ときにはこんな話でも。  ~眼鏡操縦士のブログ~


写真、カメラ、レンズ、革カバンなど

心のまにまに
書き記し、書き連ね、書き散らし

そして、考える。

長さと距離

2018年02月19日 22時01分37秒 | カメラ・レンズ
 スナップを撮る上で、どんなレンズ(銘よりも焦点距離)で撮るのか、ということは、作品の世界観を作り上げる上で、相当大きな要素となる。

 ただ単に焦点距離の長い短いの話で考えるのであれば、議論にもならない。

 どの焦点距離がいいのか、というのは非常に難しい。

 やはり、無難なところは50mmだと思う。
 もう一歩踏み込むと、35mmとか。
 28mmは、かなり踏み込むので、ちょっと厳しい感じはするが、取り組み甲斐のあるところか。
 20mmとか15mmとかでのスナップは、なんかもうどうしていいのかわからないくらいだ。

 やっぱり、50mmでとるスナップは、適度な距離感をもって対峙できるので、扱いやすい。

 スナップは出会いがしら。
 どうぶつかるか、どうすり抜けるかの瞬発力が試される。 

 だから、楽しい。

写真に代わって

2018年02月09日 21時53分35秒 | カメラ・レンズ

 ふとしたキッカケで、「君の名は。」のMVを見た。
それを見ながら、思うこと。

 以前に、こういった背景を割と描き込んだアニメが「史料」となりうるのか、と思った。

 その続きとして、そこに描かれている群衆は、時代を推し量る「史料」となりうるのだろうか?

 昨今では、街中でのスナップに非常に消極的な意見が目立ち、それもわからなくもない。

 しかし、スナップ自体が否定されることはないだろうし、半分は「撮る側の萎縮」も十分にある。

 そんな中で、そういった「しがらみ」から一歩、というか別次元に離れたアニメの中でのそれは、スナップに近いものがあるのではないかと思う。

 制作された時代の、舞台となった時代や地域を反映した描写であれば、なおのこと。

 数十年後、「史料」としてアニメやマンガの絵が、当時の世俗を知る手がかり、として使われる日が来るのかな。

写真として残す

2017年07月27日 21時30分18秒 | 写真
 相変わらず、いつもの写真屋では長話にいそしむ。

 最近、写真を残す、ということが話題に上がった。

 その昔、コダックのボックスカメラから始まった写真の大衆化。
 それから考えれば、スマホの普及と内蔵カメラの高性能化により、現在では史上最大に写真を撮るということが身近に、そして手軽になっている。

 カメラの進歩そのものが、いかに手軽に撮れるのか、ということを目指してきたことを考えれば、相当に行き着くところまで来ている。

 しかし、撮るということは身近になっても、残すということは昔よりも縁遠くなっているのが実情だと思う。

 これから、写真の未来はどうなっていくのか?
 その未来の中で、振り返るという行為がことごとく「ないがしろ」にされていくような。

 残すということについて、少し考えてみた。

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 スマホには数えきれない枚数の写真が詰め込まれており、ある意味で個人個人が記録写真集を持ち歩いているようなものだ。

 その時々であの時を振り返ることができ、思い出を共有しやすい。

 その反面、あくまでスマホがあるから、という前提がある。

 主だった写真「データ」はスマホかクラウドか、そんなところに集約されるのだろう。

 信頼性は高いとはいえ、やはりスマホだって壊れる。
 クラウドだって、今あるサービスが未来永劫あるかわからない。

 年を経るごとにデータは増え、またクラウドなどの容量も同様に増えていく。
 そういった面は、幸いとばかりに足並みがそろっており、置いておく所がなくなる心配は少ない。

 その反面、あまたのデータから欲しいものだけを抜き出せるのか、という問題は年を経るごとにこれまた増大するように足並みがそろっている。

 埋もれてしまった記憶。

 そして、もしなんどき、本人がいなくなってしまったら。
 それらの思い出はまさに格納されてしまい二度と見られないものになってしまう恐れが高い。

 取り出せなくなってしまったものに、一体何の価値があるのだろうか?
 また、遺されたものにとって、あるとわかっていても手が出せない思い出ほど、歯がゆいものはないのではないだろうか。


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 デジタルカメラは手軽な反面、データ残そうとすればバックアップや移動を繰り返す無限ループに陥るしかない。

 そこを抜け出し安寧たる地平へとたどり着くには、プリントという手段しかない。

 お店の人と話をしていて思った。

 よく結婚式では、ふたりの生い立ちということで生まれたころから今までの、ちょっとしたムービーが流れることが多い。

 まぁ年代的に、高校生くらいまではフィルムのプリントをスキャンし、大学生くらいからデジカメのに切り替わる。

 過去10年くらいの写真はともかくとして、子供の頃とかの写真は親がアルバムに残しておいてくれたからこそのもの。

 親に感謝する、という意味のムービーだと思う。
 それとは別で、残しておいてくれた、ということにも。

 それが、これからはどうなるのだろう。

 データでのみ残されて、それがいつまでも残っていればいい。
 でも、数多に氾濫する画像データで、それがどこまで可能なのか、真剣に考えなければならないと思う。

 結構、切実な問題なのではないのだろうか?

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 プリントして残すなら、やはり2Lサイズが一番合理的かな、と思う。
 比較的安価にプリントできて、大きさも本棚にしまうのに困らない。
 アルバムもたくさんあるし。

 デジタルカメラを使うようになり、確かにプリント量は格段減った。
 理由は簡単で、ディスプレーで見れてしまうから。

 昔は、撮った写真をアルバムして作品集にし、必要応じて持ち歩き、見せていた。
 かなりかさばるのが難点だった。
 しかも、重い。
 ナカバヤシの「超透明」というアルバムが品格もあって気に入っていた。

 それは今ではiPadにとって替わられた。
 便利だ、すごく。

 その半面、物質として残せないという不満が、少しずつ募っていた。

 それが募り、昨年から自分の中で作品として残しておきたい写真をキャビネでプリント、焼き付けし、アルバム化し始めた。
 途中で止まってしまっているが、きちんとタイトルやデータ、コメントも記している。

 今年からは、展示会に使用できるような、四切での焼き付けも始めた。
 こちらはまだモノクロのみだが、カラーもそのうち検討する。

 やはり、残すという点でプリントがあるということは、本当に重要だと思う。

 昔、デジタルカメラではだめだ、という話の中で
「(パソコンの)ディスプレーで見るということ自体は、団らんにはならない」
 という人がいた。
 もう10年も前の話だ。

 今となっては、当時なかったスマホがあまねく所持されていることを考えれば、この言をそのまま当てめるのは難しいと思う。
 スマホの画面を指でスライドさせることと、アルバムのページをめくる行為はきっと、近似解として存在できる。
 ただ、眺めるという行為と、複数枚を広げるという行為の隔たりは、意外とあるのかもしれない。

気持ち

2017年06月20日 22時55分41秒 | 写真
 結局のところ、写真を撮る上で大切なものは何かというと。

 センスでも技術でもないのだ、と思う。

 被写体とどう向き合うのか、という心の持ち様だ。

 一番最初に来るのもは、被写体に撮らせてもらうのだという、謙虚な気持ちである信じている。

 そんな謙虚な気持ちと一緒に、相反するようなものも必要だ。

 それは、被写体に立ち向かい、踏み込んでいく強い意志。
 被写体の熱気にアテられて、よろめいているようではダメで。
 がっぷり四つに組み合い、被写体と正面から向き合う。

 気持ちのない撮影は、結果として写真の気持ちのなさが表れてくる。

意図する

2017年06月15日 20時29分05秒 | 写真
 写真教室でそれぞれのカメラの扱い方というか、撮り方を見ていて思うのは、やはりデジタルカメラ(写真)は難しいな、ということ。

 デジタルカメラで写真を撮る場合、パラメーターはざっと挙げても

・ピント
・絞り
・シャッタースピード
・ホワイトバランス
・感度

 という具合にカメラを操作して使いこなさなくてはならない。

 オート、という手もあるが、何分、自分の意思が介在しない分、表現としては脆弱になる。

 翻ってフィルムとなれば、基本は

・ピント
・絞り
・シャッタースピード

 だけになり、感度はその時のフィルムで、となる。
 ホワイトバランスなんかは、フィルムの場合デイライトひとつで済まれているようなもの。

 比べたって、5つ3つの差でしょ?

 と思うかもしれないが、何を基準にして撮影を考えたらよいのか、判断が覚束ないビギナーには、割とヘビーなことだと思う。

 感度を決めるにしても、そもそも自分の基準となる感度の見当もつかないし、明暗でどの程度感度を使い分ければなんて、想像もつかないだろう。

 基準がないとなると、オート、の良さも悪さもないまぜになってしまう。

 じゃ、マニュアルで撮ればいいんだ、というのかと言えば、またちょっと違う。
 マニュアルで撮ればすべて自分の意思だし、それでいいじゃないか、というのもわかる。

 しかし、それではカメラを「使いこなしている」とは言い難いと思う。

 使える機能を使わない、いや使えないでマニュアルに逃げるのは、カメラを理解していないと思う。

 何事も、オートというのは癖がある。
 そもそも、オートという「判断」を作るのには、作る側の「意図」が内包されている。
 それを理解し、自分の意図と違う部分を補正するのが、「使いこなす」ということだと思う。

 そういった意味で、オートでパラメーターの変動が多数あるデジタルカメラは、難しいな。

 昔、各地の写真教室?ではNikon New FM2が長らく標準機材として指定されていたのも、うなづける。

 デジタルカメラとか、オートフォーカスとか、便利だけど。
 完全マニュアルのNikon SPやブロニカ、絞り優先で測光方式がレンズによって変わってしまうのMamiya7Ⅱで撮ると、自分の意図と迷いが如実に感じられて、撮影という行為を生々しく感じるときがある。

 つまるところ、迷いは何から出るのか?

 それはひとえに、出来上がった「完成形としての表現」を描き切れていないからだ。

 自分の見た、見せたい「それ」を表すものとして、どのパラメーター設定が「回答」なのか。

 フィルムやセンサーのラチチュードとしての「正解」は存在しつつも、表現としての決まりきった「正解」は存在しない。

 オーバーでもアンダーでも、高感度でも低感度でも、一つ一つが「回答」であり、意図になる。

 であるからこそ、何を表現したいのか、という完成形があってこそ、その「回答」が存在できる。

 意図された終着点、それを追い求めるのが表現である。