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And This Is Not Elf Land

An American Tragedy

AN AMERICAN TRAGEDY (Theodore Dreiser)について


日本では、古いアメリカ映画THE PLACE IN THE SUN(陽のあたる場所)はよく知られているが、この原作となったAN AMERICAN TRAGEDY(アメリカの悲劇)を読んだことのある人は少ないのではないだろうか。実際、前述のSISTER CARRIEの方が小説として面白いと思うし、非常に長いこの「アメリカの悲劇」は、どなたにでもお薦めできるようなものでもなく、どうしてもお読みになりたいという方には「気合を入れて読んでください」と言うしかない。

時は20世紀初頭のアメリカ、「高い壁に囲まれた」中西部の中都市。
Clydeは貧しい家庭の長男だった。「貧しい」とは言っても、道徳的に堕落し、荒んだ環境だったわけではない。両親は街頭伝道師だった。街頭で賛美歌を歌ったり、伝道所で貧しい人たちに食事や一夜の宿を提供していた。しかし、この仕事は、例えばコミュニティーのリーダー的な存在として君臨しうる正規の教会とは一線を画しているものだった。(このあたりは日本人には分りにくい)特別に注目を浴びることも、尊敬されることもなく、社会の陽のあたらない場所で、神の言葉を伝えながら淡々と暮らしていくだけである。

一方、外の世界では、産業化・大量消費時代の波は中西部まで及んできていた。Clydeは外部の刺激には人一倍敏感に反応するタイプの少年だった。しかし、伝道のみに熱心な両親の元にいては、どんどん変化していく外の社会で生きていくに相応しい教育や職業訓練を受ける機会もない。

小説では、最初から、現実の世界で生きていく術を持たず、宗教のみに頼ろうとする人たちを激しい言葉で批判する。一方、やはり非常に信仰深く、最後まで揺るぎない態度でClydeの力になろうとする母、Elviraは、最後まで力強い言葉で肯定的に描かれる。同時に、彼女の(あるいは彼女のようなタイプの人物の)持つ「限界」も早い段階で明らかにされている。平凡な田舎の娘が、「神の言葉」で人の心を揺さぶり、説得し、支配できることに無上の喜びを見出す過程。そのような人間の無私の働きを、ある種「利用して」成立する社会の仕組み。

また、東部で工場を経営し、成功している伯父の存在も明らかにされる。Clydeはこの伯父には一度も会ったことがなかったが、将来にひとすじの可能性を見出せるとすれば、この伯父とのつながりだけであった。

このまま家にいては将来が不安だと感じたClydeは自立して働こうと決心する。しかし、何の教育や職業訓練も受けていない彼が満足できる仕事につけるチャンスもない。「自分は単純肉体労働をやるような人間ではない」という意識だけは強い。彼が見つけたのはホテルのベル・ボーイの仕事であった。華やかな制服に身を包み、華やかな場所に出入りし、裕福な客からチップをはずんでもらう。地道に恵まれない人たちに尽くしていても、自らも貧しさから抜け出せない伝道の仕事を嫌っていた彼には、その対極にあるようなホテルの仕事は様々な夢を見させてくれるものであった。その中で、俗世間のアバンチュールも体験し、大人になっていく。

数年後、Chicagoのホテルで同様にベル・ボーイをしていた彼は伯父に偶然出会い、伯父の工場で働きたいと願い出るのだった。伯父は恵まれないClydeの父を普段から不憫に感じていた事も手伝って、快く承諾する。

大きな工場を経営している伯父一家の豊かな暮らしぶりはClydeの想像を超えるものであった。この裕福な伯父一家の一員として、豊かに暮らしたいと切に願うのであったが、伯父一家は、自らの立場を保持するためには中西部出身の貧しい甥とは距離を置かねばならない。工場でも、最初は地下の厳しい部署での仕事しか与えられない。一方では、工場の同僚たち、同じ下宿屋の住人たちにとっては、Clydeは町の名士との親戚に当たる人間で、気安く付き合える存在ではない。Clydeが自分の望む高みに近づこうとすればするほど、自分の居場所がわからなくなり、孤立していくだけ。

「人の居場所」など最初から決まっているのかもしれない。どんなにあがいても、結局はほんの数ミリの違いを生み出すだけで終わることの為に、人は必死になっているのか…。

そんな中で、女工のRobertaに出会う。彼女は貧農の生まれであったが、信仰深い両親に育てられた勤勉で美しい少女だった。明らかに、粗野で品のない他の女工たちとはタイプが違っていた。女工との交際は厳しく禁じられていたが、元々誘惑に弱いClydeはきっかけを上手く利用して彼女と親しくなり、深い関係になってしまう。

それと並行するように、ちょっとした偶然の悪戯から新興富裕家庭の娘、Sondraと親しくなるチャンスに恵まれる。彼女は御殿のような屋敷に住み、全てを備えている美少女。Clydeには「夢」そのものだった。

A Place in the SunではElizabeth Taylor演じるこの女性(映画では別名)は、かなり肯定的に描かれているが、原作では、幼稚で自意識過剰、全く深みのない人物である。Clydeにとっても所詮「偶像」に過ぎない存在なのである。それでも、二人は急速に親密になり、将来を約束するまでになる。

そんな時、Robertaの妊娠がわかる。Robertaに対する愛情は失せていた彼は途方にくれるが、回避できる道はないと自覚した時点で、ふと目にした湖のボート事故の記事から恐ろしい計略が頭をよぎる。

20年代のアメリカ。モノの誘惑と野心が渦巻く華やかな都会、成功と富の象徴である屋敷が立ち並ぶ郊外、そして、もう少し行けば、まだまだ手付かずの自然が残っていた。人間の無意識の中に潜んでいる、むき出しの本能を暗示するような、そんな異様なほど人気のない湖にRobertaを連れ出すのだった。

結局は、Clydeには大胆不敵な計略を実行するだけのgutsもなかったが、偶然が重なって、ボートは転覆し、Robertaは亡くなった。ClydeはそのままSondraの元へ向かう。しかし、こんなsimple planが永久に闇に葬られるはずもなく、すぐに事件は発覚。Clydeは逮捕されてしまう。Sondraの見ていないところで連行してほしいと保安官に願い出る彼が哀れである。

長い裁判が始まるが、Clydeは「自分は何者なのか」「Robertaの死は自分の責任なのか」…結局は何も認識できないままであった。

{物が、ただ物だけがとても重要に見えた。実際にはそうだったのだが。あのように街頭に連れ出されるのは腹立たしいことだった。…あの伝道生活は母には素晴らしいものだったろうが、自分にはたまらなかった。しかし、そう考えるのは間違っているのだろうか。今、主は怒っておいでになるだろうか。そして、たぶん、母の自分についての考えは正しいのだろう。もし母の忠告に従っていれば、まだ良い生き方をしていたかも知れない。}

やがて死刑が確定する。
母は何とか息子を救おうと運動をするが、それも及ばない。長年尽くしてきた教会からも、なんの助けも得られなかった。最後に、McMillan師という牧師を息子の元へ送り、信仰を取り戻そうとさせるのだった。

信仰のみに頼って生きる人への厳しい批判から始まったこの長編小説は、最後は再び信仰が大きなテーマとなる。しかし「現実認識をも困難にする盲目的信仰」と「信仰によって、より深い洞察に導かれる」ことの線引きは最後までされない。McMillan師は、非常に肯定的に力強く描かれている登場人物である。しかし、この正義感と使命感に溢れたエネルギッシュな牧師も、Clydeの告白を聴くと混乱するばかりだった。「原罪」に対する考えが根底から覆される思いになった。

{「お母さん、私は諦めて甘んじて死ななければならないと思います。苦しくは無いでしょう。神は祈りを聞き入れてくださいました。強さと安らぎをくださいました。」しかし同時に、こう自身に問い続けてもいた。「本当にそうなのか。」}


何ひとつ確かな認識をもたないまま、Clydeは電気椅子へ消える。
人は、その野心や信念あるいは周囲の環境の犠牲者となることなく、
「自立した自己」として生きていくことは可能なのか?

Clydeの死後も、母は西部の「高い壁に囲まれた」都会で伝道活動をしていた。幾分年老いてやつれていたが、{現実社会では成功しないとしても、どれほど盲目的で間違ったものであるにしろ、確固たる自己保存の力と決断を持っているように見えた。}そんな彼女が、{人生の広大な懐疑主義や無関心に、公然と反抗の声を上げている}かのように伝道活動をしている。そんな「ある種の異様さは」人目を引かずにはおかないのだった。

{ }内は引用文。
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