脊髄小脳変性症(SCD)を発病してから…

脊髄小脳変性症(SCD)と診断されてから現在までの事やこれからの事などを語っています。

40歳から介護保険のサービスを利用した理由

2023-02-13 | Weblog
脊髄小脳変性症は介護保険の特定疾病なので、僕は40歳から介護保険のサービスを利用していて要介護2です。
なので、車いすを2台(外出用と室内用)と介護用ベッドをレンタルしています。ちなみに、シャワーチェアは買い取りです。

当時は介護保険と障害福祉のサービスを選択できたのですが、敢えて僕は介護保険のサービスの利用を選択しました。というのは、介護用ベッドがレンタルできるからです。

障害福祉のサービスを利用すると買い取りなので、引っ越しのとき自力で運ばなければなりません。
ですが、レンタルの場合は運ぶ必要がありません。引っ越し前の住居に置きっぱなしに出来、福祉用具をレンタルしている事業所が新居に同じ型のベッドを設置してくれます。
障害福祉のサービスを利用すると買い取りしか出来ないのですが、こうスムーズにはいきません。
介護用ベッドの解体•組立は面倒((上手く)出来ない)なので引っ越し業者によっては法外な料金を請求してくる場合があり、運搬を拒否する業者も存在します。
要介護2以上は車いすのレンタルも出来るので、正当な理由であれば交換できます。

40歳から介護保険のサービスを利用したのには、もう1つ理由があります。それはケアマネさんです。
障害福祉のサービスの知識はあまりないので、役に立たないことが結構あります。

車いすを常用している難病患者が一人暮らしを実現し、念願の都営住宅の住居に入居するまでと、現在の自分

2022-08-24 | Weblog
都営住宅の、単身者向け車いす使用者用住居で一人暮らしを始めて2年半が経とうとしています。
ちなみに、その前の約1年間は 都営住宅の住居に入居するために必要な条件を満たすためUR住宅の住居で一人暮らしをしていました。
都営住宅の住居に入居するためには、もちろん都民で、単身者向け住居には一人暮らしをしていての応募でないと例え当選しても審査は通りません。
UR住宅には、車いす使用者はおろか身障者を優遇する制度はなく、僕が住んでいた部屋はバリアだらけ(比較的新しい住居はバリアフリー仕様の部屋もあるようです)で 車いす使用者にとって住みにくい住居でした。家賃は、いまの10倍以上しました。ちなみに、ここ(都営住宅)で一人暮らしがしたかった理由の一つは家賃の安さです。こともあり、ここでの生計は障害年金と障害者手当だけです。話しは戻りますが、UR住宅の住居の家賃は、障害年金などの蓄え等で、なんとか1年分は前払いが出来ました。
UR住宅は入居したかった住居に1ヶ月で入居でき、都営住宅は1回の応募(7倍)で入居できラッキーの連続でした。
都営住宅の募集は年4回あるんですが、単身者向け車いす使用者用住居の募集は2回しかなく、この1回で入居できなかったら路頭に迷うところでした。それにしても、たった1回の応募で入居できたのは超がいくつもつくような幸運の何者でもありませんでした。
上記の2件で、一生分の運7割は使い切ったと言っても過言ではないと思いました。
残りの3割は人脈だと思っています。というのも、いま10数人の方にお世話になっていますが、私的な方々も公的な方々も みなさん素晴らしい方々です。そして、30代40代の方々との絡みが増え、彼ら彼女らに凄く刺激を受けています。ちなみに、僕は50代の半ばです。障害者で絡みのある方は、ほぼいません。

この、一連の引っ越しの流れを作ったのは僕自身ですが、それを後押ししたのは父と姉および周囲の方々だと思っています。もちろん、難病(脊髄小脳変性症)患者の一人暮らしは無謀だと思っていましたが、それしか選択肢はありませんでした。
15年前に母を亡くし、それからの11年間は実家で父と2人暮らしでした。父が まだ仕事(自営のクリーニング店)をしていた時はよかったのですが、数年後に仕事を辞めてからの 2人の関係は最悪でした。
男同士で2人とも頑固。父は職人ということもあり、さらに頑固。何かというとぶつかり合い、お互い譲らないので姉に凄く迷惑をかけていました。僕は母にベッタリで”超”が付くほどのマザコンだったこともあり 父とあまり絡まなかった(父とは、母を間に挟んでコミュニケーションをとっていたことが多かったです)からか、2人は かみ合っていませんでした。
一人暮らしをすることは、母が亡くなる数年前から計画していました。姉は、2人の様子を知って僕の一人暮らしを後押ししてきました。僕は難病患者で少し不安だったということもあり あまり一人暮らしの計画を具体化していませんでしたが、姉の後押しで急加速しました。
そして、5•6年前から一人暮らしに向けた活動を積極的にしていき、とんとん拍子でUR住宅の住居に入居でき念願の都営住宅に転居でき今に至ります。

ここ(都営住宅)で一人暮らしをするようになってから、ちょっとずつですが父との関係が改善してきています。それも、姉の存在なしには語ることが出来ません。姉が2人の間に入ってくれなかったら今の自分はないと思っています。僕は長男ということもあり父の介護をしなくてはならない立場なのですが、姉に頼っています。姉は嫁いでいますが たまに実家まで父の様子を見に行ってくれています。姉には頭が上がりません。
UR住宅は同じ市内•町も同じだったこともあり父との絡みが少しあったのですが、ここは隣の市、しかも今はコロナ禍ということもあり全く会っていません。ですが、事あるごとに手紙を書き誕生日と父の日•年末にはプレゼントを贈っています。
そして、姉の旦那さんとキチンと会ったことがないので、コロナが落ち着いたら父も含めて食事をしよう、と 姉と話しています。できるだけ早くの実現を願っています。

持病を持った人でも入れる医療保険への加入

2022-02-12 | Weblog
ここ(都営住宅)での一人暮らしが2年が経過しようとしていますが、ここ数日ちょっと老後のことを考えていました。

僕には頼れる家族がいないに等しいので、生活習慣病などでの入院・コロナの感染などへの対応で不安要素が多く、民間の医療保険に入ることを検討しています。
身体障害者手帳が2級で○障の受給者証を所持しているので保険医療だと自己負担はないのですが、入院となると色んな方々のお世話になることになり医療費以外の諸経費が結構かかると思います。ので、医療保険に加入することを考えています。
ネットで検索したところ、持病があっても入れる医療保険が数商品ありました。その中には、自己判断で数個の項目をクリアすれば入れる医療保険がいくつかありました。もちろん保険料は割高です。僕は障害年金と手当で生活していますが、なんとか保険料を払えそうなのでアクションを起こそうと思っています。

ここ(都営住宅)に引っ越してきてから、まもなく1年半

2021-09-06 | Weblog
ここ(都営住宅の単身者向け車いす使用者用住居)に引っ越してきてからの一人暮らしが、あと1ヶ月あまりで1年半が経とうとしています。


この1年半の間には様々な出来事がありましたが、やっと生活が軌道に乗りつつあります。
もちろん、詳細は割愛します。

まず ここ最近、ケアマネさんを含め公的にお世話になる方々が ほぼ固定したことが大きいです。半永久的に、これらの方々のお世話になり一人暮らしをしていけることが理想です。
もちろん、私的な お世話になっている友人ら数名の存在も すごく心強いです。
この1年半で、彼ら日常生活上で交際する方々が大幅に変わりました。

ここでの生活は面倒な事も多いですが、お世話になっている方々の支えもあり なんとか成り立っています。


皆様、今後とも どうぞよろしくお願い申し上げます!

障害者(身障者)って…?(その2)

2021-08-21 | Weblog
車いす使用者にも色々な方々がいる、と思わされた。

車いすに乗っているからって身障者とは限らず、それ以外にも、知的・精神の障害や発達障害を併発されている方もいる、と改めて思わされた。
そして、同じ身障者でも様々な方がいる。

それらの事を頭にいれて物事を考えなくてはならない、と思った。
”物事を発信する時は、常に、慎重に慎重を重ねなければならない”と改めて思わされた。

現在の状態

2021-07-28 | Weblog
自分でも、自分のことがわからなくなっている。

このコロナ禍に考えさせられたのだが、ここ10年ほどの過去に少なからず取り返しのつかない事をしてきたかも という自己嫌悪感に苛まれている。
そして、ちょっと自暴自棄になっている。

1年半前に現在の自宅(生まれ育った市から隣の市に)引っ越し、交際範囲が大幅に変わったので「これからが第2の人生のスタートだ」と思っていたのだが、こう1人で考え込む時間があると、体の中に自己嫌悪感が充満し自暴自棄になってしまう。
もちろん、経済的・身体的な面もある。このコロナ禍は大きな誤算。いつまで続くのかわからないが。
”気にしすぎる”という、根底にある性格も多々影響していると思う。が、この性格は自分の中に存在し続けると思っている。外面的には、ポジティブ的な思考(振る舞いも)が可能な限り出来るのだが。


あらためて(?)、病気を発症した頃からの事と少し今後

2021-07-07 | Weblog
僕は、神経難病の脊髄小脳変性症と診断されてから30年ほどが経つ、50代前半の車いす使用者です。ちなみに、孤発性です。精密検査をしていないので詳細は不明ですが、原因は 父の精子の突然変異だといわれています。

最初に受診したのは、大学2年の時でした。受診するきっかけとなったのは、通学の時などに 運動機能に違和感を感じてでした(階段の上り下りが不安になりジャンプが出来なくなり、そして、走れなくなりました)。結局、大学は2年で中退しました(せざるを得ませんでした)。
鬱病と誤診され、1ヶ月あまり精神科の閉鎖病棟に強制入院させられましたが、すごく怖かったです。それが誤診とわかり(脳?)神経内科を受診し始めましたが、MRI検査で すぐ脊髄小脳変性症と診断されました。
それからの数ヶ月間は、頭が真っ白になり何もする気になりませんでした。それ以降は病気の事が頭から離れず、どうすれば治るのかなど医療的な事ばかり考えていました。40過ぎまでは家に閉じこもりがちな生活をしていて、たまにスーパーに行くような感じでした。
家業の手伝いも少ししていましたが、父と2人だけの生活になってからは、父が外回りしているとき店番する事が多く 電話番もしましたが、この病気は言語障害(構音障害)のある人が多く 僕も結構あったので、電話の相手に酔っ払い扱いされた事など日常茶飯事でした。ちなみに 父は、僕が45歳(?)の時に店をたたみ、それから しばらくして自動車を処分し運転免許証も返上しました。
それからは外出する事が多くなり、東京23区内(特に神宮球場)に行った時は、帰宅時 日付が変わっていた事も結構ありました。

話は前後しますが、40直前に母を亡くし生活が一変しました。さらに、40歳で介護保険が適用され40代前半に車いすをレンタルするようになり外に出る事が多くなりました。ヨボヨボ歩き⇒いきなり 車いす使用者になり、杖や歩行器などのお世話になることはありませんでした。
介護保険を利用したレンタルは、車いすを身体に合わせることもなく教習もなく(僕の場合?)、自動車の運転もしたことがなかったので、いきなり電動車いすの運転をしたので、乗り始めの数ヶ月は凄く怖かったです。
この数年後に一人暮らしを考え始め、それがトントン拍子で実現しました。
それらがターニングポイントだったような気がしています。

それ以降は、考え方が かなり変わったような気がしていました。病気の事を あまりウジウジ考えないようになり、リハビリの事ばかり考えるようになっていました。ちなみに、コロナ禍になる前は 東京都多摩障害者スポーツセンター(国立市)のプールに10年間弱・東村山市立スポーツセンターのプール(Kさんを中心に車いす使用者でも入れるようにしたので可能な限り入り続けたいです(車いす使用者で利用しているのは、たぶん 僕だけです))には5年ほど通っていました。水中歩行が中心で、もちろん(?)両センターとも単独で利用していました。コロナワクチンの接種が済んだら多摩障害者スポーツセンターのプールに通うのを再開しようか考えていましたが、また 東京都に緊急事態宣言が発令されるようなので、しばらく利用を断念します。

40歳直前に母を亡くし、それからは父と2人で暮らす事になったのですが、その生活は最悪で しかも10年ほど続きました。恥ずかしながら、僕は”超”が付く程のマザコンでした。母も一緒に暮らしていた時は、あまり父との絡みはありませんでした。ので、いざ2人きりでの生活になると戸惑いの連続でした。実家は自営のクリーニング屋だった事もあり父は職人で凄く頑固、僕もかなり頑固だったので口論が絶えませんでした。
現在は隣の市内の都営住宅(単身者向け車いす使用者用住居)で一人暮らしをしていて、ひとり暮らしも現在の自宅を含めると2年半近く(1年ほど前までの約1年間は、実家と同じ市内にあるUR住宅で(永住を予定していた 都営住宅に入居するための条件を満たすため))になります。少し距離を置く事によって父との関係も良くなりつつあります。

40歳を過ぎ初めて社会に触れた と言っても過言ではなく、それから40代後半までの自分は、自分が考えただけでも恥ずかしいと思うほど世間知らずだったと思っています。
様々な方に迷惑を掛けたと思っています。本当に申し訳ありませんでした。もちろん、いまも少なからず迷惑を掛けていると思っています。

今後は、現在のように 生活保護のお世話にはならず、可能な限り障害者年金と手当だけで一人暮らししていくことが理想です。
そして、僕には頼れる家族がいないので、絶対に風邪をこじらせたり入院する事は出来ないと思っています。

皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます!


※支離滅裂な文章、失礼いたしました。

キーボックス(の設置)

2021-06-29 | Weblog
コロナワクチン接種の予約が7月に入ってから始まる、ということもあり、キーボックスを設置することにしました。

僕は難病を患っていて、しかも、2年前から一人暮らしをしています。ので、何か(特に、身体の急変)あったら怖いので、ひとり暮らしを始めた頃から設置を考えていました。

キーボックスを設置するとベッドに寝たまま人の助けを呼べる(駆けつけてきてくれた方が家に入る時、玄関まで行っての開錠が不要)ので、精神的にも、だいぶ負担が軽減すると思っています。

53歳になって…

2021-06-28 | Weblog
リアルタイムの投稿にしたかったのですが、やっと実感が湧いてきたので書きます。



誕生日当日(6/24(木))には、SNS(Facebook)を中心に数十人の方々から祝っていただき ありがとうございました。
隣の市に引っ越したこともありますが、思っていたより沢山の方々から祝福され とっても嬉しかったです♪(^_^)

昨日 直に祝ってもらえ、やっと53回目の誕生日を迎えたんだと思えてきました。


これから 可能な限り一人暮らしを続けたい、と思っています。


皆様、今後とも よろしくお願い申し上げます!

父の日

2021-06-20 | Weblog
「親父、いつもありがとう♪(^_^)
これからも ずっとよろしく!」


父は85を超えている。
母は15年前に亡くなったのだが、それからは、ひとり暮らしするまでは実家で父と2人で暮らすことになった。

のだが、2人での生活は苦悩の連続だった。
ちなみに、実家は自営のクリーニング店だったが、店は3年前に閉め、しばらくして父は免許証を返納し自動車も処分した。
僕も頑固な面があるが、父は職人ということもあり、僕より かなり頑固だった。ので、2人の関係は悪くなる一方だった。

5年前から一人暮らしを考え始めたのは、物理的な面が大きいが、少し父との関係もある。

2年ちょっと前に一人暮らしをし始めたUR住宅は、実家と同じ市内、しかも同じ町内で、実家から1kmも離れていなかった。1年ほど前に、現在の自宅(都営住宅)に引っ越したのだが、隣の市にあり実家から5kmくらい離れていて、いまはコロナ禍ということもあるが、自宅⇔実家の行き来はない。


ひとり暮らしが2人の関係に変化を起こし、徐々にだが関係が良くなってきている(特に、現在の自宅に引っ越してから)。2年間だが、ちょっと距離をおいて良かったと思っている。
父は、2人で暮らしていた時より目と耳が悪くなり足も悪くなってきている。僕には言語障害があるので、電話は ほぼ不可能。お互い用事がある場合は、姉を挟んでいる。

2年前からだが、父の日にはネット通販を利用し贈り物をしている。年末(年始?)にも。誕生日などと、ことあるごとに手紙を送っている(僕は文字を書くことが不得意なので、宛名は自筆だが手紙はwordを利用して書いている。wordは文字を大きくできるので凄く助かっている)。