かなり放置してたけど、また書きたくなったので書きます。
新作を書きました。話の内容よりは、表現にこだわりました。
でも、あまりできていない。読書しないと!
さー、読んでくださいませ。
* * * * *
Mules on Muse
彼女は、いつも同じミュールを履いていた。
漆黒のミュール、彼岸花みたいに頼りなく細いヒールに甲の部分に大きなリボンがあしらわれている。光の反射によって、濃緑や紅蓮を帯び、満天の星のように散りばめられたラメがきらきらと輝いていた。
昔付き合っていた彼からのプレゼントだと、彼女は教えてくれた。そのとき、彼女の浮かべた表情を、僕はうまく説明することができない。懐かしんでいるわけでもなく、悲しんでいるのでもない。春が足早に過ぎ、桜の花びらの薄い桃色に、青々しい葉が混ざり合う様を惜しんでいるような雰囲気を醸し、それでも彼女の呼吸には苦しみが秘められているような気がして、僕は胸を締め付けられる思いだった。
彼女は絵を描くことを生業としていた。才能もあり、彼女の筆の通った白い空間には、それまでになかった小さな命が宿ったような、躍動的で活動的な色彩が生まれていた。
せめて、彼女に芸術の力がなく、一般の女性がそうであるように、朝の満員電車に揺られ、ディスプレイに文字を並べる作業や、ただただ繰り返される単純な肉体労働に従事しているのなら、これほどまでに、自分の足を飾る靴に執着しなくて済んだのかもしれない。
四季がめぐり、僕たちはともに同じ屋根の下で、お互いの名前を呼び合い、同じ空気を肺に満たしたとしても、彼女の心の片隅には、凛とした存在感を持つ百合のように、あのミュールがいつまでも咲いていた。
一緒に裸で眠り、いくつも触れ合ってきたというのに、僕には、そのミュールの代わりになれないと思い知ったとき、こみ上げてきた惨めさと貧しい気持ちに耐えられることが出来ず、僕はハダシで冬の世界に走り出した。
あてどなく、あてどなく。
息が上がり、降ってくる雪が体温をかすめとっていっても、地を這う霜が僕の爪先をつんざいて行こうとも、止まるという選択肢をいつまでも拒み、とにかく逃げたい衝動を抑えることができなかった。
不甲斐ない魂が涙を流していた。それは報われることも、忘れることもかなわずに、僕は遂に足を動かすことが出来ずに、白く染まったアスファルトの上に転がった。色を失った世界の淵に倒れこみ、僕は彼女のことしか考えられなくなっていた。
どうやったって、僕には、彼女に似合う靴をプレゼントしてやれない。彼女の世界で暮らすことはできても、あくまでも間借りしている鳥のようなもので、根を生やし共存していくことは望めない。どれほど手を伸ばしたところで、肌と肌が密着したところで、二つの原子が一つになることはなく、僕らは重なる度に孤独に苛まれていく。眠たくて仕方がない。
落ちる瞼の隙間から、見覚えのある黒がよぎった。
君は、何でこんな悲しく冷たい夜にすら、そのミュールを履くのだろうか。僕に近づく一歩で、左のミュールのヒールが折れる。
僕は知っている。靴箱の中には、埃をかぶったキャメル色のブーツが仕舞われていること。ハイヒールやスニーカーが、彼女の華奢な足を待っていることを。僕は知っている。彼女の爪がボロボロになっていることを。
それでも、彼女はそれを選ぶ。
彼女は僕を抱き上げると、月明かりのない、街灯までかすれて薄い夜を歩き出した。白い息を吐く彼女が、冷えた外気に埋もれた僕の温もりを受け取る。確かに脈打つ鼓動を確かめ、彼女は微笑んだ。僕は、自分の不甲斐なさよりも、彼女がまだこの感情を忘れていなかったことを幸せに思い、目を閉じた。
次に起きたとき、僕はふかふかの布団にくるまれており、隣には何もつけていない彼女が、僕をくるむような形で眠っていた。僕は布団をかきわけ、彼女の足にたどりついた。熟れた無花果のように腫れたそれは、ところどころ浅く切れており、透明の汁がにじみ出ていた。僕は、それを舌でなめた。何度も、何度も。自分にできることはこれくらいしかなかった。僕のために、冬の厳しさにあてられた彼女の足を、僕は日が昇り、彼女が僕を抱きしめるまでずっと。
彼女の心に居るために、僕にできることなんて、本当は何もなかったのに。
半年後、僕は死んだ。
軽い風邪から併発した病魔が、満月が欠けていく速度と同調するように、僕の命を削り取っていった。
そのときには、彼女の側には僕とは違う男が立っていた。履けなくなったミュールを修理に出した靴屋の主人だった。寡黙だけど、時折、無邪気な子供のように喜ぶ顔が可愛いと、彼女は僕に話してくれた。きっと、彼がその表情を浮かべるとき、彼女もそっくりな笑顔を作り、二人で手を繋いでいるのだろう。僕は自分の役目が終わりを告げたことを悟った。最後まで、僕にはあのミュールの代わりにはなれなかった。それでも、僕は幸せだった。
彼女は、僕のために泣いてくれた。
亡骸は灰となり、彼女の手によって絵の具へと生まれ変わった。僕の色は、白と黒の間だった。それが、絵筆に含まれキャンバスを軽やかに駆ける。彼女が描いたのは、あの日の情景だった。自分の愚かさに絶望した僕を、彼女が救いあげてくれたあの冬の日の。
深々と降り注ぐシンメトリーの結晶に縁取られた、彼女と僕。
僕が愛したひとりの女性と、彼女の掌を求める小さい黒猫が、そこに咲いていた。
了
新作を書きました。話の内容よりは、表現にこだわりました。
でも、あまりできていない。読書しないと!
さー、読んでくださいませ。
* * * * *
Mules on Muse
彼女は、いつも同じミュールを履いていた。
漆黒のミュール、彼岸花みたいに頼りなく細いヒールに甲の部分に大きなリボンがあしらわれている。光の反射によって、濃緑や紅蓮を帯び、満天の星のように散りばめられたラメがきらきらと輝いていた。
昔付き合っていた彼からのプレゼントだと、彼女は教えてくれた。そのとき、彼女の浮かべた表情を、僕はうまく説明することができない。懐かしんでいるわけでもなく、悲しんでいるのでもない。春が足早に過ぎ、桜の花びらの薄い桃色に、青々しい葉が混ざり合う様を惜しんでいるような雰囲気を醸し、それでも彼女の呼吸には苦しみが秘められているような気がして、僕は胸を締め付けられる思いだった。
彼女は絵を描くことを生業としていた。才能もあり、彼女の筆の通った白い空間には、それまでになかった小さな命が宿ったような、躍動的で活動的な色彩が生まれていた。
せめて、彼女に芸術の力がなく、一般の女性がそうであるように、朝の満員電車に揺られ、ディスプレイに文字を並べる作業や、ただただ繰り返される単純な肉体労働に従事しているのなら、これほどまでに、自分の足を飾る靴に執着しなくて済んだのかもしれない。
四季がめぐり、僕たちはともに同じ屋根の下で、お互いの名前を呼び合い、同じ空気を肺に満たしたとしても、彼女の心の片隅には、凛とした存在感を持つ百合のように、あのミュールがいつまでも咲いていた。
一緒に裸で眠り、いくつも触れ合ってきたというのに、僕には、そのミュールの代わりになれないと思い知ったとき、こみ上げてきた惨めさと貧しい気持ちに耐えられることが出来ず、僕はハダシで冬の世界に走り出した。
あてどなく、あてどなく。
息が上がり、降ってくる雪が体温をかすめとっていっても、地を這う霜が僕の爪先をつんざいて行こうとも、止まるという選択肢をいつまでも拒み、とにかく逃げたい衝動を抑えることができなかった。
不甲斐ない魂が涙を流していた。それは報われることも、忘れることもかなわずに、僕は遂に足を動かすことが出来ずに、白く染まったアスファルトの上に転がった。色を失った世界の淵に倒れこみ、僕は彼女のことしか考えられなくなっていた。
どうやったって、僕には、彼女に似合う靴をプレゼントしてやれない。彼女の世界で暮らすことはできても、あくまでも間借りしている鳥のようなもので、根を生やし共存していくことは望めない。どれほど手を伸ばしたところで、肌と肌が密着したところで、二つの原子が一つになることはなく、僕らは重なる度に孤独に苛まれていく。眠たくて仕方がない。
落ちる瞼の隙間から、見覚えのある黒がよぎった。
君は、何でこんな悲しく冷たい夜にすら、そのミュールを履くのだろうか。僕に近づく一歩で、左のミュールのヒールが折れる。
僕は知っている。靴箱の中には、埃をかぶったキャメル色のブーツが仕舞われていること。ハイヒールやスニーカーが、彼女の華奢な足を待っていることを。僕は知っている。彼女の爪がボロボロになっていることを。
それでも、彼女はそれを選ぶ。
彼女は僕を抱き上げると、月明かりのない、街灯までかすれて薄い夜を歩き出した。白い息を吐く彼女が、冷えた外気に埋もれた僕の温もりを受け取る。確かに脈打つ鼓動を確かめ、彼女は微笑んだ。僕は、自分の不甲斐なさよりも、彼女がまだこの感情を忘れていなかったことを幸せに思い、目を閉じた。
次に起きたとき、僕はふかふかの布団にくるまれており、隣には何もつけていない彼女が、僕をくるむような形で眠っていた。僕は布団をかきわけ、彼女の足にたどりついた。熟れた無花果のように腫れたそれは、ところどころ浅く切れており、透明の汁がにじみ出ていた。僕は、それを舌でなめた。何度も、何度も。自分にできることはこれくらいしかなかった。僕のために、冬の厳しさにあてられた彼女の足を、僕は日が昇り、彼女が僕を抱きしめるまでずっと。
彼女の心に居るために、僕にできることなんて、本当は何もなかったのに。
半年後、僕は死んだ。
軽い風邪から併発した病魔が、満月が欠けていく速度と同調するように、僕の命を削り取っていった。
そのときには、彼女の側には僕とは違う男が立っていた。履けなくなったミュールを修理に出した靴屋の主人だった。寡黙だけど、時折、無邪気な子供のように喜ぶ顔が可愛いと、彼女は僕に話してくれた。きっと、彼がその表情を浮かべるとき、彼女もそっくりな笑顔を作り、二人で手を繋いでいるのだろう。僕は自分の役目が終わりを告げたことを悟った。最後まで、僕にはあのミュールの代わりにはなれなかった。それでも、僕は幸せだった。
彼女は、僕のために泣いてくれた。
亡骸は灰となり、彼女の手によって絵の具へと生まれ変わった。僕の色は、白と黒の間だった。それが、絵筆に含まれキャンバスを軽やかに駆ける。彼女が描いたのは、あの日の情景だった。自分の愚かさに絶望した僕を、彼女が救いあげてくれたあの冬の日の。
深々と降り注ぐシンメトリーの結晶に縁取られた、彼女と僕。
僕が愛したひとりの女性と、彼女の掌を求める小さい黒猫が、そこに咲いていた。
了