第9話 迷 宮
(4)
ヤン・ギョンヒによりソウルに送り込まれたミシェルは、迷った挙句、その意向通りVARIOUSのオファーにのることにした。
MUSEが提示してきた莫大な契約金も捨て難かったが、個人的な好奇心がそれに勝ったのだ。
興味の矛先は、勿論、イ・ミンチョルという男だ。
ギョンヒの目的は、VARIOUSに致命的な打撃を与える手立てを模索することにあるらしい。
何か深い因縁があるようだが、それはミシェルには無関係だしどうでもいい。
ただ、ギョンヒも、そしてライブハウスの店主さえも特別視するイ・ミンチョルという音楽プロデューサーに、深く関わってみたかった。
『・・・なんだったら、色仕掛けで攻めてみたら?』
『落とすのは難しいと思うけれど』
あの時のヤン・ギョンヒの笑みは、如何にも「貴女には無理よ」と言いたげな、皮肉に満ちたものだった。
それが癪に障る。
これまで、自分が選んだ男は全て落としてきた。
誰でも知っているハリウッド・スター、NBAやNFLの有名選手とも何回も寝たことがある。
皆、私を「素晴らしい」と称え、「いい女だ」「溺れそうだ」と寝物語に囁いたではないか。
(私はまだ若い・・・)
(人生はこれからよ・・・)
ハン・ギチャンと仮契約を済ませたミシェルは、予定通りイ社長を引きずり出す企てを実行した。
VARIOUSを奇襲すると、社長のイ・ミンチョルは外出中で会議室に通された。
「今日は冷えますね・・・」
そんな差し障りのない言葉と共に、女がホットコーヒーを運んでくる。
「そうね」
ぞんざいに応え、コーヒーを一口飲むと窓際に立った。
大学路(テハンノ)では顔が知られているミシェルも、街へ出れば一般人だ。
しかし、その派手な容姿と小柄ながらもメリハリのあるボディは、フェイクファーのコートを纏っているとはいえ人目を引く。
現に、明洞からこの雑居ビルまでブラブラと歩いてきた最中にも、数人の男に声をかけられた。
ナンパなどは日常茶飯事だ。
中には名刺を押し付けてくる者もいる。
芸能事務所か水商売のスカウトか見当はつかないが、つまりそれだけ注目を集めているというのは自尊心が満たされる。
両親を亡くし、恵まれた環境から一転して下層社会で生きることになった彼女は、寂寥感を何よりも懼れていた。
心を病んでいるのかもしれない。
「私、イ社長に育てて頂きたいんです」
「私の担当はイ社長にお願いしたいの」
「じゃないと、VARIOUSとの仮契約は破棄します」
「他の大手の方が、条件は断然いいですし・・・」
それが、ミシェルが矢継ぎ早に投げかけたミンチョルへの言葉だった。
「し、しかし、ミシェルさん、社長は、その、社長ですから、社長の仕事がありますし・・・」
「なかなか・・・付きっきりというわけには・・・」
キュソクもキチャンも困ったように、ミンチョルを見やる。
「イ社長、如何です?」
「・・・」
「私の条件を呑んで下さらないのなら、話はこれで終わりよ」
立ち上がろうとするミシェルを、「まあまあ・・・」とキュソクが宥めながら座らせた。
キチャンは眉を顰め、視線を社長へと送る。
「・・・」
ミンチョルはその視線を受け入れつつ、正面のミシェルを眺めた。
この女を間近で見るのは初めてだったが、その人目を引く顔立ちは想像以上だ。
全身のバランスもいい。
歌唱力は以前から高評価していた。
そして、この押しの強い真っ直ぐな性格が、今のミンチョルには判り易く好感が持てる。
判り難い女は扱いづらい。
ミシェルは小振りのショルダーバッグから煙草を取り出し、口に銜(くわ)える。
隣りに座るキュソクが、慌ててズボンのポケットからライターを取り出した。
火をつける瞬間、ミンチョルの声が会議室に響いた。
「仮にもトップを目指すアーティストが、喫煙とは不謹慎ですね」
ミシェルの顔がハッと輝く。
「・・・こちらの提示した条件を、ミシェル・ハーンが受け入れてくれるのは奇跡に近いでしょう」
「社長・・・?」
「私でよければ、貴女のプロデュ-スは全面的に引き受けます」
ミンチョルは椅子から立ち上がるとミシェルの席へ歩み寄り、右手を差し出した。
煙草を放り投げた彼女は、差し出された手を無視して大仰に抱きつく。
そして、ミンチョルの頬に口付けた。
キチャンとキョソクはあんぐりと口を開け、呆然とその様子を見つめている。
「・・・ミシェルさん、もっと自分の立場を自覚して下さい」
ミンチョルは女の腕を掴み、そっと引き剥がす。
「どういうこと?」
「カメラがどこから狙っているか・・・」「スキャンダルはご法度です」
「ええ、わかってるわ!でも今日は特別でしょう??」
ミシェルはミンチョルにベッタリと寄り添ったまま、「ねぇ?」と傍らの二人にウィンクをする。
キチャンとキュソクは顔を見合わせ、仕方なく頷いた。
「あ、雪だわ・・・!」
ミシェルがミンチョルの腕に手を絡ませながら、強引に窓際に引っ張る。
「見てっ」「初雪よ・・・!」
「・・・」
「道理で今日は冷えると思ったわ」
ちらちらと宙を舞う、白く儚いもの。
窓ガラスに触れたそれは、瞬く間に消えてしまう。
「・・・」
(ヨンスは、無事、家に戻っただろうか・・・?)
ミンチョルの顔が僅かに歪む。
「・・・つ、積もりますかね、先輩?」
「い、いや、この分ならすぐ止むだろう・・・」
「明日の朝が大変だなぁ」
「ああ・・・路面が凍結するのは間違いない」「気をつけないと・・・」
キチャンとキュソクが、ピッタリと寄り添う二人の後姿を意識しながら会話を続ける。
このシュチエーションに沈黙は決して相応しくないということを、二人はちゃんと認識していた。
「ねぇ・・・イ社長?」
「・・・なんでしょう」
「今日は私のVARIOUS入りが正式に決まった日よ」
「・・・」
「初雪も降ったし、なんだか気分がいいわ」
「・・・」
「お祝いに、何処か楽しい場所へ連れて行って!」
ボリュームのある胸元を腕に押し付け、上目遣いの視線に窄(すぼ)めた赤い唇。
自分を知り尽くしている女が、その魅力を最大限に活かして媚を売る。
ミシェル・ハーンは、噂に違(たが)わぬなかなかの女だった。
無論、いつものミンチョルならば、適当にあしらい終わったはずだ。
キチャンとキュソクにご機嫌取りを命じ、自分はデスクワークに没頭しただろう。
しかし、今日の彼には憂さ晴らしが必要だ。
「では・・・行きましょうか?」
キチャンとキュソクが吃驚仰天し、顔を見合わせる。
「キュソクさん、どこか・・・」「そうだな、評判のいい話題のクラブのVIPルームを押さえてください」
「わ、わかりました!」
「・・・キチャンさん、ミシェルさんを応接室にご案内して」
「はいっ」「ミシェルさん、どうぞこちらへ・・・」
本来なら有り得ない流れになっている。
ミンチョルは、こと契約に関して妥協することはない。
決して所属歌手にイニシアチブを取らせることはなかった。
新人なら尚更だ。
全て、自分の計画通りに動かす。
それが、ミシェル・ハーンに対して、自分がプロデュースすると自ら宣言した。
これは白旗を揚げたも同然の行為だ。
なにが彼をそうさせたのか・・・?
“大学路(テハンノ)の小悪魔”ミシェル・ハーンは、こうしてVARIOUSの心臓部へ入り込むことに成功した。
アパートの最寄りの駅を降り立った時、路面を薄っすらと覆う白いものを目にして、ヨンスは初雪が降ったことを悟った。
「あ・・・ぁ」
なんとなく残念な気持ちになる。
冬の初めに舞い降りる雪は、自分の目で確かめたい。
(アトリエに行ってなかったら、見れたのに・・・)
ソン先生が恨めしい。
今日は水曜日で、本来ならアトリエに行く日ではない。
午後の授業が休講になったことは、数日前に掲示板で知った。
それで、早く家に帰って、クリスマスの晩餐の献立を考えようと思い立った。
(本屋さんに立ち寄って、最新の料理本をチェックしてみようかしら?)
今年のクリスマスがどういう予定なのか、夫からは何も聞いていない。
誕生日ということもあり、自分から予定を根掘り葉掘り尋ねるのはなんとなく気が引ける。
でも、あのひとのことだ。
今年こそは時間を作ってくれるのではないか、と秘かに期待している。
なにせ、昨年は「白い冬のコンサート」で一週間、不在だったし、その前の年は入院中だ。
副作用との戦いの真っ最中で、クリスマスどころではなかった。
(「レストランで食事をしよう」「もう予約したよ」あのひとはそう言うかもしれない)
(でも、自宅でゆっくり寛いだ方がいいわ・・・)
(仕事で疲れているはずだし)
(いつも外食ばかりなんだから・・・)
(たまには私の手料理を食べて欲しい)
(ミンジを呼んで、久しぶりの家族団欒ができれば最高ね・・・)
午前中の授業を終えワクワクしながら歩いていたら、キャンパスの内庭のところでソン先生に声をかけられた。
『今日、午後は休講でしょう?』
『え?・・・あ、はい』
(なぜ、知っているのかしら・・・?)
『じゃあ、これから二時間だけ・・・いいかな?』
『えっ?』
『実は明後日も、夕方から急に会議が入っちゃって・・・』
『まあ・・・』
『描ける時に描いておかないとね』
そう言うと、例の見惚れるよなウィンクをする。
『・・・』
突然の申し出にヨンスは困惑したが、事情が事情なだけに仕方がない。
近頃はモデルをしているという自覚が強く、キスマークのチェックも怠らないしブラもストラップレス以外は身につけないようにしている。
従って、今日、あの露出の多めな格好をしても、恥ずかしい思いをすることはないだろう。
『・・・わかりました』
『よかった』『じゃあ、僕も今日はこれで終わりだから、一緒に行きましょう』
いつもは別々にアパートに赴く二人は、この日に限って一緒にタクシーに乗った。
まさかその様子を全て夫に見られていたとは、ヨンスは夢にも思っていない。
「ヨンス」
翌朝、ぐっすりと寝入っている妻に声をかけた。
しかし、返答はない。
「・・・」
毎朝、彼女は六時に起きる。
今は未だ五時半だ。
つまり目覚めるまで、あと三十分ある。
「・・・」
ミンチョルは疲労の滲み出た表情だ。
それはそうだろう。
昨日の光景が脳裏から離れず、精神的に酷いダメージを受けたまま現在に至っている。
気晴らしにと、昨夜はミシェルやVARIOUSの社員数人と久しぶりのクラブへ繰り出し、その後も場所を三回変え、しこたま飲んだ。
メチャクチャに酔っ払い、全てを忘れたかった。
しかし、飲んでも飲んでも頭は冴えわたる一方で、結局、明け方にタクシーで帰宅した。
近頃、風呂は保温になっていることが多い。
そんな日は、たいてい食卓にメモが置いてある。
《 シャワーだけじゃ駄目よ 湯船に浸かってね ヨンス 》
それを目にすると、妻の愛情を実感し胸が熱くなる。
仕事の疲れが癒え、駐車場からアパートまでの道のりで冷え切った身体もほんわかと温まった。
メモはたいてい折り畳んで長財布にしまう。
上着のポケットに入れたのでは、妻に捨てられてしまう恐れがあるからだ。
(今、いったい幾つの紙切れが財布の中にあるだろう・・・?)
しかし、昨夜はそれを無視した。
湯船の湯を流し、シャワーだけ浴びて布団に潜り込んだ。
といっても、つい一時間程前のことだ。
一睡もできない。
目を閉じると、途端にあの時の光景が蘇ってくる。
「・・・っ」
ミンチョルは頭を抱えた。
有り得ない。
絶対にあり得ない。
ヨンスが自分以外の男に心を奪われるなどということは、絶対にない。
そう思っている。
自分が単に誤解しているだけだ。
(そうだ・・・)
ヨンスを試してみよう。
今、自分が気になっていることを、洗いざらいぶつけてみよう。
その時の彼女の反応をよく見てみよう。
そうすれば、これは誤解だということがすぐにわかるはずだ。
ヨンスが自分に抗うことは決してない。
(そう・・・)
(ヨンスにとっては、僕が最優先のはずじゃないか・・・!)
「あなた・・・?」
「え・・・」
「どうしたの?ボンヤリして・・・」
「・・・いや、別に」
「そうだわ」「昨日は初雪だったのよ」
「・・・ああ」
「私、見れなかったの」
「・・・なぜ?」
「地下鉄の中だったみたい」「本当に残念だわ」
「・・・」
「あなたは?」
「え・・・?」
「初雪が舞ったの、一瞬でも見ることが出来た?」
ミンチョルの顔が引きつる。
「あ、ああ・・・」「事務所の窓から」
「いいわねぇ・・・」
「誰と見たの?」などと、この妻が言うはずもない。
問うてくれれば、微かな疾(やま)しさを吐き出すことも出来るのに。
「・・・」
ミンチョルは無言のまま、コーヒーを啜る。
日常の、なんということもない朝の光景だった。
ヨンスは、心底、羨ましそうに溜め息をつく。
その表情に、うしろめたさなど微塵も感じられない。
だが、ミンチョルは、無垢な妻の表情を窺う余裕を持ち合わせていなかった。
胸中には、得体の知れぬ激情が渦巻いている。
カップを置き、意を決して口を開く。
「あの・・・さ」
「・・・なぁに?」
ヨンスはパンにバターを薄く塗っている。
「髪、戻さないか?」
ヨンスの手が止まった。
「え・・・?」
「・・・」
「・・・もしかして、本当は好みじゃなかった?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「・・・?」
「前の方がいい」
「・・・そう・・・」
『じゃあ、今日、ヘアサロンへ行ってくるわ』
そう言ってくれたら、ミンチョルはそれで満足だった。
『いや、まだいいよ』『せっかく素敵なんだから・・・』
それで、この話は終わったはずだ。
そして、これ以上、傷つくこともなかった。
ところがヨンスは、こう言った。
「でも・・・皆、似合うって言ってくれるわ」
(皆・・・?)
ミンチョルは心のうちで呟いた。
(皆じゃなくて、“ソン・ジフン”だろう・・・?)
「それに、ほら、勿体ないでしょう?」
「・・・」
「パーマとカラーリングって、結構、高いのよ」
「・・・」
「だから・・・」
「・・・」
「・・・あの、来月になったら、美容室に行ってくるわ」
(もう、遅いよ・・・)
「・・・それでいい?」
「別に、今のままで構わない」
「・・・?」
ミンチョルは「もう行くよ」と呟くと、ヨンスに視線を合わせることなく席を立った。
(4)
ヤン・ギョンヒによりソウルに送り込まれたミシェルは、迷った挙句、その意向通りVARIOUSのオファーにのることにした。
MUSEが提示してきた莫大な契約金も捨て難かったが、個人的な好奇心がそれに勝ったのだ。
興味の矛先は、勿論、イ・ミンチョルという男だ。
ギョンヒの目的は、VARIOUSに致命的な打撃を与える手立てを模索することにあるらしい。
何か深い因縁があるようだが、それはミシェルには無関係だしどうでもいい。
ただ、ギョンヒも、そしてライブハウスの店主さえも特別視するイ・ミンチョルという音楽プロデューサーに、深く関わってみたかった。
『・・・なんだったら、色仕掛けで攻めてみたら?』
『落とすのは難しいと思うけれど』
あの時のヤン・ギョンヒの笑みは、如何にも「貴女には無理よ」と言いたげな、皮肉に満ちたものだった。
それが癪に障る。
これまで、自分が選んだ男は全て落としてきた。
誰でも知っているハリウッド・スター、NBAやNFLの有名選手とも何回も寝たことがある。
皆、私を「素晴らしい」と称え、「いい女だ」「溺れそうだ」と寝物語に囁いたではないか。
(私はまだ若い・・・)
(人生はこれからよ・・・)
ハン・ギチャンと仮契約を済ませたミシェルは、予定通りイ社長を引きずり出す企てを実行した。
VARIOUSを奇襲すると、社長のイ・ミンチョルは外出中で会議室に通された。
「今日は冷えますね・・・」
そんな差し障りのない言葉と共に、女がホットコーヒーを運んでくる。
「そうね」
ぞんざいに応え、コーヒーを一口飲むと窓際に立った。
大学路(テハンノ)では顔が知られているミシェルも、街へ出れば一般人だ。
しかし、その派手な容姿と小柄ながらもメリハリのあるボディは、フェイクファーのコートを纏っているとはいえ人目を引く。
現に、明洞からこの雑居ビルまでブラブラと歩いてきた最中にも、数人の男に声をかけられた。
ナンパなどは日常茶飯事だ。
中には名刺を押し付けてくる者もいる。
芸能事務所か水商売のスカウトか見当はつかないが、つまりそれだけ注目を集めているというのは自尊心が満たされる。
両親を亡くし、恵まれた環境から一転して下層社会で生きることになった彼女は、寂寥感を何よりも懼れていた。
心を病んでいるのかもしれない。
「私、イ社長に育てて頂きたいんです」
「私の担当はイ社長にお願いしたいの」
「じゃないと、VARIOUSとの仮契約は破棄します」
「他の大手の方が、条件は断然いいですし・・・」
それが、ミシェルが矢継ぎ早に投げかけたミンチョルへの言葉だった。
「し、しかし、ミシェルさん、社長は、その、社長ですから、社長の仕事がありますし・・・」
「なかなか・・・付きっきりというわけには・・・」
キュソクもキチャンも困ったように、ミンチョルを見やる。
「イ社長、如何です?」
「・・・」
「私の条件を呑んで下さらないのなら、話はこれで終わりよ」
立ち上がろうとするミシェルを、「まあまあ・・・」とキュソクが宥めながら座らせた。
キチャンは眉を顰め、視線を社長へと送る。
「・・・」
ミンチョルはその視線を受け入れつつ、正面のミシェルを眺めた。
この女を間近で見るのは初めてだったが、その人目を引く顔立ちは想像以上だ。
全身のバランスもいい。
歌唱力は以前から高評価していた。
そして、この押しの強い真っ直ぐな性格が、今のミンチョルには判り易く好感が持てる。
判り難い女は扱いづらい。
ミシェルは小振りのショルダーバッグから煙草を取り出し、口に銜(くわ)える。
隣りに座るキュソクが、慌ててズボンのポケットからライターを取り出した。
火をつける瞬間、ミンチョルの声が会議室に響いた。
「仮にもトップを目指すアーティストが、喫煙とは不謹慎ですね」
ミシェルの顔がハッと輝く。
「・・・こちらの提示した条件を、ミシェル・ハーンが受け入れてくれるのは奇跡に近いでしょう」
「社長・・・?」
「私でよければ、貴女のプロデュ-スは全面的に引き受けます」
ミンチョルは椅子から立ち上がるとミシェルの席へ歩み寄り、右手を差し出した。
煙草を放り投げた彼女は、差し出された手を無視して大仰に抱きつく。
そして、ミンチョルの頬に口付けた。
キチャンとキョソクはあんぐりと口を開け、呆然とその様子を見つめている。
「・・・ミシェルさん、もっと自分の立場を自覚して下さい」
ミンチョルは女の腕を掴み、そっと引き剥がす。
「どういうこと?」
「カメラがどこから狙っているか・・・」「スキャンダルはご法度です」
「ええ、わかってるわ!でも今日は特別でしょう??」
ミシェルはミンチョルにベッタリと寄り添ったまま、「ねぇ?」と傍らの二人にウィンクをする。
キチャンとキュソクは顔を見合わせ、仕方なく頷いた。
「あ、雪だわ・・・!」
ミシェルがミンチョルの腕に手を絡ませながら、強引に窓際に引っ張る。
「見てっ」「初雪よ・・・!」
「・・・」
「道理で今日は冷えると思ったわ」
ちらちらと宙を舞う、白く儚いもの。
窓ガラスに触れたそれは、瞬く間に消えてしまう。
「・・・」
(ヨンスは、無事、家に戻っただろうか・・・?)
ミンチョルの顔が僅かに歪む。
「・・・つ、積もりますかね、先輩?」
「い、いや、この分ならすぐ止むだろう・・・」
「明日の朝が大変だなぁ」
「ああ・・・路面が凍結するのは間違いない」「気をつけないと・・・」
キチャンとキュソクが、ピッタリと寄り添う二人の後姿を意識しながら会話を続ける。
このシュチエーションに沈黙は決して相応しくないということを、二人はちゃんと認識していた。
「ねぇ・・・イ社長?」
「・・・なんでしょう」
「今日は私のVARIOUS入りが正式に決まった日よ」
「・・・」
「初雪も降ったし、なんだか気分がいいわ」
「・・・」
「お祝いに、何処か楽しい場所へ連れて行って!」
ボリュームのある胸元を腕に押し付け、上目遣いの視線に窄(すぼ)めた赤い唇。
自分を知り尽くしている女が、その魅力を最大限に活かして媚を売る。
ミシェル・ハーンは、噂に違(たが)わぬなかなかの女だった。
無論、いつものミンチョルならば、適当にあしらい終わったはずだ。
キチャンとキュソクにご機嫌取りを命じ、自分はデスクワークに没頭しただろう。
しかし、今日の彼には憂さ晴らしが必要だ。
「では・・・行きましょうか?」
キチャンとキュソクが吃驚仰天し、顔を見合わせる。
「キュソクさん、どこか・・・」「そうだな、評判のいい話題のクラブのVIPルームを押さえてください」
「わ、わかりました!」
「・・・キチャンさん、ミシェルさんを応接室にご案内して」
「はいっ」「ミシェルさん、どうぞこちらへ・・・」
本来なら有り得ない流れになっている。
ミンチョルは、こと契約に関して妥協することはない。
決して所属歌手にイニシアチブを取らせることはなかった。
新人なら尚更だ。
全て、自分の計画通りに動かす。
それが、ミシェル・ハーンに対して、自分がプロデュースすると自ら宣言した。
これは白旗を揚げたも同然の行為だ。
なにが彼をそうさせたのか・・・?
“大学路(テハンノ)の小悪魔”ミシェル・ハーンは、こうしてVARIOUSの心臓部へ入り込むことに成功した。
アパートの最寄りの駅を降り立った時、路面を薄っすらと覆う白いものを目にして、ヨンスは初雪が降ったことを悟った。
「あ・・・ぁ」
なんとなく残念な気持ちになる。
冬の初めに舞い降りる雪は、自分の目で確かめたい。
(アトリエに行ってなかったら、見れたのに・・・)
ソン先生が恨めしい。
今日は水曜日で、本来ならアトリエに行く日ではない。
午後の授業が休講になったことは、数日前に掲示板で知った。
それで、早く家に帰って、クリスマスの晩餐の献立を考えようと思い立った。
(本屋さんに立ち寄って、最新の料理本をチェックしてみようかしら?)
今年のクリスマスがどういう予定なのか、夫からは何も聞いていない。
誕生日ということもあり、自分から予定を根掘り葉掘り尋ねるのはなんとなく気が引ける。
でも、あのひとのことだ。
今年こそは時間を作ってくれるのではないか、と秘かに期待している。
なにせ、昨年は「白い冬のコンサート」で一週間、不在だったし、その前の年は入院中だ。
副作用との戦いの真っ最中で、クリスマスどころではなかった。
(「レストランで食事をしよう」「もう予約したよ」あのひとはそう言うかもしれない)
(でも、自宅でゆっくり寛いだ方がいいわ・・・)
(仕事で疲れているはずだし)
(いつも外食ばかりなんだから・・・)
(たまには私の手料理を食べて欲しい)
(ミンジを呼んで、久しぶりの家族団欒ができれば最高ね・・・)
午前中の授業を終えワクワクしながら歩いていたら、キャンパスの内庭のところでソン先生に声をかけられた。
『今日、午後は休講でしょう?』
『え?・・・あ、はい』
(なぜ、知っているのかしら・・・?)
『じゃあ、これから二時間だけ・・・いいかな?』
『えっ?』
『実は明後日も、夕方から急に会議が入っちゃって・・・』
『まあ・・・』
『描ける時に描いておかないとね』
そう言うと、例の見惚れるよなウィンクをする。
『・・・』
突然の申し出にヨンスは困惑したが、事情が事情なだけに仕方がない。
近頃はモデルをしているという自覚が強く、キスマークのチェックも怠らないしブラもストラップレス以外は身につけないようにしている。
従って、今日、あの露出の多めな格好をしても、恥ずかしい思いをすることはないだろう。
『・・・わかりました』
『よかった』『じゃあ、僕も今日はこれで終わりだから、一緒に行きましょう』
いつもは別々にアパートに赴く二人は、この日に限って一緒にタクシーに乗った。
まさかその様子を全て夫に見られていたとは、ヨンスは夢にも思っていない。
「ヨンス」
翌朝、ぐっすりと寝入っている妻に声をかけた。
しかし、返答はない。
「・・・」
毎朝、彼女は六時に起きる。
今は未だ五時半だ。
つまり目覚めるまで、あと三十分ある。
「・・・」
ミンチョルは疲労の滲み出た表情だ。
それはそうだろう。
昨日の光景が脳裏から離れず、精神的に酷いダメージを受けたまま現在に至っている。
気晴らしにと、昨夜はミシェルやVARIOUSの社員数人と久しぶりのクラブへ繰り出し、その後も場所を三回変え、しこたま飲んだ。
メチャクチャに酔っ払い、全てを忘れたかった。
しかし、飲んでも飲んでも頭は冴えわたる一方で、結局、明け方にタクシーで帰宅した。
近頃、風呂は保温になっていることが多い。
そんな日は、たいてい食卓にメモが置いてある。
《 シャワーだけじゃ駄目よ 湯船に浸かってね ヨンス 》
それを目にすると、妻の愛情を実感し胸が熱くなる。
仕事の疲れが癒え、駐車場からアパートまでの道のりで冷え切った身体もほんわかと温まった。
メモはたいてい折り畳んで長財布にしまう。
上着のポケットに入れたのでは、妻に捨てられてしまう恐れがあるからだ。
(今、いったい幾つの紙切れが財布の中にあるだろう・・・?)
しかし、昨夜はそれを無視した。
湯船の湯を流し、シャワーだけ浴びて布団に潜り込んだ。
といっても、つい一時間程前のことだ。
一睡もできない。
目を閉じると、途端にあの時の光景が蘇ってくる。
「・・・っ」
ミンチョルは頭を抱えた。
有り得ない。
絶対にあり得ない。
ヨンスが自分以外の男に心を奪われるなどということは、絶対にない。
そう思っている。
自分が単に誤解しているだけだ。
(そうだ・・・)
ヨンスを試してみよう。
今、自分が気になっていることを、洗いざらいぶつけてみよう。
その時の彼女の反応をよく見てみよう。
そうすれば、これは誤解だということがすぐにわかるはずだ。
ヨンスが自分に抗うことは決してない。
(そう・・・)
(ヨンスにとっては、僕が最優先のはずじゃないか・・・!)
「あなた・・・?」
「え・・・」
「どうしたの?ボンヤリして・・・」
「・・・いや、別に」
「そうだわ」「昨日は初雪だったのよ」
「・・・ああ」
「私、見れなかったの」
「・・・なぜ?」
「地下鉄の中だったみたい」「本当に残念だわ」
「・・・」
「あなたは?」
「え・・・?」
「初雪が舞ったの、一瞬でも見ることが出来た?」
ミンチョルの顔が引きつる。
「あ、ああ・・・」「事務所の窓から」
「いいわねぇ・・・」
「誰と見たの?」などと、この妻が言うはずもない。
問うてくれれば、微かな疾(やま)しさを吐き出すことも出来るのに。
「・・・」
ミンチョルは無言のまま、コーヒーを啜る。
日常の、なんということもない朝の光景だった。
ヨンスは、心底、羨ましそうに溜め息をつく。
その表情に、うしろめたさなど微塵も感じられない。
だが、ミンチョルは、無垢な妻の表情を窺う余裕を持ち合わせていなかった。
胸中には、得体の知れぬ激情が渦巻いている。
カップを置き、意を決して口を開く。
「あの・・・さ」
「・・・なぁに?」
ヨンスはパンにバターを薄く塗っている。
「髪、戻さないか?」
ヨンスの手が止まった。
「え・・・?」
「・・・」
「・・・もしかして、本当は好みじゃなかった?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「・・・?」
「前の方がいい」
「・・・そう・・・」
『じゃあ、今日、ヘアサロンへ行ってくるわ』
そう言ってくれたら、ミンチョルはそれで満足だった。
『いや、まだいいよ』『せっかく素敵なんだから・・・』
それで、この話は終わったはずだ。
そして、これ以上、傷つくこともなかった。
ところがヨンスは、こう言った。
「でも・・・皆、似合うって言ってくれるわ」
(皆・・・?)
ミンチョルは心のうちで呟いた。
(皆じゃなくて、“ソン・ジフン”だろう・・・?)
「それに、ほら、勿体ないでしょう?」
「・・・」
「パーマとカラーリングって、結構、高いのよ」
「・・・」
「だから・・・」
「・・・」
「・・・あの、来月になったら、美容室に行ってくるわ」
(もう、遅いよ・・・)
「・・・それでいい?」
「別に、今のままで構わない」
「・・・?」
ミンチョルは「もう行くよ」と呟くと、ヨンスに視線を合わせることなく席を立った。