幼真の雑文

Osanai Makoto no zatsubun

「和をもって日本となす」

2010-07-25 | 読書文


 「和をもって日本となす」上下巻、ロバート・ホワイティング著

  本書はかなり長いノンフィクション作品だが、知人の勧めもあって一気に読んでみた。内容を一言でいうならば、日米間の志向や観念の差異、そして日本人の野球観を和としてとらえている、というもの。

  著者の取材がとても細密であり――ともかく映像的で面白い読み物である。

  本書が日本で発行されたのは一九九〇年三月ではあるが、その年から年月は移り変わってはいても、当時の日米間の様々な摩擦、今日の日米間においてもあまり変わってはおらず、そして日本人の野球観も戦前戦後からあまり変わっていないようにも思われるし、米国人から観た日本人や日本の文化文明の側面の批評、日本の「和」とはなんぞや、そんな事を示唆するものとなっている。

  私が野球を知ったのは小学生の時。近所の仲間とゴムボールでキャッチボールを楽しみ、三角ベースで野球のルールを何となく覚え、五年生になって少年野球チームに参加してからである。そのチームはカトリック協会の白人の牧師が監督で、他の日本人監督のチームとは練習から試合運びまでかなり異なっていた。しかし途中で白人の牧師が監督を辞退し、そして日本人の金物屋の叔父さんに代わった。
  白人牧師が監督の時、ランニングやキャッチボールなどの練習は一時間程度で、それぞれが希望のポジションにつき、練習試合をしながらプレイを習得し、監督がポジションを指名するという陽気なものだったが、金物屋の叔父さん監督の場合は、練習試合もなく、長時間走らせ、近距離の過激なノックであったり、機嫌が悪いときは必要以上にしごき、殴り蹴り、こんな事くらいで野球をやめたいやつはさっさとやめろ!そういう威圧的で陰気な指導にガラリと変わった。
  まるで戦略性のない軍隊的な指導だった。

  私は捕手でキャプテンを任されていたので、監督から殴られたり蹴られたりというのはあまりなかったが、ある試合で負けたときに、頑張りが足りないと監督がいちゃもんをつけ、私も含め、全員のケツをバットで殴った。それでしばらく立てないほど腰がしびれた。
  頑張りが足りない?私は疑問を感じて腹が立ち、ほんとうはおじさん、野球が下手くそなんじゃないのか?とそう言って、それ以後、私は野球をやっていない。

  中学に入って野球に復帰しようと思ったが、やはり選手らがバットでケツを殴られているのを見て、サッカー部に入った。他には丸坊主にされるのも嫌だったからだが。

  ともかく日本の野球は、軍隊的であるし、間違った武士道(サムライ)のようなものまで持ち込んでいて、気合、頑張り、努力、忍耐などなどキチガイじみたものである(あったと思う)。とくに高校野球は浪花節のようであるし、開会式のパレード、選手や応援団や観客の陶酔しきった涙など、まるで軍国的なイベントのように洗脳されているようで、隔離された儀式のようにも見えてくる。
  だからなのか私は、日本のプロ野球にも高校野球にもあまり興味が持てないでいる。しかし、野茂、イチローが大リーグで活躍するようになってから、ふたたび野球(ベースボール)に興味を持ち、テレビで観戦をするようになった。そして日米野球のときには球場にも観戦しに行くようになった。しかし最近では、テレビでの大リーグ中継をあまり観なくなった。というのも、日本人の選手を中心にした中継がつまらないので、MLBのウェヴサイトで時々プレイを観戦している。

  本書の話に戻すと、本書の中では、ガイジンプロ野球選手のドキュメントが様々に記されているが、彼等ガイジン選手はチームのメンバーというより、助っ人として扱われていたらしい。そして日本式の猛烈な練習や我慢(犠牲)の野球を、コーチらが彼等に押しつけるため、トラブルの連続でもあったらしい。(おそらく、コミュニケーション不足から発生する感情的な問題であったとは思うが)

  エピローグ・日米野球摩擦(本書より抜粋)

  日本式の野球とアメリカ式のベースボールは平行に走っている線路みたいなもんだ。交差することは絶対にありえない――レロン・リー。

  おれたちは何をしようと、はみ出し者なんだ。五打数五安打を打つと無視され、五打数ノーヒットだと、バカヤロー!ヤンキー・ゴー・ホーム!といわれる――ウォーレン・クロマティ。

  日本人は、ぼくたちが周囲にいることを望んでいないように思えた。いや、そうとしか思えなかった――ゲイル・ホプキンス。

 もうこれ以上、アメリカ野球から学ぶべきものはない――川上哲治・張本勲ほか。

  NHKの大リーグ中継を観ていて時々つまらないと感じることは、日本のプロ野球でプレイしていたガイジン選手が画面に映ると、解説者がこう言うときがある。彼が大リーガーとして今日あるのは、日本のプロ野球でつちかったものでしょうとか、他には、日本のピッチャーはメジャーのピッチャーに比べてコントロールがいいとか、要するに松坂のコントロールが悪くなると平気でボールのせいにもしていた。つまりあちらのボールはやや大きめで滑りやすいなど。
  また、日本人の外野手がフライを取れないときなどは、アメリカのボールは品質が悪いからバットで打つとへこむので、ボールの行方が読みづらく、あれに慣れないとキャッチは難しいでしょうなどなど。つまり日本製のボールは品質がいいのでへこむということはないと言いたいのである。まるで日本人の手によって野球(ベースボール)が進化したかのように解説者が無神経に語るのは、歪められた思い込みがあるからではないかと思われる。ともかく日本の野球を優位に語ろうとする姿勢には気分が悪くなってくる。そういう解説の場合、陽気な米語解説に音声を切り換えることにしている。
  日本製のボールについて大リーガーらが言うには、バットにあたるとよく飛ぶと言っており、王貞治があれだけのホームランが打てるのは当然でしょうとか、それに球場も小さいからと分析している。というのも阪神にいたバースが王貞治の記録に迫っていたときにこう述べていたらしい。連中はおれには打たせやしないよ。四球で歩かせるに決まっている。王の記録をガイジンに破らせるはずがないから。外国人としてこんなことをしていいのか――私にはわからない。
  もしもそのような事が意図的に行われているとすれば、実にあざとい日本のプロ野球界である。近年ではローズが近鉄時代にそのようなめに合っている(と思われる)。つまり日本の和の概念からは、外国人は排除されてしまうのであろう。
  野球でもっともやめてほしいのは敬遠である。その言葉も嫌いである。(敬遠を英語ではINTENTIONAL WALKという)

  因みに、本書が出版された年、テレビや雑誌において絶大な反響があったらしいのだが、日本のプロ野球界やスポーツ系ジャーナリズムには無視されていたようである。

  日本人の世界知らずで、妙なところは、いかにも日本人が他国にくらべて優れていると言わんがばかりのところである。たとえば日本の火縄銃は装飾が美しい。日本車は燃費もよくあらゆる面で外車にくらべて精度が高い。日本の家紋などシンボル化は世界でも評価されている。日本人は農耕民族で菜食だから体臭がなく欧米人は狩猟民族で肉食だから体臭がある。漢字には意味がありアルファベットに意味はない。日本語は響きも美しい言葉だ。日本はアジアではない。これらはほとんどいい加減なものであり、自動車の性能やデザインなど、現時点では欧米の方がまだまだ優れていて、F1などでそれは証明済みである。
  しかしいまだにそのようなザレ言(偏見)が生き残っていて、それをマスコミや多くの学校教師が平気で語っている。
  私は日本が嫌いで欧米がとくに好きというわけではない。あまり語りたくはないが米軍による原爆投下後の責任のなさ。米軍基地の保有。米大使館の家賃の滞納。とんでもない殿様国家である(と思われる)。もっとも戦略性がなく敗れた我が国がいけないのだが。

  チェ・ゲバラが広島に来て、慰霊碑に花をたむけながら日本人にこう言い残している。アメリカにこんなにされてなお、君達日本人は彼らの言いなりになるのか。


「シティ・オブ・グラス」

2009-10-05 | 読書文


  それは間違いの電話で始まった。そんな文頭からはじまる「シティ・オブ・グラス」が出版された89年当時。なんだ?と思い、たいして満足をしなかった小説だが、先日読み直してみたところ、物書きとなっている僕は、主人公のクィンとダブってしまい、最後まで読んでしまった。
  立場がかわれば読み方もかわる(つまりそいうこと)。

  この小説はカテゴリーにおさまった小説に対し、ある意味、挑戦的であるので、長編小説になじみの薄い読者はおそらく途中で退屈になり、集中が切れて読めなくなってしまうかもしれない。しかし小説を読むというのは、著者が導く小説世界を、逆らわずに読み切ることしかなく。
  小説は論文(科学・社会経済など)や教養書ではないので、ストーリーや文体に疑問を持ってもまったく意味をなさない。ああだ、こうだ、こうした方がさらにいいのにと考える読者は小説を読むタイプではないし、小説を読みながら漢字が読めないから辞書を引くとか、文法的にどうのとか、索引を調べたりする人は、そもそも本の種を読み分けるセンスが出来ていない(と思われる)。
  小説や詩を読むセンスを養うにはとにかく最後まで一気に読み切ることしかない。

  小説は美学の探究であるから、論文などとは読み方がまったくことなる。つまり小説は言葉をこえた何かを伝えようとしているわけで、そのあたりを読み解けなければ読者にとっては面白くも何ともないはず。つまりどのような本であれ、読んだ後で自分なりの所感(批評)をまとめること、ようするに自分が得た印象を述べられるように用意をしておく(自分のためにも)。それが出来ない読者はどのような本を読んでも娯楽にさえならない(と思う)。小説は教養のための書物と勘違いしている読者が多数とは思うが、そうではなく映画や漫画などと同じようにその世界に没入すればいいのであり、自分が欲求する想像や願望を満足させればいいものである(小説は純文系もエンターテイメント系も読み方は同じ)。

  はなしを戻すと「シティ・オブ・グラス」の著者名はポール・オースター。詩人であった彼が、初めて書いた小説であるらしいのだが、そのせいもあって、この作品に登場する人物は主観的で理不尽さがあり、だからなのか不可解で面白い。それに小説としてのカテゴリーがわからないので主題や狙いも読み解きにくい。しかしそんな事はどうだっていい面白ければ――そのように静かに新鮮みのある小説といえる。

  話の大筋(ネタバレではない)。

  場所はNY、マイナーな作家のクィンは妻も子も無くしていて社交性がなく、友人もいない。そんなクィンにある日電話が掛かってくる。クィンはポール・オースター(著者と同名)という探偵に間違えられ、彼は作家という体質から好奇心を持ち、ポール・オースターになりすまして依頼者に会いに行く。依頼者は元看護婦の女で、その旦那は多重人格者で賢いのかキチガイなのか皆無な男。男は幼年期に父親に監禁され酷い目にあわされたという。そして出所してくる父親に男は仕返しされるのではないかと怯えている。クィンは探偵のように諸々の事情を訊き出し、単独で捜索をして行くのだが、小説世界の探偵のように上手く事が運んではいかない。(出来ない事はさっさと断ればいいものを)――そのあたりのクィンの心理が読めない)。
  しかしクィンは何故か責任感が強い(間抜けじゃないのと思うくらい)。そういう主人公だとおよそわかっていながら、苛々してしょうがなく読み進めて行くと、ところどころの意外(不条理)な進展に引き込まれて行く。そしてこの世界や人物に突き放されてしまう。
  クィンは、多重人格者の父親を追跡する。その父親はというと、不可解な行動をし、頑固そうでかなり認知症ぎみのインテリ(マイナーな学者)である。その父親はクィンにこんな印象的な台詞を吐く。

  そうだ。われわれが言うべきことをついに語る言語だ。
  なぜなら、われわれの言語はもはや世界に適合しなくなった。
  すべてが完全であったとき、われわれは言葉が事物を表現しうると信じていた。
  しかし、事物は少しずつ分解し、砕け、混沌に陥っていった。
  にもかかわらず、われわれの言葉は依然として同じだった。
  それは新しい現実に対応しきれなくなった。
  それ以来、われわれがそこに見ているものをロにしようとすると、
  うまく説明できず、表現の対象そのものを歪めてしまう。
  すべてをめちゃくちゃにしてしまう。
  しかし、あんたもご存知のように、言葉は変化しうるものだ。
  問題はそれをいかに論証するかということだ。
  そのために、わしは今、一番単純な方法で仕事をしているわけだよ――子供でも、
  わしの言ってることを理解できるような単純な方法だ。
  あるものをさす言葉を考えてごらん――たとえば、〈傘〉だ。
  わしが〈傘〉と言ったら、あんたの心の中にその像が浮かぶ。
  真ん中に杖のようなものがあって、折りたたみ式の金属のスポークがついていて、
  その天辺に防水材でできた覆いがある。
  それを開くと、雨から身を守ってくれる。大事なのは最後の部分だ。
  傘は単なる物であるだけでなく、ある機能を持つ――言い換えれば、人間の意志を表現するものでもある。
  そこで改めて考えてみると、すべてのものは、ある機能を提供するという点で傘に似ている。
  鉛筆は書くためにあり、靴は履くためにあり、車は乗るためにある。
  問題はまさにここにあるんだ。
  物がもはや機能を果たさなくなったとき、どうなるか? 
  それは依然として一つの物であるのか、それとも別のものになってしまうのか? 
  傘から布をはがしてしまっても、傘はやっぱり傘なのか? 
  布のついていないスポークを開いて、頭上にさし、雨の中を歩き、ずぶぬれになる。
  それでも、この物体を傘と呼べるのか? 通常、人々はそう呼ぶだろう。
  ぎりぎりの段階になって、その傘は壊れていると言うだろう。
  わしにいわせれば、これは大変な間違い、あらゆる問題の元凶なんだ。
  なぜなら、それはもはや機能を果たせないから、傘が傘であることを止めたからだ。
  それは傘に似ているかもしれない。かつては傘であったかもしれない。
  しかし、もうそれはほかのものに変わってしまっている。
  しかしながら、言葉はそのまま残っている。
  したがって、言葉はもはやその物を表わすことはできない。
  それは不正確である。間違っている。表わすべき物を隠している。
  もしわれわれが毎日手にする生活用品にさえ名前をつけることができないとしたら、
  真にわれわれと関係のある物について話すとき、われわれはいったいどう表現すればいいんだ? 
  われわれが現に使っている言葉の変化をはっきりさせない限り、
  われわれは路頭に迷いつづけるだろう
  (翻訳:山本喩美子/郷原宏/角川書店)

  しかしクィンは父親を見失い肝心な事を聞き出せず、どことなく純朴で懐疑心が弱いせいもあり、外界との接点が希薄なために捜索が主観的になり、行き詰まって行く。そしてポール・オースターという探偵を探し、たよって行くが、ポール・オースターは探偵ではなく、クィンと同じマイナーな作家だったのである。

  さて、この先はどうなるのか、ここでは結末までの解説はしない――出来ない。

  キーワードはインテリ、マイナー、ニューヨーク。この話を一言でいうならば、人は日常、役者のように都合よく変化(へんげ)しているのかもしれない。つまり生きて行くためにはさまざまに都合が重なるので役者になれれば楽でもある。しかし人はなかなか名優にはなれない。だがあまり演技を続けていると己を見失ってしまうのではないか(いくら名優であっても)。いや、やはり役者のように上手く振る舞っている方が有利なのではないか(しかし大根役者ではどうにも)。
  ポール・オースター原作の映画、「スモーク」という作品は、雑貨屋の中年男のささいなあやまちの物語。われわれは日常において、己が正しいと思いこんで生きている。しかし己の記憶というのは、主観と客観を混ぜこぜにして都合よく書き換えてしまっているのではないか、とくにその現場には証拠もなく証人もいない場合、己を正当化するために友人や知人に同意を求めて話してみたり。だがその諸々の内情を神が赦し、己も赦してくれるのかどうか。
  ポール・オースターの描く作品にはそうしたものが多数。つまり己こそが最も偽善的で卑しい存在なのではないか。そのように考えさせられてしまうし、それでいいんだ、というささやきもあるような。

萬吉
mandajukichi@gmail.com

「罪と罰」

2009-07-26 | 読書文
 

  近所の友と駅前でお茶を飲みながら雑談をした。

  もしも俺の子供が人を殺めようものなら――俺は自殺する。笑みをうかべて友が言った。
  どうしてまたそんなネガプランをたててるの。僕が訊く。
  突然何が起きてもあわてないようにね。
  しかし君は君で子は子の人生なんだから自殺することもないんじゃないの。
  そんな恥と重たい責任を背負って生きてはいけないからさ。
  けど自殺は大変な原罪らしいぞ。
  原罪って?
  天や自分の良心や魂が許さないってこと――たとえ死んでもね。
  ええっそういうものなの。
  嘘だと思うのなら自殺してみろよ。
  無理いうなよ。
  ワルをして警察につかまれば罰をうけるけれども、つかまらずに是が非でも生き延びることは罪としては軽いものらしい――死んだばあさんがよく言ってた。
  ど、どいうこと?
  つまり君は子供を見逃してやればいいってことさ。
  いやあ~自首させるよ。
  もしも、子供が正義で殺ってたらどうする。
  どんな理由があるにせよ――。
  で、自首しなかったら?
  子供を殺して自分も死ぬ。
  それこそ大罪じゃない。
  ――まあ~いざとなれば死ねないかもな。
  君が子供を殺して天に祈れば多少罪は軽くなるかもしれないが。
  たしかに――それなら自分で納得できそうにも。
  さらに罪を軽くしたいのなら、息子と共に逃げ回るか刑務所に行くかどうか。

  数年前に知性を磨こうとして読んだドストエフスキーの「罪」と「罰」。その両者は似たようなものと思って読んだのだがそういうものではなく――。

  「罪と罰」はともかく長い長いお話。だからか時間を持てあましている者が読む部類のロシア系文学と思われがち。だがその内容は罪と罰についてぐるぐる考えさせられる不条理な物語ではなくキリスト教的な愛や慈悲や良心についての明確な物語。つまり貧困やら愛や正義や善悪も関係しているというもの。だが倫理的とはいえない(つまり小説という虚構)。
  たとえば餓死寸前の己の家族の空腹を満たすために強欲な金持ちのおっさんを殺して、そのカネでどうにか皆を救ったとして、神はその行いを赦してくれるのかどうなのか。国家や集団の戦争なら部下に命令して殺傷させていいのかどうなのか。または個人の正義感から社会のためだと人を殺していいものかどうなのか。――そんな権限を誰が与え、与えられた者はどう自覚しているのか。――そのようなことを考えさせられる物語。
  つまり罰は人と社会の問題であって、罪は神と人との問題ということなのか。あくまでも個人的な解釈だが。

  すなわち、己の罪を告白して正直に生き、それを償い、そして神を信じるなら馬鹿をみないから大丈夫というような――現実より精神の啓蒙といえる。

  だが実際には正直者は貧しく馬鹿をみることが多く、山師は豊かで世界を支配している。
  その山師の組織と思われるアメリカのモンサント社は食糧危機から人類を救うかのごとく、遺伝子組み換えをして専用の殺虫剤をまかせ大量に大豆を生産させ人間に喰わせ、その大豆のカスを牛や豚や鶏に喰わせて、その動物を残酷に殺して肉にして人間に売って喰わせて儲けているらしい。(大豆をよく食べる日本人はモルモットとも云われている)そんな連中は大罪ではないのかどうなのか。

  欧米人は日本の尾頭付きの魚を敬遠し、加工されたステーキやサーディンなどを好んで食べるところからすると、やはり雑食な人間の欲罪を消しさりたいのであろうか。
  ちなみに「欲罪」なる単語は辞書にはない。

  日本人は殺生した魚に罪を感じながら尾頭付きを食べ、花をいけるにしても葉っぱを残すのだが、欧米人は魚の頭をちょん切り、ブーケは葉っぱをちょん切り花だけを残す。すなわち人間中心世界を神様が許可(決定)していると思いこんでいるようにも。

  現代の資本主義経済の、繁栄のその仕組みは、ある少数のキリスト教徒らの歪曲(解釈)によるものとも云われていて、キリストの商人に対する嫌悪は無視され、カネや数字は神が人間に与えた知恵だと思いこんでいるらしい(つまりカネは人間の暮らしを豊かにするものとして)。たとえその商品が武器弾薬であっても、それらを造って売って戦争させて儲け、そのカネが国益や社会への奉仕となるなら善行だと考えつく――おっそろしい幸福の信念。さらにエコロジーやエネルギー問題とて経済力(神のおぼし召し)で解決できると考えているようにも思われる。

  要するに連中は罪のうしろめたさを他者や社会から感じないようにするために神をバックにつけいるように思われる。

  そうやって神の御心のままに資本の強者となったプロテスタントのすごさはとてつもないものとなっているらしく、我らの過ちを裁けるものは司法や人間ではなく神であるとしているらしい。

  そのつまりドストエフスキーはそういう思い上がった山師や指導者に警告を発したかったのではないか。となれば彼は共産主義者?もしくはプロレタリア文学者?――と読むそれ以前に、彼を敬虔なクリスチャンとして読もうかなと。

  だがもしかするとニーチェが説くようにこの宇宙には正しい者もいなければ神もいない――のかもしれない。
  ついこの前のこと、オバマ大統領の腕に虫がとまり、その虫をオバマはたたき殺し国民に自慢していたのが何とも印象的だった。

  また書棚から引っ張り出し、改めて「罪と罰」上下巻を読み返してみようと思っている。
  ― ドストエフスキー著/米川正夫・訳/角川文庫 ―

萬吉
mandajukichi@gmail.com