ビッグストーンブログ。

飲食記録とちょっとした小話を載せています。

疲れと休息

2017-05-17 01:21:13 | エッセイになりそこねたものたちです
地元の駅に、新しいビルがこの春できた。
濃いグレーのピカピカの建物で、10を超す人気の飲食店が入り、上層階は音楽ホールとのことらしい。3つの大型ショッピングモールに囲まれた駅を中心として、年々若い人口が増え行く我が街は、このビルによっていっそう「近未来」という言葉が似合うようになった。好きな雰囲気だ。

その新しいビルの3階の、角っこに位置するイタリアンレストランは全面ガラス張りで、家から駅に出る度に、そこで食事をする人々の輪郭が見える。皆、どことなく幸せそうである。あの人たちは皆「何者」かなのだろうな、と考えた。
5年前のちょうど今頃も、何者かである必要などないのに、何者でもない自分の身の上について考え、母の放つ「まだ若いんだし」「病気なんだから」といった言葉に慰められながら、私も駅ビルの一角の、ああいうレストランで食事をしていた。自分は何者でもない、学生でもなければ社会人でもない、ただの病気の26歳だ、と思いながら、スパゲティをほんの1、2本ずつ口に運び、食べていた。

母はフルタイムで仕事をし、妹は就職して2年目だった。運転免許証もパスポートも持たぬ自分の唯一の身分証明である保険証は、私のだけが「被扶養」である点で、2人のものとは異なっていた。恋人はいたが、絵に描いた様な自由気ままなダメ男で、私は毎日泣いていた。
自分名義の預金残高は1万円を超えることは無く、そんな金額を当然貯金とも呼べず、仕事もなく、身体はやせ細り、未来に希望を見出せるわけもなくて、4,5日に1度、近くの病院で点滴を打ってもらっていた。何かを食べるたびに、吐いた。いつも「これは後で吐くんだろうな」と思いながら、食事をとっていた。吐いた後、綺麗に手を洗い、冷凍庫から、半分凍った冷たいジュースを取り出しては飲み、まるでスポーツを終えて一息入れる時のような快感を味わった。その爽快感の為に吐いていた時もあったろうか、しかし、そのうち、食べる、という行為ができなくなり、それに伴って、吐く、という行為もできなくなっていった。拒食が進行していたのだ。

食べることが大好きだった自分が摂食障害を患ったのはそれよりも更に4年程前のことだが、この時が、一番症状が重かった。私は妹と今のマンションに暮らしていた。母と結婚する予定のおじさんがいて、たまにケーキを差し入れてくれた。母はそのおじさんと暮らしていたが、私の具合が悪くなると、私のベッドの隣に椅子を並べて寝る為に、夜、マンションに来た。大きい手で、小さいおにぎりを握ってくれた。一緒にテレビを見て、夜中、泣く私の背中を擦った。「沢山無理をさせたね。ごめんね。ゆっくり休んでね。」と言いながら、大きな手で、優しく擦ってくれた。私はあの頃、何者かでいたかったのだと思う。

1年のうち、この季節が好き、この季節になると鬱になる、そんなものを持って生きる人は多いらしい。私は、精神の病を患ってから、年末が来るのが大好きになった。病を患ってからも、自分に出来る仕事を見つけてはパートで働いていたのだけれど、たまたま毎年、12月で辞めていた。こちらの意志的な結果だった時もあれば、向うとの契約上の都合だったりもしたが、毎年、12月の半ばには、何も仕事をしていない、身軽な自分というのが必ず、いる。何はともあれ、今年はもう終わり、色々のことは来年考えよう、という、何時になく楽観的になれる自分がいて、そんな自分を許す事の出来る唯一の季節だった。「年の終わり」という区切りが、「何もしていない自分」を許せて、開放感をくれた。

大学院に在籍していた時も、授業の終わりが大体12月の半ばなので、この感情は持ち越された。他人よりも少し早く「冬休み」が訪れ、クリスマスの前から逸早く年末気分を味わいつつ、家の近所のカフェで小説など読んだりする。滅多に見ない地上波で面白そうなものを見つけて録画予約をしたり、普段に増して大量の飲み物や大好物の菓子の類を買い込んだりもし、そしてクリスマスも過ぎて世間も休みを迎えると、母と妹と地元の駅ビルをうろうろして、パジャマを買ってもらったりすべく、雑貨屋を見たりする。その後妹とカラオケに行ったり、珍しくラーメン屋に入って餃子を半分こして食べたりする。ビールを飲みながら1年を振り返り「忘年会でも飲んだけど、こういうのが一番いいな」と言う妹に、飲めない私は烏龍茶のグラスをカチンと合わせ、おつかれ、と声を掛けたりする。そんなことが一々楽しい。

反対に、3月4月は、大体、元気が無い。
幼稚園受験をして入った私立の学園は、そのまま高校卒業まで受験をせずに居座ることができたはずなのだが、何の因果か小学の途中で別の私立を受験する羽目になった。中学にはそのまま上がったが、途中でまた転校し、高校受験もした。大学受験もした。大学院受験もした。人より少しだけ「受験」の回数の多い人生で、そのせいだろうか。けれど中には秋に入試が行われたものもあったと記憶しているので、一概にそれを主因としては指摘できない。
或いは、世間が「新年度」という区切りをつけ、学生が社会人になったり、ひよっこ社会人が「先輩」になったり、新たな節目を生きようとする、その「まっとうさ」に、「規格外」の人生を生きる自分を比してしまうせいだろうか。しかしそうは言いつつも、心の底では規格外のくれる自由に浸ってもいるし、そもそも自分が精神の病を患ってなかったら、という反実仮想を浮かべてみた処で、所謂「まっとう」に、学生が終わればどこかの組織に所属して社会人となって…という道を歩んでいたかどうかは、甚だ疑問である。だから、世間と自分を比べて卑屈になっているわけでもない、そう思う。

あれこれの考えの行き着く先としては、結局、自分なりに自分の1年を頑張って生きて、それを「頑張った」と何処かで認めてやる自分がいて、それが年末ではなく「年度末」に来る、ということなのだと思う。けれどその「頑張った自分」を認めるのはあくまでひっそりと、なのだ。心の中では「これ、頑張った、と思っていいの?」という自分と常に葛藤していて、その葛藤が「疲れ」となって、毎年この時期、私を戸惑わせる。

自分では、沢山遊んで、沢山休んでいるつもりだった。
けれどそれは自己認識によるものだ。
普通、自己の体感、というものについて判断する時、他人がどう思うか、を気にするのでなく、自分がどう感じるか、を大切にすべきなのだと思う。自分の身体に責任を持つことも、身体に耳を傾けてやって本心を聞いてやることも、自身にしかできない芸当だからだ。
しかし、他人によって判断されないと支障を来す人間もいる。私の様に、自己認識及び自己評価というものが正しく出来ない人間はその典型だろう。だからこそ精神科に通院し、毎週カウンセリングを受け、他者評価を貰う必要があるのだろう、と、疲れを感じる度に思う。

5年ぶりに私は「何者か」でなくなっていて、自由という身分に、とても疲れていた。
4年前の私は「病が回復して、大学院に進学する為の勉強をする、まいという女」だったし
3年前の私は「大学院の1年生のまいという女」で、
2年前の私は「大学院2年目、修論を頑張る、まいという女」
去年の私は、「学位を取って、次のステップに進学する準備をする、まいという女」で、自分で自分が何者か、など考える暇も、また必要も、なかった。

先日、長いこと私を担当しているカウンセラーに言われた。
「あなたは1年間、論文を書き続け、その後1年間、また休みもせず勉強を来る日も来る日もして、終わったら高熱を出し、熱が下がった途端、アルバイトを始めた。
貴方と同じくらいの重さの精神の病の人は、家から出ないまま何年も過ごしている人も多い。元々無理をしてはいけない貴方は、頑張り過ぎた。休んでないことが一番の問題。休む、というのは1日や2日遊ぶことじゃない。何もしない自分に罪悪を抱かない事」
と。
毎年、春になると感じる「疲れ」が、今年は例年に増して大きいことに、自分でも気付いていた。けれど「健康な人なら、これくらい何でも無いかもしれない」と思って、やはり休む自分に罪悪を感じていた。確かに、ずっと動いてる。いつものカウンセリングルームで、そのことを実感した。
少しぼーっとして、福岡に帰ってみることを考えるだけ考えてみたり、思いきりデートを楽しんだり、ゆっくり小説を読んだり、そういう日々をまとまって作った方がいいのかもしれない。けれど、そうした考えの行きつく先に、私はいつも、「だって自分は、フルタイムで働いているわけじゃないから…いつも休んでるようなもんじゃん」という言葉を持ってきては自分を縛る。「休もう」と自分で思う度、もっと動いていないといけない、という思いが身体中に走っていくのを感じながら、日々を過ごしていた。誰かに「休め」と言われないと休めなかった。持病もある。おまけにメンタルの病もある。それでも、頑張る人は頑張ってる、そう思うと、何もしないで休むことがひどく怠慢に思えたのだ。

「よく遊び、よく食べ、よく寝ろ」と、GW中に恋人に言われたことを思い出した。
恵まれている。面と向ってそう言って来る人はいないが、きっとそうなのだろう、と思う。
生活の心配をしないでいいと思わせてくれる義父の存在は大きいし、
母は相変わらずの愛を抱えて、私の近くにいる。
励ましてくれる恋人がいて
可愛い妹がいて
弱音を言える親友がいる
少し旅行に出てみるか、というくらいの貯金もある。
誰一人、「無理をしろ」という人間は周りにいない。
5年前と同じ、何者でもない自分、
しかし、少しだけ、自由になるお金がある。
将来、食べるだけなら困らないという基盤もある。
その点は違っていた。
何の不満があるんだ、
自分でもそう思う。

それでも、時折、過去のあれやこれやを思い出す。
そして自分で傷を疼かせる。
その「思い出す」きっかけは様々で、自ら心の奥の方に入っていったり、記憶を辿ったりすることもあれば、何かの共通項によって外から誘発されることもある。思い出とリンクするのは「匂い」や「味」という人が多いが、私が最も多くを思い出すきっかけとなるものは「地名を見聞きする」というもので、テレビでも小説でも、とにかく自分の過去に関わる「地名」を見たり聞いたりすると、
その近くに住んでいた頃のことを思い出し、
その頃自分がやっていたことを思い出し、
その頃自分がどれだけ休んでいたかを思い出し、
自分で言うのも何ながら、
私は多分、23歳ではじめて精神科の門を潜るまで、ずっと何かしらを「頑張っていた」気がするから、大体その記憶というのは、「忙しい自分」というもので、
けれどその中にいろいろの切なさを見出して、
色んな場所に住んだな、
色んな人達と接したな、
色んなものを売ったな、
色んな疲れを抱えたな、
色々、頑張ったな、
と思い、しんみり、している。
今の「恵まれている」自分に、過去の「頑張った」自分が勝って、疲れる。

本当に疲れた時、私の頭と心と体は、これまでの人生濃かったな、という充足感でいっぱいになる。
それから冷たい飲み物と煙草を大量に買い込み、家に引き籠る。
一年を通して冷たい飲み物が大好きな私は、ペットボトル飲料の中で、特に好きな味のお茶やジュースを、一気に10本くらいずつ買う。煙草もいつもの倍、買う。
深夜、ベッド横の机の上に、お気に入りのマイボトル(魔法瓶)に氷とソフトドリンク、それとは別に凍らせたミネラルウォーターのボトルをこれまたお気に入りのボトルホルダーに入れ、その手前に煙草とライターと灰皿をセッティングする。それから規定量より少し多めの薬を飲み、「もう十分生きたなぁ」とひとり呟きながら、人生について考える。
そんな1カ月間を過ごしていた。

幸せ、なのかもしれない、と、最近、少しだけ、思う。
あの、病が酷かった5年前と、今も同じマンションに妹と住んでいる。
その間に妹は2度マンションを出て一人暮らしをした。それはそれで楽しかったけれど、お姉ちゃんと2人で暮らすこの空間が好き、と最近よく、私に言う。
母はおじさんと婚姻届けを出し、13年ぶりに「父」と呼べる存在ができた。滅多に顔を合わせはしないが、たまに顔を合わせると「ちゃんとご飯食べてんの?」と言う。
5年前、私が泣いてもそしらぬ顔で私を責めることばかり言っていた恋人は、今、私が泣くふりをすると「ごめん、悪かった」と言う。「話がしたいんだけど」と言うと、前は逃げていたのに、今は「わかった。時間とる。」と向き合おうとする。20代後半から30代になっていく、その過程にある男性というのは結構子供なのかもしれないな、等と思いながら、大きな調教という一仕事を終えたような感がしないでもない。
5年経っても変わらないのは、「まだ若いんだし」「病気なんだし」「無理したらダメ」と言う母の言葉と、相変わらず私が被扶養者であることを語る保険証だった。

コンビニに大好物のかき氷が並んだ。
ペットボトル飲料のパッケージが一新された。
夏の訪れを感じた。
「吐く」という行為を、もう何年していないだろうか。食べたものはぜんぶ吸収される。汗が出るし、喉が渇くから、冷たいものを沢山飲む。今日もジュースとお茶を沢山買った。

私が最も元気になる季節は夏で、それは自分の誕生日が近づくからだ。年を取りたくない、誕生日なんて大人になれば嬉しいものでもない、と言う人も多い中、私は毎年、誕生日が近づく度、元気に、快活に、なってゆく自分を、見ている。そうして騒ぐ心は、幼い頃に身についた習性で、レモンを思い浮かべると口内に唾液が溜まるような、反射といえる現象に近いものがあるかもしれない。

7歳まで生きられないかもしれない、と言われて生まれてきた。
7歳を過ぎれば、もうあとは、ずっと大丈夫。そう医者には言われていた。
両親にとり、結婚11年目にして授かった初めての子で、近所に住む祖父母にとっては、初孫だった。母は三姉妹だが、叔母二人は独身で、子供がいないから、自分の子のように私を可愛がった。
全員が私を中心に動いていた。

誕生日は誰にとっても節目だが、1歳から6歳までの私の誕生日、そして待ちかねた、来る保証もなかった7歳の誕生日、一年毎に訪れる8月盆明けの或る一日は、私の周りの大人達にとって、喜びと恐怖と、まだ油断ならないという戒めと、諸々の思いの混在する処で迎えたのではなかろうかと、年を重ねるごとに、どこか他人事のように忖度する自分がいて、もう一方では、「たんじょうび」という言葉の響きで、少し元気になる、そんな自分がいた。その感覚を忘れないまま大人になったせいだろうか、今年32になるのに、やっぱり8月が待ち遠しい。

5月の中旬を過ぎると、頭の遠くの方で「夏」という言葉が過り、晩夏の向う側から「生きてるだけで丸儲けだよ。」ともう1人の自分が自分を励ましにやって来る。そうして段々と元気になってゆく。あと3か月でやってくる誕生日に元気づけられながら、今日も私は「何者でもない自分」を生きている。いつになったら動き出すのか、動き出せるのか、全く先が見えないが、明日も、ご飯を食べて、冷たい飲み物を飲んで、読みたい本を読んで、眠りたいだけ眠ろう、と思った。