ただいま更新工事中ですが、よかったらご覧ください。
お待たせしました 村社 梅田神社です。
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いつも見ていただいてありがとうございます。
私達の日記も
こんなに大きく育てていただきました。
感謝を込めてアクセス数をご報告します。
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開設日 2008.3.23 → 6.30.調査日
【調査期間 100日間】
アクセス総数 2254
訪問者総数 1416
訪問者率 62.82 %
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写真①
写真②
写真③
写真④
写真⑤
写真⑥
写真⑦
写真⑧
写真⑨
写真⑩
写真⑪
写真⑫
細見チームの公式試合日程の変更について
①福知山市野球協会学童部の2008.6.29.日付けのホームページによると
7月13(日) 福知山市営球場 午後14時試合開始
(第3回ほくとしんきん杯福知山予選・決勝戦)
細見フエニックス 対 (大正 対 カミナリーズの勝者)
当初発表の日程より変更され7月13日になりました。
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がんばれ 細見チーム !!
がんばる 東部チーム 速報⑤
細見チーム 決勝戦へ進出決定 !!
今日は実にうれしい速報です。
編集室では正確を期すために がんばる東部チームの速報は新聞報道されたもののみに限って報道機関名を付して記事にさしていただいています。
で----速報④のほくとしんきん杯の細見対精華ファイターズの記事も地味なものになりました。
ところが今日来院されたお方から、実はあの試合は準決勝戦の1つであることをお聞きしました。
しばらくたつて17時41分のブログのコメント欄を見ると、
細見フアン名で
今度は確か優勝戦だと思うよ。確実な情報でチェツクしてから、時間など教えて---お願いという------コメントが入りました。
続いて18時58分今度は
野球フアンさんからコメントが入り 優勝決定戦の嬉しい 嬉しい 詳しい書き込みが入りました。
で----編集室では 過日ブログで細見フエニツクスのことを紹介してくださった
細見チームの大御所である東部振興会の岡村清副会長に確認の電話をさせていただきました。
で----- 野球フアンさんの書き込みは全て正確であることを確認させていただきました。皆さんありがとうございました。以下の記事はこうして生まれました。
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ほくとしんきん杯両丹大会福知山予選
優勝決定戦のお知らせ
日時 2008年7月6日 16時から
場所 福知山市営球場
対戦チーム 大正ビクトリー 対 カミナリーズの勝者
ブログ愛読者のみなさん よかったら 福知山球場で
ご一諸に応援しましょう。
筆次郎も持ち前の大声で応援させていただきます。
たのしみだ---- 大声がだせる !!
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東部の各チームもがんばれよ !!
各チームの嬉しいニュースありましたら、
どしどし書き込みお願いします。<
更新作業中ですが よかったら お読みください。
借用した 川合村史
写真①表紙
今回の主人公の旧川合村は、このブログの舞台となっている旧六人部村のお隣さんである。昔 東部六カ村といえば、上・中・下各六人部村と川合村・細見村と兎原村をさしたと聞いていた。
日本地名大辞典によれば 江戸期より明治22年まで 川合ではなく河合郷六ケ村は
①大原村 ② 台頭村 ③ 上川合村 ④ゆり村 ⑤下川合村 ⑥加用村となっている。本史には地図がないので 天田郡三和町区分図に書き込んでみた。この図で六人部との関係を見るとお隣さんということになる。
以前から機会があれば ぜひ読みたいと思っていた資料に初めてであったのは2008.6.19.のことであった。
訪問治療に出かけている患者さんから よかつたら これ 読んでみたら----といって貸してくださった。貴重な資料なので1週間だけ拝借します---と期限をつけて借用した。
帰宅してすぐ 奥付けをみた。
写真② 奥付け
安物のカメラなのでうまくとれない。知りたかったのは発行年月である。
こう書いてある。昭和62年7月。同年は1987年であるから、いまから21年前につくられた。この著作は多くの住民の方々の深い想いのこもった労作であることは一読して感じられた。
自分のブログに紹介さしていただこうと思った。
順序として 編纂された方々をまず紹介させていただこう。
写真③ これは194ページに記載された川合村史編纂委員の方々のご芳名である。
感謝して転記させていただこう。( )は貸してくださった方のメモ書きである。
委員長 川村 弘殿 (下川合)
委員 澤田実男殿 (大原) 大槻信男殿 (大原) 谷 光治殿 (台頭)
片山佐一殿 (台頭) 土井静夫殿(上川合) 和泉正治殿(上川合)
土佐太郎殿 (ユリ) 中馬太志殿 (ユリ) 川村 健殿(下川合)
連絡協議会 西村辰夫殿(ユリ)
事務局 加藤庄吾殿(ユリ)
印刷は(株)北星社である。
写真④ 目次1
写真⑤ 目次2
写真⑥ 目次3 資料編
私がこの中で、特に読みたかったのは ご苦労されて 集め編まれた 資料編である。
おいおいご紹介させていただくが、今回は編纂された方々の想いの込められた巻頭の言葉と前書きをご紹介させていただく。
文脈に今から見ると気になるところも若干あるが、全てそのまま転記させていただいた。
巻頭の言葉
町村制の実施以来、川合村と改称されてから六十有余年、此の間、明治、大正、昭和の三代に亘って幾多の変遷や改革を重ね、名実ともに川合村の誇りと実跡を残して発展してきたことでしょう。
去る昭和三十年三月、町村合併の法令によつて発展的とはいえ、此の川合村がなくなってしまうことは、当時の村民としては懐旧の念切なるものがあり、また先輩諸賢の残された業績とともに、その苦労の数々を偲び敬仰の念禁じ得ないものがあつたことと思います。
合併以来三和村、三和町となってすでに三十年余、川合村当時の貴重な記録、業績がついつい忘れ去られんとしている今日、何らかの形で一編の史につづり後世に残すことはね幾分かでも昔を知る者の当然の責任であると思います。
今回村史編纂委員会を構成して資料の蒐集、執筆にかかりましたが、元老の士はすでに故人多く、また記録をあさつても終戦直後重要書類の焼却とすいう憂き目に合い、年月の経過とともに分散し、何から手をつけてよいか途方にくれるばかりでありました。
なんとかまとめたとはいうものの、内容は資料の不備、不統一、脱落の事項など、またいろいろの制約に災いされて誤りがないとも言えず決して万全なものとは申せません。
しかしながら本史が消え行く川合村の郷愁を残し、我が故郷としての心の糧ともなり、すでに三和町民として活躍されている若き人々のために何らかの参考になることがあれば 幸いとおもいます。
終わりに本史を編集するにあたり、先輩並びに各区民の皆様から貴重な資料の提供を戴いたことに厚く感謝をいたします。
昭和六十二年 月
川合村史編纂委員会
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以上巻頭のことばの原文のままである。
文章修行のひとつとして 昔から書き写しというものがあるが、今回初めて 人様が書かれた文章を書き写してみて 不思議な経験をした。
一字一句書き進まれた筆者の秘められた想いというものが、じわつと伝わってくる。不思議な経験であった。
続いて まえがきを書き写してみたい。
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まえがき
土師川の上流川合川、並びにそれに注ぐ幾多の小流の沿岸部に細長く点在する農家。
四季おりおりには目にしみるような濃いみどりとなり、また燃えるような紅葉、一面をおおいつくす銀世界、水しぶきをあげ子供達が戯れた小川、豊かな人間性があり、朝早くから夕方遅くまで仕事に励み、山の幸を中心に発展してきた、これが川合村の姿でした。
昭和30年3月、この誇りある村が合併した。三和村そして三和町。
爾来30年町では合併30周年記念式典が盛大に開催され、名実共に三和町の基礎は固まりました。が、その反面川合村の里はどうであつたか、昔の風俗は、習慣は、そして産物は----
これらを懐旧するとき、一編の史に綴り残し先輩諸氏の偉業を偲び、美しい郷土として後世の若い人々の胸に故郷に想いをよせる一助ともなれば望外の幸せと思います。
昭和六十二年 月
川合村史編纂委員会
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先にも記したが、大阪に生まれ育ち 家庭を持つて以後 職場の関係で縁あって家内の里のある三岳を中心とした福知山に移り住んだ私達にとって、福知山は家内や子供達にとっては懐かしい故郷であるが、私はなかなか そんな感慨が抱けなかった。しかし歳月の流れは早く いつしか 移り住んで二十有余年が経過した。
また六十路の坂を途中まで登つた今 縁あって 今年から 六人部ぶらぶら2008 や がんばれ東部2008 などのブログを通して 少しづつではあるが 土地の方々との交流も深まり 今では 福知山は私にも故郷と呼べるようになった。
そんな私は その土地に生まれ育ち活躍された方々がつづられたこれらの文章は 書き写しているうちに 書き手の深い想いに静かな感動をしていた。この感動は段階の世代の少し上の世代の私にも 何か突き動かすものがあった。
機会を見て 本史につづられたお隣さんの資料を 時間をかけて少しづつ ご紹介したいと思った所以です。
写真① この川合村史を貸していただいたお宅からの帰路車窓からの光景です。
写真②よく見ると この当たり一帯は丹波栗の産地である。
写真③ 帰宅早々 栗に関する記載を調べてみたら興味ある資料に出会った。
以下の資料は丹波栗なかでも川合栗に関する資料である。(村史103ページ)
写真④これは大正15年11月9日に天田郡川合村農会に対して皇太子のお世話をされていた東宮大夫伯爵珍田捨巳より送られた 丹波栗一箱献上したことに対する御披露状である。伯爵という爵位が時代をもの語つて興味深い。
写真⑤これは昭和三年に行われた御大礼に際し天田郡川合村に栗調達の下命がありその領収書である。発行したのは大礼使であり、宛名として日下部平三郎さんと西山民吉さんの個人名がしるされている。下命に対する領収という表記が時代を反映している。
写真⑥これは同じく御大礼に川合栗を献上したことに対する京都府知事からの感謝状である。今風に言えば宮内庁御用達といえるようで、当時川合栗は今でいうブランドの1つであつたようである。
丹波栗に関する資料の初見は十世紀に編纂された律令書のなかに栗子三石との記載があることが記されている。
さらに元禄5年に発行された本朝食鑑に丹波の山中より出るものを上となす云々のきさいがある。
さらに(村史104ページ)には非常に興味深い昭和48年5月23日付けの朝日新聞の記事が紹介されている。
天田郡三和町ゆりに樹齢250年から300年と推定される栗の木が今年も花をつけた。
クリの関係者は今年(昭和48年)8月に全国クリ祭りが綾部市で行われるのを機会に全国のクリ栽培者に紹介する。
この長生きクリは三和町のユリ地区の中馬隆一さん(78)のクリ縁に7本ある。
どれも幹周りが2m前後で一番大きいのは2.18mもあり、どの木の20~30㎏の実わつけている。クリの木の樹令は25~30年になると虫がついて枯れてします。
まさに怪物である。
同所の地質は表面から20cmまでは珪石まじりで、さらに深くなると山土、品種は丹波中生だが、元木はクリの実生に接ぎ木したものという。
この付近は大正、昭和のはじめ献上クリとしてよく使われており、良質のものが生産されている。-----と。
参考
銀寄(ぎんよせ) これも代表的品種です。
よく言う丹波栗とはこの栗のことです。
形もいかにもエラそうで、まさしく栗の王様です。
http://www.kobaien.com/hinsyu/ginyose1/ginyose.jpg
★栗とは?
日本名:くり。落ちた実が石のようであることから、小石を意味する古語「くり」からこの名になったそうです。英名は"chestnut"。 ブナ科の落葉高木。
原産地:日本、中国 産地:京都の丹波地方。そのほか、茨城、熊本、愛媛など 日本で取れる栗は粒が大きいことで世界的に有名で、甘栗でおなじみの中国のクリやヨーロッパのクリとは違う品種です。冬と夏、昼と夜の寒暖の気温較差が大きい盆地特有の気象条件と栗の生育に適した土壌が良質の栗を育てます。
★栗の歴史
日本では栗と人々との結びつきはきわめて深く、縄文時代から食糧として栽培され、飛鳥時代には特産物にまでなったといわれています。またその木は建築用材としても利用されてきました。中世になると、丹波や山城には栗林を作り、栗を売って歩く商人が京都を中心に活動していたことがわかります。栗の実は食品としてひじょうに古くから利用されていたのです。
★栄養素
主成分は炭水化物。蔗糖,ブドウ糖も含んでいるので甘みにすぐれています。水分は少なくビタミン類が豊富。ビタミンB1、Cを多く含んでおり、消化・吸収のよい健康食品として引っ張りだこ。強い甘みがあってやわらかく、たんぱく質、脂質、ビタミンなども含まれていることから、幼児やお年寄りなどに最適の滋養食品といわれています。胃腸を丈夫にする働きがあり、疲れやすい人、下痢しやすい人、足腰がだるくて力が入らないなどの症状にも効き目があるといわれています。また渋皮に含まれるタンニンは抗ガン物質として最近、脚光を浴び始めています。
★調理法・保存法
粒が揃っていて虫食いのない、重みのあるもの、鬼皮がみずみずしく艶のあるものを選ぶのが良いでしょう。栗に含まれるでんぷん質は、熱を加えると糖分に変化しますが、取ったばかりのクリは半日ぐらい干してから加熱すると、甘みが増します。また、加熱の際には、茹でるよりも蒸した方が、より甘みが増します。栗の香りは非常に失われやすいので、購入したら、できるだけ早く使いきるようにするとよいでしょう。ただし、茹でたり蒸したりして冷凍保存すれば、長期保存も可能です。
★栗の料理あれこれ
渋皮煮、天津甘栗、マロングラッセ、栗鹿の子、栗金とん、モンブラン、ゆで栗、栗ご飯、甘露煮、栗まんじゅう、ぜんざい、バター煮、クリーム煮、栗おこわ。
★栗の品種
「銀寄(ぎんよせ)」…代表的品種。栗のスーパーブランド「丹波栗」はこの栗のことです。数百といわれる栗の品種の中でも、粒の大きさと色つや、味で群を抜き、王者にふさわしい風格を備えています。丹波にはこの栗を使った数多くの栗菓子や栗酒もあります。
* 丹波栗豆知識*
平安初期、丹波では既に栗の栽培が始まっていました。土層が深く地下水が低いため、根が張りやすいのと、昼夜の温度差が激しいおかげで寒さに耐えられるよう果実の中に多く養分を蓄えるから実が締まるため、良質の栗が生産されました。また、平地の少ない土地であるため、米の代わりに山の斜面を有効利用する意味もありました。丹波栗は「日本書紀」にも記述されているほどで、時代が下がってからも各藩主たちが競って幕府や朝廷に献上。これが名声を高めることになり、参勤交代などを通じて全国に伝えられました。
「丹沢(たんざわ)」…早生種(わせしゅ)の中では代表的な品種。盆過ぎ頃からでまわる栗はほとんどこの品種で、淡褐色をしていて、艶はあまりないのですが、甘味があり美味しいです。
「利平(りへい)」…ゆで栗の食味は最高で、黒褐色で、実は独特の形をしていて、頭部にうっすら毛がはえてます。甘味強く肉質も良好。
「国見(くにみ)」…とにかく実の大きさ命の品種。イガも大きく見た目は良いけれど、味は大味で加工向けです。
「筑波(つくば)」…代表的品種。実が平均して大きく、豊産性で、甘味があり美味しいです。
「石鎚」…他の栗とは違い、ほんのり赤褐色でツヤがありきれいです。品質がよく加工原料向き、貯蔵性がいいのも特徴。
★栗カルチャー
「大きな栗の木の下で」
大きな栗の木の下で あなたとわたし
楽しく遊びましょう 大きな栗の木の下で
「行く秋や 手をひろげたる 栗のいが」松尾芭蕉
「栗拾ひ ねんねんころり 云いながら」小林一茶
「逗留(とうりゅう)の 窓に落つるや 栗の花」向井去来
「桃栗三年、柿八年」 桃と栗は芽生えてから三年、柿は八年で実を結ぶということ。何事をするにもそれぞれ相当の年数がかかるということを意味する。この下に「梅は酸い酸い十三年」「柚(ゆず)は九年の花盛り」「枇杷(びわ)は九年でなりかねる」などの句が続く。
「火中の栗を拾う」 猿が猫をおだてて、囲炉裏の中の栗を拾わせて、猫が大やけどをしたという、ラ・フォンテーヌの寓話からの句。転じて、「他人の利益のために危険をおかす」「非常な危険をおかす」の意。
銀寄 9月下旬~10月上旬 中大 暗褐色 風味があり品質が良い。形状が他の品種に比べて扁平。結実するのが遅く風に弱いため、収穫量が安定しない。現在 栽培面積は少なくなっている。10年目当たりから収穫。経済寿命が長い。低樹高に向かない。
クリの豊多摩早生
東京はかつて、クリの大産地でした。大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。
このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治20年頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治41年、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。
小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、8月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。
特に第二次世界大戦後、クリに大被害を与えた害虫・クリタマバチに強い抵抗性をもっている豊多摩早生は、品種改良の一方の親として用いられ、伊吹(農林省果樹試験場で、銀寄に豊多摩早生を交配)という優良品種を生み出しました。
豊多摩早生 市川喜兵衛(東京都杉並区) 早生 樹姿はやや開張性で、樹勢は中位、樹はあまり巨木化しない。枝梢は短く、多肥栽培に適する 毬の大きさ、刺毛の長さともに中位、1毬内の果実は多い。果実は13~15gと小型であるが、極早生としては大きい方である。双子果は少ない。
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がんばる 細見フェニツクス
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いつも見ていただいてありがとうございます。
私達の日記も
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感謝を込めてアクセス数をご報告します。
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開設日 2008.3.23 → 6.16.調査日
【調査期間 85日間】
アクセス総数 2010
訪問者総数 1234
訪問者率 62.39 %
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細見チームがんばっています。
2008.6.17.日の京都新聞によれば----
ほくとしんきん杯両丹大会福知山予選が15日
福知山市民球場で実施され、
東部振興会の細見フエニツクスが2番手に出場。
細見フエニックス 10 対 1 昭和GUTS
写真①
がんばれ 細見チーム !!
がんばる 細見フェニツクス
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開設日 2008.3.23 → 6.16.調査日
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細見チームがんばっています。
2008.6.17.日の京都新聞によれば----
ほくとしんきん杯両丹大会福知山予選が15日
福知山市民球場で実施され、
東部振興会の細見フエニツクスが2番手に出場。
細見フエニックス 10 対 1 昭和GUTS
写真①
がんばれ 細見チーム !!
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開設日 2008.3.23. → 5.22調査日
【調査期間 59日間】
アクセス総数 1673
訪問者総数 993
訪問者率 59.35%
第40回中信杯 全京都学童選手権福知山予選
東部の3チームが大活躍 !!
2008.5.17. 三和中学グランドにおいて、
第40回中信杯 全京都学童選手権福知山予選が実施され、
東部の 細見・土師清流・遷喬チームが大活躍した。
3位決定戦
遷喬チーム 6 対 3 昭南チーム
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決勝戦
細見チーム 12 対 0 土師清流
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第40回中信杯 全京都学童選手権福知山予選
優勝 細見チーム
準優勝 土師清流チーム
3 位 遷喬チーム
いす体操のお知らせ !!
私の十年来の知人で、永らくデンマーク体操を指導されている西山さんから嬉しい椅子体操のご連絡がありましたので、ご紹介します。
彼女は 明るくて きさくな性格の主婦で この体操を二十数年間楽しんでおられます。
デンマーク体操は現在
福知山ヘルスアップ体操と呼称され、
同好の指導者の方々と福知山市の武道館・長田野体育館などで
地域の方々を対象に、----誰にでもできる簡単で楽しい体操-----を格安の会費〔月4回のレギラークラスは月額1000円・フリークラスは月額2000円〕で
実施されています。
今回 新しく福知山市に所属された三和町・夜久野町・大江町の方々を対象に
無料の講習会を 座ってできる
いす体操として 企画されました。全部で4回行われます。
運動を始めたいけれど、ひざや足に不安があってあきらめておられたお方、
今まで運動をしたことがなくて、体力に自信のないお方などに適した
がんばれずにできる楽しい体操、
生活習慣病の予防と改善のための健康体操---- 椅子体操----
に参加されては いかがでしょうか。
詳しくは 下記の案内書をごらんください。事前の申し込みは不要で直接会場行ってください。
上履き・水分・汗拭きタオルをお忘れなく。-----
三和町の無料講習会は
6月6日 (金)
午後1時30分から2時30分まで
会場は三和会館(地域公民館)です。