京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

七面祠

2010-02-24 00:34:45 | まち歩き

先週行った新宮神社と、先月行った妙円寺(松ヶ崎大黒天)の中間地点の七面祠。東山の西麓と言うよりは、林山の東麓にあり、松ヶ崎小学校の真北に位置する。

地下鉄烏丸線松ヶ崎駅を出て、北山通を東に約500m。信号を北へ、松ヶ崎小学校東沿いの道をゆくと、突き当たりに2種の石塔と、石標、石碑がある。

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最も左(写真上・左)には、台座に「松嵜山」とある「南無妙法蓮華経」の石塔、その隣(写真上・中)には「眼病救護七面大天女道」の石標、 またその隣(写真上・中)には「南無妙法蓮華経」の石塔、最も右側(写真上・右)には、「當山二祖 實眼僧都御詠歌 日輪瀧 月輪瀧」と見え、よく判別できないが、歌が書かれていて、最後に「正二位按察使大納言有長」とある。この「大納言有長」は、綾小路有長(1791~1881)であろうか。

(思文閣美術人名辞典:http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=a&s=200

これら石塔の裏に、山裾に沿って急坂の道が続く。坂道の入り口にはまたしても同様の石標、そしてすぐ、低い低い石の鳥居がある。

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10_008  鳥居をくぐって数m、右手の崖に石垣で囲われた部分があり、上部には石造りの樋が見える(写真左)。

ここに水は全くないが、かつては水が流れていたのだろう。

このすぐ隣が階段(写真下・左)で、それを登ったところに拝殿(写真下・右)がある。

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拝殿の北側、石橋の向こうに祠(写真下・左から二番目)がある。橋の左右は窪んでいるから、かつては池だったのだろう。そう考えると、祠の西側の崖(写真下・左)は、水はないが滝のようだ。ここから落ちた水は、祠の前の池となり、さらに東へ川となって流れ(写真下・右)、さきの階段横の樋から、落ちていたと考えられる。とすると、この両者が日輪瀧・月輪瀧なのかも。

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祠の前の燈籠(写真下)、竿の正面には「七面宮御寶前」(写真下・中)、東西には「松嵜山」「妙泉寺」(写真下・右)とあった。

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 七面祠は、七面大明神(七面天女)を祀ったものだ。七面天女とは、日蓮宗に於いて、法華経を守護するとされる女神である。これは、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(山梨)で日蓮の説法を聞いていた女性が、龍に変化し、「七面大明神」と名乗った上、お題目を唱える人を守護すると語った、との伝説による。「七面」は、龍の住む「七面山」から来た名であろう。

この伝説を基に、七面大明神を祀るところは、「七面祠」「七面堂」などの名前で、各地に存在する。三輪七面山(東京)、宝鏡山實相寺(広島)、了法寺七面山古墳(愛知)、興栄山朗生寺(千葉)、法見寺北方七面堂(千葉)、七面山七宝寺(大阪)、七面山大雲寺(京都)、稲荷神社(富山)など。寺地内に祀る場合が多いようだ。

この燈籠は、妙泉寺(現・涌泉寺)が、ここを「松嵜山」の裏鬼門と見做し、日蓮宗の守護を願って寄進したものと推測される。

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拝殿には、夥しい紙垂が吊り下げられていた。まだ新しいものに見える。独特の折り方が印象的だ。

この拝殿の賑わいに比べ、本殿に向かう石橋の欠けた様子や、落ち葉に覆われた涸れ池、本殿のトタンの覆い屋など、侘しく、忘れ去られた所という雰囲気。

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拝殿・本殿の周囲は、木々が鬱蒼と茂っており、東西に伸びる細い山道の先は、陽が射していくぶん明るい。東の道には「歴史的風土特別保存地区」の石標。厚い落ち葉を踏みしめて登りかけたが、坂が急になったので、進むのを止めた。地図で確認すると、東の道を行けば、3ルートに分かれ、東山頂上・宝ヶ池・林山頂上へ、西の道を行けば、新宮神社へ出るようだ。東山で186m、林山はもっと低く120m。距離も短く、高低差もそれほどなく、子連れでもちょうどいいハイキングコース。寂し気なところを除けば。

[2010.3.10追記]

『都名所圖會』で日輪瀧・月輪瀧を見つけた。参道階段脇にあるのが日輪瀧、境内西側にあるのが、月輪瀧と思われる。

(国際日本文化研究センターHP:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_521.html


末刀岩上神社

2010-02-20 00:45:20 | まち歩き

先日行った新宮神社のすぐ西に、難読名の神社がある。「まといわがみ」と読むそうだ。もとは岩上神社といい、927年編纂『延喜式』の中の神名帳に記された「末刀(まと)神社」がここだとして、名称を「末刀岩上神社」と改めたらしい。ただし現在、下鴨神社摂社の愛宕社が末刀神社だと言われている。

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石の鳥居(写真上・左)は、ごく新しい。平成の年号が刻まれていた。この石段(写真上・右)は、奥行きが狭く、急勾配。新宮神社と同様、林山の麓に位置しており、石垣の上に拝殿があった。鳥居前の燈籠には、「寛政十年(1798年)」の文字。竿のカーブと風化で、読み取りにくく、読み間違ったかもしれないが。その燈籠正面には「岩上大明神」とあった。

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拝殿の向こうには、またしてもさらに急勾配の石段(写真上・左)。その上に、石の柵と小さな祠が見える(写真上・右)。あまりに急な階段で、手すりもないので、上るのは諦めた。先月捻挫した右足が治りきっていないし。

一旦、神社を出て、北西に続く坂道(写真下・左)を上った。それは、南下した宝ヶ池通が高架になっているところをくぐって南へU字に曲がる道で、自転車道として整備された道に突き当たる。その自転車道をしばらく歩くと、北へU字に曲がるところ(写真下・右。高架を振り返って)で、落ち葉散り敷く山道へ逸れると、そこは神社の真上で、先の 柵の中が見える。いいのか、見下ろして・・・とも思ったが。

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「岩上」の名から想像した通り、ご神体は平らな大岩だった。

10_020 どうやら、この岩には、兵庫の海で霊光を発していたのを勧請したという謂れがあるらしい。古くから漁猟・牛馬の神として信仰されていたとか。

岩を信仰対象とするのは、ごく古い信仰形態。この神社の前には、宝ヶ池公園の立派なこども体育館があり、すぐ傍まで民家も迫っている。この地で古の人々の生が営まれたのが不思議な感じがする。

ところで、この神社のすぐ西に「桜井水」と書かれた湧水がある。社地の石柵から、ほんの10mほどのところだが、そこは湧泉寺の寺地らしい。湧泉寺は、送り火の「法」の文字近く、東山の麓にあるので、少し意外に思う。

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高架道の向こう、西山の山裾には湧泉寺墓地があり、墓参に訪れる人が使う水とのこと。ところが、この湧水の脇にある看板(写真上・中)を読むと、これは枕草子(168段)の言う、9つの名水のうちの一つ「櫻井」。ネットで確認した限り、この段にある名水のうち、現存が確認されるのは白峯神宮の飛鳥井だけらしい。よってここは、「櫻井と推定」に留まる。もし櫻井なら、この緑のネットと工事用バリケードは、無粋。

最後に、末刀岩上神社の神紋を。

10_023_2 社地内にある神官の住宅(?)に、一つだけかかっていた提灯には、「井桁に橘(平井筒に橘)」の紋がついていた。


新宮神社

2010-02-17 00:46:26 | まち歩き

地下鉄烏丸線松ヶ崎駅から北へ約200m、林山の麓に、新宮神社はある。

10_001 鳥居の両脇の、古木が印象的だ。向かって左側のモミ(写真下・右)には「左京区民の誇りの木」という札があった。これは、京都市建設局・水と緑環境部・緑政課で、市民から対象木を募集し、委員会で審議の上、平成12年に制定されたそうだ。左京で101件が「誇りの木」となっており、そのうち、神社にあるものは40件。寺には10件。あとは学校や公園、鴨川沿いなどである。このモミの木は、高さ約30m、幹周約3m。「かつて神社の鳥居の代わりをしていたといわれる(京都市情報館HP:http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000021618.html)」とあるように、ちょうどよい間隔で、すっくと聳えている。右側の木は樹高が低く、季節柄、残念な状態だけれど、この木々の間を通って神社の階段を登るとき、聖域へと足を踏み入れる、そんな感覚に捉われる。

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鳥居前の燈籠(写真上・左)は、不思議な配置だ。一つは鳥居の前、一つは後ろに置かれている。燈籠には「明治十二年」、鳥居には「平成十四年」とあった。燈籠を動かさずに鳥居を新しく建立したのだろうか。階段の向きからしても、燈籠の位置は、ずれ過ぎのような気がするが。

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階段を登ったところに、また燈籠があった。これは火袋が木製で、珍しい。その火袋には三日月や星のような彫刻が見え、これは三光(日月星)を表しているのか、などと思う。この竿の部分には「宝暦三年癸酉」とあった。宝暦3年というと、1754年。そんなに古いものに見えないほど、鋭角的なカーブだった。

本殿前の狛犬たちは、よほど古いのだろうか。それとも石の材質が違うのか。丸みを帯びて苔むしていた。

10_011 階段の前には舞殿(写真左)があった。その西側にも大木が。この木と、その脇の2~3mの切り株には紙垂がついており、これら神木を祀る祠があった。舞殿の南面には鈴がついていたが、東・西・北面には、非常に古い扁額がかかっていた。

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扁額の絵は、どれも退色していて、主題や6枚の絵の関連など、素人目にはわからない。この寅と武将の絵(写真右)は、まだいくらか色と形が残っている方。

舞殿 の北、階段の向こうに拝殿と本殿(写真下)。提灯や幕の神紋は、藤紋。六條藤か、九條藤のように見える。新宮神社という名前なのに、熊野の新宮神社の紋とは、まるで違う。調べてみたら、なるほど、もとは神社の名前も祭神も違ったらしい。ただし、それが理由だとは断定できない。社を寄進するような有力な信者の家紋が、神紋となることはあるから。

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この神社の創建は定かでないが1307年を遡ることは確かである。それまでは「大比叡大明神」といい、1307年、松ヶ崎村が皆、日蓮宗に改宗した際、「新宮大明神」と改称した。熊野新宮から“諾冊二神”(伊奘諾命、伊奘冊命のことか?)を勧請し、妙泉寺(現・湧泉寺)の鎮守社となったのである。明治の廃仏毀釈で「白鬚神社」と称して猿田彦を合祀し、明治20年に「新宮神社」と改称して、現在に至る。

大比叡大明神とは、日吉大社(滋賀県)の西本宮に鎮座する大和の国三輪山の神たる大己貴神(おおむなちのかみ)、別名・大物主神あるいは大国主命のことだ。もともと比叡(牛尾山=八王子山)には、地主神として大山咋神(おおやまくいのかみ)がいたが、668年、天智天皇が大津京遷都の際に、国家鎮護のために三輪神を迎えたのである。日吉大社では、「小比叡大明神」たる大山咋神を東本宮に祀っている。これら「大比叡大明神」「小比叡大明神」の呼称は、880年の『日本三大実録』にも見え、古くからの名称であることが分かる。桓武天皇の時代(791年)にも「大比叡」「小比叡」の神輿を出した、とか。

だからといって、新宮神社が同じくらい古いとは言えないが、比叡山の真西に位置するこの場所で、「大比叡大明神」が、最澄の延暦寺より前に創建されていたのかも、と想像する。写真でわかるように、山のすぐ下に本殿がある。まるで山をご神体とするかのように。磐や山を神体として祀ったのは、ごく古い信仰形態。日吉大社の大比叡大明神を、松ヶ崎の林山に迎えたのかもしれない。日蓮宗も重視する「三十番神」の17番目である「大比叡大明神」という名前を、日蓮宗の鎮守社となったことで変えなければならなかったのは不運だった。さきに「諾冊二神を勧請」と書いた。新しく神社を創建する場合は別として、既存の神社が「勧請」するとは、迎えて受け容れる、つまり祀る神を増やす、ということだと思っていた。この神社の改称は、祀る神が変わったという印象を受ける。実は、どうなのだろう・・・・・・。


加茂みたらし茶屋 本家亀屋粟義

2010-02-13 02:13:36 | 食べ物

ここは、みたらし団子の老舗、というか、最初の店。市バス下鴨神社前下車、下鴨本通りを北へすぐ、西側にある。

10_001_2 下鴨神社HPの境内マップに、みたらしの池に湧き出る「霊水」の場所が「みたらしダンゴ発祥地」とある。 その池を水源に、南へ流れる川が御手洗川だ。楼門の外は奈良の小川、二の鳥居から一の鳥居までを瀬見の小川と名前を変え、賀茂川に注いでいる。(残念なことに、現在、みたらしの池に水は湧かず、泉川から水を引いている。涸れていた御手洗川・奈良の小川・瀬見の小川は復元された。)

「御手洗(みたらし)」とは、「神社で、参拝者が手や口を清めるための水を備えてある所(集英社・国語辞典)」であり、「御手洗川」とは「神社の近くを流れていて、参拝者が手や口を清める川(同)」である。

実際、「御手洗川」で検索してみると、伊勢神宮(三重県)をはじめ、霧島神宮(鹿児島県)、気比神宮(福井県)、広田神社(兵庫県)などで、境内あるいはすぐ近くに御手洗川が存在することがわかる。今はどこに行っても、手水舎で手や口を清めるが、ずっと昔は、流れる川の清水で、穢れを落とし、身を清めて参拝したのだろう。

京都市内の御手洗川は、ざっと調べたところでは下鴨神社のほかに、上賀茂神社、松尾大社の境内を流れている。いずれも創建が古い神社だ。

この下鴨神社では、昔から、みたらしの池に湧き出す水の泡を象って団子を作り、神饌としていたらしい。参拝した人々は、そのおさがりを持ち帰って醤油をつけて炙って食べ、厄除けにしたそうだ。それを、大正時代に神社前で開店した亀屋粟義さんが、砂糖醤油の餡をかけた「みたらしだんご」として、世に広めたのだとか。

100212_1407591_2 ひさごのお盆に載せて運ばれてきたみたらしだんごは、1+4個の3串。多すぎ!と思ったが、これが、食べられる。普段買うものは、茹でた団子にしっかりと甘辛い砂糖醤油餡がかかっている。ここのは、小ぶりの団子を炙って軽く焦げ目をつけたものに、それほど強くない砂糖醤油餡。黒砂糖と聞いていたので、少しくどい味かと思っていたが、全然そんなことはない。あっさりした甘みに、炙りたての香ばしさが加わり、味が引き立った。

「水の泡を象って団子を作」ったと書いた。団子の丸みのことだけでなく、串の刺し方も、泡の浮かぶ様子を表しているという説がある。後醍醐天皇が、みたらしの池で見た泡の浮かぶ様子が、このようだったというのだ。また、離れた一つが頭、他が四肢で、五体を表すという説もある。神饌という由来から考えると、後者の方がそれらしい。五体を模した団子を神に供え、お祓いして、それを食べる。この串も、矢取り神事に使われる斎串と同様、除災招福の意味があったのかもしれない。つまり、五体の穢れを取り去って、災いを除き、福を呼ぶという意味が込められていたのかも。

10_002_2 5本入りを、お土産に買って帰った。この包みの「原材料名」には「・・・・・・砂糖・カラメル色素」とある。黒砂糖ではないのか?それとも黒砂糖にさらに色を足しているのか?串団子5本は、ビニール袋に、たっぷりの餡と共に入っていた。5時間ほど経ってから食べたが、その餡のおかげか、お団子自体はまだ柔らかだった。それでも、お店で食べた熱々の団子の香ばしさ、風味には及ばない。お店でも、注文の前にお土産を頼んだら、「ぜひ焼きたてをお召し上がりください」と言われたっけ。

今になってよくよく見れば、この包装紙に「冷めましたらビニールの袋のまま湯煎にしてお召し上がり下さい。」とあった。気づかなかった・・・。