君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第一章 「それでも、ついてきて下さい」

2015年05月21日 | 第一章 「それでも、ついてきて下さい」
 目覚めた時、あたしは小さなベッドに寝かされていた。視界が開けた途端に見えたのは木目の天井。それだけだった。

「・・・?」

 不意にパチパチッと音がした。音の主は暖炉だ。見ると、火は弱まりかけていた。その明かりが天井の半分を照らしている。部屋の中は程良く暖まっていた。

「・・・」

 あたしは虚ろなままの視線を、左右に動かした。置かれているのはあたしの横たわっているベッドと、小さな机と上着らしき物が掛かった椅子だけ。その机の上には、暖炉の火では賄いきれない部分を弱く照らす、小さなランプが置かれていた。明かりは灯っている。弱々しいが、随分深い眠りから覚めたような、体も頭も重かったあたしには、むしろ調度良かった。床には何も敷かれていない。見るからに冷たそうな木の床。狭い部屋。

 窓は一つ、あたしのベッドの横にある。曇ったガラスに、水滴が幾筋か伝っている。あたしは外が見たくて重たい手を上げ、その窓ガラスを指でなぞった。手に冷たい空気と水滴が触れる。外の景色が滲んで見えた。
 ガラスの向こう側、枯れたような葉の無い木が見える。カラカラに乾いたような空気。寒そうな空。

 冬だ・・・。

 起き上がらずに、視線だけを動かしてそれを確認した。ここは、どこかの宿だろうか? そんな印象を受ける。

 ここはどこ? あたしは、誰・・・?

 夢の中で繰り返した疑問を、あたしはもう一度口にした。掠れた声は、僅かに開いた唇の隙間から漏れるように外に出てきた。しかしその答えは、やはり聞こえてくることはない。

 あたしは・・・どうして・・・?

「!?」

 その時、鈍いと思っていた感覚が敏感に反応した。

 何・・・? 何の音?

 不意に察した気配に、あたしは目を大きく見開く。そして、勢い良く上半身を起こした。

 う・・・。

 その行動に一瞬眩暈を覚えたが、自分の足の方に見えるドアを確認した途端、そんな物は吹っ飛んだ。無意識の内に頭に手を置いて、あたしはそのドアをじっと見つめる。そして耳を澄ました。

 ・・・近付いてくる。

 あたしは唇を噛んで体に力を入れた。

 ドアの向こうから、小さな足音が聞こえくる。気のせいじゃない。階段を上るような足音。それが近付いてくるのを感じた。それは段々大きくなり、そして不意に止まる。

 ここに・・・来るの?

 あたしは身構える。その瞬間にドアが開いた。ゆっくりと、静かに。

 ・・・誰、が?

 あたしは瞬きもせずに、そのドアを見ていた。向こう側に、誰かが居る。




「・・・あ・・・」

 まず、部屋に小さな呟きが入ってきた。あたしの声じゃない。ドアを開けた人物の声だ。あたしはその姿が早く見たくて、そんな声など受け止めもしなかった。そして、部屋よりも僅かに暗い廊下の向こうにいた人を見る。そして緊張を覚え、唾を飲み込んだ。

 誰・・・?

 ドアを開けたのは男だった。あたしが起きていることに驚いたようだ。目を丸くして、あたしのことを見ている。歳は二十歳くらいだろうか? きっと結んだ唇と切れ長で一重の目。ピンと伸びた背筋にも好感が持てるような男だ。そして纏うは、凛とした雰囲気。男らしくて、強い空気。意志の強さを表すような、そこに宿る光は、あたしに真っ直ぐ向けられていた。あたしもその瞳に吸い付けられるように彼を見る。

 ・・・誰?

 でもあたしは、知らず知らずの内に体に力を入れていた。だって今のあたしにとって、それは恐怖の対象以外の何ものでもなかったから。彼はただの優男ではない。力も性格も強そうだ。それを空気だけで感じる程。

「・・・」

 だから、あたしは無意識の内に、負けないように強い視線で彼を見返した。彼に屈しないことを表すかのように。彼が敵なのか、味方なのか分からないまま。いや、分からない、から。

 この人は・・・誰?

 正確に言うと、思い出せないだけかもしれない。自分のことさえ思い出せないのだから、仕方ない事と言ってしまえばそれまでだ。でも、今はそんな事どうでも良かった。彼は味方なのか、敵なのか? それが分からなければ、彼から視線を逸らすことすら出来ない。それだけのことだ。

 彼は、あたしがここにいるのを知って来たのだろう。あたしが起きていたことに驚いたくらいだから。と、いうことは少なからず、あたしのことを知っているということだ。彼はあたしにとって、どういう関係の人なんだろう? 彼はあたしをどうする気だろう? 何て言葉を掛けてくるだろう? そんな警戒心が、あたしを包み込んでいる。

「・・・」

 男はそんなあたしの視線を受け止めたまま、睨む様にあたしを観察していた。その彼に、心の中で問いかけてみる。

 貴方は誰? あたしは・・・誰?

 当然、返事は貰えない。言葉にしなければ。しかし、それは声にはならない。だって、怖くて。

 大体、どうしてこんな事に・・・。

 あたしは彼を見ながら、自分の手が僅かに震えるのを感じた。自分のことが分からない。自分のことを知っている筈の人のことも、多分何もかも分からなくなっている。何でも良いからと思い出そうとしても、脳裏には何も浮かばなかったから。

 どうなっているの・・・?

 あたしは悲鳴のような自分の声を聞いた。認めたくなかったけれど、あたしはとても不安だった。考えれば考えるほど、それは深さと厚みを増してあたしを飲み込んでいく。当たり前だ。自分が誰かも分からないなんて、知らない土地で道に迷うのとは訳が違う。

 ・・・いや、感覚的には案外近いのかもしれない。あたしは自分の人生から道を踏み外し、迷い、戻れなくなってしまっているのだ。それを助けてくれる者が居ないだけの違い。地図を見れば必ず戻れる迷いとの違い。たったそれだけの、大きな決定的な違い。

 ・・・やだ・・・。

 それを思うと、あたしは更に不安になった。その、あたしの中に息づき始めた不安は、あたしの心を蝕んでどんどん大きくなっていく。
 そして、彼の強い視線に負けそうになった。もう睨み合っているのも限界だ。あたしは目を逸らし掛ける。

 しかし彼の方が一瞬早かった。逸らし掛けた視界の隅で、彼は深く最敬礼をする。

「?」

 目を丸くしたあたしに、彼の声が聞こえてきた。

「失礼します」

 若々しい声。張りのある声。彼の容貌にピッタリだった。

「・・・?」

 けれど、あたしは何も言えなかった。返す言葉なんて見当たらない。あたしの返事と言えば、ただ目を丸くして驚いたと彼に伝えたことだけだ。彼のその行動は、あたしにとって余りに予想外だった。言葉も、行動も、まるで目上の人に対するもののようだ。どうしてあたしに向かってそんなことをするのか、理解出来ない。

 男はそれが分かっているのか、あたしの返事を待たずに部屋の中へ入ってきた。固そうな床を蹴る足音は、しかしさして聞こえない。

 ・・・何?

 あたしは、彼をずっと見ていた。彼の腰に付けた長剣が僅かに揺れるのも、音を立てずにゆっくりと歩いてくるのも、何故か彼の顔が緊張したように強張っているのも、ずっと見ていた。さっきまでの恐怖が驚きに誤魔化されてしまい、あたしは彼が近付くのをただ見ている。

 彼が、ベッドの脇まで来て止まる。自分がベッドに座っているからか、彼とは随分身長の差があるように感じた。それとも圧迫感のせいか。とにかくあたしは、ベッドの脇に立った彼を、真上を向くように見上げる。

 そんなあたしの事をまっすぐに見て、彼は言った。

「気分はいかがですか? 空姫様」

「・・・空姫様?」

 あたしは思わず、その言葉を繰り返す。「空」それがあたしの名前だろうか? 姫様? あたしは、どこかの国の姫なのか? それが、どうしてここにいるのか?
 必死に、そんな疑問を自分にぶつけてみる。

一体、どういうこと? どうなっているの

 彼から目を逸らし、あたしは一人、思い出そうと必死だった。でも。

 駄目だ・・・。

 そんなキーワードにも、あたしの記憶は全く反応しなかった。何も思い出せない。何も分からない。
 どうして、こんな事になっているのだろう? あたしの記憶はどこに行ってしまったのだろう? 何がきっかけで?
 そんなことを考えながら何度記憶を覗いても、見えるのは白紙のような「無」だけだった。信じられないけれど。

「あたしの名前は、空っていうの?」

 彼に視線を戻し、思いつくまま質問をした。それはあたしにとっては、ほんの、さして重要ではない質問の気がした。失ってしまった記憶の中では、僅かと言っても良いほどの意味のない質問。知りたいことは、他にいくらでもある。本当のところ、今は名前なんてどうでも良い。ただ、これが話のきっかけになれば有り難かった。

「・・・」

 でもその言葉に、男は過敏に反応した。唇を噛みしめ、眉間に皺を寄せる。

 ・・・え?

「あ、あの・・・?」

 あたしには、その表情が理解出来なかった。「どうしてそんな顔するの?」あたしはそう言いかける。

 しかしそれよりも早く彼は、目を丸くしたあたしから僅かに視線を逸らすと、口先だけで返事をした。さっきまでのハッキリとした口調からは、想像も出来ないほど小さな声で。

「そうです」

「・・・?」

 何か悪いことでも言ったのだろうか? 彼の機嫌を損ねたのだろうか? いや、そんなことより彼は、あたしがこんな状態であると分かって居るらしい。どうしてだろう? あたしは全く記憶がない。それを伝えた記憶すらない。でも知らなかったら、もっと別の言葉が有っても良いはずだ。

 なのに、どうして?

 あたしは孤独感の中で、僅かな時間にそんな事を考えていた。

 だったら質問しても良い? 貴方の名前は何て言うの? 貴方は誰なの? あたしはどうしてここにいるの? ここはどこ?

 質問はいくらでも後から後から溢れてくるのに。

「・・・」

 聞きたいことは沢山あるのに、あたしは彼に声を掛けられなかった。これ以上声を掛けて、不用意な言葉で彼の機嫌を損ねるのが怖い。言葉を反芻しただけで変化した彼の表情。これ以上話を広げたら、機嫌を損ねられてしまう気がした。彼は、今のあたしにとって唯一の話し相手だ。失いたくはない。

 でも、その行動に意味なんて無いじゃない・・・。

 八方塞がりのこの状況に、あたしは困り果ててしまった。だって問いかけられぬのなら、結局彼の存在は無いのと一緒だ。そう気付いて小さなため息を付き、あたしはまた一人で戦い始める。自分と。

 あたしはこの先どうなるんだろう? ここから出られるのだろうか? ここから出たらどうなるのだろう?

 疑問は相変わらず幾つも出てくる。止まらなくなった。湧き出る泉のように、自分の中に溢れ出てくる。手で押さえようとしても止まらない。次から次へと手をすり抜けて溢れ出てくる。それは零れていってしまった記憶を、自分で塞き止められなかった無力感にも感じた。

 嫌だ・・・。何で・・・? あたし、どうしてこんな事になっているの?

「空姫様」

 彼の声が聞こえた。

「・・・?」

 俯いて一人、不安と戦っていたあたしは目を丸くして彼を見上げる。彼の瞳は、もう無表情だった。さっきの垣間見た動揺の様な物は、すっかり消滅してしまっている。今はもう、冷たく静かな目。あたしの方を向いているのに、あたしのことは見ていない、心が読みとれない視線。
 包み込んでいた不安の名残が、あたしの中に残っている。だから答えられずにいたあたしに、彼は言った。

「すぐに、ここを出ます。外は寒いですから、そこの椅子に掛かっている上着を着て下さい」

「・・・え?」

 あたしは彼が指を指した椅子と、彼を見比べて呟いた。彼の言葉についていけずにそう聞き返したあたしを、彼は苛立たしそうに睨む。

「時間がないんです。何も言わずについてきて下さい」

「は、はい・・・」

 あたしは動揺しながらも、返事をして慌ててベッドを降りた。
 その瞬間、裸足に冷たく固い感触が伝わってくる。
 しかし、そんなことに今は構っている余裕は無い。あたしは、わざと視線を合わせないように俯いて言った。

「・・・すいません・・・」

 そして上目使いで彼を見上げた。見上げたあたしは、圧迫感を感じて思わず肩を竦める。

 怖い・・・。

 そのあたしを見て、彼が最後の感情を見せる。

「・・・?」

 怯えたあたしを見て、彼は悲しそうに目を細めた。その表情に、あたしは思わず立ち尽くす。

 どうか、した?

 けれど何も言えないまま、あたしはそれを通り過ぎてしまう。そんな彼の表情を、いずれ見れなくなることを知らずに。
 そう、後になって分かること。彼の感情は、この後しばらく表れることは、無い。

「では」

 それは本当に一瞬の出来事だった。あたしの目の前で、彼はすっと背を向けると言った。もうその声に感情は無い。

「外にいます」

「・・・」

 そしてドアの閉まる音。あたしはまた、独りぼっちになった。



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