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気まぐれ人間

服や靴の替え時を考える件

2017-05-31 13:30:36 | 日記
実家ではめったに洋服や靴を捨てることは無かった。旦那の家もそうだったという。恐らく今の時代が捨てすぎる時代なのだろう。昔の人は首元のビロンと伸びたtシャツを当たり前に着ていたように思う。毛玉というのは洋服には付きもののオプションのようなものだった。今、例えば銀座の大通りを歩いてもそんな人は浮浪者を除けば一人としていない(熱心に探せば一人か二人はいるかもしれないが)。田舎に行けば会えるだろうが、そんな人は大抵余所行きではなくコンビニ仕様の部屋着の人たちだけだ。余所行きで来い、と言えば大体の人は毛玉の無い首元の伸びていない洋服に着替え直して来るだろう。というか「自分は毛玉の付いた服が余所行きだ」と言える人はいるとは思うがかなりのマイノリティだ。この場合実際的な多い少ないは問題ではなく、マイノリティだと世間から決められて笑われてしまうと思う。良い悪いではなく、時代がそうなってしまっているのだ。インターネットを開けばTシャツなんて送料より安く買える。この世は新しい洋服で溢れている。というわけで、洋服は首元が伸びたり取りきれない毛玉がこびり付きはじめたら捨てることにしている。靴はそこまで割り切れなくて、みじめたらしくかかとの剥げたハイヒールなんかを余所行きと近所用の中間くらいの用事の時に履いてみたりしているが、ヒールの底の金属が剥き出しになり歩くたびガツガツ音がしたり、塗装が剥げていたり、あるいは紳士物の革靴の前がパカパカ口を開けていたり、靴底と側面の接着が剥がれていたりするのは本当にみっともないと思う。貧と浅の極みだ。ヒールや革靴に関しては安っぽくてもほころびや傷の無い方が良いに決まっている。捨てたくは無いが捨てるしかない。だがスニーカーが汚れていたり、編み上げやウエスタンブーツが傷だらけだったりするのは許せる。そう、つまり、Tシャツよれよれ、傷だらけのブーツ、ダメージジーンズで古着テイストのヒッピーやボヘミアンのような恰好をするなら、許されるということかもしれない。懐古主義は偉大だ。

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