私と馬券との出会いは
大学入学後すぐに新宿場外近くの喫茶店でアルバイトを始めていたのでしたが
その5月末の「日本ダービー」でした。
この年のダービーはハイセイコーという公営大井上がりの大人気馬がいて
日本に一大競馬ブームが訪れた年でした。
当時の新宿場外では1000円の特券(当時はこう呼んでいました)しか売っておらず
時給200円ほどの学生が買うのはお門違いという馬券でした。
それで喫茶店で働いているみんなで100円単位のお金を出し合って
競馬好きなチーフや先輩が選んだ馬券を買って
配当は均等割であまり分は的中者がもらうというものでした。
馬券購入前に皆の予想というものも聞くという民主的なところもあり
俺は7・5・3が好きな数字だったのと
英文科の学生だったのでその枠の中から馬名を調べ
スピードリッチ(お金持ち)・タケホープ(勝つ希望が持てる)・イチフジ(縁起が良い)イサミ
の中から1番勝つ可能性のありそうなタケホープを選んだのでした。
当然、先輩やチーフたちはハイセイコーがらみの枠連馬券を推したのでしたが
ビギナーズラックという言葉を信じて
みんなが出し合った5000円の内1000円分だけ俺に賭けようと言うことになり
タケホープの単勝馬券も買ったのでした。
結果はタケホープ・イチフジ・ハイセイコーの着順で
単勝は53倍・枠連はマンシュウー手前の95倍くらいついたと記憶しています。
全く注目されていないタケホープに騎乗する嶋田功騎手がレース前に吐いた名言
「ハイセイコーが4本脚なら、オレの馬だって4本脚だ」が現実のものとなりました。
枠連もタケホープ・イチフジを1枚買えばよかったと嘆いたことが思い出されます。
この的中が物凄いインパクトとなりどこからかこの話は少し盛られてつたわったようで
ほとんどお店に来るお客さんは競馬をやっており競馬の知識がないとお客様とろくに話も出来ず、
ちょうど喫茶店のバイトにも大学にも慣れたこともあり「これではいけない」という気持ち
と「自分も馬券を買いたい」との思いもあり本格的に競馬のお勉強を始めました。
そのお店にはヤクザ屋さん、トルコ風呂など風俗取締りのデカさん、お店やビルのオーナーなど
競馬に関しては多士済々揃っおり教えていただくにはなにも困りませんでした。
そんな俺に大きな影響を与えてくれた方は3人いたのですが
お一人お一人についてこれから話してみます。
(1)「ノミ屋のヤーちゃん」
その3人の中のお一人に近くのビルで「ノミ屋」を取り仕切っている
ヤーちゃん(ヤクザのおじちゃんでしたので俺は2人の間だけですが当時こう呼んでました)がいて
この方に休憩時間でコーヒーを飲みながら後ろの席に座っていたある時
「なぁ~お前こないだのダービー当てたんだって?」
「え~まぁ~」
「そんとき聞きたかったぜ~ところでこのレースなぁ~何が来ると思うか教えてくれよ~」
そのレースは新潟の信濃川特別という900万下のレースだったと思いますが
もう馬券を買っていたので「良くわかんないけど俺は5-8と6-8を買いました」と馬券を見せてあげました。
結果これが凄い馬券となったようで(枠連83倍ほどでしたが)
当然大穴馬券決着だと(顧客は堅めの馬券購入者が多いようで)ノミ屋さんの勝ちとなり
100万ほど大儲けしたらしく飛んで飛び込んできました。
これ以後ひどく気に入られ何かと目にかけてくれたのでした。
「競馬とは何ぞや」というか「馬券とは何たるものか」という知識を教えていただきました。
なんせノミ屋さんでしたのでそれはそれはシビアな世界でしたから・・・
大きなレースがある日ですと1000万くらい動きノミ屋さん同士でリスク回避を考えなければ
最悪つぶされることもあるらしくて、かなり神経をすり減らす稼業のようでした。
ただし儲けも半端な額ではなくノミや家業も立派な裏商売であり毎週土日は殺気だっていたようでした。
俺も「こんなところでバイトなんかしてないで」仲間に加わらないかとかなり誘われました。。。
この頃はいろんな意味で面白い昭和そのものという感じの時代でしたね・・・
余談ですが当時の新宿場外は1000円の特券しかなかったので
俺たちが買うにはあまりにもリスクがありました。
よほど自信がない限りは近くても買いには行きませんでした。
そんな中で常連さんに聞かれて予想を伝えこれが的中すると
すぐに換金して最低でも1000円のご祝儀をいただきました。
当時の1000円といえば学食で1番高いAランチを4度
飲み屋さんでならビール大瓶4本注文できたくらいですので大いに助かりましたね~。
またヤクザ屋さんと上手く付き合わない(あしらわないと)と
お水商売はやっていけないというのも定説でしたので
この件でもヤーちゃんにはいろんなことを教えていただき助かりました。
俺が知っている限りでは、キチンと統制されたヤクザ屋さんよりも酷いのは
トルコ風呂や飲み屋さんやストリップ小屋担当のデカさんの方でしたね。
ある日一緒に歌舞伎町を歩いていた時、
「ちょっとここに寄るか?」と言ってトルコ風呂とストリップ小屋へ立ち寄り
「袖の下=明日の馬券代」を取って来るのですからひどいでしよ。
まるで映画やTVの世界のようでしたが、リアルな現実でした。。。。
--------------------------------------------------------------------------------
(2)コーヒー屋さん
ヤーちゃん以上にお世話になったのが
早稲田鶴巻町でコーヒーの卸を営んでいたコーヒー屋・Sさんでした。
この方はもう亡くなりましたが、奥さんとは今でもお付き合いがあります。
コーヒー屋さんとは例の喫茶店で俺が仕入れや注文を任せられるようになってから
可愛がられ、急速に親しくなりました。
競馬のイロハも裏情報というものがあるということも教えていただきました。
この方には大物農林族の秘書をしている競馬好きな友人がいて
この方からのウマヌシ情報というものを教えていただきましたが
めったにあたりませんでしたね~選挙がらみ以外は・・・
また中山や東京の貴賓室へも3度ほど連れて行ってもらいました。
その当時、人気の映画スター夫妻や歌手などともそこで会ったことがありました。
そこではいろんな「まことしやかな情報」が飛び交っていました。
でも「その確実な情報」というものも当ったためしがなかったように記憶しています。
ゆえに今でもハナから厩舎情報なんて存在さえも信じませんが・・・(‐^▽^‐)
Sさんが、大学3年の頃早稲田鶴巻町にビルの下の階に喫茶店をオープンすることとなり
俺と同棲していた現在の妻とで普段は午後6時から11時まで
日曜日は9時から5時まで任せられました。
ここでも3階に関西系のヤクザ屋さんが部屋を構え出入していたのでお店はよく利用していただきましたが
ヤーちゃんとの付き合いがあったので上手くあしらえましたね。
この時のヤクザ屋さんは関西系の組でしたがその教えは徹底しており
「堅気の衆を破壊して儲けるのが鉄則」これは麻薬で体を壊すという意味や
地上げで建物や近所付き合いなどを壊すという意味合いでした。
また自ら「クスリと女」には手をつけないも徹底しておりましたね。
クスリはあくまでも人に売るものだと言ってました。女も同様だったようですが・・・
現在は全く付き合いもありませんが、風の便りでは今では大物になっている方もいるのですよね。
お大物といえば児玉誉士夫のお妾さんとも付き合ってましたよ・・・俺と同じくマンデリンが大好きでした。
立ち振る舞いなど凛としてそれは見事なくらい素敵な方でしたね!!
この方にも妻ともども大変可愛がって頂きました。
歌舞伎や大相撲を観た時には必ずお土産を持参してお店に来て頂きました。
俺が大学を卒業して先生になろうと思っていた4年時
「高田馬場駅前にもう1店喫茶店を出そうと思っている。
それでお前たち2人に任せるのでやってくれないか?」と相談されました。
当時の上島珈琲の社長さんも絡んでいたお話しだったので
俺は「このままいても良いなぁ~」と内心思っていましたが
妻が「田舎へいつか帰るつもりなら若いうちが良いのでは」ということで諦めましたが
あのまま田舎に帰って良かったのかも知れません。
というのもそんないきさつがあってから
お店を出すことは止め、帰郷して3年後のダービーの直後
突然「心筋梗塞」で帰らぬ人となってしまったのでした。
その後しばらくは鶴巻町のお店は奥様がやっていたのですが
長男がバイク事故でなくなり失意のままにたたんでしまいました。
奥様には今でも季節ごとには野菜やお米を送ってお付き合いしております。
--------------------------------------------------------------------------------
(3)カツ亭の大将
私に競馬を教えてくれた人で今でも忘れられないのは
以前新宿東口にあった「かつ亭」の大将です。当時58歳でした。
大将がコーヒーを飲みに来て頂きいつの間にか2人揃って親しくさせていただきました。
お店に行くと「ヒレカツ定食・380円」だったと思いますが
大盛りのライスと大き目のカツをいつも出していただきました。
この方はプライベートに関しては多くは語りませんでしたが
話しの端はしに出てはきました・・・
「裏の世界ではかなり顔の効くお方だったこと」
「義理のある誰かの為に2店舗も失くした事」
「妻と子供には逃げられた?こと」などでした。
ただ戦時中は軍馬の世話がかりだったことは詳しく話してくれました。
それで良く同行してパドックでの馬の見方を徹底的に教わりました。
どんな作り・状態・しぐさの時なら「馬が走るのか」を学びましたが
これはホントに役立ちました。1番参考になったかも知れませんネ~!!
今でもグリーンチャンネルのTV画面を通してですが参考としています。
ただ1番馬体から「勝ち」が分かるのは
「ゲートイン」の前後のしぐさ・姿なので馬券に反映されないのですがね・・・^_^;
この件に関して今でもよく覚えているのは
90年の「第102回天皇賞(秋)(GI) 」の
ヤエノムテキ号とメジロアルダン号の「しぐさ&馬体」からは
走る前からこの2頭で決まると良く分かりました!
それで1番人気のオグリキャップ無視で枠連4-4の1点買いにXX万入れましたが
現在のように馬単や3連単があれば大儲けできたことでしょうな・・・(^∇^)
それでもこの配当は「真っ赤なスカイラインGTR」を特別仕様にしても
まだお釣りが70万ほど残りましたがね・・・
そんな意味では、この目でよく見た「テンポイント」の馬体の素晴らしさは
今でも忘れられません・・・あの胸板やお尻の肉付き、全体のバランスの良さ・・・
ゆえにこちらへ帰りパドックを見ないで馬券を買わなければいけないという
環境に置かれた当初は馬券を買うことが出来ませんでした。
この方は「カツ亭」の大将でしたが、
その後ご自分のお店を練馬に作ったので毎日のように会うこともなくなり
大将が馬券を買いに新宿へ来た際や
時々はそのお店を俺たちが訪れご馳走になったりお付き合いはしていました。
そんな頃の3月下旬、俺たちが帰郷するので競馬場通いも最後となる
中山へ2人で行き(妻は身ごもっていましたのでお留守番でした)、
俺が枠連2-8で9,840円という大穴馬券を的中させたのですが
「(妻に)換金しないで持って帰りなさい」といわれ持って帰ったら
妻はお腹をなでながらホントに喜びましたね!
(奥さんが妊娠していたら馬券を買う前や競馬場に出かける前に
お腹をさすってみましょう!きっと当ることでしょう!大将に教えていただいたことですが・・・)
これが昭和53年3月のお話しです。
大将は最後までご自分の名前や住所など教えてはくれませんでした。
ゆえにこちらへ来てからは電話番号を教えておきましたので
向こうから電話がかかってこない限りは話も出来ませんでした。
それもだんだん途絶えていたのですが
コーヒー屋さんが亡くなった時2人で上京した際ついでに
練馬のお店を訪ねたのでしたが、
もう閉店して所在等は一切何も分かりませんでした。
今も何も分かっていませんが天国でSさんと競馬通いをしていることと思っています。
--------------------------------------------------------------------------------
さらば、テンポイント
もし朝が来たら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって日本一のサラブレッドになるために
もし朝が来たら
印刷工の少年はテンポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった
それをいつもポケットに入れて
弱い自分のはげましにするために
もし朝が来たら
カメラマンはきのう撮った写真を社へもってゆくつもりだった
テンポイントの最後の元気な姿で紙面を飾るために
もし朝が来たら
老人は養老院を出て もう一度じぶんの仕事をさがしにいくつもりだった
「苦しみは変わらない 変わるのは希望だけだ」ということばのために
だが
朝はもう来ない
人はだれも
テンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ
さらば テンポイント
目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られてでてゆくおまえの姿が
故郷の牧草の青草にいななくおまえの姿が
そして
人生の空き地で聞いた希望という名の汽笛のひびきが
だが
目をあけても
朝はもう来ない
テンポイントよ
おまえはもうただの思い出にすぎないのだ
さらば
さらば テンポイント
北の牧場にはきっと流れ星がよく似合うだろう 寺山修司『旅路の果て』
大学入学後すぐに新宿場外近くの喫茶店でアルバイトを始めていたのでしたが
その5月末の「日本ダービー」でした。
この年のダービーはハイセイコーという公営大井上がりの大人気馬がいて
日本に一大競馬ブームが訪れた年でした。
当時の新宿場外では1000円の特券(当時はこう呼んでいました)しか売っておらず
時給200円ほどの学生が買うのはお門違いという馬券でした。
それで喫茶店で働いているみんなで100円単位のお金を出し合って
競馬好きなチーフや先輩が選んだ馬券を買って
配当は均等割であまり分は的中者がもらうというものでした。
馬券購入前に皆の予想というものも聞くという民主的なところもあり
俺は7・5・3が好きな数字だったのと
英文科の学生だったのでその枠の中から馬名を調べ
スピードリッチ(お金持ち)・タケホープ(勝つ希望が持てる)・イチフジ(縁起が良い)イサミ
の中から1番勝つ可能性のありそうなタケホープを選んだのでした。
当然、先輩やチーフたちはハイセイコーがらみの枠連馬券を推したのでしたが
ビギナーズラックという言葉を信じて
みんなが出し合った5000円の内1000円分だけ俺に賭けようと言うことになり
タケホープの単勝馬券も買ったのでした。
結果はタケホープ・イチフジ・ハイセイコーの着順で
単勝は53倍・枠連はマンシュウー手前の95倍くらいついたと記憶しています。
全く注目されていないタケホープに騎乗する嶋田功騎手がレース前に吐いた名言
「ハイセイコーが4本脚なら、オレの馬だって4本脚だ」が現実のものとなりました。
枠連もタケホープ・イチフジを1枚買えばよかったと嘆いたことが思い出されます。
この的中が物凄いインパクトとなりどこからかこの話は少し盛られてつたわったようで
ほとんどお店に来るお客さんは競馬をやっており競馬の知識がないとお客様とろくに話も出来ず、
ちょうど喫茶店のバイトにも大学にも慣れたこともあり「これではいけない」という気持ち
と「自分も馬券を買いたい」との思いもあり本格的に競馬のお勉強を始めました。
そのお店にはヤクザ屋さん、トルコ風呂など風俗取締りのデカさん、お店やビルのオーナーなど
競馬に関しては多士済々揃っおり教えていただくにはなにも困りませんでした。
そんな俺に大きな影響を与えてくれた方は3人いたのですが
お一人お一人についてこれから話してみます。
(1)「ノミ屋のヤーちゃん」
その3人の中のお一人に近くのビルで「ノミ屋」を取り仕切っている
ヤーちゃん(ヤクザのおじちゃんでしたので俺は2人の間だけですが当時こう呼んでました)がいて
この方に休憩時間でコーヒーを飲みながら後ろの席に座っていたある時
「なぁ~お前こないだのダービー当てたんだって?」
「え~まぁ~」
「そんとき聞きたかったぜ~ところでこのレースなぁ~何が来ると思うか教えてくれよ~」
そのレースは新潟の信濃川特別という900万下のレースだったと思いますが
もう馬券を買っていたので「良くわかんないけど俺は5-8と6-8を買いました」と馬券を見せてあげました。
結果これが凄い馬券となったようで(枠連83倍ほどでしたが)
当然大穴馬券決着だと(顧客は堅めの馬券購入者が多いようで)ノミ屋さんの勝ちとなり
100万ほど大儲けしたらしく飛んで飛び込んできました。
これ以後ひどく気に入られ何かと目にかけてくれたのでした。
「競馬とは何ぞや」というか「馬券とは何たるものか」という知識を教えていただきました。
なんせノミ屋さんでしたのでそれはそれはシビアな世界でしたから・・・
大きなレースがある日ですと1000万くらい動きノミ屋さん同士でリスク回避を考えなければ
最悪つぶされることもあるらしくて、かなり神経をすり減らす稼業のようでした。
ただし儲けも半端な額ではなくノミや家業も立派な裏商売であり毎週土日は殺気だっていたようでした。
俺も「こんなところでバイトなんかしてないで」仲間に加わらないかとかなり誘われました。。。
この頃はいろんな意味で面白い昭和そのものという感じの時代でしたね・・・
余談ですが当時の新宿場外は1000円の特券しかなかったので
俺たちが買うにはあまりにもリスクがありました。
よほど自信がない限りは近くても買いには行きませんでした。
そんな中で常連さんに聞かれて予想を伝えこれが的中すると
すぐに換金して最低でも1000円のご祝儀をいただきました。
当時の1000円といえば学食で1番高いAランチを4度
飲み屋さんでならビール大瓶4本注文できたくらいですので大いに助かりましたね~。
またヤクザ屋さんと上手く付き合わない(あしらわないと)と
お水商売はやっていけないというのも定説でしたので
この件でもヤーちゃんにはいろんなことを教えていただき助かりました。
俺が知っている限りでは、キチンと統制されたヤクザ屋さんよりも酷いのは
トルコ風呂や飲み屋さんやストリップ小屋担当のデカさんの方でしたね。
ある日一緒に歌舞伎町を歩いていた時、
「ちょっとここに寄るか?」と言ってトルコ風呂とストリップ小屋へ立ち寄り
「袖の下=明日の馬券代」を取って来るのですからひどいでしよ。
まるで映画やTVの世界のようでしたが、リアルな現実でした。。。。
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(2)コーヒー屋さん
ヤーちゃん以上にお世話になったのが
早稲田鶴巻町でコーヒーの卸を営んでいたコーヒー屋・Sさんでした。
この方はもう亡くなりましたが、奥さんとは今でもお付き合いがあります。
コーヒー屋さんとは例の喫茶店で俺が仕入れや注文を任せられるようになってから
可愛がられ、急速に親しくなりました。
競馬のイロハも裏情報というものがあるということも教えていただきました。
この方には大物農林族の秘書をしている競馬好きな友人がいて
この方からのウマヌシ情報というものを教えていただきましたが
めったにあたりませんでしたね~選挙がらみ以外は・・・
また中山や東京の貴賓室へも3度ほど連れて行ってもらいました。
その当時、人気の映画スター夫妻や歌手などともそこで会ったことがありました。
そこではいろんな「まことしやかな情報」が飛び交っていました。
でも「その確実な情報」というものも当ったためしがなかったように記憶しています。
ゆえに今でもハナから厩舎情報なんて存在さえも信じませんが・・・(‐^▽^‐)
Sさんが、大学3年の頃早稲田鶴巻町にビルの下の階に喫茶店をオープンすることとなり
俺と同棲していた現在の妻とで普段は午後6時から11時まで
日曜日は9時から5時まで任せられました。
ここでも3階に関西系のヤクザ屋さんが部屋を構え出入していたのでお店はよく利用していただきましたが
ヤーちゃんとの付き合いがあったので上手くあしらえましたね。
この時のヤクザ屋さんは関西系の組でしたがその教えは徹底しており
「堅気の衆を破壊して儲けるのが鉄則」これは麻薬で体を壊すという意味や
地上げで建物や近所付き合いなどを壊すという意味合いでした。
また自ら「クスリと女」には手をつけないも徹底しておりましたね。
クスリはあくまでも人に売るものだと言ってました。女も同様だったようですが・・・
現在は全く付き合いもありませんが、風の便りでは今では大物になっている方もいるのですよね。
お大物といえば児玉誉士夫のお妾さんとも付き合ってましたよ・・・俺と同じくマンデリンが大好きでした。
立ち振る舞いなど凛としてそれは見事なくらい素敵な方でしたね!!
この方にも妻ともども大変可愛がって頂きました。
歌舞伎や大相撲を観た時には必ずお土産を持参してお店に来て頂きました。
俺が大学を卒業して先生になろうと思っていた4年時
「高田馬場駅前にもう1店喫茶店を出そうと思っている。
それでお前たち2人に任せるのでやってくれないか?」と相談されました。
当時の上島珈琲の社長さんも絡んでいたお話しだったので
俺は「このままいても良いなぁ~」と内心思っていましたが
妻が「田舎へいつか帰るつもりなら若いうちが良いのでは」ということで諦めましたが
あのまま田舎に帰って良かったのかも知れません。
というのもそんないきさつがあってから
お店を出すことは止め、帰郷して3年後のダービーの直後
突然「心筋梗塞」で帰らぬ人となってしまったのでした。
その後しばらくは鶴巻町のお店は奥様がやっていたのですが
長男がバイク事故でなくなり失意のままにたたんでしまいました。
奥様には今でも季節ごとには野菜やお米を送ってお付き合いしております。
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(3)カツ亭の大将
私に競馬を教えてくれた人で今でも忘れられないのは
以前新宿東口にあった「かつ亭」の大将です。当時58歳でした。
大将がコーヒーを飲みに来て頂きいつの間にか2人揃って親しくさせていただきました。
お店に行くと「ヒレカツ定食・380円」だったと思いますが
大盛りのライスと大き目のカツをいつも出していただきました。
この方はプライベートに関しては多くは語りませんでしたが
話しの端はしに出てはきました・・・
「裏の世界ではかなり顔の効くお方だったこと」
「義理のある誰かの為に2店舗も失くした事」
「妻と子供には逃げられた?こと」などでした。
ただ戦時中は軍馬の世話がかりだったことは詳しく話してくれました。
それで良く同行してパドックでの馬の見方を徹底的に教わりました。
どんな作り・状態・しぐさの時なら「馬が走るのか」を学びましたが
これはホントに役立ちました。1番参考になったかも知れませんネ~!!
今でもグリーンチャンネルのTV画面を通してですが参考としています。
ただ1番馬体から「勝ち」が分かるのは
「ゲートイン」の前後のしぐさ・姿なので馬券に反映されないのですがね・・・^_^;
この件に関して今でもよく覚えているのは
90年の「第102回天皇賞(秋)(GI) 」の
ヤエノムテキ号とメジロアルダン号の「しぐさ&馬体」からは
走る前からこの2頭で決まると良く分かりました!
それで1番人気のオグリキャップ無視で枠連4-4の1点買いにXX万入れましたが
現在のように馬単や3連単があれば大儲けできたことでしょうな・・・(^∇^)
それでもこの配当は「真っ赤なスカイラインGTR」を特別仕様にしても
まだお釣りが70万ほど残りましたがね・・・
そんな意味では、この目でよく見た「テンポイント」の馬体の素晴らしさは
今でも忘れられません・・・あの胸板やお尻の肉付き、全体のバランスの良さ・・・
ゆえにこちらへ帰りパドックを見ないで馬券を買わなければいけないという
環境に置かれた当初は馬券を買うことが出来ませんでした。
この方は「カツ亭」の大将でしたが、
その後ご自分のお店を練馬に作ったので毎日のように会うこともなくなり
大将が馬券を買いに新宿へ来た際や
時々はそのお店を俺たちが訪れご馳走になったりお付き合いはしていました。
そんな頃の3月下旬、俺たちが帰郷するので競馬場通いも最後となる
中山へ2人で行き(妻は身ごもっていましたのでお留守番でした)、
俺が枠連2-8で9,840円という大穴馬券を的中させたのですが
「(妻に)換金しないで持って帰りなさい」といわれ持って帰ったら
妻はお腹をなでながらホントに喜びましたね!
(奥さんが妊娠していたら馬券を買う前や競馬場に出かける前に
お腹をさすってみましょう!きっと当ることでしょう!大将に教えていただいたことですが・・・)
これが昭和53年3月のお話しです。
大将は最後までご自分の名前や住所など教えてはくれませんでした。
ゆえにこちらへ来てからは電話番号を教えておきましたので
向こうから電話がかかってこない限りは話も出来ませんでした。
それもだんだん途絶えていたのですが
コーヒー屋さんが亡くなった時2人で上京した際ついでに
練馬のお店を訪ねたのでしたが、
もう閉店して所在等は一切何も分かりませんでした。
今も何も分かっていませんが天国でSさんと競馬通いをしていることと思っています。
--------------------------------------------------------------------------------
さらば、テンポイント
もし朝が来たら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって日本一のサラブレッドになるために
もし朝が来たら
印刷工の少年はテンポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった
それをいつもポケットに入れて
弱い自分のはげましにするために
もし朝が来たら
カメラマンはきのう撮った写真を社へもってゆくつもりだった
テンポイントの最後の元気な姿で紙面を飾るために
もし朝が来たら
老人は養老院を出て もう一度じぶんの仕事をさがしにいくつもりだった
「苦しみは変わらない 変わるのは希望だけだ」ということばのために
だが
朝はもう来ない
人はだれも
テンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ
さらば テンポイント
目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られてでてゆくおまえの姿が
故郷の牧草の青草にいななくおまえの姿が
そして
人生の空き地で聞いた希望という名の汽笛のひびきが
だが
目をあけても
朝はもう来ない
テンポイントよ
おまえはもうただの思い出にすぎないのだ
さらば
さらば テンポイント
北の牧場にはきっと流れ星がよく似合うだろう 寺山修司『旅路の果て』