さいしょはGoo!

おばあさんのわがままブログ
おっと気が付いたらもうすぐ6年生

障害物競走!

2013年10月31日 | ひとりごと

町会運動会
午後の競技は観てないんです
聞くところによると、
縄跳びでスタートしたそうですが
その場で飛んで、前にいっこも進まなない。
前へ進め!と促しても、進まない。
もういいから走れ~~~!!

次は缶ぽっくり。
これは経験がものをいい、上手い。
順位を上げること二番。

次にラケットにボールを乗せて走る。
今度は前に進むんですが
ボールを落とすたびに、ラケットの出発位置に戻るんです。
落とすたびに戻るんです。

もういいから走れ~~~!!!

ビリゴールで、笑いの渦。


練習と本番

2013年10月25日 | ひとりごと
3+2+1= の問題のときは、面倒でも
3+2のアンダーに波線を引いてその下に 5 と書いて、5+1=6
と書かないとペケになるので・・・
出題数が14問の場合は答えは合っていても間違い14個となる。



出題数が4問のときは



本番のテストでは波線を入れるので、お~! 点になる。


迷子癖の蘇り

2013年10月13日 | ひとりごと
ここのところ、二度続いている。
一度はランドセルを背負ったまま、
6時過ぎまで帰ってこなかった。

今日は薄暗くなってから、誰にも告げずに
普段利用しない遠い公園へ自転車で出かけ
暗闇になっても平気で、一人で遊んでた。
二度とも、じじばばが手分けして探し回るんだけども
見つけられず。
根性のパパが見つける。
5時半には暗くなる季節なのでね。
そりゃあ、こっぴどく叱られることになるわね。
GPS機能のついたケータイがいる子供じゃあないかな。
本当にかなわんわ。


ああそれと、関係ないけどさ
今日は町会運動会があってさ
子供会として参加しているマゴの様子が気になって
サンダル履きのまま、見に行ったんですよ
競技に出場する気などぜんぜんないし。

そんなこんなでテントの下で涼みながらボケ~~としてるところに
家人が私のツッカケがいると言って駆け込んできたので
え?とか言いながらサンダル脱いで貸してあげようとしたら
「あんたがいるんや」
で、やっと呑み込めて、他所の子と一緒に
ゴールまで走ったのよ。

女の子何回もしつこく私に言ってた、
「ぞうりばき」の札を引いて、そんな人いるわけないと思ったら
居たので驚いた?

こっちもいきなりグランドをかけっこすることになって驚いた。

病院ってところは

2013年10月12日 | ひとりごと
苦しんでなくなった人が不成仏霊になり
わんさといるので、気持ちはよくないところ。
見えないものは見えないけど、リアルに感じることはあるわけで
いつだったか、身内の看護で病室に泊まったときに
夜中にトイレに立つこともありまして
トイレのちょっと向こうに
看護婦の詰め所があるのは心丈夫でしたけど
トイレのドアを閉めたら詰め所はあっても、ないのと同じ。

(ゾゾゾゾーーーー)を肌で感じてね。

肌で感じること・・・おありかな?
見えたらどうなんでしょ。コワイヨーー。
その冷蔵庫のところにいるのは誰や・・
って、夜中にマジ言われたときは、ファイト切りまくったわ~。


じっさい、鈍い幸せっていうのもあります。





どのように詩を読まねばならないか

2013年10月06日 | ひとりごと
山ほどもある詩や翻訳の中から、たまたま選んで読んでみた。
無断転載でも
天国に召された今となれば時効でしょうか。

「詩をむしりとったことで、詩が傷つくとは信じていない。
バラは全体でも美しいのであり、
また、バラの一枚一枚の花びらも美しいのである。
詩は読まれた時にのみ、現実に喜ばせるものだ、ということを信じなさい。
もちろん、人がそう読むことができるように書かなければならないが。」

ドイツ   ヨハネス・R・ベッヒャー

ふるさとよ 私の悲しみ
運命の中の国―――
空よ おまえ 私の青い空
おまえ 私の喜びよ

いつかは こう言われることだろう
私が追放された時
おまえをたたえるために私が
おまえに 歌をおくったのだと

おまえと一体となるために
おまえに 歌をささげ
そして おまえと共に
暗闇の中で泣き・・

空が輝いている 青い空だ
平和が訪れたのだ――――
ドイツよ 私の悲しみ
おまえ 私の喜びよ

訳 水口洋治


どのように詩を読まねばならないか
ベルト-ルト・ブレヒト
水口洋治 訳
PO創刊号  昭和49年1974/01/10


私が時々詩についてインタビューされたり、子供達には本にのっている殆どの詩が、どんなにおもしろ味が少ないか、ということを、私が若いときから知っているのでそのことについて二、三書いてみよう。
詩を好きになることができるためには、私の意見では、どういうふうに読まねばならないか、ということと詩との関係は、快く響く小鳥の歌と、常には同じとは限らないのである。
詩とは、少しばかりゆっくり関わりあわなければならないし、時にはその詩の何が美しいのか、ということをまず見つけ出さねばならない。例として私は、ヨハネス・R・ベッヒャ-の詩「ドイツ」から一節をとりあげよう。

ふるさとよ、私の悲しみよ
薄明の中の国よ・・・
空よ、おまえ、私の青い空よ
おまえ、私の喜びよ

この詩人は、彼の故里を、薄明の中の国として歌に読んでいる。
薄明は、昼と夜の間の、あるいは夜と昼の間の一日のある時間であって、その時には明るさが闇に、あるいは闇が明るさに道を譲る。それは一日の灰色の時間であり、フランス人が「アントレ シァ-ンエ ルウ(“entre chien et loup")」と呼ぶ、ドイツ語で は「犬と狼の間」と呼ばれている時間である。それは、人が善と悪とを正しく区別できない時間である。詩人は彼の国土についてこういう薄明を経験したのである。ドイツをファシズムが襲った時に、ひとつの薄明があり、ファシズムが打ち砕かれ、社会主義の朝が始まった時に、別の薄明があった。
それゆえに詩人にとって国は故里、私の悲しみ、であるのと同様に、また、おまえ、私の喜びでもあるのだ。そして狼たちがたとえ支配しても、彼の記憶には空、おまえ、私の青い空、すなわち、純潔な彼の国の美しさがいつもとどまっていたのである。 それが内容に関することである。
詩人の感覚が深くて、そして高潔であるがゆえに美しいので、悪が彼の故里を支配している時には、彼は悲しみをもって愛し、善が権力を得る時には、喜びをもって接するがゆえに美しいのである。しかしまた、彼が話す仕方にも美しさがある。故里、私の悲しみを、もっと美しく言うことができないし、また、おまえ、私の喜びを、もっとうまく言うことができない。それはまるで人が、黒い服を着て、喪中であるかのようである。彼の悲しみの理由を問われて彼は答える。「私の国は、殺人者のもとに倒れた」あるいはまるでうれしくて、歌っているかのようである。喜びの原因を問われて彼は答える。「私の国は、平和のうちに建設されている」
それはその人が、その人の全ての幸福が、他の人々の幸福に依存している人間であるということを示している。(喜びという言葉は、全く特別な美しさをもっているし、まるで今まで一度も言われたことがなかったかのような、何か全くの新しさを持っているが、昔から知られているものなのである)
空よ、おまえ、私の青い空よは、非常にやさしく響くがゆえに美しいのである。詩人はただ、青い、という言葉を使うだけで、すでにこの空に光線を放つのである。詩のリズムは非常に美しい。その中には、大きなやすらぎがある。
私が詩をむしりとったことで、詩が傷つくとは信じていない。バラは全体でも美しいのであり、また、バラの一枚一枚の花びらも美しいのである。
詩は読まれた時にのみ、現実に喜ばせるものだ、ということを信じなさい。もちろん、人がそう読むことができるように書かなければならないが。