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自選 “横須賀十選”第6位

2010年03月25日 | その他国内旅行記
自選“横須賀十選”3/4
さて、第6位は「古事記」や「日本書紀」でもお馴染みの「倭建命(ヤマトタケルノミコト)」(日本書紀では「日本武尊」と書く)に関する史跡をブチ抜き1ページで紹介しまーす

では、まず「古事記」を中心に「倭建命」や「神話」として聞いたことがある話を織り交ぜながら進めていきます。(よって人物表記も古事記に統一しました)
簡単に話すと「日本誕生」は、天界にいた神「伊邪那岐神(イザナキノカミ)」と「伊邪那美神(イザナミノカミ)」が下界に国を作ることを命じられて始まります。
そして、この二神から日本列島と多くの神々が産まれました。
その中に「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」と「須佐之男命(スサノオノミコト)」がいます。
「須佐之男命」は父「伊邪那岐神」や、姉「天照大御神」も怒らせた問題児で、「天照大御神」は岩屋に身を隠してしまいます。
世界中が闇に覆われ、悪い神が騒ぎ出しました。
そこで、神々は「踊り囃子」や「笑い声」などで「天照大御神」を岩屋から出すことに成功し、世界に光が戻った神話は有名ですね。
その後「須佐之男命」は高天原を追われ、出雲国で「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」を退治し、その尾から「天叢雲剣」を見つけて「天照大御神」に献上しました。
それから「因幡の白兎」や「火照命(ホデリノミコト)別名:ウミサチビコ」と「火遠理命(ホヲリノミコト)別名:ヤマサチビコ」の話も有名ですね。
その「火遠理命(ヤマサチビコ)」の孫に当たるのが初代天皇「神武天皇」です。

話は、その後の第12代「景行天皇(即位:西暦71年)」の時代に飛びます。
「景行天皇」の息子「倭建命」は、幼名を「小碓命(ヲウスノミコト)といい、兄「大碓命(オホウスノミコト)」とは双子の兄弟とも言われています。
武勇に秀でていましたが気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていました。
「小碓命」が16才のとき、父「景行天皇」は九州の「熊襲」を平定するように命じました。
「熊襲建(クマソタケル)兄弟」は武勇に秀でていましたが、大和朝廷の命に従おうとしないので征伐することになりました。
「熊襲建」は大きな屋敷を新築したばかりで、そこでは祝いの宴が催されていました。
「小碓命」は出発前に叔母の「倭比売命(ヤマトヒメ)」から着物と剣を授かっていました。
少女のように髪を結い、叔母からもらった小袖を着て宴に紛れ込み、酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると、その前に進み出て目にとまるような仕草をしました。
色白で美しい「小碓命」に「熊襲建」の兄が声を掛けて傍に座らせました。
そして、兄が「小碓命」を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき、「小碓命」はここぞとばかりに持っていた短刀で兄を一気に斬り殺しました。
それを見て外に走って出ようとした「熊襲建」の弟を追い、背中から刀を刺したところ、弟は自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが倭(大和)にはいたんだと知り、自分たちの「建」の名をもらってほしいと願い、息絶えました。
「小碓命」はこれより「倭建(ヤマトタケル)」と名乗ることにしました。

「倭建命」は帰路「出雲」も平定し「大和」に凱旋しますが、休む間もなく「東征」を命じられます。
再び叔母「倭比売命」を訪ね、これは父の陰謀ではないかと嘆きます。
「倭比売命」は優しくなだめると神代に「須佐之男命」が「八岐大蛇」の尾から見つけた「天叢雲剣」と、万一の時に開けるようにと袋を授けました。
その後、各地を平定し「相模国」に辿り着いた「倭建命」のもとに、「西征」後に結ばれていた「弟橘比売(オトタチバナヒメ)命」が合流しました。
ある日、この地の「国造」が巧みに「倭建命」を野原に誘い込むと火を放ちました。
これに対し「倭建命」は「天叢雲剣」を抜いて辺りの草を薙ぎ払うと、袋に入っていた火打石を使って向かい火を焚き、風向きも味方に付けて火の向きを変えて難を逃れました。
そして、この剣を「草薙剣」と改名しました。
「草薙剣」は三種の神器の一つで、名古屋市の「熱田神宮」に祀られています。
無事に生還した「倭建命」は「国造」らを倒し、以来この地は「焼津」と呼ばれるようになったと云います。
そして、現在の「走水」に辿り着きますが、「上総国(千葉県)」を目指して船出をした一行を嵐が襲いました。
ここで「弟橘比売命」が自ら入水して海神の怒りを鎮め、「倭建命」らは「上総国」に上陸することが出来ました。

⑥倭建命伝説:走水神社、吾妻神社、安房口神社
まずは「走水」から紹介しましょう。

ここは「御所ヶ崎」です。
「倭建命」と「弟橘比売命」が滞在したときの御座所のあった所と伝えられています。

「御所ヶ崎」から「走水港」に出ると、「走水神社」があります。
「倭建命」は航海に先立ち、当地を「水走る」と称えたことから「走水」の地名が起こったといいます。
航海前「倭建命」は村人に「冠」を渡しており、村人はこの冠を埋納し、社殿を建てて「倭建命」を祀ったのが「走水神社」の創祀とされています。(西暦110年頃?)
入水から7日後「弟橘比売命」の「御櫛(くし)」が浜に漂着し、それを納めたのが、かつて「御所ヶ崎」にあった「橘神社」と伝えられています。
この「橘神社」の小祠は1885年(明治18年)軍の都合により取り壊され、1909年(明治42年)「走水神社」に合祀されました。

では、境内を紹介しましょう。

これは「舵之碑」です。
「弟橘比売命」の顕彰と、航海安全の祈願を込めて奉納されたモノです。
「弟橘比売命」が荒れる海を鎮めたことにちなんでいます。

石段を挟んで左側には「顕現之碑」があります。

これは「包丁塚」です。
「走水」の住人だった「大伴黒主」が「倭建命」に料理を献上した故事に由来して建てられたそうです。

石段を上がって本殿へ。
その右側には「別宮」があります。
「別宮」は「倭建命」の従者、「弟橘比売命」に殉じた侍女等を祀っています。

右奥には日露戦争の戦利品「機械水雷」があります。
以前はここに合祀される前に移って来た「橘神社」があったらしいです。

そして左側の石段を上がって行くと、明治43年に建てられた「弟橘比売命の祈念碑」があります。
碑文は「弟橘比売命」が入水に際しての「いまはの歌(辞世)」で、明治天皇の第六皇女「竹田宮昌子内親王」が平仮名で書かれた美しい文字が刻まれています。
碑文は「さねさし さがむのをぬに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」
訳すと「相模の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方」という意味だそうです。

記念碑の裏面には、碑の解説や「東郷平八郎」「乃木希典」以下この碑の発起人7名の名前が刻まれています。

更に脇にある石段を上がってみると「三ノ宮(左:諏訪神社、中央:神明社、右:須賀神社)がありました。
下りた後「社務所」の人が「あそこはパワースポットなんですよ」って言ってたけど…何も感じなかったなぁ。

上から見た「伊勢山崎」です。
「倭建命」が伊勢神宮で授かった御神符を祀った所と云われています。

これは「観音崎ボードウォーク」から見た「御所ヶ崎」(中央の島みたいの)です。
案内板には「御所ヶ崎」にある「倭建命」ゆかりの「皇島(倭建命が軍船に乗船された所)」や「弟橘比売命」が入水したといわれる「むぐりの鼻」を望むことが出来る…って言われても、遠くてどこか分からないよ。

東征の帰途、「倭建命」が「弟橘比売命」を追想し、足柄峠で「吾妻はや(我が妻よ)」と詠った故事から足柄以北が東国(あずま)と名付けられたと伝えられています。

長浦町の「新長浦隧道」の上には「吾妻神社」があります。

箱崎町(現在米軍施設)は、かつて「吾妻島」といいました。
それは「走水」で入水した「弟橘比売命」の「簪(かんざし)」が、この島に流れ着いたという伝説によるもので、山頂には「倭建命」と「弟橘比売命」を祀った「吾妻神社」がありました。
それが、明治33年、軍用地になったため、この地に移遷されたのだそうです。
千葉県木更津の「吾妻神社」は、海岸に「弟橘比売命」の「御袖」が流れ着いたので、この「御袖」を納める社殿を建立したのが創祀と伝えられています。
「木更津」とは、上陸した「倭建命」が太田山に登り、「弟橘比売命」を偲び立ち去らなかったため「君去らず→木更津」という地名が生まれたと云います。

初めここに取材に行った時「吾妻神社」の場所が(ネットでも大まかにしか調べてなかったため)分からず、聞き込みをして辿り着いた神社には名がどこにも記されてなく、家に帰って調べ直したら「田ノ浦神明社(長浦神社)」という神社でした。
仕方なく、また後日行って来たんだけど「長浦神明社(写真)」の脇から続く古道があって、登って行くと「吾妻神社」に着きました。
この古道は住民にガセを教えられた日に、自分はこの近辺が怪しいと思って途中まで登ってみてたんです。
でも「まさかこんな所登ったって何も無いだろう…」と思い、引き返してたんですよ…。
子供の頃の「探検ごっこ」を思い出すような古道でしたね。


ここは池田町の「安房口神社」です。

「倭建命」が東征のとき、 ここで勝利を祈願したと云われています。
「源頼朝」や「北条義時」も武運を祈って参拝したらしいです。
前日「パワースポット」という言葉を「走水」で聞いてただけに意識があったのか、何かを感じましたね。

ここには社殿は無く、御神体である大きな「安房石」(霊石)が一つ鎮座しています。

この「霊石」は「安房洲崎大明神」から飛んで来たという伝説があります。

安産の神としての信仰があり、「源頼朝」の妻「北条政子」も懐妊の折、安産祈願に参拝したと云われています。

さてさて、その後の「倭建命」は東国を平定し、その帰路、近江の「伊服岐山(伊吹山)」で大きな白いイノシシに遭遇しますが、それをいつでも倒せる「神の使い」と侮りました。
ところが、このイノシシは山の神自身が変身していたのです。
山の神は「倭建命」に大氷雨を降らせたため、大きな痛手をおってしまい、やがて病にかかり「伊吹山」を下りました。
そして当芸野(岐阜県)に至ると足が腫れ、杖無しでは歩けなくなりました。
伊勢の三重村(四日市市)では足が折れ曲がり、能煩野(鈴鹿山)で力尽きました。
その知らせは宮にいる妃たちにも届き、能煩野に陵を造りました。
皆が嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空高く舞い上がり、大和の方へ飛んで行きました。<完>
第6位は「古事記」や「日本書紀」にも記されている「倭建命」に関する神社でした。
「倭建命」と「弟橘比売命」の夫婦愛にも泣かされるじゃないですか~
明日はいよいよ、第3位~第1位の発表でーす。



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