僕は、神経難病の脊髄小脳変性症と診断されてから30年ほどが経つ、50代前半の車いす使用者です。ちなみに、孤発性です。精密検査をしていないので詳細は不明ですが、原因は 父の精子の突然変異だといわれています。
最初に受診したのは、大学2年の時でした。受診するきっかけとなったのは、通学の時などに 運動機能に違和感を感じてでした(階段の上り下りが不安になりジャンプが出来なくなり、そして、走れなくなりました)。結局、大学は2年で中退しました(せざるを得ませんでした)。
鬱病と誤診され、1ヶ月あまり精神科の閉鎖病棟に強制入院させられましたが、すごく怖かったです。それが誤診とわかり(脳?)神経内科を受診し始めましたが、MRI検査で すぐ脊髄小脳変性症と診断されました。
それからの数ヶ月間は、頭が真っ白になり何もする気になりませんでした。それ以降は病気の事が頭から離れず、どうすれば治るのかなど医療的な事ばかり考えていました。40過ぎまでは家に閉じこもりがちな生活をしていて、たまにスーパーに行くような感じでした。
家業の手伝いも少ししていましたが、父と2人だけの生活になってからは、父が外回りしているとき店番する事が多く 電話番もしましたが、この病気は言語障害(構音障害)のある人が多く 僕も結構あったので、電話の相手に酔っ払い扱いされた事など日常茶飯事でした。ちなみに 父は、僕が45歳(?)の時に店をたたみ、それから しばらくして自動車を処分し運転免許証も返上しました。
それからは外出する事が多くなり、東京23区内(特に神宮球場)に行った時は、帰宅時 日付が変わっていた事も結構ありました。
話は前後しますが、40直前に母を亡くし生活が一変しました。さらに、40歳で介護保険が適用され40代前半に車いすをレンタルするようになり外に出る事が多くなりました。ヨボヨボ歩き⇒いきなり 車いす使用者になり、杖や歩行器などのお世話になることはありませんでした。
介護保険を利用したレンタルは、車いすを身体に合わせることもなく教習もなく(僕の場合?)、自動車の運転もしたことがなかったので、いきなり電動車いすの運転をしたので、乗り始めの数ヶ月は凄く怖かったです。
この数年後に一人暮らしを考え始め、それがトントン拍子で実現しました。
それらがターニングポイントだったような気がしています。
それ以降は、考え方が かなり変わったような気がしていました。病気の事を あまりウジウジ考えないようになり、リハビリの事ばかり考えるようになっていました。ちなみに、コロナ禍になる前は 東京都多摩障害者スポーツセンター(国立市)のプールに10年間弱・東村山市立スポーツセンターのプール(Kさんを中心に車いす使用者でも入れるようにしたので可能な限り入り続けたいです(車いす使用者で利用しているのは、たぶん 僕だけです))には5年ほど通っていました。水中歩行が中心で、もちろん(?)両センターとも単独で利用していました。コロナワクチンの接種が済んだら多摩障害者スポーツセンターのプールに通うのを再開しようか考えていましたが、また 東京都に緊急事態宣言が発令されるようなので、しばらく利用を断念します。
40歳直前に母を亡くし、それからは父と2人で暮らす事になったのですが、その生活は最悪で しかも10年ほど続きました。恥ずかしながら、僕は”超”が付く程のマザコンでした。母も一緒に暮らしていた時は、あまり父との絡みはありませんでした。ので、いざ2人きりでの生活になると戸惑いの連続でした。実家は自営のクリーニング屋だった事もあり父は職人で凄く頑固、僕もかなり頑固だったので口論が絶えませんでした。
現在は隣の市内の都営住宅(単身者向け車いす使用者用住居)で一人暮らしをしていて、ひとり暮らしも現在の自宅を含めると2年半近く(1年ほど前までの約1年間は、実家と同じ市内にあるUR住宅で(永住を予定していた 都営住宅に入居するための条件を満たすため))になります。少し距離を置く事によって父との関係も良くなりつつあります。
40歳を過ぎ初めて社会に触れた と言っても過言ではなく、それから40代後半までの自分は、自分が考えただけでも恥ずかしいと思うほど世間知らずだったと思っています。
様々な方に迷惑を掛けたと思っています。本当に申し訳ありませんでした。もちろん、いまも少なからず迷惑を掛けていると思っています。
今後は、現在のように 生活保護のお世話にはならず、可能な限り障害者年金と手当だけで一人暮らししていくことが理想です。
そして、僕には頼れる家族がいないので、絶対に風邪をこじらせたり入院する事は出来ないと思っています。
皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます!
※支離滅裂な文章、失礼いたしました。