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長崎出島

2017-01-12 04:43:22 | 日記
長崎出島

出島は、江戸幕府が鎖国の一環として1,636年に築いた人工の島です。形は貿易の発展を願う末広がりの扇形をしています。面積は約1.3ヘクタールで、1,641年から1,859年の長い間、オランダ貿易が行われていました。作られたのは1,634年から2年間かけて行われ、江戸幕府が長崎の有力者に命じて、ポルトガル人を管理する目的で造らせました。長崎の十数人の有力者によって築造費が出資されましたが、土地使用料として、ポルトガル人が有力者に年間80貫を支払う形をとっていました。ポルトガル人から代わり、オランダ人が住むようになってからは現在の価値で約1億円に相当する、55貫に引き下げられています。平和な世の中になったのに対し、貿易の際の検疫が重視されていた。

1,639年、ポルトガル人は不況と植民地化を避けるために出島から追放され、1,641年にオランダ東インド会社の商館を平戸から移し、宗教活動や武装を制限してオランダ人を住まわせました。それ以後、オランダ人との交渉や監視を約200年間続けました。出島には、原則として公用以外の日本人の出入りが禁止され、医師やシーボルトなど、学者として信頼の厚かった者以外のオランダ人は、狭い出島からは出ることが許されませんでした。
ポルトガルの植民地状態になった長崎にも諏訪神社が勧請造営され、諏訪神社の祭礼、『長崎くんち』も始められるようになりました。1,855年に日蘭和親条約が結ばれると、オランダ人が出島から出て長崎市街へ出入りすることが許可されました。翌年、出島開放令が出され、出島の日本人役人が取りやめになったため、出島の存在意義がなくなりました。オランダ商館では長崎幕府の管轄のもとで監獄生活のような不自由な生活をしていましたが、1,859年にオランダ商館は閉鎖されました。

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