史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

 ご意見・ご感想・ご質問など、気軽にメッセージください!

北関東史跡ハント~群馬・埼玉編

2015年03月15日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月15日(日)
今日は3:30すぎに起床したよ…6時に店を出ればイイんでアラームを5時半にセットしてたけど、近くのブースのヤツの鼾(いびき)が煩くて起きてしまったみたい。
まぁでも約4時間眠れたのは大きいし、昨晩ここ(ネットカフェ)に来てから続いてた「しゃっくり」が止まって良かったわ。
何といっても夕飯食べ過ぎた…ラーメンだけであのボリュームだったのに、セットのミニ麻婆丼と餃子(3ヶ)も食べちゃったからね。

①群馬県高崎市内編

5:55分ごろネットカフェをチェックアウトし、駅西口側へ向かいます。

昨晩食べたラーメン屋だよ…他には中華料理店、インド料理店などがあったけど、あのラーメン屋で良かったと思うよ…今日は何も食べなくても大丈夫そうだもん。

高崎市のマンホールだよ…高崎祭りの山車と花火をデザインしてるんだって。
今日は7:39発の上信電鉄に乗るまでの約1時間半、少し市内を見て行くよ。

ここは「大信寺」です…昨晩、ネットカフェに行く途中で見つけたんだよ。

残念ながら中には入れないけど、門には徳川の「三つ葉葵」家紋があるよね…

何とここには「徳川忠長」公の御廟所があるんだよ…って、俺も最初この看板?を見たとき「誰?」って思ったさ。
「徳川忠長」は第二代将軍「徳川秀忠」の三男として江戸城西の丸にて生まれ…幼名は「国千代(国松)」といい、父の秀忠や母の江(織田信長の姪)は病弱で吃音であった二男の「竹千代」(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な「国千代」を寵愛していました。
それは生まれたころより「竹千代」が乳母「春日局」の手で育てられていたため、自らが育てた「国千代」に情が向けられたのは当然なんだろうけどね。
そのうち「竹千代」擁立派と「国千代」擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされますが、のちに「春日局」による家康への直訴により「竹千代」派の勝利で終わります。
忠長は松平姓を与えられ将軍職継承権を失い…改易など不遇のまま幕命により、この「大信寺」において自刃しました。(享年28)
映画「柳生一族の陰謀」(1978年・深作欣二監督)は、この三代将軍位争奪戦が描かれているよ。


それから「城址公園」に行きました…って、高崎城址には櫓も何も無かったっけ?

目の前は「高崎市役所」だよ。

高崎城は慶長3年(1598年)「徳川家康」の命を受けた「井伊直政」によって築城されました。

これも土塁かなぁ?

これが堀でしょ?

ここは「高崎公園」です。

ここは「頼政神社」です…祭神の「源頼政」は「平清盛」から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。

これは「内村鑑三記念碑」です。

境内に入ってみました。

このように立ち上がってる狛犬って珍しくない?

鳥居をくぐったトコにいるけど、飛び掛かって来そうだね。

これが「拝殿」です。

さらに奥にも神社があったよ。

また公園を抜けて…この高崎シティギャラリーの辺りや、もっと奥が本丸だったみたいよ。
俺、あんま下調べしてなくてさ…この「城址公園」に櫓でもあるかと思ってたら無くて、そのもう少し先に「乾櫓」があったのに知らずに帰っちゃった。(またやっちまった?)
つまり「城址公園」と「高崎城址(乾櫓)」は別モノだったのかぁ…紛らわしい。

もう観るトコ無いんで(ホントはあったのに)駅に行くよ。

葉山一色亭だって…ここ高崎だけど。

6:50ごろ駅に着いちゃった…今日、さっきの市役所に「May J.」来て無料ライブやるんじゃ~ん。
昨日だったら時間を調整して観れたかも知れないのに…残念。

②群馬県富岡市「富岡製糸場」編

7:39発の上信電鉄にはまだ40分くらいあるんだけど…もはや高崎に居ても仕様がないんで、その1本前の7:18発に乗ることにしたわ。
昨日「達磨寺」に行く前に時間があったんで「富岡製糸場見学往復割引乗車券」を買っておいた(いつでも買えるけど)んで、高崎駅~上州富岡駅間1往復電車賃(1,580円)+富岡製糸場見学料(500円)がセットになって通常2,080円のところ1,640円なんだよ。

0番線だって…昔、一時期住んでた「北綾瀬」を思い出すなぁ。

初めて乗る上信電鉄だよ。

8:01「上州富岡」に着いたけど…やっぱ他の駅より立派だね。

駅からは道案内も多いんで迷うことは無いでしょう。

途中にあった「富岡諏訪神社」です。

まぁ特に何も無いフツーの神社だね。

拝殿です。

ようこそ、とみおかへ…いえいえ、こちらこそどうも。

モテ期。

ここは宮本町蔵広場です。

おぉ、レトロな建物だぞ。

通りにはお土産屋や飲食店が並んでいます。

フグ?…じゃなくて蕎麦屋?

9:00開場なんだけど、8:20に着いちゃったよ…

早く着きすぎたんで敷地の周りを歩いてみたよ…この建物は社員住宅だったみたい。

富岡市のマンホールは町の木「もみじの葉」と町の花「ふじ」がデザインされてるんだって。

これがフランス積みレンガの建物だな…入場してから詳しいことは解るでしょう。



8:45ごろ正門前に戻ったら、もう2~30人の列ができてたよ…さっき俺が着いた20分ほど前は1人くらいしかいなかったのに。

9:00開門したよ~
「富岡製糸場」は1872年(明治5年)フランスの技術を導入して設立された日本初の本格的な器械製糸工場で、当時世界最大級の規模を持っていました。

2014年6月に世界遺産登録の可否が審議され、6月21日に日本の近代化遺産で初の世界遺産リスト登録物件となりました。
同年代の「横須賀製鉄所」(→横須賀造船所→横須賀海軍工廠)だって残ってれば世界遺産になってたかもよ。

これは「行啓記念碑」です。

券売所(左)と見学ポイントマップに載ってた水飲み場…当時のモノ?

この真正面の建物が「東繭倉庫」で入場可能です。

中は展示場になってるよ…天井の板は当時のモノなのかなぁ?

これはフランス式繰糸機(復元)です。

小学生のころ授業でマユを茹でて絹糸を取り出したことがあったなぁ。

蚕にもいろんな品種があるんだねぇ。

「東繭倉庫」を出ると見えるのが「乾燥場」の煙突です。

この乾燥場辺りは工事中なんだね。

乾燥場の「蒸気釜所」辺りです。

この小屋は?

これは工場長の社宅だよ。

これは役職者用の社宅みたい。

解説集合場所です。

ミニ神社?と自販機んトコにあった休憩所?

「西繭倉庫」は中に入れないよ…さっき入場前に外から見たのが、この「西繭倉庫」の反対側だったんだね。

ここは「東繭倉庫」の裏側。

また「東繭倉庫」の正面に戻って来たよ。

これは「検査人館」です…生糸の検査を担当したフランス人男性の住居でした。

これは隣にある「女工館」です…日本人の工女に器械による糸とりの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居で、木骨レンガ造2階建て回廊様式のベランダ付き住宅風建築物です。

ここ玄関?


これは「繰糸場」です…ここは入場できます。

内部見学できるのは「東繭倉庫」と「繰糸場」の2ヶ所です。

小屋組には「トラス構造」という従来の日本には無い建築工法を用いています。

操業停止(1987年)時の機械がそのまま置いてあるんだよ。(昭和40年代以降に設置された自動繰糸機)

ここは繭から生糸を取る作業が行われていた場所で、創業当時はフランス式の繰糸器300釜が設置された世界最大規模の製糸工場でした。

俺が持ってたイメージって田舎の女子が家族を養うために奉公のような感じで親に出されて働いてた…なんだけど、誤解?

ブリュナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類は、岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈されたことから、そこに保存されているそうです。

これは「診療所」です。

これは「ブリュナ館」です…指導者として雇われたフランス人「ポール・ブリュナ」が家族と暮らしていた住居です。
ブリュナは製糸場の設計のために「横須賀製鉄所」のお雇い外国人だったエドモン・オーギュスト・バスチャンに依頼して設計図を作成させました。
彼が短期間のうちに主要建造物群の設計を完成させられた背景としては、木骨レンガ造の「横須賀製鉄所」を設計した際の経験が活かせたからです。

後にこの建物は寄宿舎や工女に読み書きや裁縫などを教える夜学校として利用されました。

この下は「かぶら川」です…レンガ積み排水溝があるんだって。

これは「寄宿舎」です。

「繰糸場」の側面だよ。

また「東繭倉庫」前に戻って来たよ。

場内見取図です。

9:50すぎ「富岡製糸場」を出ました…帰りの上信電鉄は「上州富岡」10:45発だから、どっかで時間ツブせるかなぁ?

帰りは商店街も開き始めてたよ…あのレトロな建物は時計屋で、お土産も売ってたんでチョット店の中に入って店主と少し雑談してたよ。
俺は15年ほど前、時計メーカーに勤務しててこのような時計屋にも営業してたからね…当時の所長が高崎から栄転して来た人で、その店主も知ってたはずなんだけど、名前が思い出せなくてさ。(数時間後に思い出したけど)

お土産屋「お富ちゃん家」です…いろんなお土産売ってたけど、もう「工女QP」は生産中止っぽいなぁ、製糸場内の売店にも無かったし。

「お富ちゃん」だよ。

レトロな外観の建物も多いけど…この後、埼玉で行くトコもレトロだぞ。

ほぼ駅前なんだけど、もうここに遺構があるの?って最初思ったよ。

その前にある「富岡市役所」だよ。

何だかんだ時間をツブして10:35「上州富岡」に戻りました。

旅に出る前の天気予報は曇りだったけど、今日も天気が良くてサイコーでーす。

10:45発の高崎行に乗りました。
今回の史跡ハントのメインはここ(富岡製糸場)だったからね…と言うのも、来月(4月)から入場料が¥500¥1,000に上がるんだわ、それで群馬周辺の史跡ハントを企画したんだよ。

③埼玉県川越市「小江戸川越」編
11:24「高崎」に着き、次は11:30発の高崎線に乗るけど、乗り換えに6分しか無いんで杖をつきながらも急いで上信電鉄の改札を出てJRに向かったよ。
さぁ高崎線は何番ホームだ?と掲示板を見ると…「チョット待って、チョット待って、高崎線、48分て何ですの?」
11:48分って20分後じゃんよ…どういうこと?俺、調べ間違えた?と思い、ホームの時刻表を見てみたら「2015年3月14日改正」って昨日付でダイヤ変わったのかよぉ。
家を出る直前まで入念に時刻表は調べていたんだけど…特に日付を入力して検索するサイトじゃないからねぇ。
これから上の妹一家が住む「川越」に行くんで、前日に義弟(と言っても同じ歳)に連絡したところ「ゆうてる(甥2人)」も「会いたい」って言ってくれて一緒に史跡ハント?することになってたんだよ。
これじゃ当初の合流時間に着かないのと、遅れて何時になるのか?も分からないんで調べておいてもらい…13:13「大宮」着で13:17発の川越線に乗り換えて13:35「南古谷」で降りました。

「川越」の1駅前で降りたのは、車で来る妹一家が「南古谷」の方が拾いやすい…と言うのでね。
俺は妹の家には行ったことあるけど、「川越」駅は今回初めてだから知らないけど…確かにこの駅(南古谷)なら確実に込まないな。
でも…数分遅れて妹一家登場…って、俺は17分の川越線に乗れた後すぐメールしたんだけど…俺が「大宮」で4分間の乗り換えは脚が悪いから厳しいだろう…と20分後を想定してたみたいでさ。
たまたま高崎線が「大宮」に着いたとき、扉がホーム階段の前だったんでさ…それで俺の脚でも間に合った…って、そんなヒドくないよぉ、走れないけど速歩きはできるからね。
まぁでも年末年始以来のYUYA&TERUYAに会えたよ~
帰りは「川越」16:22発に乗りたいんで約2時間半で何が観れるかなぁ?

まずは車で「本丸御殿」に連れて行ってもらったよ。(これは側面)

これが正面…入館料は¥100です。
天正18年(1590年)「豊臣秀吉」の小田原征伐に際し、北条氏の宿老「大道寺政繁」が守る川越城は「前田利家」に攻められて落城しました。
やがて同年8月「徳川家康」が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、川越には「酒井重忠」が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。
本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで貴重な遺構なのであります

この杉戸絵は「朝日に松」という題がつけられており、赤々と登る太陽と太く荒々しい木肌で表現された松が描かれています。

それでは中の一部を紹介しましょう。

これは「使者の間」です。

これは「物頭詰所」です…物頭とは足軽頭(足軽隊を率いた指揮官)のことなんだって。

これは「東廊下」で長さは40m近くあります…ドラマ「JIN‐仁‐」の撮影も行われたんだよ。

鬼瓦です。

川越城は関東七名城・日本100名城に数えられているよ…ちなみに七名城は他に忍城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・多気城(または太田城)で、行ったことあるのは同じく埼玉県内にある忍城で、前日行きそびれたのが宇都宮城だよ。

庭園もキレイに整備されています。

ここ何の間だったっけ?

便所と…あれ?この行灯、電気使っちゃってるよ…

これは「鎗の間」だって…鎗は無かったような。

14:25ごろ「本丸御殿」を出たよ…所要時間はあと1時間半くらいかな。

すぐ近くの「三芳野神社」に行ってみたよ。

信号機の音楽で有名な「とうりゃんせ」の唄発祥の地なんだとさ。

ここは天神様なのかぁ、そういや「とうりゃんせ」の歌詞にも「天神さまの細道じゃ~」ってあるけど、この参道が舞台といわれてるみたいよ。

川越市のマンホールだよ。

ここは「中ノ門堀跡」です。

旧城内に残る唯一の堀跡です。

川越市役所前を通り、札の辻交差点を左折すると…

「蔵づくりの町並み」があります…一番街の大沢家住宅(写真右)は1792年(寛政4年)に建てられ、国の重要文化財になっています。

これは「川越まつり会館」です。

現在の蔵造りの多くは川越大火(1893年)後に建てられたもので、今も30数棟が残っているそうです。

情緒あふれる「蔵づくりの町並み」を台無しにする交通量だな…歩行者天国にできないのかなぁ?

これは「時の鐘」で、ちょうど15時の鐘を聴くことができたよ。

ホント、タイムスリップしたかのような町並みだね…車さえ通らなきゃ。

天気の良い日曜日…人もいっぱいだわ。

これは大正7年に建築された洋館で、埼玉りそな銀行なんだって。

なんか歩道も狭いせいで、ゆっくり観れる雰囲気じゃないんだよな~

これは「山崎美術館」です。

川越商工会議所もレトロな造りになってるねぇ。

それから「大正浪漫夢通り」へ。

え ホントに大正ロマン?

ここは「熊野神社」です。

なんか、お囃子につられて入って行くと…

銭洗い弁天があったよ。

これは拝殿です。

お囃子はここから聴こえてたのかぁ。

こういうのって大抵オッサンさんかオバサンがやってるのに珍しく若い子がやってるね。

「本丸御殿」からずっと歩きだから「ゆうてる」は疲れちゃったかな?

ここは「成田山」です。

最後に向かうのは「喜多院」だよ。

慈覚大師が830年(天長7年)に創建した天台宗の名刹です。

江戸時代初期、名僧「天海大僧正」も住職をつとめました。

これは「多宝塔」です。

「徳川家康」の信任を得ていた「天海僧正」が第27世住職になると幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や三代将軍家光の乳母として知られる「春日局」が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築されました。
ただ…もう時間があまり無いのと拝観料が¥400ということもあり、それらは観なかったよ。

これは「鐘楼門」です。

ここは「喜多院」の南側に隣接する「仙波東照宮」です。

東照宮といえば「徳川家康」を祀っているけど、ここは日光久能山と並ぶ“日本三大東照宮”の一つなんだって…じゃあこれで制覇だね。

元和2年(1616年)駿府で「徳川家康」が没し、その遺骸を静岡(久能山)から日光山へ移葬する途中「天海僧正」によって「喜多院」で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633年)建立されました。

あれ 門の中に誰もいないのね。

こっちが「喜多院」の山門よ。

「南光坊天海」大僧正だよ。

朝は高崎の「徳川忠長」で始まり…最後は「春日局」と「徳川家光」関連で終わるとは…家光・忠長兄弟の因縁か?
もう時間は16時近く…これから歩いて「本丸御殿」(駐車してる)に戻って、車で「新河岸」に16:20くらいまでに着くだろうか…?
できれば横浜まで1本で出られる東武線に乗りたいんで、そこで妹一家とは別れて歩いて川越駅まで行くことにしたよ。

クレアモールってのがけっこう長くてさぁ、16:20「川越」に着いたよ…またギリで間に合わないかと思ったわ。
今回「川越」は史跡ハント帰りに“立ち寄った”みたいな感じになっちゃったんで…また機会があればゆっくり観てみたいね。
そのときはヨロシクね~ 今度「ゆうてる」がウチに来るのはGWだね、待ってるよ~
その後「横浜」から京急に乗り換えて18:45ごろ家に着いたよ…「横浜」から1本で「川越」まで行けるのってラクだよね。

この史跡ハント2日目のレポートが更新できたのが21日なんだけど…帰って来てからの1週間、仕事の影響もあると思うけど左脚の状態は過去最悪かも。
それでも…史跡ハンターは死なず またどこかの史跡に出没するでしょう。
次回はいつ、どこになるか分からないけど…再見



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北関東史跡ハント~栃木・群馬編 | トップ | 史跡ハントから帰還したよ、... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

幕末~明治史跡めぐり」カテゴリの最新記事