君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第七章 彼の名は 3

2015年09月19日 | 第七章 彼の名は
 その約三十分後、厨房のドアが二回ノックされた。
 時計は九時半を指している。春の夜は、もう漆黒の闇に包まれていた。

「はいはいはい・・・」

 コックが、そう言ってドアに向かう。空は動かなかったが、オーブンから目を逸らして、その背中を見ていた。

「ん? あれ? 陸? 何だお前? どうしたんだ?」

 コックは開けるや否や、驚いたような声を出した。ピクリと動いた背中からでさえ、その驚きが伝わってくるようだ。予想外の出来事に相当驚いているらしい。

「いや、ちょっと届け物・・・」

 コックの向こう側から、小さな声が聞こえてきた。空の耳がピクリと反応する。待っていた声だ。

「届け物?」

 二人は、ドア付近から少しも動こうとはしない。互いに、それを了承しているようだ。男は本題に入った。

「これ、空姫様に渡しておい・・・」

「え?」

「て」と言いかけただろう、男の声が止まった。コックも、そんな声を出して自分の左脇腹の辺りを見る。
 コックのちょっと出たお腹の横から、空がニョッキリと顔を出したのだ。その顔には僅かに白い粉が付いている。空は、男を見上げてニッコリと笑った。

「どうもありがとうー」

 そして空はそこに粉が付いていたのを知っていたのか、それを拭うように指で擦る。そして不思議そうな顔をしたコックに。

「花蜜を買ってきて貰ったの」

 と、脱走の事実を強引に隠蔽して説明した。当然、どうしてそうなったかとコックが言及するかと思いきや、彼は意外なことを言う。

「じゃあ、あれはこいつの為に?」

 そう言って、コックは男を指さした。今日二回目の指を指された男は、迷惑そうに顔を顰める。その顔をいち早く察した空は、コックの手を下げながら頷いた。

「そう」

 空はそう言ってコックの腹の横から抜け出すと、明るい厨房に踊るようなステップを踏んで戻って行った。コックはその後ろ姿を見送りながら、呟くように言う。

「はー、何がどうなっているんだかねぇ・・・」

 しかし、その言葉だけでコックは何かを察したらしい。彼は体を開いて、男を中に招くような仕草をした。男は不思議そうにコックを見る。

「何だよ? いいよ。もう帰るから」

「いいから入れって」

「・・・?」

 男は不思議そうにコックの顔を見ると、中に入って空の背中を目で追った。空は作業台の上で何かをしている。
 その後ろ姿は、花を切っていた時と瓜二つだった。後ろ姿から必死さが伝わってくる。そして上下する肩も忙しなかった。

「何、なさっているんです?」

 男が、空の頭越しに作業台を覗き込んだ。甘い香りがする。

「お菓子作り」

 空が笑顔で振り返った。そして、両手で頂戴のポーズを取ると言う。

「本当に有り難う」

「ああ・・・はい」

 男は曖昧な返事をすると、紙袋を空の手の上に置いた。

 空はそれを作業台の上に置くと、封を閉じてあるテープをそっと剥がす。そして中を覗き込んでから、小瓶を取り出した。
 たったそれだけの動作なのに、空の背中は忙しなく動き続けている。男はそんな空の肩を、呆れたような顔をして見ていた。子供みたいだと思いながら。

「ねえ、これを塗ればいいの?」

 空は花蜜の瓶を持って振り返ると、男の後ろにいるコックに声をかけた。コックは男の更に後ろからその様子を見ていたが、自分の出番と察したのか空の横に来る。

「いいえ、甘さを調節しながら一滴一滴垂らせばいいんですよ。熱に反応して勝手に広がりますから」

「・・・そうなの?」

 空は不思議そうに瓶を見た。空の前にある、こんがりときつね色に色付いたタルトは、まだ熱を持って香りを発している。

 空は蓋を開くと一滴、言われた通りタルトの上に蜜を垂らした。

「・・・?」

 空が覗き込むその後ろで、男も不思議そうにそれを見ていた。コックは、そんな二人を可笑しそうに見ている。ビックリするだろうな、と思いながら。

 そして蜜がタルトに触れた、その瞬間。

「わー・・・」

「へぇー・・・」

 二人は思わず、ため息混じりにそんな声を出した。

 たった一滴の蜜は、タルトに触れたその瞬間、膜を張るように広がり、定着すると輝き始めたのである。照り返すその小さな光が、空の初めて作った拙いタルトを高級感あるものに変えた。僅かにピンク色に色づいた表面は、とても美しい。

「すごい、これ・・・」

 空は、コックの方に瓶を見せるようにして呟いた。コックは小さく頷くと、その瓶を指さして言う。

「後は、甘さをどの位にするかで、量を調節すればいいんです。ただ、早くしないとタルトが冷めてしまうので、そうなると蜜は広がらなくなりますから気を付けて下さい」

「どの位、使えばいいの?」

「標準では五滴くらいですね。その位が色の具合も綺麗に仕上がりますよ」

「分かった」

 そして空は慎重に、その上に蜜を垂らした。ほんのりとピンクがかった表面は艶が出て、さっきよりも滑らかに輝いている。

「冷やしても固まりませんから、口当たりも滑らかなんです。花の香りもしますからね」

「うん」

 空は満足そうに頷くと、それを奥に押しやった。しばらく作業台の上で粗熱を取るのだろう。

「さてと」

 空はそう言って、脇に置いてあった、もう一種類のタルトを取り出した。これは今までのタルトとは違い、かなり小振りだ。それが三つ。

「これは一滴くらいでいいのかな?」

 空はコックに確認をする。コックは何故かいきなり無表情になると、空と男の方を見て小さく頷いた。

「特別甘党でもないですし、良いんじゃないですか?」

「うん」

 空は頷いて、それらのタルトに一滴ずつ花蜜を垂らす。さっきよりも小さな波紋が広がり、それだけで色付いた。これ位が妥当だろうと空は瓶の蓋を閉め、手早く用意してあった白い箱に詰め始める。そして、蓋を閉めずに紙袋の中に入れた。

「?」

 男は、その様子を不思議そうに見ている。コックはその男を、口をへの字に曲げて見ていた。

「出来、た」

 空は満足そうに目の高さまでそれを持ち上げて言うと、男の方に振り返った。そして男を見上げて言う。

「お名前、陸で良いの?」

 さっきコックが呼んだのを聞いていたのだろう。空は男の顔を覗き込む。

「は? あ・・・はい」

 陸は顎を引いて頷いた。その陸の目の前に、空が紙袋を差し出す。そして。

「じゃあ陸。あのね、これね・・・」

 空は頬を赤く染めて、しどろもどろに言った。

「?」

 陸は不思議そうに、その紙袋を見る。

「その、正直に言うと余った生地で作ったものなんだけど・・・お礼にと思って・・・」

 そう言って、陸の方に僅かに差し出す。

「え?」

 陸はそれを聞いて、目を丸くした。そして慌てて手を振る。

「け、結構です! そんなお気遣い無く・・・」

「甘いの嫌い?」

 空が、心配そうに袋の横から顔を出す。陸は慌てて首を横に振った。

「いや、そういうことじゃなくて・・・」

「頂いておけって」

 その陸の横から、コックが声を掛けた。面白くなさそうだが、彼は空の味方だ。助けを求めるように自分見た二人に、コックは言った。

「姫様、大丈夫ですよ。こいつ何でも食いますから」

「ちょ・・・っ」

 言いかけた陸に。

「いいから」

 コックは陸の肩に手を置くと、ズイッと寄ってガン飛ばし、低く小さな声で言った。

「姫様、一生懸命作ってたぞ。俺も手伝ったんだぞ。お前、それでも貰えないって言うのか?」

「・・・う・・・」

 もはや、兵士とコックの関係を凌駕している。それ程までに、コックのガン飛ばしは怖かった。
 しかし、空からは死角になっている。声も聞き取れないのだろう。空は不思議そうにコックの背中を見ていた。

「お前のだって知ってたら砂糖の変わりに塩を混ぜてやったのに・・・まったく」

 しかし、面白くなさそうな声はそこで止まった。ため息を付いて、陸と距離を取ると笑って言う。

「それにしても、このタルトは上出来だ。きっとうまいぞ」

「・・・」

 陸は、困惑したように空を見る。空は心配そうに袋を見て、そして陸を見上げた。
 視線が合うと、陸は視線を僅かにずらす。そして今までに無かった、小さな声で言った。

「・・・じゃあ・・・その・・・」

 陸は照れたように言う。空は黙って、その言葉の先を待った。

「ありがたく、頂きます・・・」

 その言葉に空がパッと笑顔になる。そして陸に袋を手渡した。

「まだ熱が取れてないから箱閉じてないの。気を付けて持って帰ってね」

「・・・はい」

 大切そうに受け取った陸の笑顔に、空はやっと肩の力を抜いた。その空を見て、コックも嬉しそうに頷く。

 厨房に溢れた甘い香りが、彩るように香っていた。





 そう、だ・・・。

「陸」

 あたしは呟いた。何度も。

「陸・・・」

 何度も呼んだ貴方の名前。
 思い出した。貴方の名前。貴方との思い出。やっと。



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