”ご縁日記”木挽棟梁をめざして

出会いに偶然はないと聞く。これまで出会った方々からどんなメッセージを受け、私はどのように進むのだろうか?

「食」と「住」(2)

2007-05-16 08:55:38 | 斜め34度からの視点

「農」を生活者の目線で問題提起すると「食」になる。

以下の文章は、昨日ご紹介した佐藤弘さんの文章のつづきだ。この中の「コメ」を「杉」に置き換え読んでみてはどうだろうか。

(抜粋始め)

■問題は消費にある
 ある日のJAの講演会。私は長崎大学環境科学部の中村修助教授が撮った今どきの学生の食事の写真を見せ、聴衆にこの食事のどこが問題かを出してもらった。「朝ご飯抜き」「野菜なし」「手づくりがない」「外食、中食が多い」「清涼飲料水のがぶ飲み」など、いろんな答が返ってきたが、農家なのに肝心なのがない。それは、「コメを食っていないこと」だった。
 ポイントはここだと思う。
 今、各地でうまいコメづくりが行われている。だが、その結果はどうだったか。コメの消費量はこの四十年で半減。ついに年間六十キロを割ったではないか。なぜか。問題はコメそのものではなく、コメを取り巻く環境にあるからだ。農業問題を農業部門だけで解決しようと考えると品種改良か、コストダウンしかないのだが、現場の技術者の努力は認めても、現実を見ればここを攻めても、もうのりしろは少ないという何よりの証拠といえる。
 答が間違っているのではない。問題の立て方が間違っているから、とんちんかんな答しか返ってこない。ここに気付かねばならない。
 地産地消運動についても同様だ。なぜ、地産地消なのか。なぜ、日本人はコメを食べるべきなのか。生産者側に確固たる意志と理論武装がないから、説得力がない。だから、学校給食への食材導入一つとっても、「前例がない」という教育委員会の一言で、すごすごと引き下がる。コメを食べる理由? それは農家のためではなく、国民と社会の健康のためだ。脂質、タンパク質過多で、ビタミン、ミネラルが不足している状況を、福山平成大学の鈴木雅子教授は、「現代型栄養失調症」という。だが日本型食生活なら、自然と脂質は減り、日本人に合った食になる。理想は玄米だが、無理なら分搗き米でもいい。要は余っているからコメを食えではなく、あなたと地域の健康のためにコメを食べようということ。そして、「サプリメントやハンバーガーより、玄米食う方がかっこいいぜ」という流れを作らねばならない。
 今、右肩上がりで増え続ける医療費は三十二兆円。国家の一般会計予算が八十二兆円だから、その大きさがわかる。一方、農業の総産出額は八・五兆円。低落傾向に歯止めがかからない。だが、農ではなく、食からのアプローチなら目はある。
 農家が健康な農産物を作り、消費者が自然の恵みを受けた力のみなぎった旬の野菜を食べるようになれば、医療費は確実に下がる。また、これは生産者でなくても、八百屋さんでも料理人でも、家族でもいいのだが、食べ物の向こう側に、かかわりのある人の姿が見えるようなれば、自然と食べ物に手を合わせるようになり、心豊かな社会へ向かうだろう。
 「子孫に美田を残す」が、これがかつての日本人の美徳だった。今さえ良ければという時代だからこそ、JAには「食と農からの世直し」という旗を高々と掲げてほしいと願う。

さとう・ひろし
中学時代、有吉佐和子の「複合汚染」を読み、ふるさとの野山がおかされていくわけを知る。百姓を志し、東京農大農業拓殖学科に進学するも、深遠なる「農」の世界に触れ、実践者となることを断念。側面から支援する側に回ろうと西日本新聞社に入社。1961年生まれ。福岡市出身。

(抜粋終わり)

私が言うまでもなく、コメは日本の核心であったことは間違いない。神社に祀られている神様だってその殆どは五穀豊饒に関係している。まさに「子孫に美田を残す」は日本人の美徳そのものであったはずだ。

以前、森林ボランティアに参加したときのことである。都市部からおみえになった方にこう問われたことを思い出した。

「なぜ今も杉を植林するのですか?こんだけ採算が合わないと嘆いているのに。日本人は皆がやっていることをやらないと不安なんですかね?コメが減反になっているのを見ればわかるじゃないですか!」

このとき私は、植生から、また資源の観点から「理」を説明した。でも、判然としない自分がいたことも事実だ。なぜ「利」に適わない行動をやっているのだろう…答えながらもその疑問は拭えない。そして結局、「先代からのスピリッツがそうさせるのでしょう。」と言ってしまった。

佐藤さんの文章を読んで改めて気付かされたことがある。日本人にある「子孫に美田を残す」という美徳と同様に、私の祖父は「子孫に美林を残す」ことを美徳としていたと思う。おそらく幼少の頃から山に入った人々は、似たような価値観を持っていることだろう。

美林を残すためにも、

「要は余っているから杉を使えではなく、あなたと地域の健康のために杉を使おうということ。」そして、

「玄米食う方がかっこいいぜ」と同様に「杉の空間はかっこいいぜ」という流れをつくらなければならないと思う。

ちなみに「玄米」は言い換えるならば間伐(間引き)した後に残った精英樹(せいえいじゅ)と言えなくもない。

つまり山の「とっておき」の木をいかにかっこよく使えるか。これに懸かっているのではないだろうか。

なぜか。それは、

「杉を使う理由?それは林家ためではなく、国民と社会の健康のためだ。」と思うから。

コメの消費が減ると田圃は減反となるが、山の場合は放置林となる。

治山、治水という役割を担う山の樹木を使わないことは、地域の健康にとって良いことではない。

山には、守らなければならない森と 資源として使った方が良い林 がある。

木は使っても、育てりゃいいのだ。で・・・本題に戻って、

「食」を「?」に置き換えると… やはり見えそうで見えない…


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