第17話 清 算
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天気予報が暖かく穏やかな一日を保証したその日、ショーンは動物園へ遊びに行った。
なんでも「男同士の約束」らしく、十時にソンジェが迎えに来て電車で出かけたのだ。
夫は先週末から海外出張で、帰国は明日の予定になっている。
「ああ、すっきりした・・・」
ヨンスは思わず呟いた。
十時半にやってきた専門業者がフロアや水周りをピカピカに磨き上げ、ショーンから解放されたヨンスも気になっていたクローゼットの片付けや引き出しの整理など充実した午前中を過ごすことができた。
近頃、夫は気を利かせてハウスキーパーの契約を週三回に変更した。
最近はさすがに部屋が汚れる。
ショーンの昼寝の合間を縫ってこまめに掃除をしても、どうしても中途半端になってしまう。
『そんなの、無駄遣いだわ』
ヨンスは渋ったが、夫は当然という表情で説得を重ねた。
『掃除好きの君が疲れ果てるくらい、ここは広いからね』
彼自身、部屋が乱雑なのは大嫌いなのだが、ヨンスはそれに輪をかけて綺麗好きだった。
尤も、ショーンがやって来てからは目を瞑ることも多い。
『細かいことを気にしたら、ストレスが溜まって大変だもの』
それは夫も同じらしい。
階段にして五段ほど高い空間にある書斎スペースはショーンの立ち入りが固く禁じられていたが、階段の途中やその下に、玩具や絵本、挙句の果ては菓子の食べかすなどが落ちていると当初は腹が立っていたようで、傍から見ていてもそれがよくわかった。
が、今ではやり過ごせるようになっていて微笑ましい。
なにはともあれ、午前中の掃除のお陰で室内は何処も彼処も完璧な状態である。
塵一つ落ちていない。
ストレスに苛まれていた箇所も整理整頓し、ヨンスはようやく落ち着いた。
昼になると、冷蔵庫にあったハム、レタス、トマト、卵を使い、手際よくサンドウィッチを作った。
ミルクパンで牛乳を温め、ダージリンの茶葉を多めに散らす。
充分に煮出したら、ティーストレーナーを使って大きめのマグカップに注ぎいれる。
「いい香り・・・」
ついついティーバッグを使ってしまうこの頃なので、些細なことでも優雅な気持ちになれる。
久しぶりにのんびりと食事をしたヨンスは、片づけをしながら午後の予定を考えた。
目蓋に浮かんだのは、ショーンではなく凛々しい夫の姿だ。
「あなた」
そっと呟いてみる。
出発前夜、彼はとても激しかった。
ショーンは階上でソンジェと共に就寝したから声を上げても特に問題はなかったのだが、しかし万が一ということがある。
幼子はともかく、親友でもある義弟に淫らな声を聞かれるのは絶対に避けたい。
必死で堪え、唇を噛み締めていた。
『君が・・・自制心を働かせると・・・』
『・・・僕は・・余計に虐めたくなるんだよ』
『・・・それが・・わからないのかい・・・?』
鳥肌が立つような甘く低い声でそう耳元に囁かれた瞬間、大きな波が全身を駆け抜け・・・
ヨンスは頬を染め、小さく息を吐いた。
身体の奥底がジンと痺れ、熱く潤んでいるのが自分でもわかる。
(明日の夜は、何か美味しいものを作らなきゃ・・・)
(今回の出張先は・・・東南アジアに日本・・・)
卓上カレンダーに目をやる。
(きっと洋食や日本食が続いているはずね)
夫は、いわゆる一般的な洋食や日本料理は好きだが、東南アジアに多い香辛料の効いた味付けは意外と好まない。
どちらかというと保守的なのだ。
(・・・そう、やっぱり家庭料理が一番よね)
(何にしようかしら・・・?)
(奮発して上等のお肉を沢山買って、焼肉と・・・)
(それから・・・)
突然、滅多に鳴らない固定電話が音をたてた。
(ソンジェさん・・・?)
(まさか、ショーンに何か!?)
慌てて駆け寄り、受話器を握り締める。
「も、もしもしっ!?」
『・・・キム・ヨンスさん?』
艶やな成熟した女性の声色が耳に響く。
「は、はい、そうですが・・・あの、どちら様ですか?」
『・・・私、セナさんのプロデュースをしているものです』
「まあ・・・セナの!?」
途端に警戒心を解いた。
「いつもお世話になっております」
『・・・こちらこそ。実は・・・』
「・・・?」
その女性は、ヴィラの近くまで来ているという。
『込み入ったお話があるので、静かな場所でお話したいの』
それなら自宅に、と口にしそうになった時、又もや夫の顔が脳裏に浮かんだ。
いくらセナが世話になっているからといって、初対面の相手、それも夫と同じ業界にいる人間をプライベートな空間に迎え入れるのは非常識かもしれない。
ヨンスは出かかった言葉を呑み込んだ。
仁寺洞(インサドン)の路地裏に人気(ひとけ)の少ないカフェがあるので、これから付き合って欲しいと彼女は続けた。
『勿論、お迎えにあがるわ・・・』
『三十分後に、表通りに出た所でお待ちしています』
そう言われ、ヨンスは戸惑うことなく了承した。
薄手のカシミアのツインニットに膝下丈のスカートという日常着だったヨンスは、セナが日頃お世話になっている目上の女性に会うということで、着替えることに決めた。
きちんとした印象が必要だと考え、淡いグレーのツーピースを手に取る。
他の服と同様に夫の見立てで初春に購入したものだが、これは特に評判がいい。
ドレッシングルームの鏡の前で髪を梳かし、ネックレスはせずにパールのイヤリングだけ付けた。
服に合わせイタリア製のチャコールグレーの靴と、お揃いのハンドバッグを持つことにする。
買い物用のナイロン・トートから財布を取り出し、ハンカチ、携帯電話と共に入れ替えた。
窓辺のレースシェードを下ろし、炊飯器をセットして準備OK。
外出するとはいえ、往復を含めせいぜい二時間程度だろう。
ソンジェは明るいうちに戻ると言っていたし、鍵は預けてあるが帰宅はそんなに遅くならないはずだ。
食材は十分に買い置きがあるから、夜のメニューはあとで考えればいい。
恐らく動物園ではショーンがフレンチフライなどのファーストフードを食べたがるだろうから、夜はお野菜が沢山入ったお鍋にして、栄養バランスを考えなくてはならない・・・。
「えっ・・・!?」
コーヒーカップが大きな音を立てソーサーに当たる。
ヨンスは慌ててカップを包みこみ、震えを掌に閉じ込めた。
黒光りする高級外車の脇に立つ女性を見た瞬間、ヨンスはその正体がわかった。
個人的に会ったことはないものの、遠くから目にしたことがある。
漢江の川面を進む船上。
セナのデビューイベントの夜のことだ。
業界で知らぬものはいないその洗練された妖艶な女性は、ヨンスとはなんの関わりも無い存在だ。
但し・・・但し、天涯孤独のヨンスにとって最も近しい存在である夫とも、セナとも、そしてソンジェとも、この女性は深い因縁があり密接な繋がりがある。
『ヨンスさん』
『はい・・・?』
『ナレさん達と帰って下さい』
デッキの手すりに置いた私の手に、彼は自分の手を重ねたままそう言った。
『室長・・・?』
彼は表情を強張らせたままで、応えることはなかった。
足早にその場を去り、やがてマスコミ連中に囲まれながら車に乗り込んだ。
あの時、ソンジェを従え不気味な笑みを浮かべながらVARIOUSを窮地に追い込んだのが、この面前の女性。
当時のMUSE社長、ヤン・ギョンヒそのひとである。
「あ、あの・・・」
「・・・今、今、なんて・・・?」
ヨンスの声が震える。
ヤン・ギョンヒはニッコリと笑った。
「・・・聞こえなかったかしら?」
「じゃあ、もう一度言うわね」
深紅のマニキュアが塗られている長い爪先で、彼女は優雅に黒髪を梳いた。
「貴女の骨髄移植の費用は、全てソンジェ君が出したの」
「勿論、ご主人は既に返済なさっている」
「でも・・・」
「当時は、ソンジェ君が払ったのよ」
頭の中が真っ白になった。
微かに震えている唇と指先。
必死に堪えようとしても、その震えがとまらない。
(手術費用を・・・)
(ソンジェさんが出してくれた・・・?)
そんな馬鹿なと思ったものの、やがてそれが事実であるということに行き着く。
「・・・」
退院後、どれだけ費用がかかったのか不安で心配で申し訳なくて、幾度となく夫に尋ねた。
もし借金をしたのなら、内職をしてでも返済の手助けをしなければと思った。
繰り返し問うたけれど、そういえば夫からは「大丈夫」という言葉が返ってきただけだった気がする。
『君はそんな心配しなくていい』
『ヨンス、君はどうしてそう心配症なんだ?』
『大丈夫だよ。VARIOUSの業績は順調に伸びてるしね』
『僕を信じないの?』
『君は黙って僕についてくれば、それでいい・・・』
それらの言葉は、私を安心させる為だけの曖昧なものだったじゃないの・・・!
「・・・っ」
ヨンスは膝の上で拳を握った。
「・・・ただし、ね」
「・・・?」
「そのお金は、ソンジェ君が私から借りたお金なのよ」
大きく目を見開いた。
「あ、あなたから・・・?」
「しかも」「イ室長は、それを知らないわ」
「!」
「ソンジェ君は気を遣ったのね・・・」
ギョンヒは、コーヒーカップを手に取る。
「・・・だって、そうでしょう?」
「私から借りたお金だと知ったら、室長は絶対受け取らなかったはずよ」
「室長からすれば、私は実の父親を社会的に抹殺した宿敵」
「おまけに、彼の総てだったVARIOUSが倒産した遠因でもあるわ」
「・・・当然でしょう?」
「勿論ね、室長は愛する妻の為に、金策に走ったでしょうけれど・・・」
「・・・でも、もし、そうしていたら、今のVARIOUSは存在しなかったでしょうね」
コーヒーを二口飲んだギョンヒは、カップを置いた。
流れるような優美な仕草。
ヨンスは、ただ茫然とそれを見つめた。
「VARIOUSがあれだけの陣容に育ったのは、当時、資金を全て事業に投資出来たからよ」
「・・・つまり」
「今のVARIOUSは、私からの借金によって成り立っているということ」
「事実を知ったら、室長はどう思うかしら・・・」
絡みつくような視線と口調により、ヨンスは自分が追い詰められていくのを感じた。
「・・・しかもね、そのお金に絡んで、ソンジェ君は私と契約を交わしたの」
「・・・?」
「・・・MUSE以外で、音楽活動は出来ないことになってるのよ」
「!」
「それなのにソンジェ君はMUSEを突然、退職してしまった」
「・・・」
「だから彼は今、ああやって燻っているというわけ」
あら、ご存じないの・・・?
驚いたわ・・・
ソンジェ君、道路工事なんてしているのよ
つまりは肉体労働
冬場は大変だったでしょうね
一流医大の優秀な学生だった彼が
音楽の才能に恵まれた彼が
なんて残酷な運命なのかしら・・・!!
ヨンスは思わず目を閉じた。
「これ、ソンジェ君から送られてきたものよ」
小切手の振出人に、ハッキリと夫の名前が刻まれている。
その金額欄の「0」の数を数えて、再び目眩がした。
喉がカラカラに渇き、声が出ない。
「返済して貰うつもりはなかったの」
「ただ、条件だけを付けたのよ」
「それなのに、ソンジェ君は全額を私に戻してきた」
「留学費用も充分に振り込んだのに、一切を手を付けずに返してきたわけ」
「・・・つまり、MUSEとは縁を切る覚悟のようね」
クラッチバックから煙草を取り出したギョンヒは、火を点けると其れを深く吸い込んだ。
ヨンスは思わず顔を上げる。
「・・・ということは、ソンジェさんはもう・・・」
マニキュアと同じ深紅の唇から吐き出された紫煙が、まるでヨンスを包み込むように漂う。
「そうよ、彼はもう二度と音楽活動は出来ないわ」
「・・・貴女のせいよね?」
咳き込むヨンスを、容赦の無い言葉が襲いかかった。