真理の喧嘩日記

子宮頸がん闘病記録

抗がん剤投与

2002年10月30日 00時00分00秒 | Weblog
昼、病院に戻る。
夜までやることはない。
週末だったこともあって
午後から友人が大量にやって来るとのメールが入る。

ダイバーヨッパちゃん、チンさん、チンさんの妻みちゃえ、その友達アヤちゃん
わたしの高校時代からの友人ナオコ、そして最後に学くん。
学くんはわたしが緊急連絡先に指定したので
止む無く携帯電話を持つことにしたのだった。
携帯ショップで契約を済ませてきたと言う。
それまで携帯所持を頑なに拒否してきたのだが観念したらしい。
初対面もいる中、旧知の仲のように姦しい面々。
「どうせ、真理の知り合いなんでしょ?だったら、気遣いは無用よね?」と
ナオコが言うとおりである。
和気藹々はいいけれど
あまりの賑やかさに・・・いや、うるささに
病室を出て病院の最上階にある展望レストランに連れて行く。

アルコールも入っていないのに
こんなに盛り上がれるのは
おばちゃんか彼らくらいか・・・。
とにかくよく喋り、よく笑った。


みんなが帰って、一息ついて・・・。
点滴の針を入れてもらう。

「腎機能を観察する必要があるんで
2時間おきに採尿しなければならないんですが
夜中もずっとは無理だと思うんですね。
で、副作用が出て苦しくなってからではちょっと不可能に近いんで
膀胱に管を通して採尿したいんですが・・・。」
え?やだ!・・・。
ひるむわたしにI医師は静かに言った。
「そうしてもらった方がいいですよ。」

きっとそれがベストな状態なのだろう。
でも、管で繋がられるのはわたしであって彼ではない。
しかし、屈するしかなかった。


慣れない点滴とカテーテルのおかげで眠れぬ夜を過す。
翌朝10時。
抗癌剤投与開始。
吐き気止め、精神安定剤も入れてもらう。

隣のYさんは先に済ませて退院していった。
それほど、副作用に苦しんでる様子は無かったが
便秘と食欲不振、倦怠感があるようだった。
寝ていることが多かった。

Oさんはわたしと同じ開始だった。
4回目の彼女は慣れたもので鼾をかいて昼寝もすれば
夜も熟睡している様子。
起きている間中、よく喋る。

「あたしは3日目から来るのよ(副作用が)。
そしたら、もう静かなもんよ~。
喋れないし、食べられないし、トイレに入りっぱなし。」
副作用の出方は人それぞれらしい。

初抗癌剤の感想・・・。体が重く感じる。
口の中がもわっとして唾液が粘つく・・・。
喉の渇きは凄かった。
水分はどんどん摂っていいとのことなので
体が欲するままに水分を補給する。

2日目、異常なし。Oさんも大変元気。
3日目、連続の輸液と水分摂取のせいで体がパンパンに浮腫んでくる。
体重が5キロも増える。
その夜、お喋りしている最中にOさんを突然の吐き気が襲う。
「あら、始っちゃったわ。」
わたしは異常なし。

翌朝、Oさんの吐き気はますますひどくなる一方のようだ。
朝食のパンとフルーツを口にしたが、全部戻してしまう。
わたしはというと何の変化も感じない。
いつものわたしのような気がする。
・・・というのは、なんだか自信がないからだ。
こんなに普通でいいのだろうか?

I医師:「元気がいいみたいなんで
大腸造影検査が入ってるんだけど、大丈夫かな?
行けそう?」
わたし:「元気だと思うんだけど、出来ますかね?
やったことないから分からないし・・・。」
I医師:「出来ればやってもらった方がいいんですよね。
これで予定の検査が全部終わることになりますから。」
わたし:「じゃ、やります。」
気軽に引き受けてしまったが・・・。
朝から検査食(どろどろのもの)に変更となった。

午後、東京のT子が面会に来てくれる。斉くんも来た。
「全然、元気そうだよ。元気なんでしょ?」
「うん。」
管に繋がれている不自由さはあるけれど、やっぱり元気なのだと思う。
どうやら気のせいではないようだ。

斉くんの報告ではわたしが家を空けてから
まめぢの下痢が続いているという。
しかも外でしない。
家のトイレ(まめぢ用)でしてしまう。
「昼休みも帰ってきて、3回外に連れて行ってやってるんだけど
外ではしないんだよね。」
ストレスが原因だろうか・・・。
電話のオンフックで声を聞かせることにする。
効き目があるかどうかは分からないが。
足袋は悪戯盛りで干してあったカラスミをかじってしまったそうだ。
「大きくなったきた。物凄い食欲だよ。」

会いたいな、2匹に・・・。


夜、錠剤と液体、2種類の下剤を飲む。
大腸造影検査のためだ。
管に繋がれたままのトイレ通いは思ったよりしんどい。
尿意は感じないはずなのに便座に座ると妙な感覚が尿道を走る。
ほとんど眠れない。便も出ない。出るものがない・・・。
朝、とどめの座薬。
とにかく大腸の中を空っぽにしておかなければならないらしい。

看護師:「便の状態を知りたいたいんで、出たら見せてくれますか?」
え?
自己申告じゃ駄目なの?

今までの経過から言って
「もう、なんでもありなんじゃないの?・・・。」
と、思う人がいるかも知れない。
しかし、わたしはこういうことに絶対に慣れないタイプだ。
採尿管をぶら下げて廊下を歩かなければならないというだけで
既にストレスなのだ。
だから胃に穴が空くのだろう・・・。
全く損な性分だ。

何回目かの検便でやっとOK.が出る。

検査室から呼び出しがあって、案内の人が迎えに来てくれる。
採尿袋を下げて外来を通らなければならない。
袋状のカバーを被せてあるが
待合室にいる人々の視線が気になる。

点滴台を転がしながら検査室へ。
看護師が検査着に着替えてくれと言う。
検査着に着替えなきゃならない検査は
負担の大きなものであることが経験上分かってきた。
点滴と採尿管をはずす。
ジョイントにキャップをしてくれる。
検査台に乗ると台が移動して仰向けの状態になる。
腸の動きを止める筋肉注射をされる。
「はい、横向きになって身体の力を抜いてください。」
体の力を抜かなきゃならない検査も負担大。
覚悟する。

大腸造影検査とは・・・お尻の穴に管を差し入れ
空気とバリウムを注入し
様々な角度からレントゲン撮影をするというものだ。
説明を聞いただけで辛そう。
検査が始った。
技師の指示に従って検査台の上をゴロゴロ転がる。
微妙に傾斜のある設定の台の上で身体を動かすのは結構難しい。
転がるといってもカメラの下に中心をおいてのことだ。

ふと気づくと検査着が濡れていくような感覚がする。
技師:「何か濡れてませんか?」
技師はガラス張りの別室でカメラや台をコントロールしており
指示はマイクを通して行われるのだ。
濡れているような画像に見えたものか。
確認してみると
採尿管のキャップが外れている!!
採尿管が入っている膀胱は垂れ流しだ。
尿が溜まったという感覚も無ければ
放尿しているという感覚もないので気付くのが遅れた。

技師が慌てて看護師を呼ぶ。
新しいキャップをつけてもらい、今度はテープで留めてもらう。
技師:「申し訳ありませんが、このまま検査を続けさせてくれませんか?」
え?着替えずに、そのまま?
拒否権は発動せず。
結局、冷たくびしょ濡れの検査着のまま
おしっこまみれで30分。
わたしは台の上で転がっていたのだった。

疲労困憊、ぐったりして部屋に帰るとすぐに点滴と採尿管が繋がれ、
下剤を飲むよう指示される。
今度はお尻から入れたバリウムを出すためだ。
忙しい。
すきっ腹に下剤は厳しかった。

夕方、山ちゃんの友人S君が面会に来てくれる。
家に何回が遊びに来てくれている常連さんだ。
彼は医療機器の会社に勤めていて
毎日のようにこの病院に通って来ているのだそうだ。

食事時、Tちゃんが来てくれる。
約束したラフパンツを持ってきてくれた。

こうして、頻繁に見舞い客が来てくれるのは
どんなに気が紛れることだろう。

夜の回診、I医師がやって来る。
I医師:「検査どうでした?」
わたし:「結構ハードな検査でしたよ!」
I医師:「そうなんだよね~。で、技師さん怒ってませんでした?」
わたし:「は?」
I医師:「いや、点滴や採尿管つけたままで検査に出す事って無いからねぇ。
普通の人でも大変な検査なんですよね、あれ。」
軽くアドレナリンが燃えた。

抗癌剤投与はこうして何事もなく終わった。
大腸造影検査の後遺症はバリウム出しの下剤。
便がいつも通りの色になるまで飲まねばならなかったが
結局粘膜が切れて血便が出たのでドクターストップ。
それでいいのか?
点滴が終わって浮腫みが引いたわたしの体重は6キロ減だった。
痩せるはずだ。この2日間、下剤しか呑んでいない。

相変わらず激しい嘔吐を繰り返すOさんは立ち上がることも出来ない。
ぴんぴんしている自分が何だか申し訳ない。
巡回してくる看護師や医師たちはわたしに向かい
口を揃えて「あなたは元気だね~。食欲もあるし・・・。」と言う。
まるで揶揄されているようで腹が立つ。
しかし、笑顔は絶やさない。

正直言って、少し疲れてきた。


検査 2

2002年10月29日 10時49分47秒 | Weblog
4人部屋はわたしが入って満室となった。

同室のメンバーは以下である。

Oさん。60歳代のおばちゃん。
口うるさそうなタイプだが、悪い人ではなさそうだ。
子宮体癌で、夏に子宮と卵巣を摘出。
その後、抗癌剤治療を受け始めて今回で4クール目になる。
これが最後の治療なのだそうで
「今回最後だから4人部屋にしてもらっちゃった。
6人部屋が空くのを待ってたらいつになるか分からないし
早く終わらせたいからさぁ。
終わったら温泉行くんだぁ~。」と明るい。
子宮筋腫だと言われて摘出したら悪性腫瘍が見つかったとのこと。
「ちょこっと残っちゃったらしいのよね。
んで、薬で治すってことになってさ。
辛いけどこれで終わりかと思うと
やった~~って感じよ!」

癌が取りきれなかったという言葉に
返す笑顔が不自然になったようで下を向いて誤魔化す。

Yさん。Oさんと同年齢くらいと思われる。
対照的に大人しい几帳面な感じ。
Oさんとケースは全く同じ。
ただ、治療のクール数が6回なんだそうで
「あと3回もあるの。
今年中に何とかしたかったんだけどな~。」

Oさん、Yさんともに毛髪はない。

Tさん。わたしと同じ年。
やはり筋腫で手術後、悪性腫瘍だと判明。
でも、綺麗に除去できたらしく、抗癌剤の予定は今のところない。
なかなかおもろい人。
その後、「真理ちゃん」「としちゃん」と呼び合うようになる。

さて、ここで保険の話をしたい。
この病棟の病室には6人部屋、4人部屋、2人部屋、個室と
4種類の部屋が用意されている。
6人部屋は入院費のみで差額ベッド代がかからない。
他は、人数が少なくなればなるほど
ベッドの差額料金が嵩む。
個室の差額ベッド代は一日一万円を超える。
4人部屋でも一日5千円もかかるのだ。
別の病棟に特別室というものもあるが、これは論外。

お金のないわたしが個室を希望できたのは
保険のおかげである。
がん保険と入院保険の二つに加入していた。
女性特約もつけていた。
今回、保険のありがたみを嫌と言うほど知ることになったわけだが
もし、お金の心配までしなくてはならなかったら
わたしは闘わずして試合を放棄していたかも知れないと思う。
保険を使わずに済むなら、それが一番いい。
が、万が一のときに保険に入っているかどうかは大きい。
これは入院中、他の患者たちの話を聴いてもそう思った。
実に明暗を分けると言っても過言ではないのだ。
健康なときにこそ、保険を見直して欲しい。

腎臓造影検査を終え
部屋へ戻って昼食を食べる。
「お腹が空いてるから何でも美味しいでしょ?」
Oさんが笑いながら言う。
(いや、不味いです・・・顔ではお愛想笑いをしながら心で呟く)

本当に不味い。
そんな贅沢を言うもんじゃない、と
思う人がいるなら食べさせたい。
どうやったら、この素材を
こんなにまずく調理できるのか作った担当者に聞いてみたいほどだ。
「病院食は味が薄いからね~。」
わたしの曖昧な笑顔を受けてOさんが応える。

それも違う。
そういう問題・・・つまり味付けの濃い薄いではないのだ。

地下にあるコンビニ(但し、9時から19時までしか開いてない)に走り
サラダと野菜ジュースを買ってくる。
隣にはインストアベーカリーも入っているので
ここでコロッケパンを買う。
一気に完食。
飢餓感が少し遠のく。

午後3時、斉くんが待望のH"とPCを持ってきてくれる。
「やったぁ~~!」
人目もはばからず歓声を上げる。
嬉しい!
このためだけに休日を潰して来てくれた斉くんに感謝!
早速立ち上げてみる。
家のADSLに比べれば速度は雲泥の差だけれど、
それこそ贅沢は言えない。
メールをやり取りしたり、メッセをつなげたり
HPの書き込みをするには上等だ。
「良かったね、真理さん。PCやってて。」
わたしのニコニコ顔を見て斉くんが嬉しそうにそう言ってくれる。
「うん!」

今まで自分のHPに寄せられたコメントを
ネットの友達に携帯メールで送ってもらっていた。
多くの友達が援護してくれている。

今日はMRIの検査だ。
電磁波で体の輪切り写真を撮る。
大きな音がするのと
狭い筒の中でかなりの時間
じっとしていなければならないというだけで
別段なんの苦痛もない検査だった。
ただ、狭所恐怖症の人には辛いかも知れない。

部屋に戻って、同室の人たちと雑談をする。
抗癌剤治療の経験談や手術のことなど
先住者の話には得るべきものが多い。
夜になって、入院時の担当医になったI医師に呼ばれる。
翌日、CT検査の造影剤を点滴するため
予め点滴針を入れておくためと内診だ。

また、内診・・・I医師の内診は初めてだ。

実を言うとわたしの場合、内診につき物なのが触診。
癌が周囲に浸潤していないかどうかチェックするために必ず行われる。
これが結構痛い。
子宮頸部まで指を入れて腹の上から内臓に向けてぐいぐい押される。
ついで、肛門に指を入れて同じことを繰り返す。
痛いこともさることながら
語弊があるかも知れないが屈辱感もある。
病気だから仕方がない。
が、そうは割り切れない何かがある。
歯を喰いしばらなければ耐えられない。
出血もする。
医師も大変だとは思うのだが・・・。

I医師:「海老沢さん、ちょっとお時間いいですか?」
わたし:「はい。」
I医師:「今後の治療方針についてお話したいのですが。」
わたし:「どうぞ。」
要約すると
外来の医師と同じくI医師も手術できるものなら
すぐにでもしたいとのこと。
但し、優先順位を考えると待つ以外にない。
抗癌剤についてはその対処療法というだけではなく
かなりのメリットが期待出来ると言う。
むしろデメリットはないと言っていい、と思っている。
副作用は辛いかもしれないが、やる価値は充分にあると・・・。

わたし:「分かりました。では、その方針に従います。
手術は子宮卵巣全摘出は覚悟しています。
これは腺癌であることを考えても
自分の癌の進行度・・・
一期のBであることを考えても仕方のないことだと思います。
ただ出来るならリンパ節は残していただきたいのですが?」

わたしは自分の病気について希望的推測をしないつもりだった。
癌であることを出来るだけ冷静に客観的に見つめようと努めてきた。
その上で様々な文献を読み
ネットでの情報を集め
今の段階ならリンパ節は
何とか残してもらえるんじゃないかと思ったのだ。
しかし・・・I医師はきっぱりとこう答えた。
「それは出来ません。手術ではリンパ節も切除します。
もし、1ヶ月前に手術が出来たとしても僕はそうしました。
リンパ節を取って開いてみて
リンパが綺麗だったら転移がないということです。
それは凄い情報だと思いませんか?
仮にリンパ節を残して再発、転移を確認しないという
そのリスクに責任は負えません。」

言い切られて、心が少しへこんだ。
心のどこかで期待してたのだ。
リンパ節まで取らなくてもいいと・・・。

わたしが、リンパ節にこだわった理由は
ひとえにその後遺症の大きさにある。
歩行が困難になるほどの下肢の浮腫み。
一歩間違えば排泄に障害の出る可能性。
もし、手術が成功しても
その後の人生が障害との闘いではあまりに辛い。

そのリスクより残す方のリスクが高い、その事実の重さ。
まだまだ認識が甘かった。
自分の甘さが悔しい・・・。

CT検査の為、朝食は抜き。
注射と食事抜きにはもう慣れた。
もっとも食欲をそそるようなものも出ない。

造影剤のアレルギーショックの心配がなければ
たいした検査ではない。
要するにレントゲンである。

夕方、息子が来る。
元夫に報告したらしい。
「何か色々言ってた。」
なんじゃそりゃ。

相変わらず暗い。
でも、今日は息子の暗さをフォローする元気がわたしにもない。
30分ほどで帰す。

夜、ネットの友達が面会に来てくれる。
仕事を終えて、遠方より駆けつけてくれた。
抗癌剤投与のことを知って
見舞いの品は綿ニットの帽子だった。
方向音痴の彼はここまで来るのにえらく苦労したらしい。
ありがとう。
「入院したら禁煙するんか?」
「当たり前じゃん。」
「じゃ、退院するまで俺も禁煙するから。だから頑張れ。」
彼もわたしも一日に一箱は吸う喫煙者だ。
だが、わたしは病院では煙草を吸わないと決めていた。
それに付き合ってくれるらしい。
その優しさに落ち込んだ気持ちが少し軽くなった。

翌日、I医師から再度の呼び出しがあった。
「抗癌剤治療の計画が決まりました。」

明日日曜日、午後10時から輸液開始。
整理用食塩水を3000cc輸液し
その後抗癌剤3種を輸液と共に点滴投与。
シスプラチン、エトポシド、マイトマイシンーC。

シスプラチンはプラチナに由来する抗癌剤で効き目ガ強い。
が、毒性も強力だ。
副作用は腎毒性、骨髄抑制、嘔吐、悪心、難聴、脱毛。
輸液せずに投与されれば、一滴で即死するらしい。
エトポシドは広く抗癌剤として使用されているもの。
シスプラチンほどの毒性はないがこれもなかなかの曲者らしい。
脱毛性が強い。
マイトマイシンーCはそこそこ。
オールマイティな抗がん剤だそうだ。
3日目、再度輸液。
投与した抗癌剤を速やかに体外に排出させる。
3000cc。
ビールなら軽く飲める量だ。
が、直接3ℓはきついかも。

4日目、エトポシド投与。5日目、輸液。
6日目、最後のエトポシド。7日目、輸液。
これが1クール。
水ぶくれになりそう。

その後、白血球値と血小板の数値の観察測定、2週間。
数値が下がるようなら、白血球値を上げる注射と成分輸血でフォロー。

I医師:「辛いかも知れませんが、頑張りましょう!」
わたし:「はい。で・・・、今日はもう何の予定も無いんですよね?
もし、良かったら外泊許可いただけます?」
I医師:「いいですよ。
今日は思う存分美味しいものを食べて、羽を伸ばしてきてください。」
I医師の言葉に少し怯える。
噂には聞いてたけど、抗癌剤はそんなに苦しいものなのだろうか。

わたしは逃げるように病院を後にした。
学くんと彼の会社の同僚(顔見知り)と3人で朝まで飲んだ。
因みにヤケ酒ではない。
お酒に対してそんな失礼なことをわたしはしない。
美味しいものもいっぱい食べた。
景気付けってやつかな?


検査 1

2002年10月28日 00時00分00秒 | Weblog
「検査の時間です。」
「はーい!」
返事だけはいい。
実を言うと今日の検査は乗り気じゃない。
想像するだけで痛そうな検査なのだ。
膀胱内視鏡・・・。
尿道から管を入れてカメラを通し膀胱の中を診る。
看護師も「頑張ってね!」と言うくらいだから
よほどきつい検査なのだろう。

検査室まで案内の人が連れて行ってくれる。
案内してもらわないと地図でもない限り
病院内の目的地にはなかなかたどり着けそうにもない。
それほどにこの病院は広く大きい。

外来は既に終わっている筈なのに、待合室に人は溢れている。
検査室は待合室奥の突き当たりにあった。
そこまで来ると人影はまばらになる。
検査室の前に車椅子に乗ったパジャマ姿の少女が一人待っていた。
10歳前後だろうか。
パジャマ姿だから入院患者だろう。
こんな小さな子どもが、辛い検査を一人で待っている・・・
いい年をしたおばさんがビビってる場合じゃないな、と思った。

呼ばれて中に入ると産婦人科の台によく似た椅子があり
検査着に着替えて座るよう促される。
検査着はブルーの綿でマジックテープで留めてある。
マジックテープを全部はがすと2枚に分かれるように出来ているのだ。
下着はもちろん着けない。

フルネームで名前を呼ばれる。
フルネームで名前を応える。
入院時につけられた左腕のピンクのバンドを見せる。
血液型で色分けしているんだそうだ。
油性ペンで患者コードナンバーとフルネームが書いてある。
検査や点滴の度にこの確認は繰り返される。
医療ミスを防ぐためだ。

「らくぅ~にして下さいね。
力を入れると返って痛いですからね。
女性はまだいいんですよ~。
1センチしかありませんからね、膀胱まで。
男の人は大変なんですよ。
痛かったら口を大きく開けてはぁはぁして下さい。
幾分痛みが和らぐようですよ。
じゃ、消毒しますね~。」
看護師が女性で良かった。

医師が入室してくる。カーテンごしなので顔は見えない。
「○×です。じゃ、検査します。よろしく。」
男性だ。
「宜しくお願いします。」
(本当に宜しく頼みますよ~。)
「器具が入りますから、力を抜いてぇ~。」

何とも言えない痛みが走る。
膀胱炎の痛みに似ている。
経験のない人には理解し難いかも知れないが
不快な痛みだ。
力を抜くのは無理だ。
膀胱の中に水が注入されるのが分かる。
内視鏡が入ったようだ。
医者は映し出される画面を見ながら膀胱の中の内視鏡を操る。
(そんなにぐりぐり回したら痛いってば!)
「はい、綺麗です。問題なし!明日手術?」
「いいえ。」
「え?なんで?」
「さぁ?」
(やってもらえるもんなら、やってもらいたいんですけど・・・)
「じゃ、婦人科に報告しとくから。」
「お願いします。」
「今日は水分をいっぱい取っておしっこ充分に出してね。
感染防止の為です。」
所要時間10分。
力みすぎて身体ががちがちになってしまった。

でも、膀胱に問題はない。
浸潤していない。良かった。ひとつクリアだ!
ついに顔も見せてくれなかったので
どこの誰とも分からずじまいの泌尿器科の医師から
太鼓判をもらった膀胱を引っさげて
意気揚々と部屋に戻ってみると
ベッドテーブルの上に食事が乗っていた。

食パン12枚切り2枚、ゆで卵1個、牛乳1パック、マーガリン1袋。
これだけ?
「入院食ですよ。」
絶句。

しかも、明日は腎臓造影検査で夕食抜きだと言う。
「寝る前に下剤飲んでくださいね。」
ダブルパンチだ。
もそもそとパンを牛乳と持参の紅茶で流し込んで終了。
なんとも味気ない。

荷物の整理をしていると
ナースが「入院のカウンセリングしますので・・・」と呼びにきた。
予め提出しておいたアンケート用紙を基に
面談室でナースがカウンセリングをしてくれる。
入院時の疑問点や不安などを相談するのだ。

「すごく落ち着いておられるんですね。
ポジティブではきはきしてらして・・・
何か事業でもなさってるんですか?」
あ・・・事業なのか?あんなのが・・・
「いえいえ。」

ここに入院している患者のほとんどが
婦人科系の癌患者であるらしい。
わたしのように「活き」のいいのは
珍しいのだろう。

成果あり!
PCの持込が許可された。
嬉しい。
早速、斉くんに電話をかけてH"の申し込みを依頼する。
「今日中に何とかして明日の午後持って行くよ。」
せっかくの休みなのに申し訳ない。

夕方、学校帰りの息子が見舞いに来る。
暗い・・・。
(お前が落ち込んでどうするんだよっ!)
心の中で突っ込みを入れる。
今の状況を簡単に説明する。
「お母さんの癌は第一期でも5年生存率50%だ。
もちろん頑張るけど、そのことは覚悟しておきなさい。
でも頑張るからさ、あんたも自分のこと頑張りなさいよ。」
「分かった・・・。」
息子は就職活動真っ只中なのである。

しかし、この暗さ、誰に似たんだ?
因みに、元夫も暗い性格ではなかったはず。
「それとさ、お父さんにはお母さんの方からは話していないけど
別に秘密にしてる訳じゃないから。
何かあったらお父さんに相談しなさい。」
「分かった・・・。」
抗癌剤の説明をしただけでびびっている。
駄目だこりゃ・・・。

夕食は予定通りなし。
水分を摂れって言われたけど21時以降は絶飲との指示。
う~~~ん。

ダイバーのTちゃんが仕事帰りにお見舞いに来てくれる。
夜は学校のはずなのに有難いことだ。
「一番乗り目指して来た!!」
「残念でした!息子が来ました、さっき。」
「くやち~~!」
ダイバー仲間の話では、
今回わたしのことで一番落ち込んでたのが彼女だったそうだ。
少し心配してたけれど、大人はちがう。
「真理さんの、自称お庭番。
このTめを何なりとお使い下さい。」
「うむ。」
おどける彼女、応えるわたし。
早速、ユニクロでラフパンツを買ってきてもらうことにする。

下剤を飲む。
便秘とは無縁のわたしは下剤そのものを飲んだことがない。
初体験である。
水に溶かして飲むタイプで効き目はかなりのものらしい。

その夜、案の定眠られず・・・
翌朝、げっそりと脱水状態。
しかし、検査までは絶飲絶食なのだ。
便は完全に水溶性を呈し、やがて出なくなった。

腎臓造影検査とは
造影液を注射して
移動式のベッドに乗せられ
立てたり寝かせたりベッドを動かして
4~5枚のレントゲン写真を撮るものだ。
検査そのものは15分ほどで終わった。


入院前夜そして入院

2002年10月27日 00時00分00秒 | Weblog
入院前夜。
学くんと斉くん、3人で病院の隣町で飲む。
明日午前10時入院だ。

家を出る時、まめぢと足袋にキッスしてきた。
まめぢはこの数日間いらいらと落ち着きがなかった。
何かを察知していたのだろう。
足袋は無邪気にじゃれついてくる。
わたしが帰って来る頃には大きくなって
子猫じゃなくなってるだろうな~。
覚えいてくれるかな?
「いい子でお留守番していてね。」

その夜は3人でベロベロになるまで飲んだ。
最後に飲んだバーを出たのは午前3時頃だったと思うが、記憶にない。
ただ、かすかに残った記憶の中でわたしはワンワン泣いていた。
初めて声を上げて泣いた。
道端に座り込んでただただ阿呆のように泣いていた。
学くんと斉くんがどうしていたのか分からない。
きっと黙ってそばについていてくれたんだろう。
わたしが泣き止むのをずっと待っていてくれたのだろう。
翌日わたしの掌には3人分のハンカチが握られていた。
二人は完璧に二日酔いだった。
わたしは大丈夫。
肝機能は良好らしい。

入院手続きをする。
個室(一般病棟の個室)を希望していたが
満室とのことで4人部屋に決まった。
一般病棟の場合、重篤な患者を優先して個室に入れるのだ。
空いたら移動、ということだった。

その時には思いが至らなかったが
空いたら、ということは
患者が無言の退院をしたら、ということだったのである。

わたしは見かけによらず小心者なので
見知らぬ人たちと同室だと眠れない。
十二指腸潰瘍で入院していた時もそうだった。
変なところで神経質だから困る。
少し憂鬱な気分だった。

荷物が山のようで学くんも斉くんも
「これ何人分?」とぶつぶつ文句を言う。
二日酔いで頭も痛いらしい。

4階B棟。案内係りの人についてエレベーターに乗る。
ドアーが開く。・・・・
フロアーのロビーに点滴をつった人がふらふらと歩いているのが目に入る。

ほとんどの人の毛髪がない!!
たじろいだ一瞬だった。


部屋は小奇麗でさっぱりとしており、淡いピンクの花の蕾の壁紙。
仕切りのカーテンは爽やかな緑のチェック。
床は象げ色のリノリュームでピカピカに磨き上げられている。
窓の外は大学側なのでコンクリートの建物ばかり
見るべきものは空だけだ。
因みにここの窓は午後9時になると施錠される。
自殺防止らしい。
個人専用にロッカー1つとテレビ(カード式)。
テレビの台、これが整理戸棚になっている。
それにベッドテーブル。
引き出しが1つついている。
部屋に1つ洗面台。
ロッカーに衣類をしまい、整理戸棚に洗面道具やタオルを入れる。
いっぱいいっぱいになってしまった。
テレビの周りにはまめぢと足袋の写真たて。
Hの娘さんが折ってくれた折鶴。ティーセット。
あとは、ポータブルCD、CD、携帯の充電器、筆記用具、国語辞典・・・
既に置くところがない。
最低2ヶ月の入院なのだ。
これでも必要最低限のもののつもりだが・・・。

カッターシャツとスパッツに着替える。
「入院患者っぽくないよ、それ・・・」
「いいじゃんか、服装の注意なんて入院のパンフに書いてなかったもん!」

検査が入っていることもあって、
二人には引き上げてもらう。

検査の呼び出しがあるまで、事務の女性がB棟の案内をしてくれた。
部屋の前が丁度バスルームになっていて
ホワイトボードに時間割が仕切られてある。
空いている希望の時間枠に自分の名前を書き入れる。
先着順だ。
一人の割り当て時間は30分。
バスタブにお湯を溜めて入るにはちょっときついかも知れない。
その裏側に共同の洗面所がある。
そこにはシャンプー台が1つあり
希望者は看護師にシャンプーしてもらえるとのこと。
クリーニングは1日1回。
洗面所にあるバスケットに名前を書いて依頼書と共に入れておく。
すると翌日には仕上がって各人に配達してくれるらしい。
バスタオル1枚20円。パジャマ100円。安い。
但し、絹、ナイロンは不可。
その向かいがトイレ。
ウォシュレットなのが嬉しい。
隣が採尿室。
尿を計量する機械と蓄尿しなければならない人のためのビニール袋がおいてある。
これは伊東の市民病院と同じだ。
でも大きな違いは、匂いが全くしない。
どこを見ても感じることだが
掃除の行き届いていることには感心させられる。

「海老沢さんも今日から尿の計量してくださいね。」
「はーい。」
腎臓機能をチェックするためだそうだ。
機械に尿を入れれば自動的に記録してくれるのだが
いちいちコップに採尿しなければならないのが面倒だ。


ナースステーションの脇にワゴンがあって
氷水、お茶、お湯のポットがそれぞれ3個ずつ置いてある。
トレーの中には常時蒸しタオルが入っていて
使い放題だそうだ。
使い終わったタオルは洗面所のバケツの中に入れる。
毎週火曜日に体重測定。
座ったまま計れる体重計があった。座ってみる。
54,5キロ。服を着たままとは言え体重が増えている!あら・・・。

病院を決めるまで

2002年10月17日 00時00分00秒 | Weblog
伊豆へ向かう電車の中でわたしは考えをまとめようと必至だった。
予約は取ってきたものの
抗癌剤治療をするより
早く手術をして癌を切除して欲しい気持ちの方が強い。
しかし、これから再度新たな病院を探すことは
時間の無駄のようにも思えてくるのだった。

家に着くとまめぢと足袋が大喜びでまとわりついてくる。
まめぢは何かを察しているらしく、時折不安な表情を見せる。
とにかく結論は出た。わたしは癌だ。

このことを知らせるべき人々に知らせなければならない。
まだ連絡していなかった何人かの友人、息子に電話やメールで報告をする。
親に言うつもりはなかった。
彼らに気を遣いながら癌と闘うことは想像出来なかった。
今は自分のことだけ考えるので精一杯だ。

その夜、報告したT子が東京から駆けつけてくれる。
地元の飲み仲間の一人、居酒屋店主のKさんも来てくれ
斉くんも交えて、病院を変えるかどうかについて話し合う。
この時わたしは既にK大病院で行こうと決めていた。
病院を選ぶということは大きな賭けだ。
どうせ賭けなら自分の意思で選ぼう。
そうと打ち明けると、みんな賛成してくれた。
その夜は明け方まで飲んだ。楽しく愉快な酒だった。

翌日はT子と入院準備の買い物に出かける。
あれやこれや大騒ぎをしながら品物を選んでいく。
誰が見ても仲のいい女友達二人
旅行の為の買い物をしている風にしか見えないだろう。
仕事を早退してくれたひとし君と3人で
昼食に寿司を食べに行く。
食欲も衰えていない。
密かに癌を飼っているなんて自分自身信じられないくらいだ。

後日、別の友達が2組、来てくれる。
入院前に元気をつけようと見舞いに来てくれたのだ。
京都のR家、山梨のH親子。
決して近い距離ではない・・・暇な訳でもない・・・。
感謝。
ダイバーのしげちゃんも潜る前に寄ってくれる。

翌朝、別のダイバーヨッパちゃんが立ち寄ってくれたので
入院の連帯保証人になって欲しいと頼む。
入院前には揃えておかなければいけない書類が何枚かあるのだ。

緊急連絡先が学くん。
保護者が斉くん。
連帯保証人がヨッパちゃん。
それぞれの続柄に何と書くかが話題になった。
「愛人1号、2号、3号っていうのはどう?」
「奇人、変人、凡人っていうのは?」
「そりゃ続柄じゃないだろう?」
結局全員が友人という平凡な記述に落ち着いた。
「判を押すのは緊張するな~。」
「ははは、踏み倒そっかな?」
彼らは皆独身者だ。
「妻子がいたら気軽には頼めないもんね。」
「いや、独身でも気軽にOKする奴の方が珍しい。」

いつものわたしでいたい・・・口には出さなくてもみんな察してくれている。
だから、みんなもいつものみんなでいてくれる。



はじめの一歩

2002年10月15日 00時00分00秒 | Weblog
本当にたまたまだったが
先日、テレビで観た番組を思い出す。
子宮頸癌の患者が治療して出産をするという内容で
女性の産婦人科医が紹介されていたのだ。
「K大学病院」あそこに行こう。
伊豆から離れるのは辛いけど、ここでは駄目だ。

翌日、朝一でK大学病院の外来診察を受ける手配を取る。
大きな病院になればなるほど、初診の受付は煩雑だ。
大学病院前にあるビジネスホテルに予約を入れ、
早朝の受付開始に間に合うように伊豆を出発する。
もしかしたら、即入院という可能性もあるだろう。
海岸線を東京方面に向かう車窓に伊豆の蒼い海が広がっている。
(帰って来れるんだろうか?)
ふと弱気になってしまう。

泣かないと決めていた。
泣いても喚いても過ぎ行く時間に変わりはない。
わたしには選択肢が無いのだ。
逃げる場所など何処にも無い。
生きるために闘う。
これが唯一わたしが歩むべき道だ。

幸い多くの友人がサポーターを引き受けてくれていた。
彼らはきっと言ってくれるに違いない。
「泣いてもいい。弱音を吐いてもいい。」と・・・。
その時が来たら、甘えさせてもらおう。
だが、今はその時じゃない。
だから普通のわたしでいよう。
冗談も馬鹿話もして、大笑いもするいつものわたしでいよう。

K大学病院での診察結果は8日の初診、
10日の教授診察で次のように出た。
「子宮頸癌 粘膜性腺癌 第一期B2」

子宮頸癌の90%は扁平上皮癌という進行のきわめて遅い
転移しにくい癌なのだが、
わたしの場合は子宮体癌に多く見られる腺癌で
転移の可能性の高い癌であること。
所見では周囲への浸潤は見れないが、
大きさが4センチもあり
第一期といえどもB2と判断せざるを得ないこと。
即切除手術が望ましいが、
優先順位の関係から
K大病院では順番待ちで11月下旬になるまで手術は出来ないこと。
本人告知を望んでいたわたしはこれらを全て一人で聞いた。

手術するまでに時間がかかり過ぎることは
確かに大きな不安材料だったが、
その他の事実は事実でしかなかった。

それはわたしの力でどうこう出来る、
動かすことの出来るものではない。
わたしの身の上に降りかかった事実ならそうと受け止めるしかないのだ。

手術を先送りにする対処として
腺癌に有効とされる抗癌剤投与の化学療法が取られるだろうことが示唆された。
「もし、すぐに切除手術が出来る病院に移られることを希望されるなら
今までの検査結果は全てお出しします。
ただ、あなたの癌の大きさはボーダーラインで、
手術可能な病院でもまず抗癌剤の投与を行って、
出来るだけ癌を小さくして手術に持っていくという方法を
選択する医師もいるだろうことは、あり得ると思います。」
抗癌剤・・・稚拙な知識の中で、
脱毛、頭痛、吐き気、白血球減少等、多くの副作用が頭に浮かぶ。
抗癌剤の投与から始って手術に至る治療は
最低でも1ヶ月はかかるとのこと。
入院の予約を取っていくことを勧められる。

それまでのこと 5

2002年10月07日 00時00分00秒 | Weblog
結果が出るまで自宅待機の予定であったが
3日後病院から電話があり
追加の検査をしたいので来院せよとのこと。
早速出かける。
初日にしたのは「細胞検査」。
今回するのは「組織検査」だそうだ。
細胞検査は膣内の粘膜を擦り取るだけだから、
痛くも痒くもなかったが
組織検査は組織の一部を切り取るので痛いそうだ。

「ちくっとしますよ。」
かなり痛かった。

「組織検査の結果はいつになりますか?」
予定の変更が続くのは精神衛生上よろしくない。
「うーん、1週間後かな?」
初診の時には随分焦っていたくせに
今回は妙に落ち着き払っている医師の態度が解せない。
「来週の月曜日には細胞検査の結果が出るんですよね?」
「そうね。でも、ビランの症状もあるから明日も治療に来てよ。」
金曜日、「ちょっとまた検査するから。」
何の検査なのか説明もないままだ。
後に細胞検査の追検査だと分かる。
医師に対する不信感が募る。

月曜日、細胞検査の結果が出る日。
学くんがまた会社を休んで付き添ってくれる。
「診察室まで一緒に行ってもいいよ。」と申し出てくれるが辞退する。
いよいよ検査の結果が分かるのか・・・。
何とも言えない気持ち。
診察室に呼ばれる。
「組織検査とこの間の追検査の結果が出てないから、
今日は何とも言えないんだよね。
いつ分かるのか?
そりゃ検査センターの都合だからさ、
僕にも分かんないんだよね~。」
はぁっ?!

「わたしは自分が癌である可能性も含めて検査の結果を待っています。
だいたいでいいので結果の出そうな日にちを
教えていただく訳にはいかないんでしょうか?」
「え・・あ・・そうなの。
じゃあ、家族の人に付き添ってもらわなきゃならないようなら
またこちらから連絡するから。」

なんじゃ?その言い草は?
ぐっと言葉を呑みこむ。

その話をするとみんな憮然とする。
周囲も苛立っている。
でも、一番いらいらしてるのはわたし自身だ!

「検査の結果が出ました。家族の方と来て下さい。」
病院から電話があったのは10月4日金曜日だった。
「家族」の同伴を求めるということは、そういう結果だということ・・・。
はっきり言ってるようなものだ。
心の中で「やっぱり。来るべき時が来た。」と声がした。
学くんと斉くんが付き添うと言ってくれる。

2号ちゃんも毎日、電話やメッセで心配してくれている。
今回のことを打ち明けた数人の友達も
「祈ってるから!」と励まし続けてくれている。
仕事の都合が付くということで学くんに着いて来てもらうことにする。
本当は一人で行こうかとも思ったのだが、返って心配させてしまうだろう。

10月7日月曜日午後12時15分。
U産婦人科クリニック診察室。
「子宮頸癌です。」
医師はゆっくりと宣告した。
「はい。そうですか。分かりました。」
静かにわたしは答えた。

告知の瞬間、そしてその後・・・
わたしは自分で考えていたとおり取り乱しはしなかった。
冷静である筈はないが、うろたえもしなかった。
覚悟が出来ていたのと、これからどうするべきかに気をとられ
おたおたしている余裕等なかった。

信頼関係の無い医師にこれ以上治療を依頼するつもりはなかったので
宛名のない紹介状を書いてもらって新しい病院を探すべく
すぐに行動を起こさなければならなかった。
紹介状は案外すんなり書いてもらえた。

午後、隣町の評判のいい産婦人科の診察を受けようと予約。
斉くんの知人の親族がその病院で子宮頸癌の手術を受けたのだと言う。
山向こうの大学病院の医師も出張で立ち会ってくれるらしい。
午後の予約を取ることが出来たので
すぐに出発する。

が、診断書を見るやいなや医師は
「こんな町医者の手に負えるものじゃない!
もっと大きな病院に行かなきゃ駄目だ!」と怒鳴った。
悔しかった。そんな物言いをされる覚えはない!

事実を把握できてない訳じゃない。
馬鹿にすんじゃねぇぞ!くそじじぃ!
最初の奴といい、お前といい、医者が少ない田舎だからって、
腕も知識も無いくせに偉そうな面してのさばってんじゃねぇ!!

いつもなら、言ってたな・・・絶対。
だけど、今は無駄なエネルギーを使ってる場合じゃないという
自制心は残っていたようだ。

それまでのこと 4

2002年09月24日 00時00分00秒 | Weblog
出かける前から、鉤次郎(黒猫)の様子がおかしいことは気づいていた。
病院から帰ったらすぐに獣医に行くつもりだった。
「行ってきます。」わたしの呼びかけに
いつものように瞬きで答えてくれたのに・・・。

帰宅すると鉤次郎の様子は明らかに悪化していた。
じっとうずくまったまま動こうとしない。
呼びかけにも反応しない!
獣医に走る。
検査を受けて輸液。
「肝臓の数値以外、異常はない・・・。
何か毒物を摂取しないとこういう状態にはならない筈なんですが。
人間の風邪薬の中に猫にとっては猛毒となるものがあるんですが
薬を出しっぱなしにしたようなことはありませんか?」
しかし、心当たりは全く無い。
もし、そんなものが家の中にあったら仔猫の足袋が
真っ先に犠牲になっている筈だもの。
「何かあったら電話を下さい。
いつでも出られるように待機していますから。」
獣医は鎮痛な面持ちでそう言った。
充分な保温を指示されただけで帰宅する。

横浜の学生寮に暮らす息子に電話をかける。
鉤次郎はもともと息子の猫だった。
鉤次郎が危篤であることを伝える。
「明日、朝一でそっちに帰るよ。」

電話を切って1時間。
息子の帰りを待たず鉤次郎は逝ってしまった。
わたしの腕の中で静かに逝ってしまった。

あんまりにも突然だったので呆然としていた。
朝、獣医に連れていっていれば、あるいは助かったのかも知れない。
そう思うとやりきれない。
「真理さんの悪いところを鉤が持って逝ってくれたんだよ。
鉤はお利口さんだったから。」
みんなはそう言ってくれるけれど・・・余計に悲しみが増す。

翌朝、斉くん、帰宅した息子と3人で三島にあるペットの火葬場まで向かった。
準備の出来る間、箱の中の鉤次郎を黙って撫で続ける息子を見てると
涙が出そうになった。
自分のことでいっぱいいっぱいだった・・・。
心の中で謝り続ける。
ごめんね、カギ・・・。
原因が分からないまま、猫を死なせてしまった自責の念と
病院での出来事が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って
辛かった。


それまでのこと 3

2002年09月20日 00時00分00秒 | Weblog
産婦人科なんて何年ぶりだろう。
最後に子宮癌の検診を受けたのはいつのことだったか。
10年も前だ・・・。
今更だが反省。

待合室はピンクのパステルカラーで
若い妊婦と子宮癌検診を受けに来た中年の女性たちで混んでいた。
同年代の女性たちに救われる。
1時間ほど待ってわたしの名前が呼ばれる。
まず問診。
簡単に今の状況を話す。
「では内診台の方へ。」
促されるまま内診台のある別室に入る。
カーテンで仕切られた内診台は3台。
子宮がんの集団検診の時には流れ作業なのだろうか。
医師は一人しかいないのだから・・・。
微かに不安が過ぎる。

いつも思うことだが、内診台に乗るのは気持ちのいいものではない。
抵抗を感じないのは出産のときくらいだろうか。
カーテンの向こう側に人の気配がして
「はい、楽にしてくださいね。器具が入ります。」と
声をかけられる。
そう言われた途端、身体が緊張でこわばる。
金属の器具が身体に触れる。
「うっ!」
ここで声を上げるのはわたしのはずだった。
が、わたしより先に医師がうめき声を上げる。

「こんな大きいのは・・・見たことがない!!」
え?なに?なにが?
状況が全く飲み込めないでわたしはうろたえる。
それにしても無神経な医師だ。
しかしその時は、医師に対する怒りよりも自分の中にある
「大きい」と言われた「何か」
医師を驚愕させた「何か」に
わたしの意識は集中していたのだった。
「細胞検査をします。」

その後、再度医師の前に呼ばれる。
「細胞を検査センターに出します。
至急で出しましたので
今週中には結果が出ると思います。
結果が出たら連絡しますから。」

強調された「至急」という言葉に
特別な意味があることを感じる。

心が少し震えた。怯えているのだろうか?

斉くんに電話をする。
自分でも意外なほど声はしっかりしている。
「多分、癌だと思う。」

友達にメールする。
「やっぱり癌かも。」

学くんが駐車場で待っていてくれた。
仕事を休んで運転手を買って出てくれたのだ。
「ごめん、駄目だと思う。」

3人が答える「まだ、はっきりした訳じゃないじゃん!」

しかしその時、わたしは自分が癌であることを知っていたのだと思う。
わたしは癌だ。
でも、そうは言えなかった。

それまでのこと 2

2002年09月01日 00時00分00秒 | Weblog
初夏、何となく帯下が増えた気がする。
無色透明、水溶性でさらさらしている。
さほど気に止めずに過ごした。
仕事の集中する夏を前にして
体力をつけておかなければいけないのだが
心配していた食欲も戻っていた。
仕事も順調だった。

それにしても疲れる・・・。
これも更年期障害の前兆だろうか。
この頃、身体の変調は全て更年期障害のせいにしていた。
無理せず少しずつ仕事をこなそうと自分をかばう。
周囲はみんな「真理さんは相変わらずタフだね~。」と言ってくれる。
自分でもそう思い込もうとしていた。

7月、生理は正常。
が、帯下の量が増える。
日常のエチケットナプキンでは収まりきれない。
時々、血液が混じっているかな?と思うようなこともあった。
しかし、微量なので気になるほどのものではないだろう。
もちろん、この考えは間違っている。
例え微量であっても不正出血があったら、
直ちに病院に行って検査を受けるべきだったのだ。
しかし、わたしはこのサインも見逃した。
いや、見過ごした。
夏本番、仕事が忙しかった。
それが最大の言い訳だった。

8月、帯下が粘り気を帯びてくる。
相変わらず無色、無臭だ。
この一点で不安を打ち消そうとしていた。
しかし、どう考えても何かが進行している、悪化しているに違いない。
「夏が終わったら、病院に行ってみよう。」
拙い知識の中で子宮筋腫かも知れない、あるいは・・・という思いがよぎる。
あるいは・・・?

9月、連休が続く。仕事は夏並みに忙しい。
そこへ北海道の友人M枝の突然の訃報が飛び込んでくる。
行かなければいけない。
何故か強くそう思った。
友人T子の後押しもあって、北海道に飛ぶ。
無事葬儀に出席。
M枝の子供達とも久しぶりに顔を合わせ
ふれあいのひと時を持つことが出来た。
無理を押して出かけて良かった。

M枝の死因は乳癌。
ほとんど末期まで放置していた結果だった。
9月最後の連休が終わったら・・・病院へ行こう。
決心した。

帰宅後、まめぢと斉くんと海へ行く。
今年最後の海水浴。楽しかった。



連休明け、生理が始る。どうしよう?
しかし、もう時間をおいてはいけない、そんな気がした。
市内の産婦人科を電話帳で探す。
地元で一番規模が大きいのは「市民病院」なのだが、
そこに行く気はしなかった。
十二指腸潰瘍で入院したことがあるから良く知っている。
外来の待合室が内科も外科も全部一緒だというのがいただけない。
狭い地域社会だ。
誰に会うか分かったものではないのだ。
この歳になったからこそなお更、産婦人科の敷居は高い。
で、町の個人経営の産婦人科医院を選ぶ。
どれも似たり寄ったりのような気もしたが
中でも有名な医院・・・縁のないわたしでも知っている知名度のあるところ
を選択した。
「生理が始ってしまったんですけど、診察していただけますか?」
電話で問い合わせてみる。
構わないとのこと。
予約を入れる。

それまでのこと

2002年08月31日 00時00分00秒 | Weblog
思い起こせば2001年1月・・・
巷は、21世紀の幕開けだ!と大騒ぎで
わたしもつられて何となく浮ついていた。
遠く過去に遡ってみれば小学生の頃
21世紀という新世紀の話題に対して
「その頃、わたしは45歳になってるんだなぁ~。」などと
漠然と考えるに過ぎなかったものだが
それが、こうして本当に
45歳になったわたしが当たり前の顔をして21世紀を迎えているのだから
なんだか不思議な体験だった。

10年来続けている年越し夜釣りを友人と終えて
朝うとうとと仮眠から目覚めてみると、生理が始まっていた。
生理の始まった日を「旗日」と呼ぶことがあるが
元旦草々、あまりめでたくもない旗日になってしまった・・・と
憂鬱な気分だった。
予定通りでもあったので、気にも留めずにブルーな1週間を覚悟した。

12歳の夏から始って、妊娠出産授乳期と
自律神経失調症による神経衰弱の僅かな期間以外
ほとんど狂うことなく来ていた生理である。
長い付き合い、毎月のこと・・・。
だるい、頭が重い、下腹部の鈍痛、腰痛、いらいらなど等。
生理につき物の不快な症状にも慣れてしまった。
あと何回の付き合いなんだろう?
終わるなら、とっとと終わってしまえばいいのに・・・と
嘯いてみる。
でも、重症の自律神経失調症のわたしに更年期障害は辛いだろうな。
また、1週間辛抱するしかない。
諸々と心の中でぼやきつつ辛抱の1週間だった。

ところが月末、またしても生理が始まった。
こんなに間隔が短いのは初めてだ。
いよいよ更年期が来たのか?
これが後に判明するわたしの病と、直接繋がるかどうかは分からない。
だが、このとき勝手に更年期の前ぶれなどと判断しないで、
産婦人科の門を叩いていれば、あるいは何かが分かったのかも知れない。
今考えてみると思い当たる節は?と言えば、この時が最初だった。


それからの一年間、わたしはかつてない鬱に悩まされることになる。
無気力、脱力、不眠、食欲減退、精神的落ち込み・・・。
体重が5キロも落ちた。
もとからそれほど太っているほうではない。
170センチ48キロ。
明らかに痩せた。
もし、仕事に支障が出るようなことになったら、心療内科の診察を受けよう。
本気で考えた。
加えて生理の周期は狂いっぱなしになっていた。
間隔は益々短くなり、経血の量も多い。
明らかに今までとは違っていた。
それでも心のどこかで、これも更年期の一症状に過ぎないと思い込んでいた。
更年期障害だと思ったなら、婦人科に行くべきだった。
これが2度目のチャンスだったのかも知れない・・・。