小野寺恭仁・・・短編作品集

この数年に書き溜めたさまざまな日の目を見ない作品を集めてみました。

『ファイター』3

2009-04-29 00:22:51 | 小説
喫茶店ではモーニングを食べた。「受験勉強は順調なの?」「はいれる所にいくよ。城南大学か産業科学大学か、ロックがダメならコンピュータだな、やっぱり。ゲームソフトとかつくりたいよ」「私の学校は?」「ムリだよ」「ヤマギシや哲でもはいれたのに。」「うーん。意外とあいつら賢かったんだね。」笑いながら潤は言う。「まあ、別にどこの学校でもいいけど。就職できれば。」「ヤマギシと哲には会うの」「あんまり会わないね。パチンコでも打ってるんじゃないの。あいつらは何がしたいのかよくわからないから」倫子は、つまらなそうに言った。「あ、そうそう。」急に思い出したように潤は意気込んで言った。「俺さ、東京の音楽事務所から誘われているんだぜ。オーディションを見てなかなかいいって」倫子の顔色がにわかに変わってきた。
「何を言ってるのよ。バカじゃない」
「本当だって。携帯に連絡があって………ほら」
「そんなの詐欺に決まってんじゃん。最近、多いのよ。スクールに入りませんか?デヴュー出来ますよ。なんていって親からカネを巻き上げるような連中が。そんなの手当たり次第に電話しているだけじゃん。」
「そうかなあ」それから言い争いになって電話してみることにした。着信履歴に何度電話しても武田は出ない。…
店を出てアウトレットに向かう。倫子の運転する黄色い軽自動車は軽やかにサンライズホームラン会館の前の通りを横切っていく。
「ここで六万円取り損なった。あれってさ、あれ、いたずらだったんじゃないの。僕を嵌めるための。何か知らない?」
「知らないわよ。それより親にお金を返さないといけないね。いつか。いつでもいいから」
 高原の樹木にも秋の気配が漂っていた。羊雲を眺めているうちに潤は何をやってもうまくいかないような閉塞感がまた蘇ってきた。やはり、倫子には言わないほうがよかったのかもと思った。アウトレットはいくつかの洋館からが重なり合うように建てられていた。ほとんどが洋服ばかり売っている店だ。ジーンズショップに入った。びりびりに破れたジーンズを面白がって倫子は買った。そして潤にも買った。次には早くも冬物、ニットのセーターやカーディガンやブラウスの置いてある店内を見て回った。倫子は、上機嫌だった。
 あーあ学校なんてつまらないね。こうしているほうが好きと言った。これから、大学に進学しようとしている潤に向かって大学なんて面白くないのよとさんざん言った。もうやめたいとまで言い始めた。そのうちにベビー服の店に立ち止まった。ピンクのフリルのついた小さな小さな服。「かわいい」何度も連発している。家族連れでごった返している。
「つまらないよ。他の店に行こうよ」何度も潤が言う。実際、他の客は二、三歳のこどもを連れた三0代から二0代後半の客がほとんどだった。倫子は機嫌はいいものの身体が重く疲れているようだった。ベージュの子供服を自分のお腹の上にのせた。
「かわいいでしょ。あたしの子供に着せるのよ」
「似合うと思うよ。」潤は無表情に言った。
「やっぱり、あたし、産むことに決めた。」倫子は潤の顔を見つめている。
「はあ?」
「あなたのこども」
「ウソだろう!冗談じゃないよ。」潤はその場に立っていることもできないくらいの衝撃を受けていた。
「お前。それは、亮介の子供だよ、絶対。俺をはめたんだ」潤は真っ赤になっている。咄嗟に親に知られたらどうしようと思った。母親や兄も倫子のことはよく知っているのだ。母親は倫子を凄いお嬢さんだと褒めてはいたけれども。こんなことになるのは望んではいないだろう。
「違うわよ。絶対に。亮介の時は、用心して大丈夫な日にしかしなかったしピルも飲んでたから。あんたって何にも知らないのね。ちゃんと病院で診察してもらいました。今ならまだ降ろせるけどもうあたし決めたからね。」
潤は涙がとめどなく溢れてきた。
「親になんて言ったらいいんだよ。」
「そんなこと自分で考えなさいよ。あたしは覚悟をきめたわ」
「嫌だ。いやだ。絶対に嫌だ。」言うなり潤は立ち上がってダーッと叫んで逃げ出した。嫌なことがあったら逃げ出すしかない。それしかできないのだ。
「どこへ行くのよ。走ると子供に悪いから走れないよ。」潤は泣き叫んでいた。知らずに携帯に手を伸ばした。
「武田よ出ろよ。出てくれ」と心の中で武田を呼びながらリダイヤルした。あの日、パチンコ屋から逃げ出すときの何倍ものスピードで俺は逃げていると潤は感じた。その時、亮介の高らかな勝ち誇ったような笑い声が潤の耳には聞こえてきた。


                (了)

『ファイター』2

2009-04-26 00:23:53 | 小説
「それはそうと、どうやって確実に勝つのかそろそろ説明したらどうなんだ。えらく、もったいつけるよな」
 亮介は哲と顔をあわせてニヤニヤ笑った。そして潤とヒロに向かって言った。
「俺がスロットを打つから。お前らドル箱をもってこい。できるだけぎっしり詰まっているやつだ。」
「持ってくる?どこから?」潤は聞いた。黙り込んでいる。ヒロもヤマギシも。
「他の客の箱に決まっているだろう!」え、泥棒?………するの?潤は声にならない。
「そりゃ、見つかったらひどい目に遭うぞ。」
「そんな悪いことはやめたほうがいいよ」哲とヤマギシは反対した。だが、目が笑っている。
「話を聞いてしまった以上はもうお前らはみんな共犯なんだ」潤は上手く行きそうな気がしなかった。はなから亮介のやることはいつもどこか間が抜けていてとても成功するようには思えなかった。でも、面白そうだなとは感じた。いつも、パチンコ屋ですってばかりいるからたまにはいいんじゃないかとも思ったし、復讐の意味もあるなと思った。そういった気分は哲やヤマギシにもすぐに感染した。まる一日中引越しのアルバイトをして一万円の日当をもらってパチンコ店に走りこんで三十分で二万円やられたことなど、この五人は日常茶飯事であった。そうした過去のとても悔しい思いが狭い車内の中ですぐに充満した。
「哲とヤマギシは見てりゃいいよ。いるだけでいいよ」二人はそれを聞いて安心したようだった。
「ドル箱は一箱二万円。俺と潤とヒロで一箱づつ持ってくれば六万円になるよ」「むちゃくちゃだなあ」
「換金するのは難しいのじゃないか」「大丈夫だよ」亮介は自信満々だった。前にもやったことがあるんだなと潤は思った。まったく、とんでもないやつだ。亮介はタバコをすい始めた。「どうしてヤマギシはやらないの」潤が自分が実行犯になるのが嫌でそう言った。「ヤマギシはスキンヘッドだから目立つんだ。哲もひげが目立つ。お前だったら大人しそうな美少年という感じで店の中では目立たないし、そんなことをするようにも見えないからなかなかいいんじゃないのか」亮介が、もっともらしいことを言うので潤は納得してしまった。ええ、俺がいちばん危ないじゃんかよ。潤は不満と不安を同時に感じた。
 パチンコ店サンライズホームランは郊外の大型店舗だった。看板の一番、端に駐車した。すぐに逃走できるようにだ。何食わぬ顔で出てこられればそれに越したことはなかったが。運転手の哲が捕まると車を押さえられてしまうので哲は店内の入り口に待機していることにした。もちろん全員、携帯電話がすぐにつながるように確認した。サンライズホームラン会館は土曜日ということもあって人が多かった。
 亮介は余裕の表情であった。五分で決めてやるぜ、と彼は言った。
 車を駐車させると五人は斉に店に駆け込んだ。約束通りに哲を入り口に残して四人はスロットコーナーへ行き店内を物色した。いきなり、一箱のドル箱をよいショと亮介は下げあげた。ヤマギシ、潤、ヒロは唖然とした。ヤマギシは逃げるようにメダル交換の機械へ身を潜めた。
 床においてあるドル箱の持ち主はトイレにいったか携帯電話で話している最中に違いなかった。パチンコ店の客は意外とせっかく出したドル箱をそのまま置いている人間は多い。店員も暇ならば誰かに盗られないか注意しているだろうがこれだけ混み合っていると気にもとめないかもしれない。だいたい一箱ぐらいでは、そのまま打っていれば、また台に飲み込まれてしまう可能性が大きいのだ。ゆっくりと、何列も離れた別のスロットコーナーまで亮介は歩いていった。潤とヒロとヤマギシは後をあきれながらついていった。亮介の言ったようにスキンヘッドのヤマギシを客はちらりと見るがいかにも怖そうな気配を漂わせているために見てはいけないものを見たという様子ですぐに目をそらしてしまう。空いている台に亮介は座った。満足げではあったが、「どうしてやらなかった?」と言う。店内は大音響なので声が聞こえない。「え、もうやるの?」「おい、俺の取った客が気づいたら店員に言うぞ」それを訊くと潤は気持ちがなえてしまった。「早くやるんだ」ヒロは先ほどのコーナーに走っていった。潤もそれをみてしぶしぶヒロについて行った。三箱出しているのと一箱出しているのと貰うのならどちらが安全なのだろうか?潤は考えた。もちろん一箱の方が危険であるが、あったはずのドル箱がなくなればトイレから帰ってくる場所を間違えたと思う可能性はある。潤はとっさにそう思い、その場にあった一箱を手にした。隣に座っていた男が潤を見た。もし、トイレに行った人物の仲間ならすぐに犯行がばれてしまう。瞬間の勝負であり、運でもあった。男は、一瞬、潤を眺めただけでまた、スロットを回転させはじめた。潤は助かった!ついてると思った。ゆっくりと箱を持ち上げて亮介の待つコーナーに戻る。箱を持っての移動やもう換金する客は箱を持って歩いているのでその行為自体は不自然なものではないのだった。ちらりと目を元の通路に戻すのを見るとヒロが盗む瞬間を見てしまった。
 亮介のところに戻るとすぐにヒロも戻ってきた。「やったなあ。そら、みろ。楽勝じゃんかよ。五分もかかりゃしない」潤は心臓が破裂するかと思うくらいにどきどきとしていた。。「三箱かこれじゃ、六万だなあ。ベース買って終わりじゃん。もう一箱やらないか。潤行って来いよ」まさか、ムリだと潤は思った。「早く行けよ、お前が一番目立たないから。ほら」亮介は腕を強く掴んで犯行を促した。ドキドキは収まらなかった。むしろ、その快感はようやく今始まったばかりなのだという気がした。危険を忘れて快感を貪るのなら十箱でも二十箱でも盗むことは可能だった。潤は亮介よりも日常では味わうことのできない快感に促されて再びさきほどの通路に向かって走り始めた。
 なんだか、さきほどの目があった男、サラリーマン風の気の弱そうな男がまだ打っていた。同じ台にすわっているのは当然じゃないか。あれから二分くらいしか経過していない。でも、そいつが邪魔で邪魔でしょうがない。そいつは潤がドル箱を下げるのを見ていたからだ。
 それでも、潤が来るとすぐにやめてどこかへ行ってしまった。同じ通路ではよくないなと潤はそのときはじめて思った。一列隣の通路に場所を変えて、今度は何気なしに無造作に数箱も積まれているドル箱を掴んだ。そして持ち上げ通路を横切った。「また成功したな」と思ったまさにそのときにまたサラリーマン風のあの男と目が合った。彼は、台を探して通路をうろうろとしていたのだ。そいつの目は「お前は泥棒だ」と確信した目だった。「やばい」と潤は思う。もうその男を気に留めている場合ではなく、亮介のところへ一刻も早く逃げ帰りたかった。彼は歩調を速めた。よろよろと最後の通路を横切って亮介の顔が目に入る。喜んでいる。競馬の第四コーナーを曲がって直線に先頭で駆けて来たような気分だ。亮介が「ブラボー」と叫んだときにヤマギシが持ち場を離れて遠ざかるのが見えた。同時にヒロと亮介の表情が激しく歪んで何気なさを装いゆっくりと歩き始めるのが見える。後ろからつけられているのか?仲間が歓喜の中で迎えてくれると信じていた潤は自分が不吉な者たちを背後に背負っているからに違いないと悟った。
「ちょっと、お客さん」と店員が声をかけるかけないかの一瞬に潤は持っていたドル箱をその場にぶちまけた。潤はすばやくコーナーを走りぬけた。「こらあ」普段丁寧な口調の店員の声が禍々しく低音に変化するときにはそれはほとんど聞き取れないくらいの小さな声だった。そして潤は一目散に走った。携帯に着信が矢継ぎ早やにかかってくるが今はそれどころではなかった。ようやく店外に到達した。しかし、スピードは緩めずに駐車場を眺めた。ホンダシビックに仲間が乗り込むのを見た。彼らは乗り込むと同時に車を走らせ逃走した。
 走りながらそれに向かうと全員つかまってしまうのは潤にもわかったので逆の方向に向かった。そして、反対側から逃げ出そうと思ったが、よく見ると誰も店内から追いかけては来なかった。「助かったな」と潤は思った。それでも、念のために全速力で隣のスーパーマーケットに逃げ込んだ。何をどうしたのか覚えてはいなかった。身体は正直なものでドクドクと心臓が脈うっている。店員には顔を見られていないので店員もあきらめたのだろうと思った。サラリーマン風の男にしたって自分の金ではないからなんとも思っちゃいないだろう、ただ不正が許せなかったのだろう。また、携帯に着信がはいった。今度は出た。亮介からだった。「おい、大丈夫か?」「逃げ切った、先に運んだ三箱は換金したの?」「するわけないだろう。そのままおいてきたよ。」「あーあ。今スーパーの駐車場にいるから迎えに来てよ」全身の力が抜けるとはまさにこういうことだ。息せききって駆けて来た。まったくついてないよな、と潤は思った。

 結局、また、亮介は潤に責任を押し付けてきた。潤は失敗の代償に土曜日までに六万円を用立てすること約束させらせた。潤は、亮介の考えが上手くいかなかったことに内心、安堵していた。親の金を盗んで渡すことで五人の罪が消えるのならそれも仕方がないかと思ってしまった。スタジオに土曜日に集まり金を渡すと、しばらくして倫子がまた、昨日と同じ赤いドレスを着て現われた。
 「まあ、悪く、思うなよ。俺たちのバンドが成功すれば一番の功労者は潤なんだから。きっとうまくいくよ、なあ」亮介はえらく上機嫌だった。「ごめんな。一回は成功しても二回めは難しいよな」ヒロは人が変わったように潤に対して従順になった。倫子も事情を知ったらしく、潤には優しかった。すぐにヒロは新しいベースを買ってきて五人は練習に打ち込んだ。潤の行為は仲間を結束させたのかもしれない。ドラムを叩く、スキンヘッドからも汗がしたたり流れていた。そんなヤマギシを見るのは潤は初めてだった。潤は、しかし、あんな子供じみた窃盗をいい年をした大学生がするだろうか、という疑問だけが長く残った。あれは、一種のいたずらだったのではないかとも思った。大体、一日に数万もパチンコで負けている亮介や哲にしてみれば六万くらいはたいした金額ではないはずだ。やはり、高校生だからなめているのじゃないかと思うと憤りが込み上げてきた。「馬鹿にしやがって、今に見ていろ」とギターをかき鳴らし声を張り上げながら潤は思った。三時間も練習しただろうか。「今日は、終わりだ」と亮介はいつもと同じように誰にも相談せずに自分のテンションでやめてしまった。亮介がリードヴォーカルで潤もヴォーカルであった。亮介は歌に関しては、まあ、上手いほうだと潤は思ったが、なにぶん潤の声は身体が小さいこともあって声がよく出ないのだった。マイクや音でごまかしてもいかんともしがたい。本当は歌は亮介よりも上手いのだが、と潤は自分でもそう思っていた。亮介は、太い野生にみちた若きけだもののような声をしていた。女性にも人気があった。子供こどもしていてかわいいという理由で潤やヒロも人気はあったがそれはあくまでもアイドルとしての人気であった。亮介に身を任せたいと思う女は数知れなかったが、妙な評判になってもいけないので亮介は我慢して倫子以外の女とは一応、大っぴらにはつきあわなかったが、亮介のことだからみなの知らないところで何をしているのかはわからなかった。練習が終わると亮介はいつもの居酒屋へ行く。潤もたまにはつきあったし、ヒロはよくつきあっていた。
 その日、いつものように亮介にくっついて居酒屋へ向かおうとすると倫子が潤の腕を掴んだ。強い力で引っ張っている。「まだまだ声が出ないでしょ。あなたはこれから私と練習するのよ。」それは、倫子の言う通りなので潤は黙って従った。
 ぞろぞろと仲間たちが、外へ出て行くと後に残されたのは潤と倫子だけだった。「話があるの」と倫子は言った。いったん外へ出て行ったヒロがまた、戻ってきて、何か言いたそうな顔つきであったが倫子がさよならと手を振ると何も言わずに去っていった。
「一応、鍵をかけるわね」倫子は鍵をした。
「時間は?」
「管理人が来たら、たぶん来ないと思うよ。ソファにかけたら。」しんと静まり返った部屋は先ほどまでの喧騒を飲み込んでしまった。いつも、薄暗くしている。照明は練習が終われば消してしまう。倫子は潤の手を握ってソファに横になるように促した。汗ばんでまとわりつくようにねっとりとしたそれでいてきめのこまかい手の感触に思わず潤は手を離そうとしたら今度はしっかり握られた。潤は年上の女は苦手だった。どこか、自分を物質のように眺めているような視線を感じるのだ。その時、倫子は、濡れたストロベリーのような、膨れ上がった唇を耳に押し当てるようにして囁いた。「潤。お金ありがとう。もし、あなたが持って来てくれなかったらまた、あたしが、たてかえないといけないところだったの」潤は、今こそ、真実を言ってやるべきだと思ったが、ぴったりと寄り添う倫子の肉体が次第に柔らかな塊に変化していくのを感じ取った。今、あのお金は、母親の財布から引き抜いてきたといえば、たちまちにして倫子の身体はもとの棒のような固さに戻ってしまうだろうと思った。潤はウソをつくのには慣れていた。「一万円の元手でスロットがかかって六万円になったからすぐにやめてきたんだ」「すごいじゃん」それが、合図だった。倫子は、潤の耳を吸い始めた。「ちょっとそこはこそばゆいからやめて」今度は倫子は潤の口を手で塞いだ。「かわいいわねえ」倫子は、スカートのファスナーを半分、おろした。「女に恥をかかせないでね」と言って潤の手をスカートにもっていった。「どうするの」「見たいでしょ。あたしの身体」潤はため息と吐息で頭がくらくらしてきた。潤が、ぐずぐずとためらっているので、我慢できない倫子は潤の口の中に唇を押し付け舌をからめてきた。口紅のごぎつい味が潤の口の中で広がった。数分間ののち、潤は観念した。が最後に訊いてみた。「亮介が、怒ると思うよ。きっと。あの日、エリオットの詩集がどうのって亮介が怒っていたから。」「そうなの?あたしは、あいつとはもう関係ないの。別れたの。あんな金にだらしのない、というか、あたしの金ばかり当てにしてくるの、いまにキャバクラかヘルスで働けって言ってくるにちがいないわ。もう何十万も貸しているのよ。」話しながら倫子は両手でスカートを脱いで、まっしろな肉のうえに青白い血管がうすく浮き上がっている脚をこれみよがしに潤の身体の上に投げ出した。潤にまたがって今度は上着を脱ぐ。潤は倫子が何を話しても上の空になってしまった。いつのまにか潤も口をだらしなく開け始めた。「あいつは、あたしに貢がせていると勝手に思い込んでるけれどもとんでもないわよ。あの、お金は絶対に、かえしてもらう。」倫子は半ば、あえぎながら、言った。倫子は知的などちらかといえば冷たい感じのする美しい女であったが、欲情にかられたせつなげな瞳は潤には醜くも感じられた。それでも、冷静なのは視覚だけであった。「潤。あたし、前からあなたのことずっと好きだったの。でも、高校生だから、そんなこといえなくて。亮介は、暴力を振るってあたしを縛り付けていたの。でも、もうあんたも高校を卒業するのだし、亮介は他の女と付き合っているからだいじょうぶなの。昨日の話も亮介からすべて聞いた。あんたにムリなことさせて失敗したんでしょう。途中までうまくいってたのに。本当にあいつは何をやってもダメなやつだよね。あたし潤のことを愛してるから」倫子は下腹部にゆっくりと潤の手をいざなってさするようにゆっくりと教えた。「優しくしなきゃ。もっと、ゆっくりと。知らないからしかたないよね」音楽が奏でられるような甘い声で言った。「潤もあたしのことを愛しているの?」下着をすべてみずから剥ぎ取ってしまい汗で濡れた乳房で潤の顔をふさぎながら潤に与えながら倫子は言った。「潤。言って。あたしのこと愛してる?」「う、うん。今は愛してる」「そう、じゃあ」倫子は潤のズボンを脱がして下半身を裸にして充血した潤のペニスをつかんで自分の下半身にすばやく挿入すると固く閉じ込めてしまった。それだけで、潤はもう射精してしまったが、倫子は、潤が苦しむのもお構いなく上下に身体を動かし続けた。潤の肩を強く両手で掴んだ。潤は再び、勃起した。倫子は、胸も乳房も顔も両腕も顔からも汗を噴出していた。潤は気が遠くなりそうになった。「潤、愛していると言って?」何度も何度も倫子は言うので潤も「愛してるよ。倫子」とよくわからないがままに叫んでいた。髪の乱れを直す倫子の仕草がことのほか扇情的に映った。二度めの射精が終わるとまた激しく口をからめてきた。潤はこの儀式はいつになったら終わるのだろうと不安にもなった。「潤、あなたは大人になるのよ。子供こどもしている。そんなんじゃ亮介には勝てないよ。」とソファに横たわってストッキングをふくらはぎまで下ろして潤をいざなった。潤のペニスを触ると潤の意思とはほとんど無関係にまた勃起した。「潤、男だったら自分で腰をいれなきゃだめ。あたしの肩をつかんで」「そうそうそういう感じ」………そうして三度目の射精は倫子の身体の奥深くで行われた。潤は、もう限界だった。少し、意識をうしなって倫子の身体ぴったりとくっついたままで眠っていたのかもしれない。倫子がまた、潤の自由を奪ってふたを閉じてしまったのだった。「あたし幸福よ」と倫子は小さく囁いていた。 

その日から熱を帯びた練習が続き、オーディションを受けた。何度か、ライブでも歌った。好評ではあったが、冷静な判断のできない亮介を別にして、他のメンバーは半信半疑だった。バンドの力量や音楽性とは異なる要素でライブは熱狂することもあるとヤマギシは言った。ヒロや潤はまったく意味がわかっていなかった。やがて、オーディションの結果が届いた。バンドとしては失格だった。
ある秋の日の晴れた午後に亮介は仲間を集めた。倫子も現われた。潤と倫子はつきあっていた。潤はもう、「ファイター」には、何の可能性もないんだと諦めていた。亮介は、みんなの前で宣言した。「今日で、ファイターは解散だ。残念だったな」しかし、彼は、にやにやとしているので仲間は不審に感じていた。窓から差し込む西日が五人と倫子の長い黒い影を落としている。「俺とヤマギシは趣味みたいなものだったから別にいいけど亮介こそ残念だったな」哲はいろいろなバンドに入ったりやめたりしていたので自分たちの力量がわかっているのだ。「だけど、俺は、東京へ行くよ」倫子はすでに、その、話は知っているらしく薄ら笑いを浮かべていたが、哲とヤマギシは驚いた様子だった。「審査員のプロダクションから他のメンバーを紹介するから東京へ出てやってみないかと誘いがあったんだ。君は基礎から勉強しなおせばまだまだ可能性があるって言われたんだよ」亮介は、うきうきとした様子で話した。よかった、よかったとヤマギシと哲は手を叩いて喜んでいた。三人は喜んでいたが、ヒロはよくわからないらしくそれでも拍手はしていた。が、そのうちに泣き始めた。「よかったよ。本当に。亮介さんだけでも認められて。」「だって、お前ら高校生はまだ始めたばかりじゃないか。これからいくらでもうまくなるんだぜ。泣くなって」亮介はヒロの肩を叩きながら鷹揚に言った。潤は、しかし不満足であった。ヒロのように純粋に心から亮介を祝福できなかった。それは、今までの、亮介の生活ぶりを見ていたこともあったが彼の音楽の力量もパフォーマンスもぜんぜん納得のいかないものだったからであり、ひそかに、自分の方がもっと練習やいろいろな経験や新しい音楽に触れればすぐにでも亮介など追い越してもっとすばらしい曲を作って演奏して歌えるだろうと信じていたからだった。だいたいあの曲、RETURNはもともと海外の音楽じゃないか!喉元まで出掛かっていたが口にはしなかった。「潤よ。お前は俺の言うこと聞かなかったから仕方ないぞ。俺はきちんと自分のモノにしていただろう。お前は分かっているはずだ。」彼は、潤にはそれだけ言った。
俺は、倫子を亮介から、奪い取った。倫子も亮介に見切りをつけたのだ。俺は、まだ高校生だから審査員も何も言わなかったんだと潤は信じていた。その根拠は、倫子だった。倫子は蒼白い顔をして立っていた。体調が優れない日が多く、嘔吐することもしばしばだった。倫子は思い切り笑顔をつくって亮介に言った。
「はやくメジャーになって私に借金を返してね」みんな笑っていた。「ああ、わかっているよ。何倍も返してやるよ。それにしても、倫子もケチな女になっちまったなあ。ミュージシャンの言葉じゃないね。それは」どうやら本当に別れているんだとはじめて潤はこの二人の関係の崩壊を知った。「もう明日にも出発するんだよ」亮介は、涙すら浮かべていった。
「また、落ち着いたらみんなに連絡するよ」と言って扉を開けて自分のギターを抱えて先に出て行った。「じゃあな」「さよなら。亮介さん」倫子やヒロは心からそう言っている気がしたが潤はまた亮介には、この街でか、あるいは、東京でか、いずれかで逢うことになるに違いないと思っていた。

それから、また、数週間が過ぎた。亮介についての記憶が潤には薄れつつあった。潤は、バンドもなくなって普通の進学を前にした高校生に戻っていた。大学受験にはバンドを解散してもらったのは好都合だった。土曜日の午後、英語のテキストを開けたまま潤は眠ってしまった。秋の日差しは潤の背中を照らしている。携帯に着信があった。出ると倫子からだった。「明日、アウトレットに行かない?今度、出来た店よ」「いいよ」そのときまた着信があった。潤は、倫子に待ってもらいそちらの方へ出た。「もしもし、あの長谷川潤くんですか?私はロックミュージックの武田と申しますが……」「ええ、そうですよ」「実はですねオーディションのテープをお聞きしましてぜひ、潤くんにお会いしたいとうちの社長が言うのでどうでしょうか?」潤は胸が高鳴った。ドキドキとしてこれまでに味わったことのない視界が開けるような感触であった。「もちろん、お願いします。でも、僕はまだ高校生なんですけど」「高校生のうちからレッスンしている人なんていくらでもいますよ。」「そう。そちらの場所は?」「東京です。また、詳しいことは社長の方から。とりあえずはご本人の意思の確認ということで」「わかりました」潤も倫子を待たせてあるので、また後から掛けなおせばいいやと思っていた。倫子は、しかし、たいした話もなく電話を切った。しばらくロックミュージックの武田の電話を待ったが何も掛かってこなかった。
翌日の日曜日に朝早く倫子は真っ赤なぴかぴか光る車で潤を迎えに来た。ブラウンのブラウスに白いシャツでシックないでたちであった。髪は亜麻色に染めていた。以前に比較してかなりふっくらとしている。潤は二歳年上の倫子の服装にも体型の微妙な変化にもまるで関心はなかった。

『ファイタ-』

2009-04-24 02:47:08 | 小説
 一

潤が窓の外に目を移すとぽつりぽつり降っていた筈の雨が瀧のように激しく庭のやつでに当たって水しぶきをあげているのに驚いた。これから、また、素早くスタジオまで戻らなければならないのだと思うと憂鬱な気分になった。彼は立ち上がって窓を開けて水しぶきの源流を確認した。それは雨どいが壊れているに過ぎなかった。土曜日の昼下がりで母親は近所の主婦と話しこんでいる。スーパーマーケットに買い物に出かけるという内容だった。隣の部屋から声が漏れてくる。潤は会話に耳をそばだてていた。。潤は、何度も何度も聴いた同じCDをまた初めから再生した。SLAMP CHESTER TONEだ。日本ではいつ発売されるか分からない。発売されないかもしれない。でもネットで検索すれば簡単に出てくる。問題はこの曲が果たして亮介の言うように日本でも受けるのかという点である。とにかくコードを自分のリズムに合体させるんだと亮介はいつになく力んで潤に指図した。どうしてこの曲なの?と潤と同級生のヒロは間の抜けた顔で尋ねた。いい曲じゃないか!即座に亮介が言った。俺の作った曲に似ているさ。似ていたらだめじゃん。ヒロが言い返す。これを聴け!亮介は自作の歌をギターで歌い始めた。それはRETURNといういつも亮介の歌うナンバーだった。コードはほとんど同じだった。それってパクッたんじゃないの?バカヤロー。いきなりギターで亮介はヒロを殴り倒した。そんなことはどうだっていいんだよ。お前らは俺の言うことだけきいてりゃいいんだ。それきり潤とヒロは黙って亮介に従うことにした。おそらく亮介の仲間がいなくなったのはそれが原因だったに違いない。
潤がCDを再生しているのは数十万円もする黒光りの光沢のあるオーディオセットである。父親が潤の兄の大学合格祝いに買ってきたのだが、東京大学に合格した兄はせっかくのプレゼントもそのままに、そそくさと東京に旅立っていった。潤は真新しいオーディオのヴォリュームを変えるつまみを何度も右に左へとめまぐるしく回転させていた。潤は今更ながら兄と自分に起きることのあまりの違いを肌で感じていた。重苦しい気持ちが覆いかぶさってくる。いやだいやだと思いながらもやはり迫ってくる闇の大きな鴉には抗いがたい。だいたいこんな風になってしまうのにはいつも理由がある。兄はいつも何をやってもたいていうまくいく。それに比較すると俺は何をやっても親の怒るようなことしかできない。こんなことがばれれば、また母親は泣くに違いない。だから、絶対にばれないようにやらなくてはならない。
待っていた瞬間はようやく訪れた。ドアが半ば開いて「行ってくるね」母親はそれだけ言った。彼の顔さえもほとんど見ることもなくスーパーマーケットに近所の主婦と出かけて行った。二つの派手なパラソルがやつでの合間から見えた。
よし、決行だ。彼は、それまでのんびりと構えていたが、やおら立ち上がって隣の部屋に駆け込んでいった。潤は、そっと母親の箪笥の引き出しから現金を一万円札ばかり三枚ひったくるように抜き取った。返すつもりはなかった。俺自身のためではなく仲間のためなんだからと自分をなぐさめた。いろいろな犯罪者も自分のためではなくて家族や仲間のためにやってしまうんだろうな、悪いこととは知りながら。しかし、感傷に浸っている暇はなく、雨の中を障害物レースの競走馬のように庭の置石や植木を飛び越えて母親に門前で会わないために裏口から一目散に走り去った。
ことの発端は昨日の午後だった。いやさかのぼるとはてしなくさかのぼってしまうような気もするが、あまりにもさかのぼって考えると自分が生まれたことが間違いだったということになってしまうから、適度なところで区切るとやはり金曜日の午後四時を少し、過ぎた頃である。潤は仲間たちとヒロの来るのを待っていた。仲間は三人。レストランの二階が彼らの溜まり場であるスタジオだった。三人の仲間はそれぞれの自分の楽器の調音に余念がない。ドラムとエレクトーンとギター。潤もギターだったが、四人ではやる気が起きなかったので練習はしてなかった。潤はヒロの来るのが遅れている原因はわかっていた。一週間前にギターが壊れたと携帯電話に電話がかかってきたのだった。
「練習の帰りにストレンジャーで飲んで、バイクにギターをくくりつけたら、転倒してギターがぐちゃぐちゃに壊れちゃったよ」
「ばかやってるんじゃないよ。まったく」「潤に言われたくないよなー」
先が折れ曲がって弦がぷるんぷるんと伸び上がって夜道のアスファルトに横たわり街路灯に照らし出されるヒロのギターが目の前に浮かび上がった。横転した川崎のバイクの横で酔っ払ったヒロが反吐を吹き吹きひざの痛みを和らげようと自分のひざを思い切りさすっている。「それでどうするの?みんな、怒ると思うよ。もう大体、曲も出来上がっているんだから。今度こそはオーディションで合格するんだって亮介もすごく意気込んでいたじゃないか?」
「わかってるって。お前は今までさんざん俺たちの足を引っ張ってたくせに自分が優位に立つとそんなことを言うのかよ」
「俺と言い争っていたって何も話は進展しないぜ」潤は携帯電話を握り締めて大きな声で怒鳴った。
「親にまた買ってもらうよ。六万円くらいでなんとか同じのが買えるから」屈辱的なひとことを引き出して潤は満足した。親に頼むなんてのは本当に最後の最後の手段なのだ。カネなんかあるわけではないのだ。十七歳の俺たちに。
アルバイトをしても五人ともすぐにやめた。少しでもカネが溜まると酒を飲んでしまうかパチンコで費やしてしまった。バンドのメンバーはみんな中学生のころからパチンコばかりしていた。
「金曜日までにはなんとかしろよ。楽器店までつきあおうか?」
「いいよ。ひとりで、なんとかするよ」なかば泣き出さんばかりの声だ。そして、それきり電話は切れてしまったのだ。潤はヒロに何度も何度も電話したり、メールを送ったりしたのだが、何の返事もなく無視され続けた。
待つこと数時間。三人のうちのリーダーの亮介は大学生だ。潤の兄、東京大学に入学した兄の友人なのだ。兄は東京大学とは言うものの文学部の美学専攻で亮介に言わせるとそんなわけのわからん学科に行くのは理解できないということだった。残りの二人は哲とヤマギシ。サングラスを掛けているので顔はよくわからないし、ミュージシャンだからしゃべらないし高校生の潤とヒロには話しかけるようなこともなかった。大学生のバンドに高校生が混じっていることが気にいらないのだ。特に潤が上手いわけではなく、ヒロが上手いわけでもなく、酔った勢いで亮介が同級生の二人を殴ってしまいメンバーが足らなくなったので補充したのだ。おそらく、その二人は外国の曲を借用している亮介の曲が気に入らなかったのだと思う。亮介は楽器に関してはいろいろと詳しく作曲もしていた。もう二0歳になりそうだったのでプロデビューはおぼつかなくてもライブハウスで唄うくらいはしたかったがなかなかメンバーに恵まれなかった。哲とヤマギシは亮介のパチンコ仲間で潤は店で時々会っていたが、彼らは三人で固まってひそひそ話をしていて潤やヒロのことなんか知らん顔だった。
約束の時間の四時はとうに過ぎていた。亮介はいらいらしていた。
「ヒロのやつ、何考えてるんだ。ぜんぜん来ないじゃないかよ」低いドスの効いた声だ。あどけなさが顔いっぱいにあらわれている潤は蒼くなり困惑の表情を浮かべた。ヤマギシはスキンヘッドであるし、哲は鼻の下にちょび髭をはやしていた。おっさんの集団だなあと潤は思った。本当に大学生なのだろうか?キーボードとドラムもいまひとつのできであてにならなかった。が、そんなことは口にはできなかった。亮介に言わせると本当の天才はおれだけでキミたちは俺様の引き立て役に過ぎないんだよということだった。でも、潤は亮介の秘密を握っていた。亮介は自分では曲を書いてはいない。本当は、倫子が書いているに違いない。なぜなら、はじめての曲ができると倫子が亮介によりそっていろいろと教えている。亮介は顔をあからめドギマギとしている。だが、今回のRETURNはどうやら倫子は関わっていないらしい。亮介はもう倫子の曲ではダメだと思ったのかもしれない。倫子も兄の同級生で何度か家に遊びに来ていたから潤の幼なじみと言えた。潤をこのグループ「ファイター」に引きずり込んだのは亮介ではなくて倫子だったのかもしれない。なぜ「ファイターズ」でなくて「ファイター」なのか亮介に尋ねたことがある。亮介は笑いながら言った。「いいところに気づいたな。それはキミたちはファイトがないからそのうちにいなくなるかもしれないが真にファイトがあるのは俺だけだからさ」「あ、そう」短く潤は言った。あきれて何もいえなかった。大学生なんてまったく好き勝手にやっているなあと思ったがこの三人は贋大学生かもしれない。彼らは学校にほとんど行かずパチンコとバンド練習しかしていないからだった。
日差しが消えて黒くなった扉から光が漏れる。「来た」と潤が思うと、やはりヒロだった。
「何してたんだ。遅いぞ。」亮介が怒って言う。
「楽器は?壊しちゃったんだろう。新しいのは買ってきたのか」ヒロは答えない。「何にも言わないと、やばいぞ」と潤が諭したがもう既に遅かった。亮介が足を払ってヒロは床に横たわって腹部と頭を亮介に蹴り飛ばされた。背の高いヒロが無抵抗に横たわる姿は哀れでもあり滑稽でもあった。「おいおい、暴力はいけないな」スキンヘッドのヤマギシは意外と真にやさしさのこもった声で言った。「亮介、子供を虐待して何が面白いんだ」今度は哲がしらけ切った口調で言う。亮介は苛立ちを隠せない。部屋の中を歩き回る。
「そういうことなんだな。結局は、カネが用意できないから、エレキが買えなかったってことなんだ。簡単じゃないか。なんでそんなことも説明できない。バカじゃないの。それならそうとこっちだって考えるに決まってるだろう。時間を無駄に潰すんじゃないよ」その言葉と裏腹に明らかに亮介には親しさを感じることの出来ない冷たさがあった。
「お前、高校生をいたぶって……」ヤマギシは何度も繰り返した。ヤマギシと哲はヒロを抱きかかえて身体をさすって椅子に座らせた。ヒロはそれでも口元を歪ませて反抗的な態度をとっている。
「お前らはな、遊びでやってるかもしれないけど俺たちはまずはライブで唄いたいんだよ。潤もなあ、兄貴は東大にはいっているのにそんなこともわからないのか?本当に兄弟なんか。成績悪いしなあ。」潤はニヤニヤと笑っていた。兄と比較されることはもう慣れた。幼い頃からずっとだ。しかし、今日、初めて気づいたこともある。亮介も兄と友人なので自分の兄には負けたくないとこころひそかに思っていたのだ。でも、それは間違っているよ。勝てるわけはないよ。と教えてやりたくなった。潤は何度も試みて失敗を繰り返してきたからだ。兄がクラシックばかりきいているので対抗してロックバンドを始めた。それは、今にして思えば亮介もそうだったし、ひょっとすると倫子もそうだったのかもしれないと潤は思った。兄の下宿に先月、遊びに行ったときも書棚には美学関係の本がぎっしりと並び、ショスターコーヴィッチというクラシックを聴いていたが、そんな作曲家はバンドをやってる潤でも知らなかった。ぼんやりとそんなことを考えながら潤は倫子にメールを打っていた。亮介をなだめてヒロを救い出すにはそうするしかないと思った。「助けてよ。ヘルプ。また亮介が暴れているんだ」携帯のメールには定型文でそうはいっている。送信するとすぐに返事が戻ってきた。「今、すぐに行くよ。場所はスタジオ?」「そう。」とだけ打つ。電話で話せば亮介は怒りだすだろう。
よくわからないが亮介と倫子はたぶんつきあっている、潤はそう感じていた。むんむんする熱くてたまらない夏の昼下がりにスタジオの奥に人影があるとも知らずに入り込んだとき熱い吐息と言葉にならないような声がしてあわてて扉を開けて逃げ出したときに玄関をそっと見やると亮介の大きな、泥のついたスニーカーと倫子の赤いエナメルのハイヒールが無造作に並んでいたからだ。潤はぎょっとしたが、面倒なことに関わりあいたくなかった。
ヒロの様子がおかしい。ふだんなら少し態度の素直ではないヒロでも殴られるとおとなしくなり、従順に謝るのだが今日はなかなか抵抗して依怙地になっている。それが、余計に亮介の気分を害している。雰囲気が哲やヤマギシにも伝播して彼らも変なやつだなあと言い始めている。確かに約束を破ったヒロが悪いのだ。楽器を準備できないのなら亮介に相談すればいい。六万くらいのカネがなんともならない亮介や倫子ではなかった。高校生がそこまで見栄をはることもない。頼んでバンドに参加させてもらっているのではなく、頼んできたのはメンバーを失った亮介たちのほうだからだ。亮介は、いろいろと悪知恵がはたらく。潤のマスクが甘いのとヒロも高校生離れした彫りの深いマスクであるのに目をつけた。ヒロは野球部だったから筋肉が発達していた。彼は、眼を悪くしてしまい練習で何でもない球は落球するは、打撃練習をすれば一年生のあらゆる球にもバットが合わなくなり空振りばかりしていた。それで野球が嫌になってやめてしまったのだった。観客を、特に女子の高校生や中学生を誘うために、潤とヒロをバンドに参加させていた。闇の中から虹のような光とスモークとヒロがあらわれ、唄う時には汗で身体が黒光りするようでセクシーだった。潤がそう感じたのでははなく、それは、倫子の趣味であったし、夏休みのポップジャムで「ファイター」が観客の大歓声の中、最後までテンション高く唄い終えることのできたのもヒロと潤の活躍が大きくものを言ったのだった。
潤は、ヒロに近寄ってたぶん何か隠しているだろうと思い早く全部言えよ。といった。ヒロは驚いたような目をしていたが、なんとなく潤にはわかった。どうせ、また、馬鹿げたことに決まっていた。ヒロや潤の周りで起きることは馬鹿げたことか感動的なことだけだった。それは、振り子のようにかたみにやってきた。
「わかったよ。もう何でも話すから許してくれよ」観念したヒロは泣きそうな声で言った。黒い扉がその言葉を待っていたかのように開く。みな、誰だろうとそちらを注視する。思ったとおりに倫子だった。真っ赤なつるつるした皮のジャケットに白いミニスカートでよく焼けた細い茶色の長い脚が扉を開けて立っている。「どうしたのよ。練習しているんじゃないの?」亮介がにやにやしながら倫子をさえぎる。「ちょっと大切な話をしているからアンタは黙っていて」亮介が近寄ってくる。「じゃあ、言いな」
「カネは親にもらったんだよ。来月分の小遣いなんだ。でも三万円しかなかった。」
「それで」
「倍に、すぐに増やさなければならないからパチンコに行ったんだよ」潤はすべてを理解した。そういうことか。やはり、くだらないことだな。
「それで」亮介はつまらない男がよくやるようにわかりきったことをくだくだしくヒロに尋ねた。もう言わなくてもわかってる。
「全部なくなったに決まってるじゃん」すでに固めていたこぶしで亮介は思い切りヒロを殴り飛ばした。「何するのよお」ハイヒールを脱ぎ捨て部屋の片隅にまで飛ばされたヒロを倫子はあわてて抱きすくめる。頬は次第に腫れ上がってきて唇の端が切れている。「パチンコで儲けようなんて。そんな金で楽器を買おうなんて根性が腐ってやがる」
「何を言ってるのよ。亮介だってパチンコばっかりやってるくせにさ」倫子が言う。
「俺はパチンコで勝って楽器を買おうなんて思ってやってない。それなら三万で買える楽器を探すべきだったな」
「そんなの中古しかないよ。」ヤマギシが言った。「仕方ないじゃん。買ってやりなよ」哲が亮介に言った。「いいよ、カネないし、時間もないから。そんならこいついらないよ。もう、クビだ。もう来なくていいよ。」
「そんな。もう時間もないのにメンバーなんてそうそう簡単に見つかるものじゃないのよ」倫子はハンカチを取り出して不自然なほど身体をぴったりとくっつけてヒロの口元をきれいに拭いている。
「それなら倫子が楽器を買ってやればいいだろう」亮介はあっけなく言う。
「また、私にお金出させるつもりなの。もうかなりいろいろ出しているのよ。私にキャバクラで働かせたいの?」カネのないバンドはメンバーの彼女をキャバクラやヘルスで働かせているそうだ。それも亮介から聞いた。そこまでやるか、と潤は思った。潤は倫子の身体ばかり見てしまっていた。下半身が熱くなって膨張してきた。あわてて、みんなに気取られまいとしたが倫子がこちらを見てにやついているように思えた。
亮介は、仁王立ちして腕組みをしていた。そして、思いついたように言った。
「パチンコで取られたカネはパチンコで取り戻すしかないだろう」みな一斉に笑った。
「どこの店?またサンライズに行ったのか?」ヤマギシが聞くとヒロは小さく頷いた。
「ふうん。サンライズねえ」ヤマギシがニヤニヤと笑うと哲も不気味に笑った。
笑ってないのはヒロと倫子だけだった。倫子が気に障ったらしく口にした。「余計に傷口を広げるだけじゃないの。第一、元手はどうするのよ。」「だから、絶対に大丈夫な方法があるのだって」「あるわけないじゃん。そんな方法があるんだったら、何で今まで負けてるのよ」外国タバコにジッポーライターで火を点けながら、亮介は言った。「倫子はここにいればいいよ。哲とヤマギシは絶対に必要だから。ううん。やっぱり全員必要だな。ヒロは、負けた張本人だから今度はしっかり働いてもらわないといけないからな」自分の吸っていたタバコを亮介は倫子に吸わせた。情夫気取りだなあと潤は思った。
扉を開けて哲とヤマギシは嬉しそうに出て行く。ヒロの片手を取りいくぞと促した。ヒロも細い糸のような希望を見出したのかすっかり行く気になっていた。「じゃあ、本でも読んでるよ」と倫子は詩集を取り出してソファに寝転んで読み始めた。コトリとハイヒールが片方脱げて床に落ちる音がした。

 扉を開けると雲の様子から何から一変していた。雨が叩きつけられるように降っている。
鈍色の空から夏の雫が搾り出された。亮介が叫びながら走り出した。金色の頭髪がライオンのようだった。その後ろを潤がヒロが走っていった。スキンヘッドと哲が後に続いた。五人はびしょぬれだった。赤い階段を駆け下りて駐車場に置いてある哲の車に急いで乗り込む。
冷たい!と口々に言う。ドラム缶が何本も置いてある。油をこぼしたあとの黒い染みがだんだんと水たまりを作っている。乗り込むときに「ダーッ」と言った。それは潤の声だった。「今、なんて言った?」ホンダシビックの壊れかけの扉を閉めるときに亮介と哲が口を揃えた。「ダーッって言っただけだよ」また、殴られるのか?そんなくだらないことで殴られていたら命がいくらあっても足りやしない。「何か、亮介の気に入らないことでも言ったの?」潤は呼び捨てにした。それは、外国人は「さん」付けにしないからロッカーは外国人にならなければいけないからまず「さん」「くん」は禁止だという亮介の妙な信条からみんな年齢は関係なくお互いは呼び捨てにしていた。しかし、亮介は車の中でしつこく「ダーッ」について尋ねてくる。「どうしてエリオットの詩を潤は知っているんだ」「知らないよ。兄貴は読んでいたかもしれないけど本もあるかもしれないけど俺は知らないよ。興味ないから。」「じゃあ、なんでその言葉が出てくるのよ」「言うでしょ。普通」「言わないよ」哲とヤマギシが口を揃えた。「変なやつ」ヤマギシが言った。「じゃあ、どういうことか説明してやる。エリオットの「荒地」という詩の中にさっきの言葉が出てくるんだけど。そのエリオットの詩集は今、倫子が読んでいる本なんだ。」「ああ、さっき読んでたなあ。それがどうかしたの」亮介は怒ったように言った。「何、とぼけているんだよ。あの本はお前が倫子に渡したんだろう。お前、倫子とどんな関係なんだ?」哲が黙って急に車をバックさせるから、後部座席の三人は頭をぶつけそうになった。「どうでもいいじゃんかよ。」哲が言う。「確かにエリオットに出てくるよな。でも偶然だってこともありうる」「哲よ!偶然なんてこのバカの潤にはありえないよ。エリオットの詩を読んでいたから思い出したんだ」潤は確かめるように言った。「倫子がそういってた?」「そうだよ」兄貴が渡したんだな。潤はそう思った。亮介はもう東京に行った兄貴のことなんか忘れている。でも、ひそかに兄貴と倫子は交際している。それなら、何の不思議もない。しかし、話がややこしくなりそうだから黙っていた。亮介は嫉妬深くねちっこいのだった。
ワイパーは絶え間なく動いていた。潤が黙り込むとようやく亮介もあきらめたのか何も言わなくなった。すかさず哲が亮介に訊いた。「ところで、パチンコで金もないのにどうやって勝つのさ?」前部座席に哲とヤマギシが後部座席に潤と亮介とヒロが座っていた。雨に気をとられて座る順序など考えていなかった亮介は、後部座席の真ん中に座っていかにも窮屈そうであった。
 「それを言う前に確認しておかねばならないんだけどさ俺を裏切らないと誓えるか?」亮介はやせこけた沖縄のシーザーのような顔で交互に潤たちをにらみつけた。潤は思わずうなづき「裏切らない」と言った。潤は自分の倫子の身体への興味を見抜かれたのかと気づいてドキリとした。勘は、なかなか鋭いのだ。数秒が過ぎた。それでも、長く感じた。哲とヤマギシは簡単に首肯するのがバックミラーでわかった。同時に亮介はヒロの方を向き直って確認した。「お前のためにやるんだぞ。わかっているのか?」ヒロは殴られたこともあり亮介に対して不信感を拭えないでいる。やめようかどうか迷っている。もともとヒロはいやいや参加していたのだ。けれども、「うん」とうなづいた。しかし自分が引き起こしたのだから参加しないわけにはいかないだろうと潤は思った。
 ようやく亮介は安心した。そして大きく息を飲み込んでドキドキしているのが伝わってきた。「別に、悪いことをするわけじゃないんだぞ。今回のと今までのを少し取り戻すだけだよ。」「かなり悪いことをするみたいだな」ヤマギシは不安そうにしかし、何か冗談ぽく言う。外観はいかついこの男ははっきりと自分の意見を言うことはない。しかしひとたびドラムに触れると情熱的に叩きまくりなにやら怪しげな音が立ち上ってくるのだった。「どこへ行くんだよ?」そろそろ街に近づいたので哲が尋ねた。「サンライズホームランでいいんじゃないの。リベンジの逆転ホームランだな。」