まいまいの近況報告☆

なかなか会えない友人諸兄に、私の生存記録をお知らせするブログです♪ どなた様もお気軽にどうぞ~(^o^)

セクシャル・マイノリティ

2006-12-30 17:22:07 | Weblog
ちょっとしたきっかけで知った中村中さんの友達の詩っていう歌に夢中です。知り合いは歌詞を読んで「お、お前そんなに極端に走らなくてもいいだろう」という感想をもらしておりましたが、私はとっても共感できたりします。

中村さんは性同一性障害の方らしいのですが、社会一般の性とか恋愛とは異なる、セクシャル・マイノリティの方には、特にこの詩は響くんじゃなかろうか。

かくいう私もセクシャル・マイノリティ(ここで暴露すべきことかどうかはわかんないけど、別に隠してないし特に悩んでないし今年も終わるし(え?)いいや)。世間様ではバイセクシャルと呼ばれるあれです。女の子が好きというより、好きになる対象として男とか女とかを分離する必要軸が自分の中に存在してないのです。普通に共学に通ってましたし、痴漢以外は別に男の方を敵視するべき経験もないし、先天的なものでしょう。

それが高じて卒論では軽くジェンダーみたいなことをやっていたりするわけですが。今私がやっている台湾の作家、白先勇の「ニエズ」という作品も、同性愛を扱った作品で、作者も同性愛者です。で、「友達の詩」の内容にも、「ニエズ」の作品の中にも、「好きだから傍にいられない」みたいなことが出てくるのです。

私の生まれて初めての恋愛はちと遅くて、高校時代の、同級生の女の子でした。そりゃもう死ぬほど好きで、好きだと自覚した時は世界が何億色に見え、歩くことさえままならずスキップしながら家へと帰ったものです(はたから見るととてもアブナイ人です)。が、思春期の彼女と私が抱える心の問題は根強く、たかが17、8年とはいえ、互いの過去を完全に支え合うのは無理があり、距離を置かざるをえなくなりました。私は期待してそれが叶わないことに傷つきすぎてしまったし、彼女は傷つく私を見るのも重く辛かった。卒業する頃の私たちの関係と言えば、そもそも女同士なので異性愛の恋人同士のように付き合うも付き合わないもなかったわけですが、友達と呼ぶには近すぎ、恋人と呼ぶには辛すぎ、親友と呼ぶには切なすぎる、という何とも名付けにくい状態になってしまっていました。

現在も親交は続いており、彼女も私も良い彼氏さんができてそれぞれ仲良くやっております。…が。私も、そしておそらく彼女も、あの時の微妙な関係を、わかりやすく定めやすい「ともだち」という言葉に戻せたわけではないのです。

彼氏とは、いつでも傍にいたいです。親友とは、できたらたくさん会いたいです。でも彼女とは、いつも連絡をとることをためらいます。嫌われるくらいなら、会わない方がずっといい。傷つけるくらいなら、黙っていた方がずっといい。幸せにやっていると、誰かから聞けるならそれで充分。

他のセクシャル・マイノリティの皆さん(こういう超大雑把なくくりは本当は良くないけど)がどういう気持ちになるのかはわからないけれど、同性同士の恋愛は、実は異性愛より難しいような気がします。わかり合い過ぎるところがあって…。重なり合うことができてしまう部分が多すぎて、同じだから愛しくて、同じじゃない部分が憎くて。人間、「わかっているけど、できない」こともいっぱいあるのに、それを許せなくなって、互いに互いの存在が重くなっていく。

たいていの人は、20年以上人間やってりゃ、笑える過去ばかりでもないでしょう。もっと長く生きれば、もしかすると相手の人生支えられるようになるのかもしれないけれど、少なくとも今の私には無理だ…。

恋愛を長くやるために大切なのは、相手の心と「重なり合う」ことよりも、相手の心に「寄り添う」ことじゃないかと思ってみたり。

だからこそ、中村中さんの「大切な人が見えていれば上出来」という一文は、胸に刺さりました。本当、そうだ…。近づくのは「危うい」から、見守ることができれば充分。この詩、見ようによっては強がっている風に受け取れるかもしれないけれど、多分、中村さんは心底そう思っているんじゃないかなぁ。

2006年最後のエントリーがこれってどうなのかわかんないけど、正月休みであまり人がこれを見ない(見るころには別のエントリーで記述が下に落ちている)ことも考慮して、ちらっと暴露話なんかをしてみました。

ではでは、今度こそ、皆様、良いお年を。2007年も素晴らしい年になりますように。

クリスマスだったらしい。

2006-12-27 15:28:40 | Weblog
クリスマスだもん!…ってわけではないんですが、大阪に行ってきました。相方とつるみ始めて早4年半くらいになるんですが、例年になくクリスマスイブぅ!って感じの日を過ごしました。クリスマって感じの日がどんな感じかとゆーと、M1観ながらおすしケーキ(クリスマスイブにはご飯と刺身でケーキっぽいのを作るのが我が家の風習)を食べ、普通の甘いケーキも食べ、腹ごなしにFDで夜の街に繰り出し、寒風吹きすさぶ展望台に登って地上を見下ろし、ワイン片手に「ふふ…この世の全てはいずれ我らのものさ!」と呟き(ややフィクション交じり)、風呂入って寝る、と。あ、ちなみに展望台には「お星さまにお願いごと」ができる神社があって、そこでちゃんと「相方が出世しますように!しますように!しますように!」と三回熱くお願いごとをしてきました。隣で相方が脂汗をかいていた気がしないではありません。

クリスマ当日には我が親友殿が幸せいっぱいの報告をしてくれたため、さらに素敵さ倍増で、いい時間を過ごせました。皆々様ありがとう。今年はたいそうお世話になりましたが、来年も気合を入れてお世話になる予定です。どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

談恋愛

2006-12-19 13:49:20 | Weblog
昨日は学部の忘年会でした。食事もおいしかったし、話も楽しかったし、良い時間を過ごすことができました。皆様今年もお疲れさまでした。

ところで同期や院生と「談恋愛(中国語で恋愛する)」について日付が変わるまで話し込んでしまいやした。曰く「恋がしたい」と。恋がしたい恋がしたい恋がしたいでも出会いがないと。

個人的な意見ですが、なんていうか、ハタチ過ぎると、恋もぼーぜんと待っていてはできんような気がします。すっごいモテるとゆー方は別枠ですが。例えば合コンに足しげく参加するとか、友人に紹介を頼むとか、何らかの手段に出ねば出会いの幅も狭まるのではないかと。就職先とか、その人が属しているコミュニティに「ほどよい相手」がコロコロしてない場合は、尚更。

恋愛って考えてみると結構成立条件が厳しい。①出会わなければならない、②好きにならなければならない、③相手にも好きになってもらわなければならない、④関係を継続するための諸所の努力を怠ってはならない、⑤場合によっては関係悪化に至る要因を排除しなければならない(例えば浮気相手、略奪愛の時は第一夫人とか第一夫とか)、…これらのことを乗り越えて現在恋愛を維持継続しておられる方、あなたは立派でございます。

相方は出身高校(当時は男子校だった)の先生に、「俺はお前らにいろんなことを教えたばってん、女の扱い方だけは教えとらんじゃった…!」と嘆かれたことがあるらしいですが、恋愛もそろそろ教育内容一般に含めた方がいいんじゃないかとさえ考える今日この頃。統計学と心理学と社会学と生物学と、えーとそれから文学と、そこらへんの知識を結集して「恋愛学」を打ち立てたら、その授業を受けたい学生はけっこういるんじゃないかと思うんですが。どなたか恋愛の研究に一生を捧げてみませんか。

紅葉がキレイですね!

2006-12-16 14:47:39 | Weblog
大学に行ったら美しく紅葉していました。紅葉て。クリスマスまであと一週間なのに……。

クリスマなんて関係なく卒論卒論、バイトの飲食店は毎日やたらと忙しいという日常の最中、自転車のスタンドが壊れました。何だって忙しい時に限ってこういうことが起きるんでしょう(泣) 大事な足なので早めに直すことにします。

夜の○●戦。

2006-12-11 22:39:18 | Weblog
昨日は大学で一番最初に友人になったメンバーでの忘年会でした。18歳からの付き合いだと思うと何だか感慨深いですが、相変わらずっちゃ相変わらずで、ざっくばらんにいろんなことが話せてとても楽しかったです。昨日から月の使者ご来臨でものすごーく体調も気分も良くなかったんですが、最終的にはそんなことも忘れて盛り上がってしまいました。何かローカル局の深夜番組みたいなノリになってたけど。

来年は私も社会人の仲間入り。有意義で賑々しい関係が続きますことを、心よりお祈りして。

男と女は違うイキモノです。

2006-12-10 17:26:53 | Weblog
「男は~」「女は~」という大雑把なくくりで何事かを断定するのは良くないことだとわかっているのですが、ここ数日なぜかこの内容で考えさせられることが多かったので、ちょっとここに書き残しておこうかと思います。

バイト先でお客さんとglobeのKeikoと小室さんの話になり、以下こんなやりとりがありました。

客「改めて曲を聞き直すと、Keikoはずっと小室が好きだったんだなぁ」
私「だとするとよく結婚できましたよね。Keikoはそれまでの小室さんの女性遍歴を全部知っているわけでしょう」
客「だからそれが愛なんだよ。全部許してやることが愛なんだよな」
私「……そう、ですかねぇ」

考えてみれば、男が女と別れようと決心する時は、女がナニゴトかを許さなかった時のような気がする。自由に飲みに行くのを許さない。自由に浮気をするのを許さない。自由に仕事をするのを許さない。その「許しの境界」が狭くなり、息苦しさを感じたとき、男は別れを考える。

私にすれば、私を愛しているからと私が浮気を繰り返しても「許し」てくれる男なんて、「結局私のことを好きじゃないってことだろう」と逆に怒りを覚えてしまいそうだけれど。

翻って女は? と考えてみると、男が「気付かなく」なった時、女は別れを決意するのではないかと思うのです。服装を変えた、髪形を変えた、本当は辛いことがあったけれどそれを見せないように振る舞った、そういうことに男が全く気付かなくなった時、女は「私に関心がなくなった」と別れを考える。もちろん、本当に別れを考える時は、これ以外にも多用な要素が絡み合うことが多いけれど。

してみると、細かいことを把握するのが苦手な男にとって、そういった些細な変化に気付くことは容易なことではないし、身近な世界に執着する女にとって男の自由を許すことは不安要素が大きすぎる。互いに一番辛いことを強いることが愛…、というより、互いに一番辛いことを強いる「から」愛なのか? などとちょっとメランコリックな気分になってしまったわけです。

この論が正しかったとすると、行き着く結論は現実に則していて面白い。結局のところ、男は女の変化に「気付け」ない自らの怠惰を女に「許せ」と言っていることになって、男と女は永遠に堂々巡り、ってことになる。神様が本当にいて、人間の雄と雌を作ったとしたら、本当に素晴らしいプロデューサーだと思わずにはいられないのです。