ぴんぼけ写真日記 日々雑感

韓国の昔話、韓国語世界名作童話にも興味がある
創価学会は宗教団体なのに会員の政治信条に不快感(?_?)を問う

3.11を忘れない あれから5年

2016-03-11 | 地震と原発

5月の連休を利用して息子が何か手伝えればと実家に

次の日いわき市のボランティアの人達の集合場所行く兄が送って行く

スコップとか持って電車はというので

私は帰ってきましたが息子は残ってあちこち手伝いに行ったようです

磐田に帰ってからはよく野菜送った。

もともと自然が豊かで山菜等山や川からの恵みは数え切れない

それを一切食べなくなった、食べれたかもしれないが不安はぬぐいきれなかったのだ

6月娘がいく、兄が被害にあった久ノ浜、豊間、薄磯、小名浜、を車で通ってくれたと

ショックだったと、津波の跡がまざまざとみれたから

震災が1年、2年と経過と同時に主人の介護も始まり母も1年に1,2度預かるようにした

パートで仕事をしながらだったから大変だった

自分が倒れてはと思いちょっと早かったが年金の手続きをし、仕事をやめることにした

あれから5年母は92歳になった今までは

今まで連れて来ていたがこれからは私が行こうと思う、

だんだん足が弱くなって来ている、3月に末に行く予定だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


3月8日(火)のつぶやき

2016-03-09 | 地震と原発

RT 拡散希望 第3回 内閣支持調査を行います。あなたは、安倍自公内閣を支持しますか? 投票期間は、3月7日からの1週間とします。フォロワーがすくないので、回答の後、RT拡散、ご協力お願いします。世論調査では、不支持が増加中です。

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3.11を忘れない5

2016-03-07 | 地震と原発

毎夜電話をする  

電話に出る兄が笑うのだけど笑いが変

息子が心配しておじちゃんが変だよ、おかしいよと言いだした

息子がいわきに行くと言い出した、

まだだれも寄り付かない状態だった、

電車はいわきまでは行くその先は歩く何とかなると

それから持っていくものを買い出しにスーパーに

同じような考えをする人がいたという事か棚に物がない

とにかく残っているもの物を買い何とか集めた

3月27日キャリーバッグを持ちリュックを背負い、いわきにに向かった

兄が駅まで迎えに来ていたと

その日水道が復旧、風呂に水を張りその風呂に兄が入るならまだしも

息子に入れとそして近所の残っているおじさんを呼んで酒盛りをしたと

酒ならいくらでもあるとよほど嬉しかったのだろう

息子が帰ってきた

相変わらず情報は入らない

しかし4月に入ると飯館村全村避難など原発事故での報道が

そして津波、原発事故の影響で浜通りの津波の状況が把握出来ていなかった

原発で20k圏内の中で育ったし生活圏だった、親戚も友人もいる

安否確認を母と一緒に始める、

避難先が千葉やら、茨城、群馬、北海道に避難した親戚もあった

 親戚の居場所が確認できた、母の所に電話が近所の人からいつ戻ってくるのと

わたしは昨日帰ったとか、おばちゃんがいないから寂しいとかそれらの事もあり

母も家が気になると言い出す、5月の1日に送って行くことに決める

5月1日母と一緒にいわきに兄が迎えに来ていた

家に着くと近所の人が集まってきた、それぞれの地震の時どこにいたとかその後の行動とか

2晩か3晩ぐらいの感じで娘や息子の家に親せきにお世話になったと転々としたよ

次の日母が海の方に行って見たいと言うので歩いて行くことにした

道路はあらゆるとこ隆起していて電柱は傾いているしなかなか大変だ

畳を出しいる人がいたので尋ねると塩に使ってしまったので始末するとか

だんだん海辺に近ずく

 

   

写真を取るのもためらうような風景だ申し訳ないシャッターを切らせてもらったこの2枚だけ

海が近くて何もなければ本当にいい場所だと思う、海が目の前だ

 

                                          

 


3月6日(日)のつぶやき

2016-03-07 | 地震と原発

3.11を忘れない4

2016-03-06 | 地震と原発

これが兄が見た地震直後の様子です、

福島県の浜通りの様子は暫くの間報道されなかった

兄からの情報と

ユウチューブに載せてくれた方がいてみることが出来ました

どうなってるのか、どんな様子なのかどこがどう被害にあったのか親戚もあるし

母も実際地元の様子を避難をしていたので知らない

これを見て愕然として声も出ない、生活圏だから

津波の傷跡 いわき市四倉港(道の駅付近)11.03.12


3.11を忘れない3

2016-03-06 | 地震と原発

磐田へ

風呂、整髪、母はペースメーカーを入れているので総合病院へ

娘が付き添う受付でいわきからですか放射能の検査は聞かれたと

娘は思わずすぐに出たので心配はないですと言ってしまったと

おばあちゃんかわいそう

降圧剤をもらいに近所の医院にそこは私が付添う

お医者さんが大変だったねと声をかけてくれた

何かにつけ揺れていると言い出す

毎夜7時頃には家に残った兄に電話をするようにした

14軒か15軒ぐらいあるところに残ったのは2軒か3軒

とにかく怖い棒を置いて寝ると

屋内待機と言われたが様子を見に外に行くと国道に漁船が乗っているし、

いわきでも避難指示のところがあり

そこには入れないように自衛隊がいた、まるで何かのようだ海辺は津波にやられたと

仕事もできないので家の周りを片付けていると

この頃ははまだ食料があった冷蔵庫にあったものを食べていたようだ

21日22日23日と電話するうちにだんだん兄の様子がおかしい笑うのだがその笑い方がおかしい

冷蔵庫にも残っていたものもそろそろつきそうだと

避難所に行ってない人の所を市が2日に一度ぐらいに食べ物を配りに

まわってきたが、車のことろまではいかないともらいない

自宅に残った人で行けない人はどうしたのだろう

おむすび1個それも賞味期限が切れているけど言われたがもらって食べたと

このころ運送会社もタンクローリーもメディアもこの地域に近ずくのをやめていた

食料を送りたくても遠くまで自分で取りに行くしかなかった家までは届けてはくれないのだ

 

 


3.11を忘れない2

2016-03-05 | 地震と原発

常には予約制の高速バスだが兄の話ではこの時ばかりは並んだ順でどんどん乗せてくれたそうだ

自家用車でいわきを離れる家族もあったが、母のような場合はバスがなによりだった

避難所が閉鎖になり家には帰れず困っていた、私は行きたい衝動に駆られたが

電車もバスもこの日まで動いていなかったそんな中で

バスが東京に向けて出ると聞いた時はよかった大丈夫と思いました

これはまるで脱出だ

3月20日東京駅高速バスの終点 日本橋口

東北出身の人や、何かお手伝いが出来ればというボランティアの方たちがいた

私の母にも私が着くまで寄り添ってくれた方がいたどんなに心強かったことか

その時母は87歳11日から20日までの避難生活は顔に出ていた

新幹線で静岡へと向かう

 

 

 


3月4日(金)のつぶやき

2016-03-05 | 地震と原発

創価学会会員に憲法改正をうやむやにして参院選に望みたかったが、漆原良夫中央幹事会会長は、3日公明党の会見に対する立場に関して「護憲化改憲かと言えばわが党は改憲に属する」と説明、いつまでも会員を騙せるとは努々思う事無かれ

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創価学会の座談会は選挙のためにあるのではない。党を支援できない人が行きづらい座談会は創価学会の座談会ではない。

sakuraさんがリツイート | 11 RT

辺野古埋め立て巡る裁判 国と沖縄県の和解が成立(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/nhknew…



3.11を忘れない1

2016-03-04 | 地震と原発

5年前のあの日、静岡でも今までになとい変な揺れを感じテレビを見ると

津波の映像が・・・

いわきにいる母の携帯に電話したがでない出ないと言うより繋がらない

つながったのは夜になってから、

母の話ではあの時間散歩していた立ってられないほどの揺れで

地面にしゃがみ大地をつかむようにしてしのいだと揺れも収まり家に向かっていると

近所の若い人がおばちゃん津波が来る早く

車に乗ってと言って避難所に連れて行ってくれたが

その避難所もだめということで一晩のうちの2度、3度変わったと

その後の原発もあり家に帰れなくなる

いわき市にある実家は福島第一原発から30k圏外だったが

人が町からいなくなった自主避難だ、水が出ない食べ物がなくなる

兄は避難所でなく家に多少の事はあったものの一人残っていた

この状態では母を避難所から連れて来てもかわいそうという事もあり

車にガソリンを10L入れるのに何時間も並び母をいわき駅まで送ってくれて

高速バスに3月20日この日初めてバスが地震後出た東京に向かって

私も浜松から新幹線で東京に