風が吹いた。初夏の風はちょっと生ぬるくて、でも心地の良い。
それが、二人の髪を揺らして去っていく。空は風が止むと、緊張しながら口を開いた。
「陸・・・」
「・・・?」
陸が振り返った。
「爺にね。教えて貰ったの。色々」
「・・・」
陸はコクンと小さく頷く。
空は、それを穏やかに受け止めて言う。
「あたし、ちゃんと理解した。陸の言いたかったこと、ちゃんと分かったよ・・・」
悲しかった。だって、どうしてもその壁は、乗り越えていけない物だと思って。
それを無理に越えようとすれば、多大な被害が出てしまう。爺は大事なことだと言ってくれたけど、大事だけど、越えられないことがある。これが、そういうことなのだ。空はそう察した。
これからは陸と、必要以上の付き合いをしてはいけない。
陸の為に、そして自分の為に。
でも寂しい・・・。
楽しかったこと、沢山あった。それを思い出して、空は泣きそうになる。
「陸殿は、立派です」
爺の、そんな言葉が聞こえてくる。空は涙を見られたくなくて、その言葉に同意するように頷いた。
「姫様の見る目は、確かでしたね」
爺が慰めるように、そう言った。
けれど、そんなことを誉められても辛くなるだけだ。彼との別れは避けられないのに。
空は、耐えきれなくなって肩を震わせた。未熟な自分に腹が立つ。陸にも、爺にも、気を使わせて・・・。
「・・・姫様」
爺が、そう言って膝を着いた。そして、空の手を優しく包む。
「だから彼に、教えてお上げなさい」
「・・・?」
空は涙を拭いながら、その手を見た。
「彼の、その心配を消してお上げなさい」
空は、涙ぐんだ目で爺を見た。爺は頷くと言う。
「彼はきっと、これからもずっと姫様を大切にしてくれるでしょう。そして、良き友人にもなってくれます。それは呼び方だけの友人ではなく、もっと深い意味で付き合える友人になれるということです」
「・・・」
空は、その言葉に目を丸くする。そして、また泣きそうになった。
友達になれるの? 陸と?
「今度こそ、大丈夫です」
爺は空の目を見て言う。爺が立ち上がり、それを追って空が顔を上げると、爺はからかうような、軽い口調で言った。
「姫様が甘い物をお好きだということも、本や花がお好きだということも、陸殿はちゃんと覚えていたのですよ」
空の頬がポッと赤くなる。爺はそれを見て、幼い子供を見るような目で笑った。
「だからね」
空は陸を見て言った。
「陸にね、友達になって欲しいの」
「・・・え?」
困惑気味に聞き返した陸を、空は可笑しそうに笑ってから言った。
「あたしね。これからはちゃんと陸に気を使えると思うし、自分の立場もわきまえて行動出来ると思う・・・だから」
不思議そうに自分を見つめる陸に、空は一生懸命気持ちを伝えた。
「だから・・・こんな事言うのは矛盾しているの分かるんだけど、お願い。こんなこと、陸だけにしか言わないから・・・」
そう伝えると、陸はやっと話を理解したらしい。僅か、困ったような照れたような、そんな複雑な表情に変わる。
「・・・駄目?」
その言葉に、陸は困ったように目を逸らす。でも、それは以前までの表情とは確かに違っていた。迷ったように俯くと、唇を噛んで何も答えない。
空は心細くて、陸の横顔から目を逸らした。
どうしたんだろう・・・。
いつも、叩けば響くような即答をしてくれた陸らしくない。迷っているのだろうか?
でも、こればかりはどうにもならない。後は、これ以上はお互いの気持ちの問題だ。身分の壁が取り払われても、友達になれるかどうかはお互いの気持ちによるから。
空は不安を堪えるように、小さくうずくまって俯いた。
駄目なのかな・・・。
空がそんな事を考えていた時、陸がやっと空の方を見た。空は、それに気付かない。そのまま、陸は返事を口にする。
「・・・はい」
「・・・」
その言葉の意味が分からなかったのか、空は陸から目を逸らしたまま、しばらくじっとしていた。
が、やがて理解すると驚いたように陸を見上げた。陸は照れたような顔のまま、でも笑って頷く。
「喜んで」
その言葉に、空の表情が驚きから微笑みに柔らかく変化した。そして安心したのか、泣きそうな顔になって膝を抱く。そして深呼吸をした。
「陸・・・返事するの、遅いよー・・・」
緊張し過ぎたのか、力の抜けた声で空は愚痴るようにそう言う。
でも嬉しかった。顔は必死に隠しながら笑顔だ。
「・・・すいません」
陸も、照れ隠しのように笑って言った。
「・・・それからね」
陸が笑ったことが嬉しくて、空も照れたように俯きながら言う。
「あの・・・飴と栞、ありがとう」
「え?」
その言葉に、陸は目を丸くした。
それを、空が知っているとは思わなかったのかも知れない。しかし空の笑顔で、それをやっと察すると。
「・・・うん」
そう言って笑顔で頷いた。
それから少しずつ敬語が抜けて。
陸も、姿を見かけると声をかけてくれるようになって。
「やっぱり、空って呼んでもいい?」
そう言われたのは、それからまだ一ヶ月足らずの、残暑厳しい頃のことだった。
あの時から、二人はやっとお互いのことを知り始めた。陸が本当はよく笑うことや、本当はちょっと口が悪いことや、好きな食べ物のこととか、その日にあった楽しい事とか。
他愛もない、どうでも良い事もよく話した。からかわれて、膨れて、結局笑い合って。そんなことも多くなった。
多分、そんな出会ってお互いを知る当たり前の事を、二人はようやく始める事が出来た。
「え? う、うん」
そしてその言葉に、嬉しさと戸惑いが溢れて、返事は僅かに乱れた。
ちゃんと、距離が縮まっている事を理解して、嬉しかった。
それなのに、改めて名前を呼ばれて、胸が高鳴った。
自分がこんな風に笑うことがあるとか、陸と一緒にいるとドキドキする不思議な気持ちとか。
「空」
そう言われて、それを思い出して、何だか眠れない夜があることとか。
空は、ベッドの上でため息を付いた。陸の声が聞こえる。陸の顔が浮かんでくる。何だか胸が苦しい。目が冴えて眠れなかった。
「・・・」
寝返りをうって目を閉じた。もう夜も更けている。普段だったらもう寝付いている時間だった。
どうしちゃったのかな・・・あたし・・・。
しかし眠れないことは、今の空にとって気にすることではないようだ。赤子のように蹲ったままの空の顔が、微笑むように変化した。
明日も、会えると良いな・・・。
その自分の声に照れたか、空は僅かに目を開くと照れたように顔を隠した。そしてもう一度小さなため息を付く。
会いたいな・・・。
声には出来なかったが、空の唇が小さく動いた。彼の名前を、呟く。
明日になるのが待ち遠しかった。そして空は眠りに落ちる。明日を迎える為に。
記憶はどんどん進んでいく。
どうしてだろう。この頃の記憶は、他の記憶よりも通り過ぎていく速度が、とても速かった。
それでも鮮明に戻ってくる、陸との記憶。胸の高鳴りと、それに痺れるような心が、あたしに戻ってきた。
あたしは、それを抱き締める。もう二度と手放したくなくて。
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それが、二人の髪を揺らして去っていく。空は風が止むと、緊張しながら口を開いた。
「陸・・・」
「・・・?」
陸が振り返った。
「爺にね。教えて貰ったの。色々」
「・・・」
陸はコクンと小さく頷く。
空は、それを穏やかに受け止めて言う。
「あたし、ちゃんと理解した。陸の言いたかったこと、ちゃんと分かったよ・・・」
悲しかった。だって、どうしてもその壁は、乗り越えていけない物だと思って。
それを無理に越えようとすれば、多大な被害が出てしまう。爺は大事なことだと言ってくれたけど、大事だけど、越えられないことがある。これが、そういうことなのだ。空はそう察した。
これからは陸と、必要以上の付き合いをしてはいけない。
陸の為に、そして自分の為に。
でも寂しい・・・。
楽しかったこと、沢山あった。それを思い出して、空は泣きそうになる。
「陸殿は、立派です」
爺の、そんな言葉が聞こえてくる。空は涙を見られたくなくて、その言葉に同意するように頷いた。
「姫様の見る目は、確かでしたね」
爺が慰めるように、そう言った。
けれど、そんなことを誉められても辛くなるだけだ。彼との別れは避けられないのに。
空は、耐えきれなくなって肩を震わせた。未熟な自分に腹が立つ。陸にも、爺にも、気を使わせて・・・。
「・・・姫様」
爺が、そう言って膝を着いた。そして、空の手を優しく包む。
「だから彼に、教えてお上げなさい」
「・・・?」
空は涙を拭いながら、その手を見た。
「彼の、その心配を消してお上げなさい」
空は、涙ぐんだ目で爺を見た。爺は頷くと言う。
「彼はきっと、これからもずっと姫様を大切にしてくれるでしょう。そして、良き友人にもなってくれます。それは呼び方だけの友人ではなく、もっと深い意味で付き合える友人になれるということです」
「・・・」
空は、その言葉に目を丸くする。そして、また泣きそうになった。
友達になれるの? 陸と?
「今度こそ、大丈夫です」
爺は空の目を見て言う。爺が立ち上がり、それを追って空が顔を上げると、爺はからかうような、軽い口調で言った。
「姫様が甘い物をお好きだということも、本や花がお好きだということも、陸殿はちゃんと覚えていたのですよ」
空の頬がポッと赤くなる。爺はそれを見て、幼い子供を見るような目で笑った。
「だからね」
空は陸を見て言った。
「陸にね、友達になって欲しいの」
「・・・え?」
困惑気味に聞き返した陸を、空は可笑しそうに笑ってから言った。
「あたしね。これからはちゃんと陸に気を使えると思うし、自分の立場もわきまえて行動出来ると思う・・・だから」
不思議そうに自分を見つめる陸に、空は一生懸命気持ちを伝えた。
「だから・・・こんな事言うのは矛盾しているの分かるんだけど、お願い。こんなこと、陸だけにしか言わないから・・・」
そう伝えると、陸はやっと話を理解したらしい。僅か、困ったような照れたような、そんな複雑な表情に変わる。
「・・・駄目?」
その言葉に、陸は困ったように目を逸らす。でも、それは以前までの表情とは確かに違っていた。迷ったように俯くと、唇を噛んで何も答えない。
空は心細くて、陸の横顔から目を逸らした。
どうしたんだろう・・・。
いつも、叩けば響くような即答をしてくれた陸らしくない。迷っているのだろうか?
でも、こればかりはどうにもならない。後は、これ以上はお互いの気持ちの問題だ。身分の壁が取り払われても、友達になれるかどうかはお互いの気持ちによるから。
空は不安を堪えるように、小さくうずくまって俯いた。
駄目なのかな・・・。
空がそんな事を考えていた時、陸がやっと空の方を見た。空は、それに気付かない。そのまま、陸は返事を口にする。
「・・・はい」
「・・・」
その言葉の意味が分からなかったのか、空は陸から目を逸らしたまま、しばらくじっとしていた。
が、やがて理解すると驚いたように陸を見上げた。陸は照れたような顔のまま、でも笑って頷く。
「喜んで」
その言葉に、空の表情が驚きから微笑みに柔らかく変化した。そして安心したのか、泣きそうな顔になって膝を抱く。そして深呼吸をした。
「陸・・・返事するの、遅いよー・・・」
緊張し過ぎたのか、力の抜けた声で空は愚痴るようにそう言う。
でも嬉しかった。顔は必死に隠しながら笑顔だ。
「・・・すいません」
陸も、照れ隠しのように笑って言った。
「・・・それからね」
陸が笑ったことが嬉しくて、空も照れたように俯きながら言う。
「あの・・・飴と栞、ありがとう」
「え?」
その言葉に、陸は目を丸くした。
それを、空が知っているとは思わなかったのかも知れない。しかし空の笑顔で、それをやっと察すると。
「・・・うん」
そう言って笑顔で頷いた。
それから少しずつ敬語が抜けて。
陸も、姿を見かけると声をかけてくれるようになって。
「やっぱり、空って呼んでもいい?」
そう言われたのは、それからまだ一ヶ月足らずの、残暑厳しい頃のことだった。
あの時から、二人はやっとお互いのことを知り始めた。陸が本当はよく笑うことや、本当はちょっと口が悪いことや、好きな食べ物のこととか、その日にあった楽しい事とか。
他愛もない、どうでも良い事もよく話した。からかわれて、膨れて、結局笑い合って。そんなことも多くなった。
多分、そんな出会ってお互いを知る当たり前の事を、二人はようやく始める事が出来た。
「え? う、うん」
そしてその言葉に、嬉しさと戸惑いが溢れて、返事は僅かに乱れた。
ちゃんと、距離が縮まっている事を理解して、嬉しかった。
それなのに、改めて名前を呼ばれて、胸が高鳴った。
自分がこんな風に笑うことがあるとか、陸と一緒にいるとドキドキする不思議な気持ちとか。
「空」
そう言われて、それを思い出して、何だか眠れない夜があることとか。
空は、ベッドの上でため息を付いた。陸の声が聞こえる。陸の顔が浮かんでくる。何だか胸が苦しい。目が冴えて眠れなかった。
「・・・」
寝返りをうって目を閉じた。もう夜も更けている。普段だったらもう寝付いている時間だった。
どうしちゃったのかな・・・あたし・・・。
しかし眠れないことは、今の空にとって気にすることではないようだ。赤子のように蹲ったままの空の顔が、微笑むように変化した。
明日も、会えると良いな・・・。
その自分の声に照れたか、空は僅かに目を開くと照れたように顔を隠した。そしてもう一度小さなため息を付く。
会いたいな・・・。
声には出来なかったが、空の唇が小さく動いた。彼の名前を、呟く。
明日になるのが待ち遠しかった。そして空は眠りに落ちる。明日を迎える為に。
記憶はどんどん進んでいく。
どうしてだろう。この頃の記憶は、他の記憶よりも通り過ぎていく速度が、とても速かった。
それでも鮮明に戻ってくる、陸との記憶。胸の高鳴りと、それに痺れるような心が、あたしに戻ってきた。
あたしは、それを抱き締める。もう二度と手放したくなくて。
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