
食事を済ませてから漁師町の狭い路地を歩き、江島神社の方向を無造作に歩いた。小さな島なので、坂道を登り上がれば神社が見えるはずだという程度の不確かな判断で、狭い坂道をゆっくり歩いた。取り立てて江島神社に行きたいと思っていたわけではないが、優子に疲れていないか、バスで帰ろうか訊くと、これから寺社を廻るのだから、ほろ酔い加減を少し覚ました方がいいという提案をしたので、ならばせっかくだからお参りしてから、ということになった。
不確かな方向性だったが、狭い坂道と石段を登るとお参りの順路に出た。僕たちはそこでしばらく風に吹かれながら海を見つめた。稲村ケ崎の向こうに由比ヶ浜が見え、その向こうには、薄っすらと三浦半島が見えた。
「いつか、三崎港にマグロだけを食べに行きたいね」と僕は優子に言った。
「非日常のささやかな贅沢を気持ち良く豊かにね」と優子は答えた。「でも、たった今お刺身を食べたばかりよ」
「だからそう思ったんだ。非日常をもっと豊かにするには、思いついたことを言葉にすればいい」
「圭ちゃんには敵わない」と優子は言った。
それから僕たちは、江島神社と八坂神社をお参りし、酷い混みようの弁財天仲見世通りでお土産に鯵の干物とワカメと釜上げシラスとサザエを買って、宅急便で日曜日の午後3時以降着で送ってもらうことにした。
「圭ちゃんは、サザエは外せないのね。良い想い出があるから」
「ある種の原風景だからね」と僕は言った。
結局バスに乗らず、来たときのように富士山を見ながら弁天橋を歩いた。
Bill Evans Trio - Witchcraft
長谷に戻った僕たちは、特に行くあてもなく混雑した大仏通りを高徳寺に向かって歩いた。混み合った狭い歩道を行き交う人たちと肩を擦れるように歩く。優子と並んで歩くことはできず、会話も途切れがちだ。さてどこに行こうか、車道を大股で歩き僕たちを追い越していく外人のカップルの背中を追いながら僕は考える。空は晴れ寺廻りには申し分ない連休初日の秋の午後だ。
「大仏様の境内でひと休みしよう」と僕は振り向いて優子に言った。
「いいわよ」と優子が、微笑みを浮かべて答える。表情にかすかに疲労が滲んでいる。たぶん脚が疲れているのだろうと思う。
「歩き疲れていない?」と僕は優子に訊いた。
「疲れているけど大丈夫よ」と優子は言った。「疲労はある種の充実に伴うものなの。部屋に帰って心地良い疲労が生まれるはずよ」
「今夜は僕がマッサージをしてあげるよ。結構得意なんだ」
「期待しているわ」と優子は言って僕の肩に手を置いた。
早めにホテルに戻り、ゆっくりしようと僕は思った。
列の後ろに並び、優子がバッグからローズピンクのセリーヌの財布を出して拝観料を払う。
僕が払う場合は、ポケットから小銭を出す。僕のズボンのポケットの右側には100円玉と50円玉が入っていて、左のポケットには10円と5円と1円が入っている。だからジーンズの時は、ポケットが膨らんであまり見栄えが良くない。そしてお釣りの硬化は、購買活動の中で減ったり増えたりしながら、ポケットに役割を与え続ける。
僕たちは人混みの境内を見回し、座る場所を探す。休憩スペースの長椅子はどこも余裕がなく、僕たちは通行と記念写真撮影の妨げにならない、一番下の基壇の陽当たりの良い場所に腰を下ろした。
振り返ると大仏は、青空と緑をバックに寡黙にそして寂寥感を漂わせながら佇んでいた。ちょうど斜め横から大仏を見る位置で僕たちは背を向けている。
「ねえ、圭ちゃん。小学生みたいな質問してもいいかしら?」と優子が訊いた。
「そのレベルの質問に答えられなかったら傷つくけどいいよ」
「奈良の大仏には、お家があるけど鎌倉の大仏にはなぜお家がないの?」
「大仏殿のことだね?」
優子は肯いて微笑んだ。
「大切な仏様だからね、ここにも巨大な大仏殿が建っていたんだよ」と僕は言って指を指した。「ほら、見てごらん。あそこに平たい大きな自然石が、ほぼ等間隔で並んでいるよね。あれは礎石と言って大仏殿の柱を建てた基礎石なんだよ。想像してごらん。あの大きな礎石に建っていた柱が、どれくらい太く長かったか、大仏さんの大きさを見ると少しずつ大仏殿の絵がはっきりすると思う」
優子は礎石をじっと見つめた後、振り返って大仏を見た。それだけでは足りないらしく立ち上がって身体を大仏に向けて見上げた。長い髪が後ろに流れた。
「創建当時は建っていて今ないのは、何かしらの理由で壊れてしまい再建されなかったということなのね?」
「そうだね」と僕は大仏を見上げている優子に言った。「東大寺の大仏殿は、大仏と他の建造物もろとも平重衡の南都焼討で燃え落ちてしまい、その後、僧・重源らの尽力で再建され、戦国時代には、三好、松永の抗争でまた焼け落ちてしまった。でも、徳川幕府によって、サイズを創建当時よりも小さくして再建され現在に至っている。そういうわけで、天平時代の物は、大仏の一部を除いて残っていないんだ。というわけでここまでは、ざっくりだけど高校の日本史の復習だね」
「ねえ、高校の日本史の復習だなんて言わないでよ。平重衡の南都焼討も三好・松永の抗争もすっかり忘れているし、詳細を知らないんだから」
「別に知らなくても困ることはないから」と僕は言った。
「ここ高徳院の大仏殿はなぜ壊れてしまったの?鎌倉末期の騒乱で焼けてしまったとか?」
そう言って優子は、僕の隣に腰かけた。
「詳しいことは解らないけれど、というか、この大仏さんが、何の目的で誰によって建てられたかも実はよく解っていないらしい。お寺の縁起には、頼朝の命を受けてとかそれらしいことが書いてあるけどとても信用できない。当時の歴史を描いた『吾妻鏡』の記述も今ひとつはっきりしない。そんなわけで、高徳院の大仏は謎がとても多いミステリーの大仏なんだ」
「ミステリーの大仏さんでも、どこからか歩いてきて、ある日ここにお座りになったわけではなるまいし」と優子がおどけて言った。
「だったら、余計にミステリーだよ」
「だめだめ、圭ちゃんがその方向に進んだらお笑い路線にまっしぐらだから元に戻りましょう。なぜ、壊れてしまい、なぜ再建されなかったの?」
「危惧してる?」
「とても」と優子は言って微笑みのランクを上げた。
「では、なるべく期待を裏切らないように」と言って話しを進めた。「謎が多くてもまるっきり記録されていないわけではなく、いくつかの文献資料と調査研究から、初めは木像の大仏が造られ、大仏殿もあったことが分かっている。そうした成果によると創建後、230年ほど経ったある日、たしか1495年だと思う。大地震が起こり、中部、東海、関東沿岸に大津波が襲い、大仏殿はその津波に呑み込まれ崩壊してしまったらしい。
この寺は、海岸線から1㎞くらい離れていると思うけど、その距離をもって巨大な大仏殿を崩壊させてしまった津波はどれくらい大きかったんだろうね。そしてこれ以降、大仏殿は再建されず約500年間“露座の大仏”としてここに在り続けてきたんだ。
ただね、鎌倉幕府が生まれ、最終的に大仏殿が崩壊したと記録されている1495年の大地震までの約300年間には、相模湾沖で11回大きな地震が起こり、その内6回は、鎌倉が震源地なんだ。
その地震の記録は、わずかだが残っている。鎌倉を震源地とした6回の地震のうち、鎌倉の大地震といわれる地震で町が壊滅状態になった記録や他の地震で建長寺が壊れたとか、津波が襲ったとか、被害者の数が記録されているんだけど大仏殿については書かれていないんだ。
判っているのは、鎌倉の大地震では大仏殿は壊れていないこと。1495年の大地震の際津波で壊れてしまったこと。それ後再建されていないこと。
まず最初は、木造の大仏だった。それは台風で大仏殿もろとも壊れてしまった。でもすぐに同じ木造の大仏と大仏殿が再建された。しかしまた台風で壊れてしまった。そこで造られたのが、今僕たちの背中の後ろに座っている金銅製の大仏さまなんだよ」
「ということは、金銅製の大仏さんと同時に大仏殿が再建されたものの、鎌倉の大地震を除くその後の大地震で大仏殿が壊れてしまった可能性はあるわけね」
「そのとおり。ただ記録には残っていない」
「記録に残っていないけど、金銅仏建立時の大仏殿は崩壊し、再建された可能性が高い。そして1945年の大地震の時発生した津波で壊れてしまった。その後は、大仏さんのお家である大仏殿は建てられなかったのね」
「そう。事実と推論を重ね合わせると自然になる」
「なるほどね」と言って優子は軽いため息をついた。「露座の大仏を巡るミステリーをこの場で聞けるなんて、旅は素敵ね」と優子は言った。
「そんな謎めいたことを提供するのも僕たちの仕事だからね」と僕は優子を見て言った。「でもね、大仏殿崩壊と再建を巡るミステリーも面白いけど、誰がどんな目的でこの大仏を造ったのか、その方がミステリーだよ」
境内は時間の経過に関わりなく、人で溢れていた。露座の大仏をバックにスナップ写真を撮る人が絶えなかった。背を向けて話しこんでいるのは、辺りを見回しても僕たちだけだった。背中に秋の優しい陽射しを感じた。
「ねえ、圭ちゃん。今日は他のお寺を廻らなくていいから、ミステリーの続きを聞かせてよ。だめかしら?神社仏閣巡りが趣味の圭ちゃんは、廻りたい?」
「いや、できれば今日は廻りたくないんだ。旅にしては、いささか歩き過ぎたというか、ビールを飲み過ぎたというか」
「だったら話して。その前に何かさっぱりした飲み物を買ってくるわ。圭ちゃん何がいい?」
「スカッと爽やか、コカ・コーラ」と僕は言った。
「了解!」とにこやかに優子は立ち上がり売店へ歩いていった。背が高いから感じるのか、優子の歩く姿は颯爽としていた。背が高いだけではなく、身体つきのバランスもいい。この二つは優子と星川さん共通点でもある。とても複雑だ。
優子が飲み物を買って戻り、久々に飲むコカ・コーラのプルリングを開けた。この瞬間と一口二口目はまさに“スカッと爽やかコカ・コーラ”だ。優子は温かいココアを両手でだいじそうに持って暖かそうにしている。その姿がどことなくあどけなく感じ、僕もホット・ココアにすればよかったな、と思った。もちろん、僕がホット・ココアの缶を両手で持ち、暖かそうにしていても誰もあどけない姿だと思ったりしないだろう、ということは自覚している。
「最初に木造の大仏が建立されたのは、鎌倉幕府を盤石にした北条時泰の死の翌年だった。これはほぼ間違いのないところで、高徳院に伝わる縁起の頼朝云々という話ではない。
寺社の縁起というものは、古事記の神話と同じように古さや正統性や霊験性を持たせるために脚色され現実離れしていたり、早い話嘘を書くことも往々にしてあるから注意が必要なんだ。
もうひとつ鎌倉時代を描いた『吾妻鏡』には、浄光という僧侶が勧進して建立したとあり、東大寺が、良弁僧正や行基を勧進として広く浄財を募り、建立に貢献したこと事と同じように、こちらの方が信憑性が高い。ただ、国家的事業クラスの寺院建立の僧侶の勧進には東大寺がそうであったように強大なバックボーンがなくてはとても漕ぎ着けるものでないと思う。
東大寺では聖武天皇が発願者で、同時にバックボーンだったように、僕は時泰が、発願者で浄光のパトロンだったと思っている。ただ、この浄光という僧も勧進したということだけが書かれ、どんな経歴の持ち主か、その後どんな活動を行ったのかはまったく不明なんだ。
事績不明の僧侶が単独で勧進を行い、これだけの寺院が建てられることなどあり得ないわけで、だからこそ、時の最高権力者であり聡明な執権だった時泰が、自然とクローズアップされる。
ここでまた、高校の日本史の復習になるんだけどいいかな?」
「人が悪いのね、圭ちゃんは。私は受験勉強だけに徹したつまらない高校生活を送っていたから、大学に入ってみんな忘れちゃったのよ。言い訳だけど、受験は世界史を選んだしね」
「僕も世界史だったんだ。また共通点があったね」
「もう、ますます人が悪いのね」と優子は言って頬を膨らませた。
僕は、そんな優子を微笑ましく思いながら話しを続けた。
「鎌倉武家政権の黎明期に、執権職北条家は、これを得宗家とも言うよね。得宗家の第一世代である祖父と第二世代の父が行ってきた非情な政権略奪行為を、第三世代である時泰は、政権の一旦に参加していた若年の頃から自分の目で見続けていたんだね。
第一世代と第二世代の政権略奪行為について、少し丁寧に話すね。ここがとても重要なポイントだから。少し長くなると思うけど」と言って僕はコーラを飲んだ。やはりコカ・コーラは、一口目と二口目が美味しい。
「ある時代の繁栄の裏には、必ず犠牲となるその前の時代が存在するよね。鎌倉時代の繁栄も、平氏の滅亡があって成り立ち、平氏の滅亡させたのは、源氏の嫡流である流浪の頼朝を抱き、結集した後の鎌倉勢と関東勢で、権力の中心は、京から東国の海辺の片田舎鎌倉へ移り、鎌倉の栄華が始まったわけだけど、その栄華の始まりには、平家追討の最大の功績者、弟の義経や一族の源範頼や近習の家臣たちが、頼朝の命により誅殺されている。その源氏の嫡流も、鎌倉では三代で滅びてしまう。三代といっても、ニ代将軍頼家、三代実朝は、頼朝の子供だから、ニ世代というわずかな期間で、源氏の鎌倉時代は儚くも終焉を迎えてしまった。
血が流されながら権力は確立してゆく。無残な血の系譜こそ権力なんだね。歴史の興亡を眺めるとそんな風にしか感じない。
源氏が三代で終わってしまったのは、単に後継者に恵まれなかったのか。そうではない。頼朝を後継した頼家、実朝兄弟は、暗殺されたわけだから。
頼朝亡き後将軍となった頼家は、側近を急激に若返らせ、頼朝以来の御家人から不平を買い、頼朝の最大の後援者、また妻の政子を出した北条氏からも厳しい目で見られた。
そんな状況で頼家は、舅の比企能員と謀り、北条氏討伐を計略したわけだけど、将軍を補佐する執権北条時政の嫡男、実力者義時により、伊豆に幽閉されてしまう。これを比企能員の乱と言い、その後頼家は暗殺されてしまうんだ。将軍となり2年。まだ26歳だった。
暗殺までの一連の黒幕は、頼家の叔父にあたる義時で、義時の姉が頼家の母であり頼朝の妻の政子だよね。ただ非情と言うしかないね。
三代将軍には、弟の実朝が就き、実朝は朝廷との融和策をとり、上皇から次々に官位を授かるわけだけど、ついに頼朝以上の右大臣という官位を授かり、近習から諌められる。幕府の創設者であり、源氏中興の祖である父の頼朝を超えるとは何事か、というわけだよ。
そのような状況の中、実朝は頼家の遺児、鶴ヶ丘八幡宮の別当職、公暁により、右大臣授官の祝いの日の夜暗殺されてしまう。鶴岡八幡宮の石段左にある大銀杏の木に隠れ、石段を登って来た実朝を刺してしまうという話しは知っていると思う。実朝は将軍になり16年。28歳の若さだった。
実朝は幼くして将軍職に就いたわけだけど、実朝に代わって権力を握っていたのが、母であり尼将軍と言われた北条政子で、補佐していたのが弟の義時だった。この事件の黒幕は果たして誰なのか、ということなんだけど、義時だということは、解りすぎているよね。
公暁は、父の仇を実朝と義時に向けたわけだけど、義時は八幡宮に向かう行列の途中、病気と称し家に帰り難を避けた。黒幕だからこそ可能な行動だと思う。
このように頼朝亡きあと、二人の後継者がそろって暗殺された。時の最高の権力者は、執権北条時政と義時と頼朝の未亡人である北条政子。父親であり息子であり娘であり姉弟という関係。そして頼家、実朝は、政子の実子という現実。これが何を意味しているのか。
頼家については、蹴鞠に興じるばかりで、行く末を政子も案じ、時には諌めたようだけど聞き入れられなかった。頼家については、将軍の器ではないと政子も見捨てていた節があるけれど、実朝のことは溺愛していたようで、実朝は文人としては一流だったが、将軍としてはやはり頼朝には、比べようにならなかったという思いが政子にあったことは否めない。だから、愛情を込めて補佐し続けた。
それでも二人の暗殺は、偶然であったと考えるのは無理がある。やはり、実力者の意図が底にあったと言わざるを得ないと思う。
“二人の能力では、鎌倉はいずれ滅びる。その前に確固たる流れを作る。その中心は、北条家でなくてはならない……”という意図。
義時と政子姉弟が仲たがいもせず、その後の幕府の礎を築いていったのは、何よりも一連の流れを物語っていると思う。
ずばり、暗殺の企画者は義時。政子は、自分の子供の死を悲しみながらも耐え、事実を受け止め、それを怜悧にも乗り越え、さらに尼将軍として義時を助けた。そしてニ代執権義時と尼将軍政子姉弟により、鎌倉の武家体制は整えられ、その権力は、北条家が一気に手にし、揺るぎないものに整えられていった」
僕はそこまで言うと一旦言葉を切り、コーラを飲んだ。気が抜け始め甘さが口の中で強調された。
「時泰は、父と祖父と叔母が繰り広げた政権略奪行為と従兄たちの悲劇をじっと見つめていたのね」と優子は言った。瞳に悲しみの色が滲んでいた。
「それだけではない、政権略奪のためにライバルとなる頼朝時代からの家臣団の有力者を滅ぼす現実も見ているんだ。この間には、最大のライバルであり、幕府創設の功労者である三浦一族の有力者の和田義盛を挑発して滅ぼしている。それが最たる例かな。
和田塚という江ノ電の駅があるよね。あの地は和田一族の終焉の地でありお墓があるんだ。
そういうわけで、権力というものは、親子、一族、ライバルを血の海に巻き込みながら確立していくものなんだね。こんなふうに義時は権力を集中し膨らませていった。あまりにも権力が大きくなった義時を、後鳥羽上皇は嫌い“執権北条義時追討の院宣”を発し朝敵として、討とうとした。しかし逆に義時の嫡男、時泰を総大将とする、幕府軍に破れ、後鳥羽上皇は隠岐に流されてしまう。これが世に言う承久の乱だよね。この乱で義時、時泰親子は、錦の御旗をも踏み潰してしまい執権家に逆らう勢力は、いなくなってしまった。
そして承久の乱直後に義時が急死し三代執権に時泰が就く。翌年には政子が亡くなる。血で血を争い勝者となった二人が、歴史の舞台から消え、血生臭さが減少し鎌倉には”安泰”という風が吹き始めたんだ。
ここからは、僕の自説なんだけど、鎌倉武家政権黎明期に二世代にわたり揺ぎ無い武家政治体制の築きあげ、その後自ら中央に君臨することになった時泰は、祖父、父、叔母たちの手により無残に死を遂げた、源氏の若き嫡流の”鎮魂”のために自ら建立したのが鎌倉の大仏ではないか、という説なんだ。時泰は余りにも非情な現実を見ているから、“安泰”という風の中で、振り返り現実を回顧できたのではないかと思う。
権力者というものは、同情という情緒的な側面だけではなく、怨霊となって当然の魂を慰め鎮めることで災いを防ぎ安泰をより確実にしようとする情緒も持っている。菅原道真を放逐した藤原氏がそうであったようにね。これが僕の鎌倉の大仏建立鎮魂説だけど」
僕は残りのコーラを飲んだ。タバコを吸いたかったが、喫煙所以外で吸うことが憚れたので諦めた。優子は何度か頷いて僕を見つめた。見つめただけで何も言わなかった。ただ静かな瞳が僕に語りかけていた。僕は黙って優子の言葉を受入れた。それは“悲哀”という言葉だった。優子はすでに温くなってしまったと思われるココアを少しだけ口にした。
「東大寺の大仏は、毘盧遮那仏といって、史実の人物としての仏教の祖であるゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏という意味があって、聖武天皇が目指した仏教による鎮護国家にふさわしい仏なんだ。
時泰が建立した鎌倉の大仏は、阿弥陀如来で、阿弥陀如来は無明の現世を遍く照らす光の仏にして、西方にある極楽浄土という仏国土の主でもある。日本の浄土思想が、来世での幸福を約束を果たしてくれるという意味合いで広がったことを考えると、祖父と父と伯母の非情な権力略奪によって非業の死を遂げた若き将軍の極楽浄土での幸せを願うために建てられた仏像としてこれ以上ふさわしい仏はないと思う」
話し終えてしばらく沈黙が生まれた。優しい沈黙だったが、やはりどこか悲しみを感じさせる沈黙だった。優子はココアをそっと飲み僕に渡した。残りは僕に飲んで欲しいということらしい。
僕は優子からココアを受け取りすっかり冷えてしまったココアを飲んだ。唇に優子のルージュを感じた。
不確かな方向性だったが、狭い坂道と石段を登るとお参りの順路に出た。僕たちはそこでしばらく風に吹かれながら海を見つめた。稲村ケ崎の向こうに由比ヶ浜が見え、その向こうには、薄っすらと三浦半島が見えた。
「いつか、三崎港にマグロだけを食べに行きたいね」と僕は優子に言った。
「非日常のささやかな贅沢を気持ち良く豊かにね」と優子は答えた。「でも、たった今お刺身を食べたばかりよ」
「だからそう思ったんだ。非日常をもっと豊かにするには、思いついたことを言葉にすればいい」
「圭ちゃんには敵わない」と優子は言った。
それから僕たちは、江島神社と八坂神社をお参りし、酷い混みようの弁財天仲見世通りでお土産に鯵の干物とワカメと釜上げシラスとサザエを買って、宅急便で日曜日の午後3時以降着で送ってもらうことにした。
「圭ちゃんは、サザエは外せないのね。良い想い出があるから」
「ある種の原風景だからね」と僕は言った。
結局バスに乗らず、来たときのように富士山を見ながら弁天橋を歩いた。
Bill Evans Trio - Witchcraft
長谷に戻った僕たちは、特に行くあてもなく混雑した大仏通りを高徳寺に向かって歩いた。混み合った狭い歩道を行き交う人たちと肩を擦れるように歩く。優子と並んで歩くことはできず、会話も途切れがちだ。さてどこに行こうか、車道を大股で歩き僕たちを追い越していく外人のカップルの背中を追いながら僕は考える。空は晴れ寺廻りには申し分ない連休初日の秋の午後だ。
「大仏様の境内でひと休みしよう」と僕は振り向いて優子に言った。
「いいわよ」と優子が、微笑みを浮かべて答える。表情にかすかに疲労が滲んでいる。たぶん脚が疲れているのだろうと思う。
「歩き疲れていない?」と僕は優子に訊いた。
「疲れているけど大丈夫よ」と優子は言った。「疲労はある種の充実に伴うものなの。部屋に帰って心地良い疲労が生まれるはずよ」
「今夜は僕がマッサージをしてあげるよ。結構得意なんだ」
「期待しているわ」と優子は言って僕の肩に手を置いた。
早めにホテルに戻り、ゆっくりしようと僕は思った。
列の後ろに並び、優子がバッグからローズピンクのセリーヌの財布を出して拝観料を払う。
僕が払う場合は、ポケットから小銭を出す。僕のズボンのポケットの右側には100円玉と50円玉が入っていて、左のポケットには10円と5円と1円が入っている。だからジーンズの時は、ポケットが膨らんであまり見栄えが良くない。そしてお釣りの硬化は、購買活動の中で減ったり増えたりしながら、ポケットに役割を与え続ける。
僕たちは人混みの境内を見回し、座る場所を探す。休憩スペースの長椅子はどこも余裕がなく、僕たちは通行と記念写真撮影の妨げにならない、一番下の基壇の陽当たりの良い場所に腰を下ろした。
振り返ると大仏は、青空と緑をバックに寡黙にそして寂寥感を漂わせながら佇んでいた。ちょうど斜め横から大仏を見る位置で僕たちは背を向けている。
「ねえ、圭ちゃん。小学生みたいな質問してもいいかしら?」と優子が訊いた。
「そのレベルの質問に答えられなかったら傷つくけどいいよ」
「奈良の大仏には、お家があるけど鎌倉の大仏にはなぜお家がないの?」
「大仏殿のことだね?」
優子は肯いて微笑んだ。
「大切な仏様だからね、ここにも巨大な大仏殿が建っていたんだよ」と僕は言って指を指した。「ほら、見てごらん。あそこに平たい大きな自然石が、ほぼ等間隔で並んでいるよね。あれは礎石と言って大仏殿の柱を建てた基礎石なんだよ。想像してごらん。あの大きな礎石に建っていた柱が、どれくらい太く長かったか、大仏さんの大きさを見ると少しずつ大仏殿の絵がはっきりすると思う」
優子は礎石をじっと見つめた後、振り返って大仏を見た。それだけでは足りないらしく立ち上がって身体を大仏に向けて見上げた。長い髪が後ろに流れた。
「創建当時は建っていて今ないのは、何かしらの理由で壊れてしまい再建されなかったということなのね?」
「そうだね」と僕は大仏を見上げている優子に言った。「東大寺の大仏殿は、大仏と他の建造物もろとも平重衡の南都焼討で燃え落ちてしまい、その後、僧・重源らの尽力で再建され、戦国時代には、三好、松永の抗争でまた焼け落ちてしまった。でも、徳川幕府によって、サイズを創建当時よりも小さくして再建され現在に至っている。そういうわけで、天平時代の物は、大仏の一部を除いて残っていないんだ。というわけでここまでは、ざっくりだけど高校の日本史の復習だね」
「ねえ、高校の日本史の復習だなんて言わないでよ。平重衡の南都焼討も三好・松永の抗争もすっかり忘れているし、詳細を知らないんだから」
「別に知らなくても困ることはないから」と僕は言った。
「ここ高徳院の大仏殿はなぜ壊れてしまったの?鎌倉末期の騒乱で焼けてしまったとか?」
そう言って優子は、僕の隣に腰かけた。
「詳しいことは解らないけれど、というか、この大仏さんが、何の目的で誰によって建てられたかも実はよく解っていないらしい。お寺の縁起には、頼朝の命を受けてとかそれらしいことが書いてあるけどとても信用できない。当時の歴史を描いた『吾妻鏡』の記述も今ひとつはっきりしない。そんなわけで、高徳院の大仏は謎がとても多いミステリーの大仏なんだ」
「ミステリーの大仏さんでも、どこからか歩いてきて、ある日ここにお座りになったわけではなるまいし」と優子がおどけて言った。
「だったら、余計にミステリーだよ」
「だめだめ、圭ちゃんがその方向に進んだらお笑い路線にまっしぐらだから元に戻りましょう。なぜ、壊れてしまい、なぜ再建されなかったの?」
「危惧してる?」
「とても」と優子は言って微笑みのランクを上げた。
「では、なるべく期待を裏切らないように」と言って話しを進めた。「謎が多くてもまるっきり記録されていないわけではなく、いくつかの文献資料と調査研究から、初めは木像の大仏が造られ、大仏殿もあったことが分かっている。そうした成果によると創建後、230年ほど経ったある日、たしか1495年だと思う。大地震が起こり、中部、東海、関東沿岸に大津波が襲い、大仏殿はその津波に呑み込まれ崩壊してしまったらしい。
この寺は、海岸線から1㎞くらい離れていると思うけど、その距離をもって巨大な大仏殿を崩壊させてしまった津波はどれくらい大きかったんだろうね。そしてこれ以降、大仏殿は再建されず約500年間“露座の大仏”としてここに在り続けてきたんだ。
ただね、鎌倉幕府が生まれ、最終的に大仏殿が崩壊したと記録されている1495年の大地震までの約300年間には、相模湾沖で11回大きな地震が起こり、その内6回は、鎌倉が震源地なんだ。
その地震の記録は、わずかだが残っている。鎌倉を震源地とした6回の地震のうち、鎌倉の大地震といわれる地震で町が壊滅状態になった記録や他の地震で建長寺が壊れたとか、津波が襲ったとか、被害者の数が記録されているんだけど大仏殿については書かれていないんだ。
判っているのは、鎌倉の大地震では大仏殿は壊れていないこと。1495年の大地震の際津波で壊れてしまったこと。それ後再建されていないこと。
まず最初は、木造の大仏だった。それは台風で大仏殿もろとも壊れてしまった。でもすぐに同じ木造の大仏と大仏殿が再建された。しかしまた台風で壊れてしまった。そこで造られたのが、今僕たちの背中の後ろに座っている金銅製の大仏さまなんだよ」
「ということは、金銅製の大仏さんと同時に大仏殿が再建されたものの、鎌倉の大地震を除くその後の大地震で大仏殿が壊れてしまった可能性はあるわけね」
「そのとおり。ただ記録には残っていない」
「記録に残っていないけど、金銅仏建立時の大仏殿は崩壊し、再建された可能性が高い。そして1945年の大地震の時発生した津波で壊れてしまった。その後は、大仏さんのお家である大仏殿は建てられなかったのね」
「そう。事実と推論を重ね合わせると自然になる」
「なるほどね」と言って優子は軽いため息をついた。「露座の大仏を巡るミステリーをこの場で聞けるなんて、旅は素敵ね」と優子は言った。
「そんな謎めいたことを提供するのも僕たちの仕事だからね」と僕は優子を見て言った。「でもね、大仏殿崩壊と再建を巡るミステリーも面白いけど、誰がどんな目的でこの大仏を造ったのか、その方がミステリーだよ」
境内は時間の経過に関わりなく、人で溢れていた。露座の大仏をバックにスナップ写真を撮る人が絶えなかった。背を向けて話しこんでいるのは、辺りを見回しても僕たちだけだった。背中に秋の優しい陽射しを感じた。
「ねえ、圭ちゃん。今日は他のお寺を廻らなくていいから、ミステリーの続きを聞かせてよ。だめかしら?神社仏閣巡りが趣味の圭ちゃんは、廻りたい?」
「いや、できれば今日は廻りたくないんだ。旅にしては、いささか歩き過ぎたというか、ビールを飲み過ぎたというか」
「だったら話して。その前に何かさっぱりした飲み物を買ってくるわ。圭ちゃん何がいい?」
「スカッと爽やか、コカ・コーラ」と僕は言った。
「了解!」とにこやかに優子は立ち上がり売店へ歩いていった。背が高いから感じるのか、優子の歩く姿は颯爽としていた。背が高いだけではなく、身体つきのバランスもいい。この二つは優子と星川さん共通点でもある。とても複雑だ。
優子が飲み物を買って戻り、久々に飲むコカ・コーラのプルリングを開けた。この瞬間と一口二口目はまさに“スカッと爽やかコカ・コーラ”だ。優子は温かいココアを両手でだいじそうに持って暖かそうにしている。その姿がどことなくあどけなく感じ、僕もホット・ココアにすればよかったな、と思った。もちろん、僕がホット・ココアの缶を両手で持ち、暖かそうにしていても誰もあどけない姿だと思ったりしないだろう、ということは自覚している。
「最初に木造の大仏が建立されたのは、鎌倉幕府を盤石にした北条時泰の死の翌年だった。これはほぼ間違いのないところで、高徳院に伝わる縁起の頼朝云々という話ではない。
寺社の縁起というものは、古事記の神話と同じように古さや正統性や霊験性を持たせるために脚色され現実離れしていたり、早い話嘘を書くことも往々にしてあるから注意が必要なんだ。
もうひとつ鎌倉時代を描いた『吾妻鏡』には、浄光という僧侶が勧進して建立したとあり、東大寺が、良弁僧正や行基を勧進として広く浄財を募り、建立に貢献したこと事と同じように、こちらの方が信憑性が高い。ただ、国家的事業クラスの寺院建立の僧侶の勧進には東大寺がそうであったように強大なバックボーンがなくてはとても漕ぎ着けるものでないと思う。
東大寺では聖武天皇が発願者で、同時にバックボーンだったように、僕は時泰が、発願者で浄光のパトロンだったと思っている。ただ、この浄光という僧も勧進したということだけが書かれ、どんな経歴の持ち主か、その後どんな活動を行ったのかはまったく不明なんだ。
事績不明の僧侶が単独で勧進を行い、これだけの寺院が建てられることなどあり得ないわけで、だからこそ、時の最高権力者であり聡明な執権だった時泰が、自然とクローズアップされる。
ここでまた、高校の日本史の復習になるんだけどいいかな?」
「人が悪いのね、圭ちゃんは。私は受験勉強だけに徹したつまらない高校生活を送っていたから、大学に入ってみんな忘れちゃったのよ。言い訳だけど、受験は世界史を選んだしね」
「僕も世界史だったんだ。また共通点があったね」
「もう、ますます人が悪いのね」と優子は言って頬を膨らませた。
僕は、そんな優子を微笑ましく思いながら話しを続けた。
「鎌倉武家政権の黎明期に、執権職北条家は、これを得宗家とも言うよね。得宗家の第一世代である祖父と第二世代の父が行ってきた非情な政権略奪行為を、第三世代である時泰は、政権の一旦に参加していた若年の頃から自分の目で見続けていたんだね。
第一世代と第二世代の政権略奪行為について、少し丁寧に話すね。ここがとても重要なポイントだから。少し長くなると思うけど」と言って僕はコーラを飲んだ。やはりコカ・コーラは、一口目と二口目が美味しい。
「ある時代の繁栄の裏には、必ず犠牲となるその前の時代が存在するよね。鎌倉時代の繁栄も、平氏の滅亡があって成り立ち、平氏の滅亡させたのは、源氏の嫡流である流浪の頼朝を抱き、結集した後の鎌倉勢と関東勢で、権力の中心は、京から東国の海辺の片田舎鎌倉へ移り、鎌倉の栄華が始まったわけだけど、その栄華の始まりには、平家追討の最大の功績者、弟の義経や一族の源範頼や近習の家臣たちが、頼朝の命により誅殺されている。その源氏の嫡流も、鎌倉では三代で滅びてしまう。三代といっても、ニ代将軍頼家、三代実朝は、頼朝の子供だから、ニ世代というわずかな期間で、源氏の鎌倉時代は儚くも終焉を迎えてしまった。
血が流されながら権力は確立してゆく。無残な血の系譜こそ権力なんだね。歴史の興亡を眺めるとそんな風にしか感じない。
源氏が三代で終わってしまったのは、単に後継者に恵まれなかったのか。そうではない。頼朝を後継した頼家、実朝兄弟は、暗殺されたわけだから。
頼朝亡き後将軍となった頼家は、側近を急激に若返らせ、頼朝以来の御家人から不平を買い、頼朝の最大の後援者、また妻の政子を出した北条氏からも厳しい目で見られた。
そんな状況で頼家は、舅の比企能員と謀り、北条氏討伐を計略したわけだけど、将軍を補佐する執権北条時政の嫡男、実力者義時により、伊豆に幽閉されてしまう。これを比企能員の乱と言い、その後頼家は暗殺されてしまうんだ。将軍となり2年。まだ26歳だった。
暗殺までの一連の黒幕は、頼家の叔父にあたる義時で、義時の姉が頼家の母であり頼朝の妻の政子だよね。ただ非情と言うしかないね。
三代将軍には、弟の実朝が就き、実朝は朝廷との融和策をとり、上皇から次々に官位を授かるわけだけど、ついに頼朝以上の右大臣という官位を授かり、近習から諌められる。幕府の創設者であり、源氏中興の祖である父の頼朝を超えるとは何事か、というわけだよ。
そのような状況の中、実朝は頼家の遺児、鶴ヶ丘八幡宮の別当職、公暁により、右大臣授官の祝いの日の夜暗殺されてしまう。鶴岡八幡宮の石段左にある大銀杏の木に隠れ、石段を登って来た実朝を刺してしまうという話しは知っていると思う。実朝は将軍になり16年。28歳の若さだった。
実朝は幼くして将軍職に就いたわけだけど、実朝に代わって権力を握っていたのが、母であり尼将軍と言われた北条政子で、補佐していたのが弟の義時だった。この事件の黒幕は果たして誰なのか、ということなんだけど、義時だということは、解りすぎているよね。
公暁は、父の仇を実朝と義時に向けたわけだけど、義時は八幡宮に向かう行列の途中、病気と称し家に帰り難を避けた。黒幕だからこそ可能な行動だと思う。
このように頼朝亡きあと、二人の後継者がそろって暗殺された。時の最高の権力者は、執権北条時政と義時と頼朝の未亡人である北条政子。父親であり息子であり娘であり姉弟という関係。そして頼家、実朝は、政子の実子という現実。これが何を意味しているのか。
頼家については、蹴鞠に興じるばかりで、行く末を政子も案じ、時には諌めたようだけど聞き入れられなかった。頼家については、将軍の器ではないと政子も見捨てていた節があるけれど、実朝のことは溺愛していたようで、実朝は文人としては一流だったが、将軍としてはやはり頼朝には、比べようにならなかったという思いが政子にあったことは否めない。だから、愛情を込めて補佐し続けた。
それでも二人の暗殺は、偶然であったと考えるのは無理がある。やはり、実力者の意図が底にあったと言わざるを得ないと思う。
“二人の能力では、鎌倉はいずれ滅びる。その前に確固たる流れを作る。その中心は、北条家でなくてはならない……”という意図。
義時と政子姉弟が仲たがいもせず、その後の幕府の礎を築いていったのは、何よりも一連の流れを物語っていると思う。
ずばり、暗殺の企画者は義時。政子は、自分の子供の死を悲しみながらも耐え、事実を受け止め、それを怜悧にも乗り越え、さらに尼将軍として義時を助けた。そしてニ代執権義時と尼将軍政子姉弟により、鎌倉の武家体制は整えられ、その権力は、北条家が一気に手にし、揺るぎないものに整えられていった」
僕はそこまで言うと一旦言葉を切り、コーラを飲んだ。気が抜け始め甘さが口の中で強調された。
「時泰は、父と祖父と叔母が繰り広げた政権略奪行為と従兄たちの悲劇をじっと見つめていたのね」と優子は言った。瞳に悲しみの色が滲んでいた。
「それだけではない、政権略奪のためにライバルとなる頼朝時代からの家臣団の有力者を滅ぼす現実も見ているんだ。この間には、最大のライバルであり、幕府創設の功労者である三浦一族の有力者の和田義盛を挑発して滅ぼしている。それが最たる例かな。
和田塚という江ノ電の駅があるよね。あの地は和田一族の終焉の地でありお墓があるんだ。
そういうわけで、権力というものは、親子、一族、ライバルを血の海に巻き込みながら確立していくものなんだね。こんなふうに義時は権力を集中し膨らませていった。あまりにも権力が大きくなった義時を、後鳥羽上皇は嫌い“執権北条義時追討の院宣”を発し朝敵として、討とうとした。しかし逆に義時の嫡男、時泰を総大将とする、幕府軍に破れ、後鳥羽上皇は隠岐に流されてしまう。これが世に言う承久の乱だよね。この乱で義時、時泰親子は、錦の御旗をも踏み潰してしまい執権家に逆らう勢力は、いなくなってしまった。
そして承久の乱直後に義時が急死し三代執権に時泰が就く。翌年には政子が亡くなる。血で血を争い勝者となった二人が、歴史の舞台から消え、血生臭さが減少し鎌倉には”安泰”という風が吹き始めたんだ。
ここからは、僕の自説なんだけど、鎌倉武家政権黎明期に二世代にわたり揺ぎ無い武家政治体制の築きあげ、その後自ら中央に君臨することになった時泰は、祖父、父、叔母たちの手により無残に死を遂げた、源氏の若き嫡流の”鎮魂”のために自ら建立したのが鎌倉の大仏ではないか、という説なんだ。時泰は余りにも非情な現実を見ているから、“安泰”という風の中で、振り返り現実を回顧できたのではないかと思う。
権力者というものは、同情という情緒的な側面だけではなく、怨霊となって当然の魂を慰め鎮めることで災いを防ぎ安泰をより確実にしようとする情緒も持っている。菅原道真を放逐した藤原氏がそうであったようにね。これが僕の鎌倉の大仏建立鎮魂説だけど」
僕は残りのコーラを飲んだ。タバコを吸いたかったが、喫煙所以外で吸うことが憚れたので諦めた。優子は何度か頷いて僕を見つめた。見つめただけで何も言わなかった。ただ静かな瞳が僕に語りかけていた。僕は黙って優子の言葉を受入れた。それは“悲哀”という言葉だった。優子はすでに温くなってしまったと思われるココアを少しだけ口にした。
「東大寺の大仏は、毘盧遮那仏といって、史実の人物としての仏教の祖であるゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏という意味があって、聖武天皇が目指した仏教による鎮護国家にふさわしい仏なんだ。
時泰が建立した鎌倉の大仏は、阿弥陀如来で、阿弥陀如来は無明の現世を遍く照らす光の仏にして、西方にある極楽浄土という仏国土の主でもある。日本の浄土思想が、来世での幸福を約束を果たしてくれるという意味合いで広がったことを考えると、祖父と父と伯母の非情な権力略奪によって非業の死を遂げた若き将軍の極楽浄土での幸せを願うために建てられた仏像としてこれ以上ふさわしい仏はないと思う」
話し終えてしばらく沈黙が生まれた。優しい沈黙だったが、やはりどこか悲しみを感じさせる沈黙だった。優子はココアをそっと飲み僕に渡した。残りは僕に飲んで欲しいということらしい。
僕は優子からココアを受け取りすっかり冷えてしまったココアを飲んだ。唇に優子のルージュを感じた。