トゥーン便り

トゥーンの街で起こったこと、トゥーン昔話などなど

コロンブス

2007-09-13 19:46:30 | 催し物
 夏も終わり お芝居、 コンサートの季節だ。
 トゥーン文化協会主催の今季初のお芝居は Theater Kanton Zuerichによる『Kolumbus oder Die Entdeckung Amerikas』(コロンブス、若しくはアメリカ大陸発見)が 12日に催された。
 晴天にめぐまれての屋外公演とはいえ、夜の8時からは気温も低く毛布持参で行った。
 コの字にひかれた白いカーテンの中で演じられる。
黒いサテン様の生地で覆われた壇上(山型に舞台いっぱいに広げられている)に イザベラ女王が登場、中央の布をつかみ腰に巻きつければ あっという間に重厚な裾が波打つドレスとなる。
俳優6人が早や替わりで、バルセロナ、 船上、未開の地を立ち回る。
チェロ、 アコーディオンも小道具以上に場を盛り上げる。
コロンブスの栄光から凋落、最後の涙を流すコロンブスに圧された。
 脚本は Jura Soyler、ウクライナ生まれのユダヤ人で、ブッヘンヴァルトの収容所で27歳の若さで死んだ。
初演時にはすでに収容されていた。
 ワイマールに行った時、そこを訪れようかどうしようか 散々迷ったが、一人だったのでやはり臆した。
 西へ行けば黄金の国ジバングに行き着くと信じたコロンブス、500年前地球はまだ丸くなかったのだ。

ナポレオン3世

2007-09-03 04:31:05 | 歴史
 パリのルーブル美術館には「ナポレオン3世」の部屋が展示されている。以前何回か訪れた時には気にも掛けなかったナポレオン3世だが、今回はじっくりと観察、写真まで撮った。
 トゥーンの街とナポレオン3世とは実は深い因縁があるのだ。
 ナポレオン3世とは?
ルイ・ナポレオンは母親はナポレオン一世の最初の妻ジョセフィーヌの連れ子、父親はナポレオン1世の弟の息子として1808年にパリで誕生している。要はナポレオンの甥だ。
 ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗れた後、母親とルイは父親と別れ、スイスのトゥルガウ州のアーネンベルグ城に在する。ギムナジウムもスイスだ。
当然、母国語のごとくドイツ語が話せ、フランス国民からはドイツ語訛りのフランス語と揶揄されたようだ。

 1829年 トゥーンにてデュフォー大佐の下 軍の士官候補生として訓練が許可される。
 彼の住んでいたトゥーン旧市街のアパートは今も外観は当時のままで、ナポレオン3世が住んでいたとの標識が掲げられている。

 事は1930年代、士官としてトゥーンに在している時だ。
トゥーンの住民からも好感をもたれていたよう、もちろん多くの女性からも。
 1966年『DAS KUCKUCKSEI』(カッコウの卵)が Susy Langhaus-Mayncによって書かれた。カッコウが他の鳥の巣に親鳥がいない間に卵を産み付け、育てさすことを暗示している。

 トゥーンの中洲にあるヴィラの一つにアネットは住んでいた。
軍のパーティに招かれていたアネットはそこで ルイ・ナポレオンとは知らず、彼に接する。
アネットはすでに婚約者がいたが、お互いに惹かれ合う。
そしてルイの子供を宿したまま、婚約者と結婚をする。
女の子が生まれたようだが、後 離婚をし、元夫はアメリカへ移住する。
その女の子がどうなったかの検証はない。

このことはまったく非公式で伝記にも記されていない。

が、このヴィラ(写真)も現存しており、彼等がランデヴーの場としたガーデンハウスもそのままだ。
 
 トゥーン滞在中『スイスの政治と軍隊』という文書を残している。
30年後の1865年 ナポレオン3世としてホテル・ベルヴュー(現在は高級老人ホーム)に滞在し、若き日を懐かしんだようだ。
 彼は自分に娘がいるのを知っていたのだろうか?