「和をもって日本となす」上下巻、ロバート・ホワイティング著
本書はかなり長いノンフィクション作品だが、知人の勧めもあって一気に読んでみた。内容を一言でいうならば、日米間の志向や観念の差異、そして日本人の野球観を和としてとらえている、というもの。
著者の取材がとても細密であり――ともかく映像的で面白い読み物である。
本書が日本で発行されたのは一九九〇年三月ではあるが、その年から年月は移り変わってはいても、当時の日米間の様々な摩擦、今日の日米間においてもあまり変わってはおらず、そして日本人の野球観も戦前戦後からあまり変わっていないようにも思われるし、米国人から観た日本人や日本の文化文明の側面の批評、日本の「和」とはなんぞや、そんな事を示唆するものとなっている。
私が野球を知ったのは小学生の時。近所の仲間とゴムボールでキャッチボールを楽しみ、三角ベースで野球のルールを何となく覚え、五年生になって少年野球チームに参加してからである。そのチームはカトリック協会の白人の牧師が監督で、他の日本人監督のチームとは練習から試合運びまでかなり異なっていた。しかし途中で白人の牧師が監督を辞退し、そして日本人の金物屋の叔父さんに代わった。
白人牧師が監督の時、ランニングやキャッチボールなどの練習は一時間程度で、それぞれが希望のポジションにつき、練習試合をしながらプレイを習得し、監督がポジションを指名するという陽気なものだったが、金物屋の叔父さん監督の場合は、練習試合もなく、長時間走らせ、近距離の過激なノックであったり、機嫌が悪いときは必要以上にしごき、殴り蹴り、こんな事くらいで野球をやめたいやつはさっさとやめろ!そういう威圧的で陰気な指導にガラリと変わった。
まるで戦略性のない軍隊的な指導だった。
私は捕手でキャプテンを任されていたので、監督から殴られたり蹴られたりというのはあまりなかったが、ある試合で負けたときに、頑張りが足りないと監督がいちゃもんをつけ、私も含め、全員のケツをバットで殴った。それでしばらく立てないほど腰がしびれた。
頑張りが足りない?私は疑問を感じて腹が立ち、ほんとうはおじさん、野球が下手くそなんじゃないのか?とそう言って、それ以後、私は野球をやっていない。
中学に入って野球に復帰しようと思ったが、やはり選手らがバットでケツを殴られているのを見て、サッカー部に入った。他には丸坊主にされるのも嫌だったからだが。
ともかく日本の野球は、軍隊的であるし、間違った武士道(サムライ)のようなものまで持ち込んでいて、気合、頑張り、努力、忍耐などなどキチガイじみたものである(あったと思う)。とくに高校野球は浪花節のようであるし、開会式のパレード、選手や応援団や観客の陶酔しきった涙など、まるで軍国的なイベントのように洗脳されているようで、隔離された儀式のようにも見えてくる。
だからなのか私は、日本のプロ野球にも高校野球にもあまり興味が持てないでいる。しかし、野茂、イチローが大リーグで活躍するようになってから、ふたたび野球(ベースボール)に興味を持ち、テレビで観戦をするようになった。そして日米野球のときには球場にも観戦しに行くようになった。しかし最近では、テレビでの大リーグ中継をあまり観なくなった。というのも、日本人の選手を中心にした中継がつまらないので、MLBのウェヴサイトで時々プレイを観戦している。
本書の話に戻すと、本書の中では、ガイジンプロ野球選手のドキュメントが様々に記されているが、彼等ガイジン選手はチームのメンバーというより、助っ人として扱われていたらしい。そして日本式の猛烈な練習や我慢(犠牲)の野球を、コーチらが彼等に押しつけるため、トラブルの連続でもあったらしい。(おそらく、コミュニケーション不足から発生する感情的な問題であったとは思うが)
エピローグ・日米野球摩擦(本書より抜粋)
日本式の野球とアメリカ式のベースボールは平行に走っている線路みたいなもんだ。交差することは絶対にありえない――レロン・リー。
おれたちは何をしようと、はみ出し者なんだ。五打数五安打を打つと無視され、五打数ノーヒットだと、バカヤロー!ヤンキー・ゴー・ホーム!といわれる――ウォーレン・クロマティ。
日本人は、ぼくたちが周囲にいることを望んでいないように思えた。いや、そうとしか思えなかった――ゲイル・ホプキンス。
もうこれ以上、アメリカ野球から学ぶべきものはない――川上哲治・張本勲ほか。
NHKの大リーグ中継を観ていて時々つまらないと感じることは、日本のプロ野球でプレイしていたガイジン選手が画面に映ると、解説者がこう言うときがある。彼が大リーガーとして今日あるのは、日本のプロ野球でつちかったものでしょうとか、他には、日本のピッチャーはメジャーのピッチャーに比べてコントロールがいいとか、要するに松坂のコントロールが悪くなると平気でボールのせいにもしていた。つまりあちらのボールはやや大きめで滑りやすいなど。
また、日本人の外野手がフライを取れないときなどは、アメリカのボールは品質が悪いからバットで打つとへこむので、ボールの行方が読みづらく、あれに慣れないとキャッチは難しいでしょうなどなど。つまり日本製のボールは品質がいいのでへこむということはないと言いたいのである。まるで日本人の手によって野球(ベースボール)が進化したかのように解説者が無神経に語るのは、歪められた思い込みがあるからではないかと思われる。ともかく日本の野球を優位に語ろうとする姿勢には気分が悪くなってくる。そういう解説の場合、陽気な米語解説に音声を切り換えることにしている。
日本製のボールについて大リーガーらが言うには、バットにあたるとよく飛ぶと言っており、王貞治があれだけのホームランが打てるのは当然でしょうとか、それに球場も小さいからと分析している。というのも阪神にいたバースが王貞治の記録に迫っていたときにこう述べていたらしい。連中はおれには打たせやしないよ。四球で歩かせるに決まっている。王の記録をガイジンに破らせるはずがないから。外国人としてこんなことをしていいのか――私にはわからない。
もしもそのような事が意図的に行われているとすれば、実にあざとい日本のプロ野球界である。近年ではローズが近鉄時代にそのようなめに合っている(と思われる)。つまり日本の和の概念からは、外国人は排除されてしまうのであろう。
野球でもっともやめてほしいのは敬遠である。その言葉も嫌いである。(敬遠を英語ではINTENTIONAL WALKという)
因みに、本書が出版された年、テレビや雑誌において絶大な反響があったらしいのだが、日本のプロ野球界やスポーツ系ジャーナリズムには無視されていたようである。
日本人の世界知らずで、妙なところは、いかにも日本人が他国にくらべて優れていると言わんがばかりのところである。たとえば日本の火縄銃は装飾が美しい。日本車は燃費もよくあらゆる面で外車にくらべて精度が高い。日本の家紋などシンボル化は世界でも評価されている。日本人は農耕民族で菜食だから体臭がなく欧米人は狩猟民族で肉食だから体臭がある。漢字には意味がありアルファベットに意味はない。日本語は響きも美しい言葉だ。日本はアジアではない。これらはほとんどいい加減なものであり、自動車の性能やデザインなど、現時点では欧米の方がまだまだ優れていて、F1などでそれは証明済みである。
しかしいまだにそのようなザレ言(偏見)が生き残っていて、それをマスコミや多くの学校教師が平気で語っている。
私は日本が嫌いで欧米がとくに好きというわけではない。あまり語りたくはないが米軍による原爆投下後の責任のなさ。米軍基地の保有。米大使館の家賃の滞納。とんでもない殿様国家である(と思われる)。もっとも戦略性がなく敗れた我が国がいけないのだが。
チェ・ゲバラが広島に来て、慰霊碑に花をたむけながら日本人にこう言い残している。アメリカにこんなにされてなお、君達日本人は彼らの言いなりになるのか。
了