二人の会話だけど、

おいら:「〇〇、そのネクタイとズボンはまずいんじゃない」

友人A:「そうかな?」

友人B:「いや、コムデギャルソン(ブランド名ね)だから大丈夫っしょ(満面の笑顔)」

おいら「・・・・・、バカぁ?」

もちろんちゃんと説明してズボンを履きかえて貰いました。黒はないのでノータイで。


・・・・ユダヤ教のイメージって、すぐにアーミッシュを思い出すけど、そう言われるとイスラム教よりも知らないなぁ。旧約聖書がメインだってことくらいしか知らないし・・・・・。

田舎なのでカトリックの教会やエホバがあるくらい。

でもね、どうしても救世主が神でないいけないという教えを信じないといけないと言う基本ルールがおいらにはダメでした。御釈迦さんみたいに優れた超人(あくまで人間)として考えてはいけないんですね。人間イエス・キリストの方が素晴らしいと思うのですが、そういう考えは根本的に180度以上違うみたいです。むかしキリスト教の信者さんと押し問答になつたことがあります(笑)。そこには分かりあえない壁があるんですね。

そう、必ず個と個の間には見えない壁がある。でも秘密の入り口があったりする。それが見つからないと親密にはならんのだろうなぁ。その秘密が弱みや疚しさならば悲しいけれど・・・・・。

壊れたら、もう二度と元には戻れない。そういう事を深く刻んだ。

それでもどこかで生き霊米臭いや呪う神主が改心して幸せであって欲しいとか、心のすごい端のすごい小さな粒くらいには思う。許そうとする感情もあったりはするのだ。他人を呪うしかなかった不幸もあろう。部下を見捨てた負い目もあろう。そういう時においらも人の子なんだと思う。安堵する。でも反面許してはいけないと思う。これ以上被害者を増やしてほしくないし、もし同じ目にあった人間が頼ってくれば一緒に闘おうと思う。あくまで現実世界の社会の方ですけどね。

に、しても周年記念のあとの一発目が不幸ごとだって、なんてことだ。せめて祝いならば良かったな。母の小さな世界の非常識を守ってあげるのが子供の務めならば、もう何も言うまい。但し、本人さんがそんな連盟の電報を受け取ったとき「連名なんて失礼な、人をバカにしてる」って激怒する姿はなんとなく浮かぶんですけどね。・・・だから自分が嫌なことは人にしない。それが世の中の基本ルールだと思いました。


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