美しき日々 Beautiful Days Epilogue

韓国ドラマ「美しき日々」のその後のストーリーを創作してみました♪

第9話(4)

2007-02-28 | Weblog
第9話 迷 宮

(4)

ヤン・ギョンヒによりソウルに送り込まれたミシェルは、迷った挙句、その意向通りVARIOUSのオファーにのることにした。
MUSEが提示してきた莫大な契約金も捨て難かったが、個人的な好奇心がそれに勝ったのだ。
興味の矛先は、勿論、イ・ミンチョルという男だ。
ギョンヒの目的は、VARIOUSに致命的な打撃を与える手立てを模索することにあるらしい。
何か深い因縁があるようだが、それはミシェルには無関係だしどうでもいい。
ただ、ギョンヒも、そしてライブハウスの店主さえも特別視するイ・ミンチョルという音楽プロデューサーに、深く関わってみたかった。


『・・・なんだったら、色仕掛けで攻めてみたら?』
『落とすのは難しいと思うけれど』


あの時のヤン・ギョンヒの笑みは、如何にも「貴女には無理よ」と言いたげな、皮肉に満ちたものだった。
それが癪に障る。
これまで、自分が選んだ男は全て落としてきた。
誰でも知っているハリウッド・スター、NBAやNFLの有名選手とも何回も寝たことがある。
皆、私を「素晴らしい」と称え、「いい女だ」「溺れそうだ」と寝物語に囁いたではないか。

(私はまだ若い・・・)
(人生はこれからよ・・・)



ハン・ギチャンと仮契約を済ませたミシェルは、予定通りイ社長を引きずり出す企てを実行した。
VARIOUSを奇襲すると、社長のイ・ミンチョルは外出中で会議室に通された。

「今日は冷えますね・・・」

そんな差し障りのない言葉と共に、女がホットコーヒーを運んでくる。

「そうね」

ぞんざいに応え、コーヒーを一口飲むと窓際に立った。


大学路(テハンノ)では顔が知られているミシェルも、街へ出れば一般人だ。
しかし、その派手な容姿と小柄ながらもメリハリのあるボディは、フェイクファーのコートを纏っているとはいえ人目を引く。
現に、明洞からこの雑居ビルまでブラブラと歩いてきた最中にも、数人の男に声をかけられた。
ナンパなどは日常茶飯事だ。
中には名刺を押し付けてくる者もいる。
芸能事務所か水商売のスカウトか見当はつかないが、つまりそれだけ注目を集めているというのは自尊心が満たされる。

両親を亡くし、恵まれた環境から一転して下層社会で生きることになった彼女は、寂寥感を何よりも懼れていた。
心を病んでいるのかもしれない。



「私、イ社長に育てて頂きたいんです」

「私の担当はイ社長にお願いしたいの」

「じゃないと、VARIOUSとの仮契約は破棄します」

「他の大手の方が、条件は断然いいですし・・・」

それが、ミシェルが矢継ぎ早に投げかけたミンチョルへの言葉だった。


「し、しかし、ミシェルさん、社長は、その、社長ですから、社長の仕事がありますし・・・」
「なかなか・・・付きっきりというわけには・・・」

キュソクもキチャンも困ったように、ミンチョルを見やる。

「イ社長、如何です?」
「・・・」
「私の条件を呑んで下さらないのなら、話はこれで終わりよ」

立ち上がろうとするミシェルを、「まあまあ・・・」とキュソクが宥めながら座らせた。
キチャンは眉を顰め、視線を社長へと送る。

「・・・」

ミンチョルはその視線を受け入れつつ、正面のミシェルを眺めた。


この女を間近で見るのは初めてだったが、その人目を引く顔立ちは想像以上だ。
全身のバランスもいい。
歌唱力は以前から高評価していた。
そして、この押しの強い真っ直ぐな性格が、今のミンチョルには判り易く好感が持てる。
判り難い女は扱いづらい。


ミシェルは小振りのショルダーバッグから煙草を取り出し、口に銜(くわ)える。
隣りに座るキュソクが、慌ててズボンのポケットからライターを取り出した。

火をつける瞬間、ミンチョルの声が会議室に響いた。

「仮にもトップを目指すアーティストが、喫煙とは不謹慎ですね」

ミシェルの顔がハッと輝く。

「・・・こちらの提示した条件を、ミシェル・ハーンが受け入れてくれるのは奇跡に近いでしょう」
「社長・・・?」
「私でよければ、貴女のプロデュ-スは全面的に引き受けます」

ミンチョルは椅子から立ち上がるとミシェルの席へ歩み寄り、右手を差し出した。

煙草を放り投げた彼女は、差し出された手を無視して大仰に抱きつく。
そして、ミンチョルの頬に口付けた。

キチャンとキョソクはあんぐりと口を開け、呆然とその様子を見つめている。


「・・・ミシェルさん、もっと自分の立場を自覚して下さい」

ミンチョルは女の腕を掴み、そっと引き剥がす。

「どういうこと?」
「カメラがどこから狙っているか・・・」「スキャンダルはご法度です」
「ええ、わかってるわ!でも今日は特別でしょう??」

ミシェルはミンチョルにベッタリと寄り添ったまま、「ねぇ?」と傍らの二人にウィンクをする。
キチャンとキュソクは顔を見合わせ、仕方なく頷いた。


「あ、雪だわ・・・!」

ミシェルがミンチョルの腕に手を絡ませながら、強引に窓際に引っ張る。

「見てっ」「初雪よ・・・!」
「・・・」
「道理で今日は冷えると思ったわ」


ちらちらと宙を舞う、白く儚いもの。
窓ガラスに触れたそれは、瞬く間に消えてしまう。

「・・・」

(ヨンスは、無事、家に戻っただろうか・・・?)

ミンチョルの顔が僅かに歪む。


「・・・つ、積もりますかね、先輩?」
「い、いや、この分ならすぐ止むだろう・・・」
「明日の朝が大変だなぁ」
「ああ・・・路面が凍結するのは間違いない」「気をつけないと・・・」

キチャンとキュソクが、ピッタリと寄り添う二人の後姿を意識しながら会話を続ける。
このシュチエーションに沈黙は決して相応しくないということを、二人はちゃんと認識していた。


「ねぇ・・・イ社長?」
「・・・なんでしょう」
「今日は私のVARIOUS入りが正式に決まった日よ」
「・・・」
「初雪も降ったし、なんだか気分がいいわ」
「・・・」
「お祝いに、何処か楽しい場所へ連れて行って!」


ボリュームのある胸元を腕に押し付け、上目遣いの視線に窄(すぼ)めた赤い唇。
自分を知り尽くしている女が、その魅力を最大限に活かして媚を売る。
ミシェル・ハーンは、噂に違(たが)わぬなかなかの女だった。

無論、いつものミンチョルならば、適当にあしらい終わったはずだ。
キチャンとキュソクにご機嫌取りを命じ、自分はデスクワークに没頭しただろう。

しかし、今日の彼には憂さ晴らしが必要だ。


「では・・・行きましょうか?」

キチャンとキュソクが吃驚仰天し、顔を見合わせる。

「キュソクさん、どこか・・・」「そうだな、評判のいい話題のクラブのVIPルームを押さえてください」
「わ、わかりました!」
「・・・キチャンさん、ミシェルさんを応接室にご案内して」
「はいっ」「ミシェルさん、どうぞこちらへ・・・」


本来なら有り得ない流れになっている。
ミンチョルは、こと契約に関して妥協することはない。
決して所属歌手にイニシアチブを取らせることはなかった。
新人なら尚更だ。
全て、自分の計画通りに動かす。
それが、ミシェル・ハーンに対して、自分がプロデュースすると自ら宣言した。
これは白旗を揚げたも同然の行為だ。
なにが彼をそうさせたのか・・・?


“大学路(テハンノ)の小悪魔”ミシェル・ハーンは、こうしてVARIOUSの心臓部へ入り込むことに成功した。




アパートの最寄りの駅を降り立った時、路面を薄っすらと覆う白いものを目にして、ヨンスは初雪が降ったことを悟った。

「あ・・・ぁ」

なんとなく残念な気持ちになる。
冬の初めに舞い降りる雪は、自分の目で確かめたい。

(アトリエに行ってなかったら、見れたのに・・・)

ソン先生が恨めしい。


今日は水曜日で、本来ならアトリエに行く日ではない。
午後の授業が休講になったことは、数日前に掲示板で知った。
それで、早く家に帰って、クリスマスの晩餐の献立を考えようと思い立った。

(本屋さんに立ち寄って、最新の料理本をチェックしてみようかしら?)

今年のクリスマスがどういう予定なのか、夫からは何も聞いていない。
誕生日ということもあり、自分から予定を根掘り葉掘り尋ねるのはなんとなく気が引ける。
でも、あのひとのことだ。
今年こそは時間を作ってくれるのではないか、と秘かに期待している。
なにせ、昨年は「白い冬のコンサート」で一週間、不在だったし、その前の年は入院中だ。
副作用との戦いの真っ最中で、クリスマスどころではなかった。

(「レストランで食事をしよう」「もう予約したよ」あのひとはそう言うかもしれない)
(でも、自宅でゆっくり寛いだ方がいいわ・・・)
(仕事で疲れているはずだし)
(いつも外食ばかりなんだから・・・)
(たまには私の手料理を食べて欲しい)
(ミンジを呼んで、久しぶりの家族団欒ができれば最高ね・・・)

午前中の授業を終えワクワクしながら歩いていたら、キャンパスの内庭のところでソン先生に声をかけられた。

『今日、午後は休講でしょう?』
『え?・・・あ、はい』

(なぜ、知っているのかしら・・・?)

『じゃあ、これから二時間だけ・・・いいかな?』
『えっ?』
『実は明後日も、夕方から急に会議が入っちゃって・・・』
『まあ・・・』
『描ける時に描いておかないとね』

そう言うと、例の見惚れるよなウィンクをする。

『・・・』

突然の申し出にヨンスは困惑したが、事情が事情なだけに仕方がない。
近頃はモデルをしているという自覚が強く、キスマークのチェックも怠らないしブラもストラップレス以外は身につけないようにしている。
従って、今日、あの露出の多めな格好をしても、恥ずかしい思いをすることはないだろう。

『・・・わかりました』
『よかった』『じゃあ、僕も今日はこれで終わりだから、一緒に行きましょう』


いつもは別々にアパートに赴く二人は、この日に限って一緒にタクシーに乗った。
まさかその様子を全て夫に見られていたとは、ヨンスは夢にも思っていない。




「ヨンス」

翌朝、ぐっすりと寝入っている妻に声をかけた。
しかし、返答はない。

「・・・」

毎朝、彼女は六時に起きる。
今は未だ五時半だ。
つまり目覚めるまで、あと三十分ある。

「・・・」

ミンチョルは疲労の滲み出た表情だ。

それはそうだろう。
昨日の光景が脳裏から離れず、精神的に酷いダメージを受けたまま現在に至っている。
気晴らしにと、昨夜はミシェルやVARIOUSの社員数人と久しぶりのクラブへ繰り出し、その後も場所を三回変え、しこたま飲んだ。
メチャクチャに酔っ払い、全てを忘れたかった。
しかし、飲んでも飲んでも頭は冴えわたる一方で、結局、明け方にタクシーで帰宅した。


近頃、風呂は保温になっていることが多い。
そんな日は、たいてい食卓にメモが置いてある。

《 シャワーだけじゃ駄目よ 湯船に浸かってね ヨンス 》

それを目にすると、妻の愛情を実感し胸が熱くなる。
仕事の疲れが癒え、駐車場からアパートまでの道のりで冷え切った身体もほんわかと温まった。
メモはたいてい折り畳んで長財布にしまう。
上着のポケットに入れたのでは、妻に捨てられてしまう恐れがあるからだ。

(今、いったい幾つの紙切れが財布の中にあるだろう・・・?)


しかし、昨夜はそれを無視した。
湯船の湯を流し、シャワーだけ浴びて布団に潜り込んだ。
といっても、つい一時間程前のことだ。
一睡もできない。
目を閉じると、途端にあの時の光景が蘇ってくる。

「・・・っ」

ミンチョルは頭を抱えた。

有り得ない。
絶対にあり得ない。
ヨンスが自分以外の男に心を奪われるなどということは、絶対にない。
そう思っている。
自分が単に誤解しているだけだ。


(そうだ・・・)

ヨンスを試してみよう。
今、自分が気になっていることを、洗いざらいぶつけてみよう。
その時の彼女の反応をよく見てみよう。
そうすれば、これは誤解だということがすぐにわかるはずだ。
ヨンスが自分に抗うことは決してない。

(そう・・・)
(ヨンスにとっては、僕が最優先のはずじゃないか・・・!)



「あなた・・・?」
「え・・・」
「どうしたの?ボンヤリして・・・」
「・・・いや、別に」
「そうだわ」「昨日は初雪だったのよ」
「・・・ああ」
「私、見れなかったの」
「・・・なぜ?」
「地下鉄の中だったみたい」「本当に残念だわ」
「・・・」
「あなたは?」
「え・・・?」
「初雪が舞ったの、一瞬でも見ることが出来た?」

ミンチョルの顔が引きつる。

「あ、ああ・・・」「事務所の窓から」
「いいわねぇ・・・」


「誰と見たの?」などと、この妻が言うはずもない。
問うてくれれば、微かな疾(やま)しさを吐き出すことも出来るのに。

「・・・」

ミンチョルは無言のまま、コーヒーを啜る。


日常の、なんということもない朝の光景だった。
ヨンスは、心底、羨ましそうに溜め息をつく。
その表情に、うしろめたさなど微塵も感じられない。

だが、ミンチョルは、無垢な妻の表情を窺う余裕を持ち合わせていなかった。
胸中には、得体の知れぬ激情が渦巻いている。

カップを置き、意を決して口を開く。


「あの・・・さ」
「・・・なぁに?」

ヨンスはパンにバターを薄く塗っている。

「髪、戻さないか?」

ヨンスの手が止まった。

「え・・・?」
「・・・」
「・・・もしかして、本当は好みじゃなかった?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「・・・?」
「前の方がいい」
「・・・そう・・・」


『じゃあ、今日、ヘアサロンへ行ってくるわ』

そう言ってくれたら、ミンチョルはそれで満足だった。

『いや、まだいいよ』『せっかく素敵なんだから・・・』

それで、この話は終わったはずだ。
そして、これ以上、傷つくこともなかった。


ところがヨンスは、こう言った。

「でも・・・皆、似合うって言ってくれるわ」

(皆・・・?)

ミンチョルは心のうちで呟いた。

(皆じゃなくて、“ソン・ジフン”だろう・・・?)

「それに、ほら、勿体ないでしょう?」
「・・・」
「パーマとカラーリングって、結構、高いのよ」
「・・・」
「だから・・・」
「・・・」
「・・・あの、来月になったら、美容室に行ってくるわ」

(もう、遅いよ・・・)

「・・・それでいい?」
「別に、今のままで構わない」
「・・・?」

ミンチョルは「もう行くよ」と呟くと、ヨンスに視線を合わせることなく席を立った。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第9話(3)

2007-02-24 | Weblog
第9話 迷 宮

(3)

我が目を疑った。
ヨンスが、自分の妻が、長身の男とアパートに入って行くのを、たった今、この目で見たのだ。

(・・・っ!?)

ミンチョルは混乱していた。
指先が、唇が、微かに震えているのが自分でもわかる。
唾を呑み込もうにも、口内が渇ききっており上手くいかない。

「バシッ!」

黒革のハンドルを思い切り叩く。

シートに身を委ね辛うじて息を吐くと、彼はゆっくりと目を閉じた。



午後からの会議がクライアントの都合で延期になったのを機に、ミンチョルは美大のキャンパスへと向かった。
妻の学生生活を垣間見て、学食で一緒にランチでも出来ればと思いやって来たのだ。
昨夜、彼女は「明日は休講があって、午前中で授業が終わるの」と言っていたから、そのまま車に乗せどこかレストランで食事をしてもいい。

(そうだ、それがいい)
(そのあとアパートまで送ってあげよう・・・)

驚かせるために、敢えて連絡はしていない。


事故で道路が渋滞し、やっとの思いで正門近くまで辿り着いたら、ヨンスが男と歩道を歩いているのに出くわした。

(・・・!)

その男には見覚えがある。
忘れもしない。
ソン・ジフン。
この愛車を手に入れた日、ヨンスと並んで歩いていた副教授だ。

二人は人の流れに逆らい、なんとバス停とは逆方向に少し歩いたところでタクシーを拾った。
そして、当然のように一緒に乗り込む。
男がその際、一瞬だったが周囲を見回したのも見逃してはいない。
まるで人目を憚るかのようなその行動に、ミンチョルの顔が強張る。

(・・・)

無意識に、そのタクシーを追っていた。
車は五分ほど走ってアパートの前で止まり、なんと二人一緒にエントランスへと消えたのだった。



二人の後姿が見えなくなってから、かれこれ十分くらいだろうか。

「・・・」

恐ろしい疲労感に襲われたミンチョルは、ようやくエンジンを切ると両瞼を指先で解(ほぐ)しながら考え込んだ。
だが、考えたところで何も浮かばない。
この現実をどう受け止めればいいのか、成す術が見つからない。

上着の内ポケットにある携帯電話が、突然、震えた。
素早くそれを取る。

「イ・ミンチョルです」
『室長!い、いえ、社長!あの、今、どちらですか?』
「・・・どうしましたか?」
『じ、実は、先程・・・』

「なんだって?」

(こんな時に・・・!)

ミンチョルは舌打ちをする。

「・・・わかりました」

「・・・そうして下さい」

「はい・・・なるべく早く戻ります」

電源を切ると、携帯を助手席に放り投げた。



この世の音が、すべて何処か彼方へ吸収されてしまったかのような、恐ろしいほどの静寂。
腕時計を見ると、二人が姿を消してから既に二時間以上が経過していた。

「・・・」

溜め息をつく気にさえなれない。

(これは夢か・・・?)

そう思う程に、今、この状況に対してのリアル感が欠如している。
しかし、やがてこれは現実だということを、まざまざと見せつけられることとなった。

エントランスから、彼女が出てきたのだ。


「ヨンス・・・」

思わず、妻の名前を口にしてしまう。

今朝も隣りの布団に忍び込み、その柔らかい肢体を抱きしめた。
大きく波打つ艶やかな髪に指先をさし入れ、首筋にキスをした。
唇にもキスした。
肌触りも、匂いも、そしてピクンと身体を震わせたその感触まで、ミンチョルははっきりと覚えている。
あれは決して夢ではない。
つい数時間前の出来事だ。


車から降りようと運転席のドアに手をかけた。
しかし、開けることはなかった。
アパートのオートロックの自動扉の向こうの壁に、ソン・ジフンが寄りかかり腕を組んで立っていたからだ。
先程、見かけた時には、ジャケットの上からコートを羽織っていたが、今は部屋着のようなラフな格好をしている。
シャツもズボンも変わっているということを、ミンチョルは目敏く察知した。

「・・・」

(どういうことだ・・・?)

ミンチョルの胸がキリリと痛む。
眼鏡の向こうの涼やかな瞳は、真っ直ぐにヨンスの姿を追っている。
自分の妻の姿を。

「・・・」

視線を戻した。
少し気だるそうな、重い足取り。
風に靡(なび)く、大きなウエーブのかかった栗色の髪。

「!」

タクシーに乗り込んだ時、アパートに入った時、ヨンスは髪を後ろで束ねていた。
見慣れた髪飾りも、ハッキリと覚えている。
それが今は・・・。

風が一瞬、強まり、ヨンスの長い髪が、再び、ふんわりと揺れた。


『昨日、授業の帰りにいつものお店にカットに行ったらね、担当の人が折角だからイメージチェンジしたら如何ですか?って勧めてくれたの・・・』

『どうかしら・・・?』

『私、カラーリングは生まれて初めてなの・・・』

『・・・変じゃない?』『・・・おかしくない?』


(絶望とは、こういうことをいうのか・・・?)

ミンチョルは、なぜか確信していた。

ヨンスが髪型を変えたのは、あの男のせいだ。
ソン・ジフンが、あいつが変えろと言ったからだ。
そして、ヨンスはその指示に従ったのだ。


『目立つところは・・・やめて』

『・・・実は・・・そうなの・・・』

『お、お友達に誘われて、学校の帰りにジムに行くことにしたのよ・・・』

『と、とにかく、それでプールもあるし、その・・・マシンもあるし・・・』

『だから、水着を着たり薄着になったりするのよ・・・』

『シャワーも浴びるし、更衣室で着替えだってするわ・・・』


妻に対する違和感の理由を、見せつけられているような錯覚に陥る。

「・・・」

いつの間にか固く握っていた拳が、わなわなと震えるのをどうすることも出来ない。


(なぜ、君は、束ねいていた髪をほどいたの・・・?)

(なぜ、アイツは着替えているんだ・・・?)

(なぜ・・・?)

(なぜ・・・?)


事実、束の間の逢瀬としては憎たらしい位の程よい時間、ヨンスはこのアパートの中に消えていた。

―逢瀬― これが真実なら夫婦の危機だ。

(もし、ヨンスがあの男と肌を重ねているとしたら・・・)
(肌を許しているとしたら・・・)

考えたくないが、万が一、それが事実なら、二人の間の絆は相当に強く深い。
なぜなら、ヨンスは普通の身体ではない。
マルクの痕は、今も腸骨のあたりにハッキリと残っている。
それを曝すことが出来るだけの、精神的な繋がりがあるとしか思えない。
軽はずみな、安易な考えで、こんなことをするわけがない。

(こんなこと・・・?)

馬鹿な・・・!
ヨンスが浮気などするわけがない。
そういう女では、決して、ない。


(つまり・・・)

(浮気ではなく、本気ということか・・・?)

ヨンスは夫であるこの自分にでさえ、其処を見せることを嫌がる。
今まで苦難を共に乗り越え、幾度となく愛し合い求め合ってきた夫に対してさえ躊躇うのだ。

(それを・・・)

目頭が熱くなる。

「そんな馬鹿な・・・」
「有り得ない・・・」

ミンチョルは頭を大きく横に振った。


ヨンスはゆっくりと坂道を下っている。
ミンチョルはエンジンをかけると、車を急発進させた。
バックミラーから見たヨンスの表情は、心なしか疲労の色が感じられる。

「・・・」

なぜ自分が車を止め、ヨンスに、愛する妻に声をかけないのか、わからない。

問いただせばいい。
そうすれば、全てが誤解だとわかるはずだ。
抱き合って、キスをして、それで解決するのだ。

それなのに、自分は逃げ出した。

(僕は・・・恐れているのか?)
(何を・・・?)
(ヨンスの裏切り・・・?)
(まさか・・・)
(ヨンスが僕を裏切るはずないじゃないかっ!)


赤信号を無視し、三叉路を突っ切った。
けたたましいクラクションが背後で鳴り響く。

(では・・・)
(さっき見たものはなんだ・・・?)
(いったい、どう説明するんだ・・・!?)


漢江沿いの直線道路を、電動ルーフを全開にして走った。
アクセルを踏み込み無謀な追越を繰り返す。
しかし、冷え切った身体に相反して、頭の中は熱いなにかが燃え滾っている。

想定外の現場に出くわし、ミンチョルは冷静さを欠いたままVARIOUSに向った。



その女は小柄だが、魅惑的な容姿と姿態で否が応にも衆目を集めている。

「はじめまして、イ・ミンチョル社長・・・!」


真実から目を背けたことにより、自身の弱さを思い知らされる結果となったミンチョル。

そして、そんな彼を待ち構えていたが、“大学路の小悪魔”ミシェル・ハーンだった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第9話(2)

2007-02-22 | Weblog
第9話 迷 宮

(2)

「・・・じゃあ、今日はこの辺で終わりにしましょう」

ジフンが筆を置いた。

「お疲れ様でした」
「・・・こちらこそ、お疲れ様」「あ、ヨンスさん」
「・・・はい?」
「着替えたら、ちょっといい?」「話があります」
「わかりました」


先週の金曜日、ジフンは大邱(テグ)に出張した。
全国の教育関係者が集う、国際交流に関するシンポジウムに出席する為だ。
元々は専任の職員が赴く予定だったが、学内の緊急の会合への出席を余儀なくされた。
それで、急遽、ジフンが名代で参加することになった。
従って講義も休講になり、夕方のモデルの役目もお休みとなった。

ミンチョルによって胸元に赤い印を刻まれたヨンスは、大袈裟にいえば九死に一生を得たのだ。


「実は・・・」「この間も、つい愚痴ったけど・・・」
「はい」
「先週も描けなかったし、かなり焦っていてね」
「はい」
「十二月下旬に、時間を作って貰えないかな?」
「・・・」
「出来れば、一月中にはヨンスさんを解放したいので」
「はい・・・」
「集中して描きたい」
「・・・はい」
「クリスマス前後は」
「え?」
「やっぱり、ご家族で過ごしたいよね・・・」
「あ・・・」
「どうするかな・・・」


ヨンスとしては、ジフンの困った顔を見ると申し訳ないと思う。
だが、クリスマスは自分の誕生日でもある。
やはり夫と過ごす為の準備をしたい。
願わくばミンジも招いて、ささやかな家族団らんを楽しみたい。

「・・・すみません」
「いや、構いませんよ」「僕の都合でこうなったんだから」

ジフンは深緑の革の手帳を見つめながら、何か考えている。
今後のスケジュールを脳裏で調整しているのだろうか。

「・・・ヨンスさん」
「はい」
「じゃあ、まとまった時間がとれる日が出来たら、ここへ連絡を下さい」

一片のメモを差し出された。
手帳から切り取ったもので、ミシン目が綺麗に裂かれている。
そして其処には、携帯電話の番号が几帳面なアラビア数字で書かれていた。

「・・・まとまった時間、ですか?」
「そう・・・」「出来れば・・・五、六時間あると有難い」
「・・・わかりました」
「すまないね、勝手を言って」
「いいえ」「引き受けたからには、ちゃんと責任を持つつもりですから」


律儀で、公私の区別がきちんとしているこの教え子を、ジフンは堪らなく愛おしいと感じる。
しかし、それも物足りなくなってきた。

「じゃあ、連絡を待ってます」
「あの、電話をしてもいい時間帯は・・・」
「講義の時間以外は電源を入れています」「着信に気付いたら、こちらから折り返し電話しますよ」
「・・・はい」

メモ書きを鞄の中に仕舞う様子を見届けながら、ジフンは口を開いた。

「あの、ヨンスさん」
「はい?」
「ちょっと、疲れてるのかな?」
「え・・・?」
「顔色は悪くないけど、なんとなく身体がキツそうだから」
「い、いえ・・・」「大丈夫です」
「そう・・・?」
「は、はい」
「どこか痛いんじゃないかい・・・?」

ヨンスは赤面して、首をブンブンと横に振った。

「いいえ!」「だ、大丈夫ですっ!」
「・・・そう?」
「はい、あの、では、失礼しますっ」

ヨンスは慌てて玄関を飛び出した。
あまりの素早さに、ジフンはエントランスまで同行することも叶わず呆然と見送る。


地下鉄の駅に向かって早足で歩きながら、ヨンスはジフンの観察眼に舌を巻いていた。

(ソン先生の、あの繊細な眼鏡は何もかもお見通しなのかしら?)
(全部、見抜かれているのかしら・・・?)

だとしたら恥ずかしい。
なぜなら、昨夜は夫から求められ、明け方まで眠らせて貰えなかった。
そのせいで腰が痛い。
足の付け根の辺りも痛い。
正直、かなり辛いのだ。
勿論、そんな素振りを見せたつもりはないが、先生にはわかってしまったようだ。

「はぁふぅ・・・」

今度は欠伸が出てしまった。

そもそも、今日のことがある。
だから昨夜はウトウトすることさえ出来なかった。
夫の唇の行方を、注意深く見守らなければならないからだ。
おまけに・・・。
長いだけではなかった。
かなり激しかった。

(いつもあのひとは情熱的だけど・・・)
(それにしても・・・なんだか・・・もの凄かったわ・・・)

いつもは使わない筋肉を、いろいろ使った気がする。
元々、ヨンスの身体は柔軟な方ではない。
だから余計に辛い。
足など、普段なら有り得ないというくらい開かされるから、堪ったものではない。
夫が好む開脚と屈伸を伴う屈曲位は、ヨンスにとってかなり負担だ。
尤も、ヨンス自身は体位の名称など全く知らない。


「寒い・・・」

ヨンスは身震いすると、夜空を見上げた。


それでも、ヨンスは幸せだ。
忙しい夫に触れることが出来るのは、実際、布団の中しかない。
幾度となく達してしまう自分の耳元で、「素敵だよ」「可愛い」などと囁かれると蕩けそうだ。
夫の満ち足りた表情を見ていると、嬉しさが込み上げてくる。
身体の節々の痛みも我慢できる。

この状況への疑問はそれなりにあるし、葛藤だってある。
自分は身体を重ねることだけが目的の存在なのだろうか、と悩むこともしばしばだ。
肉体関係だけで成り立っている夫婦のようで、釈然としない。
愛する人とは手を繋いで美術館を巡りたいし、将来のことを語り合いたい。
できることなら子供が欲しいと、だから協力して欲しいと請いたい。
子供を得る為だったら、どんな苦痛にも耐える自信があると伝えたい・・・。


「ふーっ」

小さく吐いた息は真っ白だ。


今夜も夫は遅いだろう。
今日は一段と冷え込むから、シャワーではなくお風呂に入って欲しい。
夫は真冬でもシャワーで済ませてしまうのだ。
でも、こんな日は、湯船に浸かって身体を温めた方がいい。

(そうだわ、食卓にメモを置いておこう・・・)
(ええと・・・)
(「今夜は冷えます。保温になっているから、お風呂に入ってね」「ヨンス」)

ヨンスは文章を考えると、小さく微笑んだ。
幸せだった。
とても幸せだった。


あまりの寒さに、再度、身震いすると、彼女は地下鉄の階段を降りていった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第9話(1)

2007-02-20 | Weblog
第9話 迷 宮

(1)

寝室の布団の中で何度目かの絶頂を迎えた時、ヨンスは大きな声を出した。
それがどんな声だったかはわからないが、とにかくそこまでは覚えている。
しかし、その後、意識を手放してしまった。


どのくらい経ったのか、ようやく目を覚ます。
が、瞼が重い。身体も動かない。
モデルという不慣れな役目による疲労の蓄積があったし、久々に長い時間、身も心も蕩けるような愛撫を受け続け、気が緩んだということもあったろう。
緊張の糸がプツリと切れていた。
何処も彼処も ―指先や足先さえも― 愛おしいひとの感触が残っている。
心地よい気だるさを感じながら、ヨンスは自分をこんな風にした張本人の気配を探した。

「あな・・た・・・?」

右のふくらみ ―乳輪の少し上辺り― にチリチリと熱いものを感じたヨンスは、薄っすらと目を開ける。
どうやら手首は拘束されており、ビクともしない。
見慣れた明るい色の髪が眼下に揺れていた。
そして・・・探していた夫は、胸元に顔を埋めていた。

「きゃ―――――っ!!」

ヨンスは思わず叫ぶ。

「・・・なんだい?突然」

ミンチョルが顔をゆっくりと上げた。

「ひ、酷いわ・・・」

ヨンスの目線は、自分の胸元の一点に集中している。
彼が唇を放した其処には、真っ赤な薔薇が刻まれていた。
それも、かなり色が濃い。
というか、非常に濃い。

「酷すぎる・・・」
「なにが?」
「約束を破って・・・」
「だから、なにが?」
「キス・・・」
「ん・・・?」「キスがどうしたって?」
「・・・だから、その、マークを付けないって約束したじゃない??」
「マーク?」


そう・・・。
ミンチョルは、ヨンスが気を失っている間に取り決めを反故にした。
目立つ場所に愛の証を刻んだのだ。
かなりの力で吸ったので、一週間は消えないだろう。
困り果てている妻が愛おしい。
見ていると、ついからかいたくなる。

「ああ・・・キスマークのこと?」「すっかり、忘れてたよ」
「あなたぁ・・・」

ヨンスの声が震える。

「君が素敵だったから、つい・・・」
「もうっ」
「ゴメン、ゴメン・・・」
「ううっ・・・」

耳元に「可愛かったよ・・・凄くよかった」と甘く囁かれ、ぎゅっと抱きしめられる。
これ以上、何も言い返せない。

(意地悪・・・)

ヨンスは涙目で胸元を茫然と見つめた。


「・・・いいじゃないか、スポーツクラブなんて一回くらい休んだって」

やわらかい肢体を楽しむかのように頬を寄せながら、ミンチョルは微笑んだ。

「そんなわけにはいかないの・・・」

ヨンスには、夫の言う「スポーツクラブ」が「モデル」に聞こえる。
「少しペースアップしないと」とソン先生が呟いていたのを耳にしている手前、高熱でもない限り簡単に休むわけにはいかない。
先日も急用とは言っていたが、実際は自分の粗相のせいで筆が進まなかったのだと思う。
申し訳ないことこの上ない。

(どうすればいいの・・・)
(どうしたら・・・)

考える間もなく、夫が覆いかぶさってくる。

「あ、あなた・・・?」

唇が左耳を這う。
そして、飲み込まれそうなほど強くしゃぶられる。
恥ずかしくて、くすぐったくて、ゾクゾクする。
抗いたいが、手首を掴まれ夫の逞しい肉体に覆われた状態では、それは不可能だ。
右耳も同じ様に刺激される。
舌が穴の奥に挿し込まれた。
その官能的な動きに、ヨンスの裸身は大きく波打つ。

「あぁ・・・」

熱いものが身体の芯から込み上げ、思わず呻いた。

「夜はこれからだよ・・・」
「・・・ん」
「まだまだ・・・だ」

下唇を吸われ、やがて舌が入ってくる。
歯と歯が軽く触れ合う。
その動きは、まるでヨンスの口内を犯すかのように大胆だった。
しかし、それだけではない。
同じことをするように促されるのだ。

本能は止められない。

ヨンスは教わったように忠実に、そして直向きに、求め始めた。




「え・・・?」「水着・・・を買うの?」

ミギョンは驚いた表情で立ち止まった。

「ん・・・」「今の時期は、やっぱりデパートかしら?」
「・・・そうねぇ・・・」

考えるフリをしながら、ミギョンはヨンスを見つめた。

(ヨンスオンニが・・・)
(水着・・・?)


どう考えても、おかしい。
想像できない。

今年の夏、ミギョンはヨンミやナヨン達と一緒に海へ一回、プールに数回行った。
昨年の夏は確か三回、海に行った。
しかし、どんなに強く誘っても、彼女は決して行かなかった。
『風邪気味だから』
『用事があって』
『実は泳ぐのは苦手なの・・・』
言い訳は様々だったが、とにかく水着姿は一度だって見たことが無い。

それが、こんな真冬 ―クリスマスソングが街中に溢れている時期― に水着を買うとはどういうことだろうか?

(やっぱり・・・)

ソン先生との噂は本当なのかもしれない。
きっと先生に、ホテルの会員制プールにでも誘われたに違いない。
それで、新しい水着を買う気になったのだ。
だったら・・・泳げなくても問題ない。
要はプールサイドで、水着姿を披露するのが目的だ。

(あっ・・・!)

もしかすると、二人は未だ深い関係ではないのかもしれない。
そうだ。ここが肝心だ。
先生は、ヨンスオンニの水着姿をチェックする気なのだ。

(た、大変)
(それで)
(そのまま)
(チェック・イン・・・??)
(きゃ~♪)

ミギョンは勝手に想像を膨らませ、勝手に胸を高鳴らせ、勝手に頬を染めた。


オンニの、先生を慕う気持ちは本物なのかも。
オンニの旦那さんは、雑誌を見た限りでは私好みのハンサムだった。
バークリー出のインテリだから、頭もいい。
でも派手な業界だから・・・。
あ、もしかすると、オンニ夫婦はうまくいってない・・・?
旦那さんが浮気してる・・・?
それで・・・。
きっと、そうだ。
そうに決まってる。
だいたい、見かけからして髪にメッシュが入っちゃって、ちょっと軽い感じ。
どちらかというと地味なオンニには似合わない。
・・・あっ!わかった!
かなり狡賢い人だ。
旦那さんは、最初からそのつもりだったんだ。
だからオンニのように、黙って尽くすタイプを選んだ。
浮気しても騒がず責め立てない女を選んだのだ。
そうだわ、きっとそうに違いない。
それなら、オンニの想いを叶えてあげたい。
あのオンニが不倫するということは、余程、酷い仕打ちに耐えているはずだ。
ソン先生なら、きっとオンニを幸せにしてくれる。
才能のある人だし優しいもの・・・。
人生やり直すなら、早いほうがいい・・・!


ミギョンの明晰な頭脳は、音をたてて回転する。
それも良からぬ方向へ・・・。


「わかったわ!心当たりがあるから、明洞に行きましょう」

ミギョンはヨンスの肩を軽く叩いた。

「本当?助かったわ・・・有難う」

(素敵な、セクシーな水着を選んであげよう)
(そして、ソン先生をアッと言わせてやるのよ)

ミギョンは不思議と浮き浮きした。
誤解しまくっているが、本人は(当たり前だが)気付いていない。


「さ、行きましょ!」

背中を押され、歩き出したヨンス。
こちらは、思いっ切り意気消沈している。

絶対に着ないであろう水着を、なぜか買わなくてはならないこの理不尽さ。
馬鹿馬鹿しいし、情けない。

(こんな無駄遣い・・・)

明洞のデパートなら定価だろう。
ということは、かなり高い。
出来ることなら買いたくない。

しかし、夫が再び「水着を見せて」と言わないとも限らない。
ヨンスはそれを何よりも懼れていた。
もうこれ以上、嘘はつきたくないし、うまく誤魔化す自信もない。
これは、口からデマカセを言ってしまった罰だ。
諦めなければならない。

モデルの役目も年明けには終わる予定だ。
あともう少しすれば、ミンジにチャンスがまわってくる。
そうしたら、全てを彼に告白して謝ろう。

(きっと彼はわかってくれるはず・・・)


「・・・ねぇ、オンニはどういうのがいいの?」

いつの間にか水着売り場に到着していた。

「紺色のワンピース」

ヨンスは即座に答える。

「は・・・?」「こ、紺色のワンピース??」
「そう」
「・・・それって、なんかスクール水着みたいじゃない?」
「いいのよ」
「・・・」

ミギョンは一瞬、ソン先生に妙な嗜好でもあるのかと思った。
が、慌てて自ら否定した。

(そんなわけないっ)
(きっと、ヨンスオンニは派手なのが嫌なんだわ・・・)


季節はずれの水着売り場に、人影は全く無い。

「ミギョン、適当に選んでくれる?」
「適当って・・・オンニ、試着しないの?」
「ええ」
「だけど・・・」
「とにかく、紺色のワンピース型を探して頂戴」

ヨンスはデパートの売り場自体が苦手だから、早く終わらせたい。
ミギョンは首を傾げながら、様々な水着を手に取った。


「この黒のビキニなんて、結構、似合いそうだけどなぁ・・・」
「こういうピンク色も、イケると思うけどなぁ・・・」

ブツブツ言いながら、無地のワンピースを探す。

「・・・だけど、じゃあ、シン・ドンギュさんは、オンニのタイプじゃなかったのかな?」
「そうか、一年前と今じゃ、事情が違うのか」
「・・・ということは、旦那さんの浮気は、あの後から始まったってこと?」
「あ、この紫もセクシー」
「だけどオンニには、ちょっと歳が離れているソン先生の方がお似合いかもしれない」
「オンニはスタイルいいんだから、ビキニの方がいいと思うけど・・・」
「・・・そういえば、ドンギュさん、どうしてるだろ?」

止め処もなく独り言を呟きながら、視線はハンガーにぶら下がっている水着を漂う。

「あ」

(これだっ・・・!!)

紺色のそれを手にしたミギョンは、「いいのが見つかったわ」とほくそ笑んだ。

「オンニ・・・!あった、あった」

ミギョンは水着を手に大きな声で叫ぶ。

「ほら、シンプルな紺のワンピース!」

ヨンスはミギョンの手元を見ると、「それでいいわ」とろくに確認もせずレジへ向った。

「本当にいいの?試着しなくて・・・」
「構わないわ」「サイズは普通よね?」
「まあ、そうみたいだけど・・・」


どうせ着ることなどない水着だ。
ヨンスは退院以降、共同浴場もプールも一度として足を運んでいない。
退院直後は骨髄移植により免疫力が極端に低下していた為、そういったことは禁止されていた。
今は勿論、解禁されているのだが、ヨンスは恐ろしくて行く気になれない。
そして、今後、一生、行くことはないと思っている。

(この水着、ミンジにあげようかな・・・)
(ちょっと地味かしら・・・?)
(だけど、あまりに高すぎる・・・)

封筒から大量のお札を出し、レジ係りへ渡した。
この金額なら、本来、カードを使うべきだ。
しかしカードの明細書は全て夫が管理していて、自宅には届かない。
つまり、カードを使うと何を買ったかわかってしまう恐れがあった。

(お金を下ろしておいてよかった・・・)

ヨンスは眉を顰めながら、店員の差し出す紙袋を受け取った。


『ほら、シンプルな紺のワンピース!』

ミギョンの台詞は間違っていない。
確かに、濃紺の飾りのないワンピースではあった。
しかし、それは立体裁断された非常に贅を尽くした作りで、タグを見れば高級ブランドの品だということがわかる。
ブランド名を知らないヨンスには無意味なのだが。
なにはともあれ、高いだけの値打ちがある水着であることは間違いない。

色は紺・・・とはいっても、よくよく見ればシルバーのラメが繊維に絡んでおり、光線の当たり具合によって美しく光る。
濡れると風合いが変化するような、凝った仕立てになっている。
シンプル・・・確かに飾りはない。
が、そのカットは大胆且つ、挑発的なものだ。
太腿の括れは、まさにハイレグといった感じで足を長く見せる効果があるが、つまりは切れ上がっている。
スタイルに自信がないと、なかなか辛い。
そして・・・真骨頂は胸元のカットだ。
胸の谷間がクッキリとわかるようなラインの上、ふくらみを強調するデザインになっている。
ワンピースとはいっても、肩紐は取り外しが出来るようになっている。
まさしく、小股の切れ上がった女、成熟した大人の女の為のセクシーな水着だったのだ。


弁護士の一人娘としてなに不自由なく育ったミギョンの選択眼は確かだったが、ヨンスのそれとはかなり異なる。
ましてや、ミギョンは大きな誤解をしていた。

ヨンスの目にはスクール水着同然に映ったであろうこの品は、やがてひと悶着を起こす要因ともなり、後にはヨンス自身を大いに慌てさせることにもなるのだった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第8話(12)

2007-02-18 | Weblog
第8話 秘 密 

(12)

ソン・ジフンは、先日、偶然、通りがかったCDショップの前でふと足を止めた。
流れてきたBGMが気に入ったのだ。

『今、かかってる曲、何処にありますか?』

早速、店内に入り、アルバイトらしき店員に尋ねると、「こちらです」と丁寧に案内してくれた。

『在庫は出ているだけになりますので、ご注意下さい』

指し示されたラックを覗く。

『あ、これか・・・ありがとう』

CDケースを手にしたジフンは、そのジャケットの絵にも興味を持った。

(いいな・・・)

気に入ったCDは、大抵、二枚購入する。
ソウルの他にミラノにも住いがある上、ジャケット・ケースをディスプレイするという趣味もあるからだ。

自宅アパートに戻ったジフンは、ブックレットに描かれている抽象画に強烈に惹きつけられた。
多分、自分の琴線に触れたのだと思う。
それは久しぶりの、なかなか得難い感覚だった。
作者が誰かを知りたくて、即日、VARIOUSに電話をした。
しかし「シークレットということになっております」と、つれない返答。

諦めきれずネットで検索したところ、このCDはかなり売れている上、ジャケットやブックレットの絵もネタに上っている。
ある掲示板では、次のようなやり取りを見つけた。

《例のCDジャケって、プロデューサーが描いたって噂がある》
《まさか・・・!》
《だよね?》
《なんかで読んだけど、色使いとか素人じゃないって》
《心が安らぐ、いい絵だよね・・・》
《温もりを感じる》
《絵ってさ、描いた人の人柄がでるものだよ》
《そうそう》
《絵を見て、誰かってわからないのかな?》
《先生とかプロが見れば、わかりそうなものだよね?》
《ウチの兄貴が通う美大でも結構、話題になってるって》
《そのうち隠し切れなくなって、名乗り出るかもよ・・・》


よくよく意識してみると、キャンパスでも講師控え室でも、この絵は時折、話題になっている。
ジフンが副教授を務める美大は韓国内では最高レベルだから、教え子の中にこの絵を描いた人間がいるという可能性は大いにあるのだ。

『普通、ここまで話題になったら、マスコミに出てきますよね』
『そうそう、自分を売り込む絶好のチャンスですから・・・』
『国外のアーティストっていう噂もあるみたいですよ』
『ああ、そうなのかもしれないね』
『韓国人じゃないとすると・・・』
『日本人・・・?』
『中国人ではないな』
『東南アジア系でもないでしょう』
『同感ですね。あのタッチ、色彩感覚は・・・』




ソファに腰掛けているヨンスの下半身は、休憩時間に使うブランケットで覆われていたが、熱々のカフェオレは瞬く間に浸透していく。

「きゃっ」とヨンスが悲鳴をあげたのと、ジフンがブランケットを剥ぎ取りヨンスを抱き上げたのがほぼ同時だ。


「あっ、あの・・・」
「火傷でもしてたら大変だ」「冷たいでしょうが、ちょっと我慢して」

シンプルなホテル仕様のバスタブの中に下ろされると、ジフンはヨンスが纏っている唯一の布の裾をたくし上げるように言い、その真っ白な太腿から足先にシャワーの流水を注いだ。
ブランケットのお陰か、纏っていた布も白い太腿も特になんの問題もない。

「ああ、よかった・・・大丈夫そうだ」
「せ、先生、あの、布は汚れていませんか・・・?」
「ヨンスさんっ!」

強い口調に、ヨンスは思わずビクッと身体を震わせる。

「は、はいっ」
「布なんて、どうでもいいでしょう!?」
「あ・・・」
「それより、無理言ってモデルをお願いしているのに、貴女に傷でもつけたら、僕は一生、悔やんでも悔やみきれませんよ」
「そ、そんなこと仰らないで下さい・・・」「私がボンヤリしていたのがいけないんです」

ジフンは膝を折り、真っ白なバスタオルでヨンスの足を丁寧に拭く。

「あ、先生、あの、自分でやりますから・・・」
「その布をたくし上げながらでは、ちょっと無理だと思いますよ」
「・・・」
「貴重な布だって言ったでしょ?ヨンスさんは、それを濡らさないようにして下さい」

確かにこの繊細な布は薄手だが、足元に見事にまとわりつく。
両手で抱え込まないと、たちまち床につき濡れてしまう。

「・・・よし、これでいい」

ジフンは再びヨンスを抱き上げると、アトリエに向かった。


「あっ、あの・・・」
「・・・なんですか?」
「いえ・・・あ、あの、降ろしてくださいっ」
「・・・ああ、はい、はい」

ジフンはヨンスを先程座っていた三人がけのソファではなく、いつも自分が座る独りがけのソファに降ろすと、床に零れたカフェオレと転がったマグカップを手早く後片付けを始めた。

「本当にすみません・・・」

項垂れるヨンスをジフンは見つめた。

「・・・ヨンスさんだったんですね」
「・・・え?」
「あのCDジャケットと・・・ブックレットの絵」

血の気が引くのが、自分でもよくわかった。
ヨンスは茫然と、ジフンを見つめるしかない。

「・・・図星か」
「ち、違いますっ」

ヨンスは慌てて首を左右に振った。

「ヨンスさんは、嘘をつくのが下手ですね」
「・・・」

黙り込むしか術がない。


「今度はしっかり持って下さい」

新しく淹れたカフェオレを手渡された。

「・・・はい」

ヨンスは青白い顔のまま肯く。

「もしかしたら・・・と思っていたんですよ」

そんなことを言いながら、ジフンの目は俯いている教え子に釘付けとなっていた。


そう・・・
もしかしたら・・・と思っていた
貴女と同じ時間を共有するようになって
貴女をより深く知って
あの絵が訴えかけてくるもの
あの絵が僕に想起させるもの・・・
全てが貴女に通じているような気がして・・・
まさか・・・
でも、もしかしたら・・・なんて思って

・・・どうしましょうか?
僕は今、完全に恋に堕ちてしまった
いや、もう、貴女を愛してしまっているようです・・・

ヨンスさん
どうしましょうか・・・?
この想い、僕はどうしたらいいでしょうか?


「・・・ヨンスさん」
「はい?」
「今日はこれで終わりにしましょう」
「・・・?」
「ちょっと急用を思い出したんです」

すっと立ち上がったジフンに釣られ、ヨンスも慌てて腰を上げた。


「今日はここで」
「はい」
「じゃあ、また来週」

見慣れたコートに、セーターとデニム。
ごくごく平凡でカジュアルな装い。
しかし、玄関先に佇む彼女はスラリと長身で、伸びやかな手足を持つ。
首もほっそりと長く、顔立ちは端整で美しい。
栗色のふんわりとした髪が小さな顔を縁取っている。
その大きな瞳は、強い意志を奥底に秘めながらも穏やかさを湛えている。
魅せられてしまうのは、仕方ない気がした。

「お疲れ様でした」

律儀に頭を下げ、扉を丁寧に閉めようとする教え子。
後姿を見送りながら、ジフンは自分に問いただす。


(僕は彼女を見守っていけるのか?)
(ただ、見守っていくことが出来るのか・・・?)

白く滑らかな肌、黒く澄んだ瞳、赤い唇、柔らかい肢体、華奢な骨格、甘い香り・・・。
なにもかもを身近に感じ、触れてきた。
画家とモデルという関係ではあったが、しかし、いつからか自分の心に邪(よこしま)な想いが宿っていたことは確かだ。

そう・・・昨年の秋、カフェテリアで見かけた時から気になっていた。
彼女がオ・ジェヒ先生の秘蔵っ子だと確信した時は、胸が高鳴ったものだ。
当初、男だと思い込んでいたキム・ヨンスという学生。
ところがそのひとは女性だった。
最初はその容姿に惹かれた。
しかし、彼女は姿かたちが麗しいだけの女性ではなかった。
授業態度は真面目だし、非常に勉強熱心だ。
描く絵も素直で好ましい。
今後、よき指導者に恵まれれば、恐らく画家としても伸びるのではないかと感じる。
その指導者が自分だったら、どんなに素晴らしいことだろう。
何より、彼女の存在は僕の創作意欲を掻き立てる。
二人して手を取り合い、互いを高めていく。
ずっと探し続けていたパートナーにやっと出逢えたような、そんな気がする。


しかし・・・。
彼女には心に決めた男がいるのかもしれない。
バスルームで足を冷やしていたあの時、彼女の白く長い脚の奥深い処、そう、あのたくし上げた布の向こうに僅かに見え隠れした赤い印。
あれは男がつけたものではなかったか?
あのような場所に、あんな印を刻めるというのは、当然、肌を許している相手としか思えない。
そして、彼女の性格からすれば、当然、その男は彼女にとって至極近しい存在なのだろう。

(つまり・・・)
(将来を約束した恋人か、婚約者か・・・)
(または・・・)

そこまで考えて、ジフンは天井を仰ぎ見た。




会議が予定より早めに終わった。
残った社員がなんとなく雑談を交わす中、ミンチョルも背凭れに身体を委ね寛ぎながら業界誌を捲っている。
女性アイドルグループの写真集の宣伝ページになった時、横に座っていたキュソクが身を乗り出し声を上げた。

「そうそう、来夏はどうもビキニが流行るらしいですよ」

会議室が俄かに活気付く。

「へぇ・・・!そうなんですか」
「やっぱり水着はビキニじゃないとな♪」
「ほら、あのバイトの子、髪がクルクルした・・・」
「チへちゃん?」
「そうそう!あの子なんか、花柄のピンクのビキニとか似合いそうだよ」
「あぁ、いいねぇ・・・」
「オレは痩せてる子より、ちょっとポッチャリ系の方がタイプ」
「ボクはスレンダーが好みですね」
「色白な子の水着姿って、ちょっとエロくて堪らないなぁ・・・」
「健康的な感じも悪くないけど、そそられるのはやっぱり肌の白い子だろ」
「いや、やっぱり小麦色の方が・・・」

若手社員の雑談は果てしなく続く。
ミンチョルは口元に笑みを浮かべながら、視線を再び手元の雑誌に戻した。

(フン!白い方がいいに決まってるさ)

カラーグラビアで、五人の若いタレントが色とりどりのビキニを着てポーズをとっている。
小さな薄い布が辛うじて胸元と股間を隠しているものの、素肌のほとんどは露わだ。
ふと、自分の妻がこのビキニを身につけたところを想像した。

「・・・」

途端に笑みが消えた。
瞬く間に不愉快な気分になる。

(駄目だ)
(絶対に駄目だ)
(許せない)

ヨンスがビキニを身につけることは有り得ない。
それはわかっている。
わかってはいるのだが、理性と感情は別物だ。
仕事に関しては決して冷静さを失わないミンチョルだが、愛する妻のこととなると途端に抑えが効かなくなる。
つい、激情が込み上げてくる。

「バンッ!!」

社長が雑誌を机上に叩き置いて、席を立った。
一瞬、会議室が静まり返る。

「・・・なんか気に障るようなこと言ったかな?」

キュソクは目を白黒させ、首を傾げながら社長の後を追いかけた。



この日、ミンチョルは無理やり仕事を片付け・・・というより部下に押し付け、九時過ぎに自宅アパートへ帰った。
インターホンを押さず、黙って開錠し物音をたてずに部屋に入る。
深夜に帰宅する際と同じパターンだ。

たまたま台所を片付けていたヨンスは、背後に人の気配を感じ思わず「ひゃっ」と声を出してしまった。

「あ、あなた・・・!?」
「ただいま」
「ちょっと、もうっ!驚かさないで・・・」

ヨンスは大きく息を吐き、「ビックリしたぁ」と呟きながら胸元に手を当てる。

「そんなに驚くことないだろう?」
「驚くわよ・・・」「・・・あ、お食事は?」
「済ませてきた」
「そう・・・」
「ねぇ、ヨンス」
「なぁに・・・?」
「君はスポーツクラブで、どんな水着を着ているの?」

突然、そんなことを言われ、ヨンスは手持っていた布巾を落としそうになった。

「・・・」
「どうした?」
「え・・・?い、いえ、あの・・・」
「プールで泳ぐんだろう?どんな水着?」
「ど、どんなって・・・普通の水着よ。ごく普通の・・・」
「普通って・・・?」
「・・・」

ミンチョルは何気なく妻の様子を観察した。
慌てている。
嫌な予感が脳裏を過ぎる。

(まさか・・・)

「どんな形?」
「ど、どんなって・・・ええっと・・・普通の・・・ワンピースよ」
「ビキニじゃなくて、ワンピースだね?」
「・・・ええ、勿論」
「で、何色?」
「え・・・??」

夫にじっと見つめられ、ヨンスは布巾を握り締めた。

「あ、う、え、えっと・・・」
「色だよ」
「・・・紺」
「え?」
「紺色よ・・・」
「・・・まるでスクール水着だな」
「そ、そうね・・・」
「ふ・・・ん」
「嫌だわ、あなたったら・・・」「突然、何を言い出すの・・・?」
「見せて」
「え?」
「その水着、見せて」

ヨンスはゴクリと唾を呑んだ。
見せることは出来ない。
なぜなら、ヨンスは水着など一着も持っていないからだ。

「・・・」
「・・・どうした?」
「あの・・・」
「ん・・・?」
「あ、そ、そう、そうよ!水着はジムのロッカーに置いてきちゃったみたい」
「・・・」
「取りに行かないとって、思っていたんだった」
「・・・」
「あ、私、ちょっと・・・」

ヨンスはいそいそと台所へ逃げ込もうとする。
しかし、ミンチョルはそれを許さなかった。
布巾を持つ右腕をグイと掴み、引き寄せる。

「な、なに?」
「ハイレグじゃないだろうね?」
「はいれぐ?」
「胸元が大きく開いていないだろうね?」
「・・・?」
「まさか、背中側だけワンピースで、前はビキニみたいになってる水着じゃないよね?」
「・・・よ、よくわからないけど、とにかく普通の・・・」

ヨンスが言い終わらないうちに、その唇を塞いだ。

「あ・・・んん・・・」

抗う妻を巧みに壁際へ誘(いざな)い、追い詰める。
逃げ場を失った彼女は、諦めたように身を任せてきた。
この従順さが好ましい。
濃厚で、極めて深く・・・甘いキス。
自分の舌を当たり前のように妻の口の中に挿し入れ、そして蹂躙する。
其処を充分に味わい尽くしてから、怯えるように潜んでいる妻の舌と絡ませる。

「ん・・・」

苦しそうな呻きに、ようやく唇を離した。

「あなた・・・?」

頬を染め息を荒げる妻。
黒い瞳を潤ませながら、上目遣いで見つめてくる。
愛おしくて愛おしくて、気が狂いそうだ。

「いったい、どうしたの・・・?」
「なにが?」
「・・・だって、帰りはこんなに早いし」「それに・・・」
「それに?」

ヨンスは一瞬、言葉に詰まった。

「それに、なに?」
「だから・・・」
「ん・・・?」
「・・・こんな・・・こと」

少し俯き、人差し指で唇をそおっとなぞる。

「・・・最近、君は疲れ気味だね?」
「・・・」
「それが証拠に、夜はグッスリ眠りこんでいる」
「・・・そう?」
「ああ」
「・・・すみません」
「くすぐってもボタンを外しても、全然、起きない」

ヨンスは益々、俯いた。

「疲れているみたいだから、そっとしているんだよ」
「・・・」
「だけど、こうも続くと、正直ちょっとね」
「・・・ご免なさい」


謝りながらチラリと夫を見たヨンスと、ミンチョルの視線がピタリと合った。

「今夜は」
「・・・でも・・・」
「でも?」
「私、まだお風呂に入ってないし・・・」
「丁度いい」
「え・・・?」
「その方が、君を感じられる」

ヨンスは絶句してしまう。

「布団、敷いてある?」
「・・・で、でも・・・」


夫のセピア色の瞳の奥で、何かが揺らめいている。

(逃れられない)

ヨンスはハッキリとそれを悟った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第8話(11)

2007-02-16 | Weblog
第8話 秘 密

(11)

幸いなことに、ふたりに関する噂は広がっていない。
ナヨンやミギョン、ヨンミが各自の人脈を駆使し、それを阻止していたからだ。
ジフンのファンを自認するグループも又、違った意味でこの噂を快く思わず、堅く口を閉ざしていたことも大きい。
つまり、噂を知りえた一部の学生のみが、学内で圧倒的人気を誇る副教授、ソン・ジフンと、近頃、めっきり綺麗になった、年上の同級生であるキム・ヨンスに注目していた。
そして、あの二人は師弟関係ではないのではないか? ―ストレートに表現すれば、男女の仲なのではないか?― という好奇に満ちた目で見ていた。
その様子は講義の最中にも露骨に感じられ、ナヨンなどはハラハラしていたのだが、ジフンはそれを知ってか知らずか完全に無視していたし、ヨンスはヨンスで気付きもしなかった。


もし、この噂を知らずに、ふたり ―つまり、ソン・ジフンとキム・ヨンス― の間のただならぬ空気を感じた者がいたとしたら、それは恐らくジフンのせいだろう。
なぜなら、ジフンは自覚していた。
モデルであるヨンスに対し、ほのかな恋情を抱いている自分に気付いていたのだ。
彼の一挙一動を注意深く見守ればそれば明白であり、彼自身、それをどうすることも出来ない自分に愕然としていた。



ヨンスをモデルとして、デッサンを開始した初日。
ジフンはその肢体、輪郭の美しさに興奮し、様々なポーズを強要してしまった。
しかし、彼女は顔を強張らせながらも、必死でその要求に応じてくれた。
やがて、白い肌が少しずつ解(ほぐ)れていった。
緊張感が薄らぎ、より身体の線がしなやかになる。
表情にも従来の柔らかさが戻ってきた。

結局、筆が進んでしまい、十数枚のデッサンを描き上げた時、窓外は真っ暗だった。

『申し訳ない・・・二時間なんて言っておきながら、大幅にオーバーしてしまいました』
『いいえ、大丈夫です』『あ、あの・・・もう、いいでしょうか?』

地下鉄の駅まで送ると申し出たが、「結構です」と丁寧に断わられた。

『近いですし、街灯も人通りも多いですから・・・』

結局、アパートの一階エントランスから見送ることが習慣となった。


以来、週一回、アトリエで二人きりで過ごしている。
この時間は、ジフンにとって至福を感じる一時だ。
画家として、そのインスピレーションを刺激されるモデルとの出逢い。
創作意欲が全身に漲るのが自分でもよくわかる。

やがてジフンは、画家としてモデルであるヨンスを注視する時間を積み重ねていくうち、その精神状態、つまり内面を窺い知るようになる。

(今日は、とても機嫌がいい・・・)
(ちょっと元気がない・・・)
(悩みがあるのかもしれない・・・)
(疲れているのか、体調が悪そうだ・・・)

そんなことが、手に取るようにわかる。
それが又、ジフンの心を満たしていた。

キム・ヨンスという女性への執心が芽生え始めるのに、そう時間はかからなかった。



当初、描き手であるジフンの熱っぽい視線を気恥ずかしく感じていたヨンスも、いつしかそれを柔軟に受け入れていた。
一流の画家でもある先生が、モデルの自分を直視するのは当然と、割り切ることが出来たからだ。
ただ、その眼差しに心地よさを感じていなかったといえば嘘になる。
真っ直ぐな瞳で二時間以上、見つめられるという経験は、ヨンスは未だかつて無い。
いや、もしかすると、愛するひとに抱(いだ)かれる濃密な夜に、こういう時間があるのかもしれないが、ヨンスは意識が途切れ途切れなので、よく覚えていなかった。
なぜ意識が途切れるのかは、説明するまでもない。


週一回の拘束時間中、合間に十分ほどの休息を取ることにしている。
その間にトイレに行ったり温かい飲み物を飲んだりして寛ぐのだが、ヨンスはこの休憩時間にジフンが語って聞かせてくれる様々な話 ―それはイタリア国内に止(とど)まらず、ヨーロッパ各国の美術館など、絵画に関わる内容で多岐に亘った― がとても好きで、真剣に耳を傾けながら、時折、その歴史背景を質問したりして有意義に過ごした。
ジフンも時間を忘れ、十分の休憩が三十分に伸びてしまうことも多々あった。

心が潤う― そういう時間をソン・ジフンは与えてくれる。
ヨンスにとって、モデルという役割を果たす時間は、かけがいのないものになっていた。
ミンジの為というのは口実だったのかと思うほどに、自分自身がこの一時を楽しんでいる。
こんなに充実した時間を過ごすのは久しぶりだった。
いつしか、ヨンスにとっても、金曜日の夕方のひとときはとても待ち遠しい時間になっていたのだ。


一方で、夫に深く愛される時間がこんなにも緊張し疲れることになろうとは、ヨンス自身、思ってもみなかった。
金曜日の朝、夫を送り出すとすぐに脱衣室に向い、朝、着たばかりの服を脱ぐ。
そして、このアパートで唯一、大きな鏡のある浴室に赴き、全身をチェックする。
ホッと安堵の溜め息をつき、再び服を身に付ける。
それが、モデルを始めてからの習慣となった。

夫は愛し合う時、その白い肌に必ずといっていいほど印を刻む。
赤い薔薇のような印は、ヨンスの裸身の其処彼処に咲き乱れる。
寒くなる季節なら、何処にどれだけ大きい印をつけようと構わない。
裸身を目にするのは夫だけだし、最近では通院の日さえ気をつければ、後は人前で更衣をすることもない。
その通院も最近では二ヶ月に一回ということもあり、それほど意識しなくてもいい。
薄着になる季節は夫が気をつけてくれる約束だ。

ところが、モデルとしてポーズをとっている今は、冬場とはいえ無関心でいるわけにはいかないのだ。
ヨンスは愛する夫に抱かれながらも、その唇の行方が気になって仕方がない。
これまでのように、濃厚な愛撫に溺れるというわけにはいかなくなってしまった。
夫の唇の痕、噛んだ痕は、なかなか消えない。
一週間は必ず残る。
毎週金曜日にかなり露わな姿でポーズをとるヨンスとしては、特に気になるのは首やデコルテ、手足だ。
胸元から下は布で覆われているし、背中側から見られることはないが、膝から下や腕に赤い印を残されるわけにはいかない。
蚊に刺されたという言い訳のきく季節でもない。
金曜の夜に首筋などを吸われたとしても大変だ。
一週間後に、その痕が消えている可能性はほとんどない。
ヨンスの肌が白過ぎるので目立つのかもしれないし、皮下出血し易いということもあるだろう。
しかし、ミンチョルが非常識な強さで吸っているという可能性も充分にある。

熟睡している深夜、突然、求められると、以前は夢心地のまま達してしまうことが多かった。
夫に愛されているという自覚はあるものの、自分の意識は解放してしまっている。
ただ、望まれるままに身体をひらき、夫が齎(もたら)してくれる快楽に身を委ね、そして果てる。
そこに、戸惑いも躊躇いもなかった。
ヨンスにとって、それはごく自然な、極めて日常的な出来事になっているからだ。

ところが最近は、敏感にその気配を察知してしまう。
つい気構えてしまう。
とろけるような前戯にも浸りきれない。
唇の位置を気にしてしまうからだ。
取り決めをしたとはいうものの、心配で堪らない。
万が一、赤い印を先生に見られたらと思うと、恥ずかしくて死にそうだ。
そういう不安が募っているので、危ないと思った時、「あっ」とか「そこは駄目っ」とか口走ってしまい、慌てて口を塞いだりしたことも一度や二度ではなかった。


・・・ということで、最近、ヨンスは疲れ気味だ。
理由は当然、寝不足の積み重ねと、週一回・最短二時間、モデルとしてポーズをとることの肉体的疲労の蓄積だ。
精神的な充実と、肉体の疲労は必ずしも反比例しない。




「・・・疲れているんじゃないか?」

この日、珍しく十一時前に帰宅したミンチョルは、ヨンスの顔を覗きこんだ。
外は真冬の寒さで、ヒンヤリとした空気が肌に心地よい季節はとうに過ぎ去っている。
しかし室内はオンドルで温まっており快適だ。

「ええ・・・」「少し・・・」

ヨンスはそう呟きながら目を閉じる。

「ヨンスゥ・・・」

ミンチョルは妻の肩を抱き唇を重ねようとしたが、口元からは既に寝息が聞こえていた。

「・・・ヨンス?」

肩を優しく掴み引き寄せると、当たり前のように懐に収まる。
しなやかな肢体が、柔らかな胸元が、腕に張り付いてくる。
甘い香りを存分に感じることができる。
だが、彼女は無意識だ。

(おかしいな・・・)

ミンチョルは寝入っている妻の顔を見つめた。


話を聞く限り、ヨンスが疲れ果てるほど動き回っているとは思えなかった。
行動パターンはほとんど一緒で、週三回大学へ通うほかは特に何もない。
何もないというか、何も予定を入れないようにしているのだ。

(僕に内緒で、出歩いているのだろうか?)
(まさか・・・)
(スポーツクラブで、本格的に運動しているとか・・・?)

しかし、ヨンスの性格を考えると、それは有り得ない。
だいたいスポーツクラブは付き合いであって、身体を鍛える為に通っているわけではないはずだ。
それに、彼女はそういうタイプでもない。

冷静に考えると、大学から帰った金曜日の夜がもっとも疲れが顔に出ている気がする。
毎朝、笑顔で「おはようございます」と言ってくれるし、たまにだが自宅で食事をする日は、いつも手の込んだ美味しい料理を出してくれる。
だが、寝室に入ると様相が一変する。
布団に入った途端、ぐっすりと眠ってしまう。

そういえば、最近、夜の生活がとんとご無沙汰している。
すぐ手が届くところにヨンスがいるのに、彼女は目を閉じたままだ。
一昨日はさすがにちょっと頭にきて、ヨンスをくすぐってみた。
まさかとは思うが、寝たふりをしていないかどうか確かめたかったのだ。
彼女はくすぐられるのがなによりも苦手で、反応がもの凄い。
だが、結果は散々だった。
全く反応がない。
少し身体を捩ったが、意識があったらあの程度の反応では済まない。
やはりヨンスは熟睡しているのだ。

(まさか、大学で面倒な係りをやらされているんじゃないだろうな・・・)

自然と眉間に皺が寄った。
ミンチョル自身、大学時代はアメリカで過ごしているので、韓国の、それも美大の授業形態がどのようなものか見当がつかない。
まさかとは思うが、例の馴れ馴れしい副教授の指示で、重い画集などを持たされ教室を移動しているようなことがあったら許せない。

(一度、キャンパスを覗いてみるか・・・)

ヨンスの学生生活を垣間見るのも悪くない。
いい機会かもしれない。

ミンチョルは自分のアイデアに満足すると、無邪気な妻の寝顔にそっと口付けした。




金曜日、いつものように布を纏い寝室から出てきたヨンスは、アトリエを漂う心地よい音楽に足を止めた。

「この曲・・・」

思わず息を呑む。

「・・・知っていますか?」
「・・・」

知ってるも何も、このアルバムをプロデュースしているのは夫だ。

「まあ、流行っているから当然だな・・・」など呟きながら、ジフンは壁際に置かれた高価そうなオーディオに歩み寄りボリュームを上げた。
彼は仕事着代わりの白いシャツの袖を無造作にたくし上げ、肌蹴た胸元からはグレーのTシャツが見えている。
ルーズフィットの黒のデニムも見慣れたもので、これも仕事用らしい。

外気は日に日に冷え込んでおり、いつ降雪があってもおかしくないが、このアトリエは常に暑い位の温度に保たれていた。
理由はモデルをしているヨンスが肌も露わにポーズをとるからで、「風邪をひいたら大変だから」と、ジフンは常に暖房と加湿器の調整を心がけてくれている。


三十分もしないうちに、ジフンが「休憩にしましょう」と筆を置いた。
アイランド型のキッチンで、いつものように自分用のブレンドと、ヨンスの為にカフェオレを淹れる。

「はい、どうぞ」
「有難うございます・・・」

今日はずっと、この「WHITE」の楽曲がBGMで流れていた為、ヨンスはなんだか緊張してしまった。
そのせいか、表情もポーズも多少、強張ってしまったかもしれない。
恐らくはそれで休憩が早まったのだ。
気が滅入る。
彼は波のると時間など忘れてしまうはずなのだ。
これほど早い休憩は未だかつてない。
ヨンスは自己嫌悪に陥り、小さく溜め息をついた。


「僕はアナログ人間でね・・・」「気に入った音楽は、ダウンロードせずCDを買うんです」

彼はそんなことを呟きながら、突然、「WHITE」のCDケースを手に取った。

「この絵、いいと思いませんか・・・?」

彼がそう言い終えると同時に、ヨンスの手元からマグカップがこぼれ落ちた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第8話(10)

2007-02-08 | Weblog
第8話 秘 密

(10)

ヨンスの微かな変化に戸惑いを感じたのは、勿論、夫であるミンチョルだけではない。
異変をいち早く察知したのは、ヨンスの親友・三人組の一人であるパク・ミギョンだった。


トレードマークともいえるストレート・ロングの黒髪が大人びた栗色に波打った日、教室内はある種、異様などよめきに包まれた。
それまで、ごく自然な形で同級生達に埋もれていたヨンスが、突如として年齢相応の女性らしさを纏ったからだ。

『うわぁ・・・素敵!』
『大人っぽいよな・・・』
『ヨンスオンニは、大人なんだから当然よ』

あちらこちらから、感嘆の声があがる。

『オンニ、とっても似合ってるわよ』

ミギョンは、ごく普通に声をかけた。

『・・・変じゃない?』
『ううん、すごく似合ってる』
『よかった・・・』
『どうしたの?急にパーマなんかかけて』『おまけにカラーリングまで』
『えっ?』『・・・ええ、まあ・・・』
『心境の変化?』
『・・・そ、そんなところかしら・・・』


現在、ヨンスが通っているヘア・サロンはミギョンが紹介した。
担当者も同じだ。
実はこの日、ミギョンもカットの予約を入れており、夕方サロンに赴いた。

『あ・・・そういえば、ヨンスオンニ、とても素敵に変身しましたね』
『うふふ・・・そうでしょう?』
『でも、あの色、よく納得したと思って』
『・・・あら、私が勧めたんじゃないわよ?』
『え・・・?』
『彼女、ヘアスタイルには無頓着かと思っていたけど、意外とセンスがいいからビックリしちゃったわ』
『・・・本人のリクエストだったんだ?』
『ええ!それも、事細かな指定があったのよ』
『事細か・・・?』
『そう!色味や、ウエーブの大きさについてね』
『??』
『彼に「こんな髪形にしてご覧」「きっと似合うよ」なんて、雑誌眺めながら言われたのかしら・・・?』

美容師は自分のことのように嬉しそうだ。

『お友達にも好評でしょ?』
『え・・・?』『ああ、ええ・・・』
『あの子、素材がいいんだから、もっとお洒落すればいいのに』
『・・・』
『先月なんて毛玉の付いたセーター着てるんだもの、ビックリしちゃった・・・』
『・・・』
『今どき、あそこまで身の回りの物にかまわない子って、珍しいわよ』
『・・・』
『そうそう、昨日もね・・・』


ミギョンは、ヨンスと出会ってまだ一年ちょっとだ。
知り合ってから日は浅い。
親友を名乗るには、多少おこがましいかもしれない。
しかしミギョンは、キム・ヨンスというこの年上の善良な同級生の性格は把握しているつもりだった。
そして彼女は、自分の髪型を突然、変えたり、美容師にカラーのリクエストをするようなタイプではないことも充分に承知していた。

ミギョンがサロンをしつこく紹介した時だって、実際に足を運んだのはそれから二ヵ月後だ。
それも毛先が痛んでいると散々に脅し、やっと行く気になったのだ。
「月一回は、必ずカットして貰った方がいい」というミギョンのアドバイスでさえ、時折、反故(ほご)にするヨンスが、自ら進んでサロンへ赴き、しかもパーマだけならまだしもカラーリングまでするなんて絶対に不自然だ。

『・・・』

ミギョンは、この時、嫌な予感をどうすることも出来なかった。
そして間もなく、この予感が的中したことを知ることとなる。




金曜日最後の授業の後、学生ホール兼カフェテリアの壁際にある指定席で、ミギョンとヨンミは飲み物を飲んでいた。
そこへ少し遅れてやって来たナヨンが、開口一番、こう切り出した。

「・・・ねえ、ヨンスったら、最近、付き合い悪くない?」

ナヨンはテーブルにバッグを置くと、傍らの椅子にドカッと座り込んだ。

「今日もさ、用事があるとかなんとか言って先に帰っちゃったわよ!」
「・・・」
「・・・」

「ケーキ食べて帰ろうって、誘ったのにさぁ」と、ナヨンはブツブツ言っている。

「・・・」
「・・・」

ミギョンもヨンミも黙ったままだ。

「ちょっと・・・!なんで二人して黙ってるのよ?」
「・・・」
「・・・」

ミギョンとヨンミが黙ったまま顔を見合わせ、やがて「・・・聞いた?」「ヨンミも?」と内緒話を始めたので、ナヨンは思わずテーブルを叩いた。

「ちょっと!!いったい何なの!?」「さっきからコソコソと・・・」
「・・・実はね、オンニ」

ヨンミは小さな声で「こっちに寄って」と目配せをする。

「なによ?」

ナヨンは、顔を二人に近づけた。

「あの・・・」「い、言いにくいんだけど・・・」
「ハッキリ言いなさいよ」
「ヨンスオンニとソン先生、ちょっと噂になってる」
「ええっ!?」「そ、それ、ホンと??」

ミギョンとヨンミは、ほぼ同時に肯いた。

「教室で二人が親しげに話しているところを見た子がいるし、恋人同士みたいに並んで歩いてるところを見た子もいるって・・・」
「そ、そんなの、先生と生徒なら当然じゃない」
「・・・私は、先生の研究室にヨンスオンニが入ったっきり、なかなか出てこないって聞いた・・・」
「へ・・・!?」
「私も、それ、聞いた」
「ちょっと、ちょっと、なんで私だけ知らないのよっ!?」
「ほら、オンニはヨンスオンニと同じ歳だし、仲がいいって、皆、わかってるし・・・」
「・・・」
「私だって、つい最近、知ったのよ」

このキャンパスではかなりの顔役であるミギョンが「直ぐに緘口令を布(し)いたけどね」と、眉間に皺を寄せながら呟いた。

「・・・で、事実なの!?」
「さあ・・・」

ヨンミは首を傾げた。
しかし、「二人は絶対、デキてるって」とミギョンがキッパリ言い放つ。

「えっ!?」
「・・・っていう陰口を、何度も聞いたわよ」
「・・・」
「ホテルから一緒に出てきたって噂もあるみたい・・・」
「!」「・・・そ、それ、本当なの??」
「わからないわよ」「実際、私がこの目で確かめたわけじゃないから」
「・・・」
「・・・だけどさぁ」

ヨンミが言いにくそうに口を開く。

「なによ?」
「・・・お似合いだよね」
「ちょっ・・・!」
「わかってるって」

ヨンミは周囲を気にしつつ、「ヨンスオンニには旦那さんがいるんだから、まずいってことは」と小さな声で呟く。

「でもさぁ・・・」
「わかるわよ」

ミギョンまでが相槌を打つ。

「だって、ソン先生はエリートよ」
「才能だって凄いし、将来有望だし・・・」
「オンニが惹かれるのも無理ないっていうか」
「うんうん」
「・・・」


ソン・ジフンの魅力を充分に知り尽くし評価している二人の口ぶりは、まるでヨンスが浮気心を起こしても仕方がない、とでも言いたげだ。

しかしナヨンは、どうしてもこの会話を肯定する気にはなれない。
なぜなら、彼女は、たった一度だけだが、ヨンスの夫に直接、会ったことがあるからだ。



あれは確か、去年の秋頃だ。
ヨンスと二人、学校帰りにお茶をしていたカフェ。
自分に向かって歩いてきたハンサムな男性に、ナヨンの胸は時めいたものだった。

『ヨンス』
『こんなところで逢うなんで、偶然だね』
『・・・お友達?』
『イ・ミンチョルです』『いつもヨンスがお世話になっております』

耳障りの良いバリトンボイス。
濃紺のスーツをビシッと着こなし颯爽と現れた男性。
ナヨンは珍しく緊張し、「ちょっと、ヨンス!・・・誰?彼氏?」と、小声でヨンスを突(つつ)いた。

『夫ですよ』

そう言った男性の卒倒しそうなくらい、素敵な微笑み。
あれこそがキラー・スマイルというものだろう。

テーブルの上の伝票をスマートに掴んだ彼は、慌てたナヨンに「いつも家内と仲良くして頂いている御礼ですよ」とウインクした。
あの時の天にも昇る心地は、今も未だしっかりと覚えている。


あの男性(ひと)はヨンスを心から愛している。
ヨンスを見つめる彼のセピア色の瞳で、ナヨンにはそれがわかった。
温かくて深くて、熱い眼差し。
彼は愛おしそうにヨンスを見ていたし、ヨンスだって彼を愛している。

彼女の生活は、ナヨンが見ている限り夫中心だ。
学業はともかく、友達付き合いより家事を優先しているのは誰の目にも明らかだった。
週末、映画やドライブ、一泊旅行等に誘っても、彼女がそれに応じたことはほとんどない。
「ちょっと用があって」
「風邪気味だから」
「洗濯物が溜まってしまって・・・」
言い訳は様々だが、恐らく平日忙しいあのご主人との時間を作る為に、週末は在宅するようにしているのだとナヨンは思っている。

それに・・・。
こんなことを言ってはなんだが、ナヨンはヨンスが毎晩のように愛されているのだろうということが、なんとなくわかる。
傍にいると、匂いたつ色香のようなものに、女であるナヨン自身がクラクラすることがあるくらいだ。
しっとりと艶やかな肌に、少し気だるそうな表情、潤んだ目元・・・。
朝一番の講義で隣席に座る時、それは一段と顕著だ。
ミギョンやヨンミ、仲の良い他の友人たちには決して感じないある種の余韻・・・。
これは、バツイチであるナヨン独特の勘なのかもしれない。
ヨンスが既婚者だと知っても、自分が他の二人ほど驚かなかったのは、やはり以前から無意識に感じるところがあったからだろう。


ヨンスの夫は今、上り調子の会社の社長だ。
その社会的地位がソン先生より上か下かと問われれば、それはわからない。
経済面はどうだろう?
それも定かではない。
ただ、ヨンスの金銭感覚を見ている限り、音楽業界は見た目ほど華やかではないのかもしれない。
それが証拠に彼女は贅沢を一切しないし、ブランド品は元々興味がなさそうだ。
一方のソン先生は、服装や身につけている小物一つとっても洒落ているし、洗練されている。
尤も、昨年、初めて会ったヨンスのご主人も、派手さはなかったものの、そのスーツ姿は際立っていた。
やはりヨンスの慎ましやかな日常は、生活レベルというより本人自身の性格に根ざしたものであると考えられる。

しかし、ミギョンやヨンミは、恐らくソン先生の方が全てにおいて格上だと思い込んでいる。
それで、よからぬ噂を肯定するような無神経なことを口にしているのだ。

(キム・ヨンスが、浮気なんかするわけないわ)

ミギョンはそう思うし、そう信じてる。

・・・ただ、これだけは言える気がする。

(ソン先生もヨンスのご主人も、人格者の上にそろいも揃ってカッコいい・・・)
(おまけに高度な教育を受けていて、知的レベルは相当に高いわ・・・)

(そして、ヨンスは・・・)
(そんな二人に愛されるだけの魅力がある・・・)




「・・・」

ナヨンは言葉を発することが出来なかった。
複雑な胸中のナヨンを尻目に、ミギョンとヨンミはヒソヒソ話を続行中だ。

「・・・ほら、ソン先生の親衛隊みたいなグループがいるじゃない?」
「ああ、いる、いる・・・」
「あの子達は、ヨンスオンニが積極的に迫ってるって、言いふらしてる」「ソン先生が気の毒だって」
「なんですって!?」

ナヨンは、つい過剰反応してしまう。

「だけど、真に受けている子はいないよね」
「そうそう」
「皆、ソン先生がオンニに夢中ってわかってる・・・」
「・・・」
「講義中もね、先生は何気にヨンスオンニを目で追ってるって話」
「そういえば・・・」

一瞬、三人の間に沈黙が流れた。

「ねぇ・・・」

その沈黙を打ち破り、ナヨンがおもむろに口を開く。

「ヨンスに、ちゃんと説明してもらった方がいいんじゃないの?」

ミギョンとヨンミが顔を見合わせる。

「だって、この際、ハッキリさせた方が・・・」
「ハッキリさせて旨くいくケースと、そうじゃないケースがあるわよ、オンニ」

ミギョンはキッパリと言った。

「どういうこと?」
「しばらく様子を見た方がいいってこと」
「なぜ・・・?」
「ヨンスオンニに何か意見を求めるなら、もっと確定的な証拠を掴んでからよ」
「証拠・・・」
「じゃないと、オンニは傷つくわ・・・」


三人は共に、例の弁護士のプロポーズ事件を体験している。
あの後の彼女の落ち込みよう、塞ぎぶりは相当なもので、一時期、三人は心底、心配したものだった。

確かに、今回の醜聞については、噂が独り歩きしている状況だ。
決定的場面にでくわした者を探したものの、誰も見つけることが出来ない状況であるのは間違いない。
つまり、この段階でヨンスを問い詰めるようなことをすれば、事実がどうであれ彼女のダメージは相当に大きいことは容易に想像がつく。

三人は互いに顔を見合わせると、なにかとアクシデント ―といおうか、スキャンダルといおうか、はたまたトラブルといおうか― に巻き込まれがちな同級生を想い、深い溜め息をついた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする