その約三十分後、厨房のドアが二回ノックされた。
時計は九時半を指している。春の夜は、もう漆黒の闇に包まれていた。
「はいはいはい・・・」
コックが、そう言ってドアに向かう。空は動かなかったが、オーブンから目を逸らして、その背中を見ていた。
「ん? あれ? 陸? 何だお前? どうしたんだ?」
コックは開けるや否や、驚いたような声を出した。ピクリと動いた背中からでさえ、その驚きが伝わってくるようだ。予想外の出来事に相当驚いているらしい。
「いや、ちょっと届け物・・・」
コックの向こう側から、小さな声が聞こえてきた。空の耳がピクリと反応する。待っていた声だ。
「届け物?」
二人は、ドア付近から少しも動こうとはしない。互いに、それを了承しているようだ。男は本題に入った。
「これ、空姫様に渡しておい・・・」
「え?」
「て」と言いかけただろう、男の声が止まった。コックも、そんな声を出して自分の左脇腹の辺りを見る。
コックのちょっと出たお腹の横から、空がニョッキリと顔を出したのだ。その顔には僅かに白い粉が付いている。空は、男を見上げてニッコリと笑った。
「どうもありがとうー」
そして空はそこに粉が付いていたのを知っていたのか、それを拭うように指で擦る。そして不思議そうな顔をしたコックに。
「花蜜を買ってきて貰ったの」
と、脱走の事実を強引に隠蔽して説明した。当然、どうしてそうなったかとコックが言及するかと思いきや、彼は意外なことを言う。
「じゃあ、あれはこいつの為に?」
そう言って、コックは男を指さした。今日二回目の指を指された男は、迷惑そうに顔を顰める。その顔をいち早く察した空は、コックの手を下げながら頷いた。
「そう」
空はそう言ってコックの腹の横から抜け出すと、明るい厨房に踊るようなステップを踏んで戻って行った。コックはその後ろ姿を見送りながら、呟くように言う。
「はー、何がどうなっているんだかねぇ・・・」
しかし、その言葉だけでコックは何かを察したらしい。彼は体を開いて、男を中に招くような仕草をした。男は不思議そうにコックを見る。
「何だよ? いいよ。もう帰るから」
「いいから入れって」
「・・・?」
男は不思議そうにコックの顔を見ると、中に入って空の背中を目で追った。空は作業台の上で何かをしている。
その後ろ姿は、花を切っていた時と瓜二つだった。後ろ姿から必死さが伝わってくる。そして上下する肩も忙しなかった。
「何、なさっているんです?」
男が、空の頭越しに作業台を覗き込んだ。甘い香りがする。
「お菓子作り」
空が笑顔で振り返った。そして、両手で頂戴のポーズを取ると言う。
「本当に有り難う」
「ああ・・・はい」
男は曖昧な返事をすると、紙袋を空の手の上に置いた。
空はそれを作業台の上に置くと、封を閉じてあるテープをそっと剥がす。そして中を覗き込んでから、小瓶を取り出した。
たったそれだけの動作なのに、空の背中は忙しなく動き続けている。男はそんな空の肩を、呆れたような顔をして見ていた。子供みたいだと思いながら。
「ねえ、これを塗ればいいの?」
空は花蜜の瓶を持って振り返ると、男の後ろにいるコックに声をかけた。コックは男の更に後ろからその様子を見ていたが、自分の出番と察したのか空の横に来る。
「いいえ、甘さを調節しながら一滴一滴垂らせばいいんですよ。熱に反応して勝手に広がりますから」
「・・・そうなの?」
空は不思議そうに瓶を見た。空の前にある、こんがりときつね色に色付いたタルトは、まだ熱を持って香りを発している。
空は蓋を開くと一滴、言われた通りタルトの上に蜜を垂らした。
「・・・?」
空が覗き込むその後ろで、男も不思議そうにそれを見ていた。コックは、そんな二人を可笑しそうに見ている。ビックリするだろうな、と思いながら。
そして蜜がタルトに触れた、その瞬間。
「わー・・・」
「へぇー・・・」
二人は思わず、ため息混じりにそんな声を出した。
たった一滴の蜜は、タルトに触れたその瞬間、膜を張るように広がり、定着すると輝き始めたのである。照り返すその小さな光が、空の初めて作った拙いタルトを高級感あるものに変えた。僅かにピンク色に色づいた表面は、とても美しい。
「すごい、これ・・・」
空は、コックの方に瓶を見せるようにして呟いた。コックは小さく頷くと、その瓶を指さして言う。
「後は、甘さをどの位にするかで、量を調節すればいいんです。ただ、早くしないとタルトが冷めてしまうので、そうなると蜜は広がらなくなりますから気を付けて下さい」
「どの位、使えばいいの?」
「標準では五滴くらいですね。その位が色の具合も綺麗に仕上がりますよ」
「分かった」
そして空は慎重に、その上に蜜を垂らした。ほんのりとピンクがかった表面は艶が出て、さっきよりも滑らかに輝いている。
「冷やしても固まりませんから、口当たりも滑らかなんです。花の香りもしますからね」
「うん」
空は満足そうに頷くと、それを奥に押しやった。しばらく作業台の上で粗熱を取るのだろう。
「さてと」
空はそう言って、脇に置いてあった、もう一種類のタルトを取り出した。これは今までのタルトとは違い、かなり小振りだ。それが三つ。
「これは一滴くらいでいいのかな?」
空はコックに確認をする。コックは何故かいきなり無表情になると、空と男の方を見て小さく頷いた。
「特別甘党でもないですし、良いんじゃないですか?」
「うん」
空は頷いて、それらのタルトに一滴ずつ花蜜を垂らす。さっきよりも小さな波紋が広がり、それだけで色付いた。これ位が妥当だろうと空は瓶の蓋を閉め、手早く用意してあった白い箱に詰め始める。そして、蓋を閉めずに紙袋の中に入れた。
「?」
男は、その様子を不思議そうに見ている。コックはその男を、口をへの字に曲げて見ていた。
「出来、た」
空は満足そうに目の高さまでそれを持ち上げて言うと、男の方に振り返った。そして男を見上げて言う。
「お名前、陸で良いの?」
さっきコックが呼んだのを聞いていたのだろう。空は男の顔を覗き込む。
「は? あ・・・はい」
陸は顎を引いて頷いた。その陸の目の前に、空が紙袋を差し出す。そして。
「じゃあ陸。あのね、これね・・・」
空は頬を赤く染めて、しどろもどろに言った。
「?」
陸は不思議そうに、その紙袋を見る。
「その、正直に言うと余った生地で作ったものなんだけど・・・お礼にと思って・・・」
そう言って、陸の方に僅かに差し出す。
「え?」
陸はそれを聞いて、目を丸くした。そして慌てて手を振る。
「け、結構です! そんなお気遣い無く・・・」
「甘いの嫌い?」
空が、心配そうに袋の横から顔を出す。陸は慌てて首を横に振った。
「いや、そういうことじゃなくて・・・」
「頂いておけって」
その陸の横から、コックが声を掛けた。面白くなさそうだが、彼は空の味方だ。助けを求めるように自分見た二人に、コックは言った。
「姫様、大丈夫ですよ。こいつ何でも食いますから」
「ちょ・・・っ」
言いかけた陸に。
「いいから」
コックは陸の肩に手を置くと、ズイッと寄ってガン飛ばし、低く小さな声で言った。
「姫様、一生懸命作ってたぞ。俺も手伝ったんだぞ。お前、それでも貰えないって言うのか?」
「・・・う・・・」
もはや、兵士とコックの関係を凌駕している。それ程までに、コックのガン飛ばしは怖かった。
しかし、空からは死角になっている。声も聞き取れないのだろう。空は不思議そうにコックの背中を見ていた。
「お前のだって知ってたら砂糖の変わりに塩を混ぜてやったのに・・・まったく」
しかし、面白くなさそうな声はそこで止まった。ため息を付いて、陸と距離を取ると笑って言う。
「それにしても、このタルトは上出来だ。きっとうまいぞ」
「・・・」
陸は、困惑したように空を見る。空は心配そうに袋を見て、そして陸を見上げた。
視線が合うと、陸は視線を僅かにずらす。そして今までに無かった、小さな声で言った。
「・・・じゃあ・・・その・・・」
陸は照れたように言う。空は黙って、その言葉の先を待った。
「ありがたく、頂きます・・・」
その言葉に空がパッと笑顔になる。そして陸に袋を手渡した。
「まだ熱が取れてないから箱閉じてないの。気を付けて持って帰ってね」
「・・・はい」
大切そうに受け取った陸の笑顔に、空はやっと肩の力を抜いた。その空を見て、コックも嬉しそうに頷く。
厨房に溢れた甘い香りが、彩るように香っていた。
そう、だ・・・。
「陸」
あたしは呟いた。何度も。
「陸・・・」
何度も呼んだ貴方の名前。
思い出した。貴方の名前。貴方との思い出。やっと。
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時計は九時半を指している。春の夜は、もう漆黒の闇に包まれていた。
「はいはいはい・・・」
コックが、そう言ってドアに向かう。空は動かなかったが、オーブンから目を逸らして、その背中を見ていた。
「ん? あれ? 陸? 何だお前? どうしたんだ?」
コックは開けるや否や、驚いたような声を出した。ピクリと動いた背中からでさえ、その驚きが伝わってくるようだ。予想外の出来事に相当驚いているらしい。
「いや、ちょっと届け物・・・」
コックの向こう側から、小さな声が聞こえてきた。空の耳がピクリと反応する。待っていた声だ。
「届け物?」
二人は、ドア付近から少しも動こうとはしない。互いに、それを了承しているようだ。男は本題に入った。
「これ、空姫様に渡しておい・・・」
「え?」
「て」と言いかけただろう、男の声が止まった。コックも、そんな声を出して自分の左脇腹の辺りを見る。
コックのちょっと出たお腹の横から、空がニョッキリと顔を出したのだ。その顔には僅かに白い粉が付いている。空は、男を見上げてニッコリと笑った。
「どうもありがとうー」
そして空はそこに粉が付いていたのを知っていたのか、それを拭うように指で擦る。そして不思議そうな顔をしたコックに。
「花蜜を買ってきて貰ったの」
と、脱走の事実を強引に隠蔽して説明した。当然、どうしてそうなったかとコックが言及するかと思いきや、彼は意外なことを言う。
「じゃあ、あれはこいつの為に?」
そう言って、コックは男を指さした。今日二回目の指を指された男は、迷惑そうに顔を顰める。その顔をいち早く察した空は、コックの手を下げながら頷いた。
「そう」
空はそう言ってコックの腹の横から抜け出すと、明るい厨房に踊るようなステップを踏んで戻って行った。コックはその後ろ姿を見送りながら、呟くように言う。
「はー、何がどうなっているんだかねぇ・・・」
しかし、その言葉だけでコックは何かを察したらしい。彼は体を開いて、男を中に招くような仕草をした。男は不思議そうにコックを見る。
「何だよ? いいよ。もう帰るから」
「いいから入れって」
「・・・?」
男は不思議そうにコックの顔を見ると、中に入って空の背中を目で追った。空は作業台の上で何かをしている。
その後ろ姿は、花を切っていた時と瓜二つだった。後ろ姿から必死さが伝わってくる。そして上下する肩も忙しなかった。
「何、なさっているんです?」
男が、空の頭越しに作業台を覗き込んだ。甘い香りがする。
「お菓子作り」
空が笑顔で振り返った。そして、両手で頂戴のポーズを取ると言う。
「本当に有り難う」
「ああ・・・はい」
男は曖昧な返事をすると、紙袋を空の手の上に置いた。
空はそれを作業台の上に置くと、封を閉じてあるテープをそっと剥がす。そして中を覗き込んでから、小瓶を取り出した。
たったそれだけの動作なのに、空の背中は忙しなく動き続けている。男はそんな空の肩を、呆れたような顔をして見ていた。子供みたいだと思いながら。
「ねえ、これを塗ればいいの?」
空は花蜜の瓶を持って振り返ると、男の後ろにいるコックに声をかけた。コックは男の更に後ろからその様子を見ていたが、自分の出番と察したのか空の横に来る。
「いいえ、甘さを調節しながら一滴一滴垂らせばいいんですよ。熱に反応して勝手に広がりますから」
「・・・そうなの?」
空は不思議そうに瓶を見た。空の前にある、こんがりときつね色に色付いたタルトは、まだ熱を持って香りを発している。
空は蓋を開くと一滴、言われた通りタルトの上に蜜を垂らした。
「・・・?」
空が覗き込むその後ろで、男も不思議そうにそれを見ていた。コックは、そんな二人を可笑しそうに見ている。ビックリするだろうな、と思いながら。
そして蜜がタルトに触れた、その瞬間。
「わー・・・」
「へぇー・・・」
二人は思わず、ため息混じりにそんな声を出した。
たった一滴の蜜は、タルトに触れたその瞬間、膜を張るように広がり、定着すると輝き始めたのである。照り返すその小さな光が、空の初めて作った拙いタルトを高級感あるものに変えた。僅かにピンク色に色づいた表面は、とても美しい。
「すごい、これ・・・」
空は、コックの方に瓶を見せるようにして呟いた。コックは小さく頷くと、その瓶を指さして言う。
「後は、甘さをどの位にするかで、量を調節すればいいんです。ただ、早くしないとタルトが冷めてしまうので、そうなると蜜は広がらなくなりますから気を付けて下さい」
「どの位、使えばいいの?」
「標準では五滴くらいですね。その位が色の具合も綺麗に仕上がりますよ」
「分かった」
そして空は慎重に、その上に蜜を垂らした。ほんのりとピンクがかった表面は艶が出て、さっきよりも滑らかに輝いている。
「冷やしても固まりませんから、口当たりも滑らかなんです。花の香りもしますからね」
「うん」
空は満足そうに頷くと、それを奥に押しやった。しばらく作業台の上で粗熱を取るのだろう。
「さてと」
空はそう言って、脇に置いてあった、もう一種類のタルトを取り出した。これは今までのタルトとは違い、かなり小振りだ。それが三つ。
「これは一滴くらいでいいのかな?」
空はコックに確認をする。コックは何故かいきなり無表情になると、空と男の方を見て小さく頷いた。
「特別甘党でもないですし、良いんじゃないですか?」
「うん」
空は頷いて、それらのタルトに一滴ずつ花蜜を垂らす。さっきよりも小さな波紋が広がり、それだけで色付いた。これ位が妥当だろうと空は瓶の蓋を閉め、手早く用意してあった白い箱に詰め始める。そして、蓋を閉めずに紙袋の中に入れた。
「?」
男は、その様子を不思議そうに見ている。コックはその男を、口をへの字に曲げて見ていた。
「出来、た」
空は満足そうに目の高さまでそれを持ち上げて言うと、男の方に振り返った。そして男を見上げて言う。
「お名前、陸で良いの?」
さっきコックが呼んだのを聞いていたのだろう。空は男の顔を覗き込む。
「は? あ・・・はい」
陸は顎を引いて頷いた。その陸の目の前に、空が紙袋を差し出す。そして。
「じゃあ陸。あのね、これね・・・」
空は頬を赤く染めて、しどろもどろに言った。
「?」
陸は不思議そうに、その紙袋を見る。
「その、正直に言うと余った生地で作ったものなんだけど・・・お礼にと思って・・・」
そう言って、陸の方に僅かに差し出す。
「え?」
陸はそれを聞いて、目を丸くした。そして慌てて手を振る。
「け、結構です! そんなお気遣い無く・・・」
「甘いの嫌い?」
空が、心配そうに袋の横から顔を出す。陸は慌てて首を横に振った。
「いや、そういうことじゃなくて・・・」
「頂いておけって」
その陸の横から、コックが声を掛けた。面白くなさそうだが、彼は空の味方だ。助けを求めるように自分見た二人に、コックは言った。
「姫様、大丈夫ですよ。こいつ何でも食いますから」
「ちょ・・・っ」
言いかけた陸に。
「いいから」
コックは陸の肩に手を置くと、ズイッと寄ってガン飛ばし、低く小さな声で言った。
「姫様、一生懸命作ってたぞ。俺も手伝ったんだぞ。お前、それでも貰えないって言うのか?」
「・・・う・・・」
もはや、兵士とコックの関係を凌駕している。それ程までに、コックのガン飛ばしは怖かった。
しかし、空からは死角になっている。声も聞き取れないのだろう。空は不思議そうにコックの背中を見ていた。
「お前のだって知ってたら砂糖の変わりに塩を混ぜてやったのに・・・まったく」
しかし、面白くなさそうな声はそこで止まった。ため息を付いて、陸と距離を取ると笑って言う。
「それにしても、このタルトは上出来だ。きっとうまいぞ」
「・・・」
陸は、困惑したように空を見る。空は心配そうに袋を見て、そして陸を見上げた。
視線が合うと、陸は視線を僅かにずらす。そして今までに無かった、小さな声で言った。
「・・・じゃあ・・・その・・・」
陸は照れたように言う。空は黙って、その言葉の先を待った。
「ありがたく、頂きます・・・」
その言葉に空がパッと笑顔になる。そして陸に袋を手渡した。
「まだ熱が取れてないから箱閉じてないの。気を付けて持って帰ってね」
「・・・はい」
大切そうに受け取った陸の笑顔に、空はやっと肩の力を抜いた。その空を見て、コックも嬉しそうに頷く。
厨房に溢れた甘い香りが、彩るように香っていた。
そう、だ・・・。
「陸」
あたしは呟いた。何度も。
「陸・・・」
何度も呼んだ貴方の名前。
思い出した。貴方の名前。貴方との思い出。やっと。
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