美しき日々 Beautiful Days Epilogue

韓国ドラマ「美しき日々」のその後のストーリーを創作してみました♪

2010年 新年のご挨拶

2010-01-01 | Weblog
2010年 新年のご挨拶 (独白)

忙しない日常

自分だけの
密やかな時間をつくれない
もどかしさと苛立ち

それでも時は 躊躇なく
恐ろしい程の速さで
流れ そして去っていく


やがて
いつの間にか
この胸のうちにわき起った
重く 恨みがましい感情




もっと前向きに生きなくては




新しい年は
わたしの心の潤う場所 
愛おしいイ・ミンチョルとキム・ヨンスが
息づいている この場所に
心を寄せていこう

このふたりに 小さな幸せをみつけて
その幸せを 大切にしていこう



「美しき日々 Beautiful Days Epilogue」を愛して下さる皆様へ
心からの感謝を込めて

lbhcjwlove







第17話(4)

2009-05-23 | Weblog
第17話 清 算

(4) 

天気予報が暖かく穏やかな一日を保証したその日、ショーンは動物園へ遊びに行った。
なんでも「男同士の約束」らしく、十時にソンジェが迎えに来て電車で出かけたのだ。
夫は先週末から海外出張で、帰国は明日の予定になっている。



「ああ、すっきりした・・・」

ヨンスは思わず呟いた。


十時半にやってきた専門業者がフロアや水周りをピカピカに磨き上げ、ショーンから解放されたヨンスも気になっていたクローゼットの片付けや引き出しの整理など充実した午前中を過ごすことができた。

近頃、夫は気を利かせてハウスキーパーの契約を週三回に変更した。
最近はさすがに部屋が汚れる。
ショーンの昼寝の合間を縫ってこまめに掃除をしても、どうしても中途半端になってしまう。

『そんなの、無駄遣いだわ』

ヨンスは渋ったが、夫は当然という表情で説得を重ねた。

『掃除好きの君が疲れ果てるくらい、ここは広いからね』

彼自身、部屋が乱雑なのは大嫌いなのだが、ヨンスはそれに輪をかけて綺麗好きだった。
尤も、ショーンがやって来てからは目を瞑ることも多い。

『細かいことを気にしたら、ストレスが溜まって大変だもの』

それは夫も同じらしい。
階段にして五段ほど高い空間にある書斎スペースはショーンの立ち入りが固く禁じられていたが、階段の途中やその下に、玩具や絵本、挙句の果ては菓子の食べかすなどが落ちていると当初は腹が立っていたようで、傍から見ていてもそれがよくわかった。
が、今ではやり過ごせるようになっていて微笑ましい。

なにはともあれ、午前中の掃除のお陰で室内は何処も彼処も完璧な状態である。
塵一つ落ちていない。
ストレスに苛まれていた箇所も整理整頓し、ヨンスはようやく落ち着いた。



昼になると、冷蔵庫にあったハム、レタス、トマト、卵を使い、手際よくサンドウィッチを作った。
ミルクパンで牛乳を温め、ダージリンの茶葉を多めに散らす。
充分に煮出したら、ティーストレーナーを使って大きめのマグカップに注ぎいれる。

「いい香り・・・」

ついついティーバッグを使ってしまうこの頃なので、些細なことでも優雅な気持ちになれる。
久しぶりにのんびりと食事をしたヨンスは、片づけをしながら午後の予定を考えた。

目蓋に浮かんだのは、ショーンではなく凛々しい夫の姿だ。


「あなた」

そっと呟いてみる。


出発前夜、彼はとても激しかった。
ショーンは階上でソンジェと共に就寝したから声を上げても特に問題はなかったのだが、しかし万が一ということがある。
幼子はともかく、親友でもある義弟に淫らな声を聞かれるのは絶対に避けたい。
必死で堪え、唇を噛み締めていた。


『君が・・・自制心を働かせると・・・』

『・・・僕は・・余計に虐めたくなるんだよ』

『・・・それが・・わからないのかい・・・?』


鳥肌が立つような甘く低い声でそう耳元に囁かれた瞬間、大きな波が全身を駆け抜け・・・



ヨンスは頬を染め、小さく息を吐いた。
身体の奥底がジンと痺れ、熱く潤んでいるのが自分でもわかる。


(明日の夜は、何か美味しいものを作らなきゃ・・・)

(今回の出張先は・・・東南アジアに日本・・・)

卓上カレンダーに目をやる。

(きっと洋食や日本食が続いているはずね)


夫は、いわゆる一般的な洋食や日本料理は好きだが、東南アジアに多い香辛料の効いた味付けは意外と好まない。
どちらかというと保守的なのだ。


(・・・そう、やっぱり家庭料理が一番よね)

(何にしようかしら・・・?)

(奮発して上等のお肉を沢山買って、焼肉と・・・)

(それから・・・)


突然、滅多に鳴らない固定電話が音をたてた。

(ソンジェさん・・・?)

(まさか、ショーンに何か!?)

慌てて駆け寄り、受話器を握り締める。


「も、もしもしっ!?」
『・・・キム・ヨンスさん?』

艶やな成熟した女性の声色が耳に響く。

「は、はい、そうですが・・・あの、どちら様ですか?」
『・・・私、セナさんのプロデュースをしているものです』
「まあ・・・セナの!?」

途端に警戒心を解いた。

「いつもお世話になっております」
『・・・こちらこそ。実は・・・』
「・・・?」

その女性は、ヴィラの近くまで来ているという。

『込み入ったお話があるので、静かな場所でお話したいの』


それなら自宅に、と口にしそうになった時、又もや夫の顔が脳裏に浮かんだ。
いくらセナが世話になっているからといって、初対面の相手、それも夫と同じ業界にいる人間をプライベートな空間に迎え入れるのは非常識かもしれない。
ヨンスは出かかった言葉を呑み込んだ。


仁寺洞(インサドン)の路地裏に人気(ひとけ)の少ないカフェがあるので、これから付き合って欲しいと彼女は続けた。

『勿論、お迎えにあがるわ・・・』

『三十分後に、表通りに出た所でお待ちしています』

そう言われ、ヨンスは戸惑うことなく了承した。



薄手のカシミアのツインニットに膝下丈のスカートという日常着だったヨンスは、セナが日頃お世話になっている目上の女性に会うということで、着替えることに決めた。
きちんとした印象が必要だと考え、淡いグレーのツーピースを手に取る。
他の服と同様に夫の見立てで初春に購入したものだが、これは特に評判がいい。
ドレッシングルームの鏡の前で髪を梳かし、ネックレスはせずにパールのイヤリングだけ付けた。
服に合わせイタリア製のチャコールグレーの靴と、お揃いのハンドバッグを持つことにする。
買い物用のナイロン・トートから財布を取り出し、ハンカチ、携帯電話と共に入れ替えた。

窓辺のレースシェードを下ろし、炊飯器をセットして準備OK。
外出するとはいえ、往復を含めせいぜい二時間程度だろう。
ソンジェは明るいうちに戻ると言っていたし、鍵は預けてあるが帰宅はそんなに遅くならないはずだ。
食材は十分に買い置きがあるから、夜のメニューはあとで考えればいい。
恐らく動物園ではショーンがフレンチフライなどのファーストフードを食べたがるだろうから、夜はお野菜が沢山入ったお鍋にして、栄養バランスを考えなくてはならない・・・。




「えっ・・・!?」

コーヒーカップが大きな音を立てソーサーに当たる。
ヨンスは慌ててカップを包みこみ、震えを掌に閉じ込めた。



黒光りする高級外車の脇に立つ女性を見た瞬間、ヨンスはその正体がわかった。
個人的に会ったことはないものの、遠くから目にしたことがある。
漢江の川面を進む船上。
セナのデビューイベントの夜のことだ。

業界で知らぬものはいないその洗練された妖艶な女性は、ヨンスとはなんの関わりも無い存在だ。
但し・・・但し、天涯孤独のヨンスにとって最も近しい存在である夫とも、セナとも、そしてソンジェとも、この女性は深い因縁があり密接な繋がりがある。



『ヨンスさん』
『はい・・・?』
『ナレさん達と帰って下さい』

デッキの手すりに置いた私の手に、彼は自分の手を重ねたままそう言った。

『室長・・・?』

彼は表情を強張らせたままで、応えることはなかった。
足早にその場を去り、やがてマスコミ連中に囲まれながら車に乗り込んだ。
あの時、ソンジェを従え不気味な笑みを浮かべながらVARIOUSを窮地に追い込んだのが、この面前の女性。

当時のMUSE社長、ヤン・ギョンヒそのひとである。



「あ、あの・・・」

「・・・今、今、なんて・・・?」


ヨンスの声が震える。
ヤン・ギョンヒはニッコリと笑った。


「・・・聞こえなかったかしら?」

「じゃあ、もう一度言うわね」


深紅のマニキュアが塗られている長い爪先で、彼女は優雅に黒髪を梳いた。


「貴女の骨髄移植の費用は、全てソンジェ君が出したの」

「勿論、ご主人は既に返済なさっている」

「でも・・・」

「当時は、ソンジェ君が払ったのよ」


頭の中が真っ白になった。
微かに震えている唇と指先。
必死に堪えようとしても、その震えがとまらない。


(手術費用を・・・)

(ソンジェさんが出してくれた・・・?)


そんな馬鹿なと思ったものの、やがてそれが事実であるということに行き着く。


「・・・」


退院後、どれだけ費用がかかったのか不安で心配で申し訳なくて、幾度となく夫に尋ねた。
もし借金をしたのなら、内職をしてでも返済の手助けをしなければと思った。
繰り返し問うたけれど、そういえば夫からは「大丈夫」という言葉が返ってきただけだった気がする。


『君はそんな心配しなくていい』

『ヨンス、君はどうしてそう心配症なんだ?』

『大丈夫だよ。VARIOUSの業績は順調に伸びてるしね』

『僕を信じないの?』

『君は黙って僕についてくれば、それでいい・・・』


それらの言葉は、私を安心させる為だけの曖昧なものだったじゃないの・・・!



「・・・っ」


ヨンスは膝の上で拳を握った。


「・・・ただし、ね」
「・・・?」
「そのお金は、ソンジェ君が私から借りたお金なのよ」


大きく目を見開いた。


「あ、あなたから・・・?」
「しかも」「イ室長は、それを知らないわ」
「!」
「ソンジェ君は気を遣ったのね・・・」


ギョンヒは、コーヒーカップを手に取る。


「・・・だって、そうでしょう?」

「私から借りたお金だと知ったら、室長は絶対受け取らなかったはずよ」

「室長からすれば、私は実の父親を社会的に抹殺した宿敵」

「おまけに、彼の総てだったVARIOUSが倒産した遠因でもあるわ」

「・・・当然でしょう?」

「勿論ね、室長は愛する妻の為に、金策に走ったでしょうけれど・・・」

「・・・でも、もし、そうしていたら、今のVARIOUSは存在しなかったでしょうね」


コーヒーを二口飲んだギョンヒは、カップを置いた。
流れるような優美な仕草。
ヨンスは、ただ茫然とそれを見つめた。


「VARIOUSがあれだけの陣容に育ったのは、当時、資金を全て事業に投資出来たからよ」

「・・・つまり」

「今のVARIOUSは、私からの借金によって成り立っているということ」

「事実を知ったら、室長はどう思うかしら・・・」


絡みつくような視線と口調により、ヨンスは自分が追い詰められていくのを感じた。


「・・・しかもね、そのお金に絡んで、ソンジェ君は私と契約を交わしたの」
「・・・?」
「・・・MUSE以外で、音楽活動は出来ないことになってるのよ」
「!」
「それなのにソンジェ君はMUSEを突然、退職してしまった」
「・・・」
「だから彼は今、ああやって燻っているというわけ」


あら、ご存じないの・・・?

驚いたわ・・・

ソンジェ君、道路工事なんてしているのよ

つまりは肉体労働

冬場は大変だったでしょうね

一流医大の優秀な学生だった彼が

音楽の才能に恵まれた彼が

なんて残酷な運命なのかしら・・・!!


ヨンスは思わず目を閉じた。


「これ、ソンジェ君から送られてきたものよ」

小切手の振出人に、ハッキリと夫の名前が刻まれている。
その金額欄の「0」の数を数えて、再び目眩がした。
喉がカラカラに渇き、声が出ない。


「返済して貰うつもりはなかったの」

「ただ、条件だけを付けたのよ」

「それなのに、ソンジェ君は全額を私に戻してきた」

「留学費用も充分に振り込んだのに、一切を手を付けずに返してきたわけ」

「・・・つまり、MUSEとは縁を切る覚悟のようね」


クラッチバックから煙草を取り出したギョンヒは、火を点けると其れを深く吸い込んだ。

ヨンスは思わず顔を上げる。


「・・・ということは、ソンジェさんはもう・・・」


マニキュアと同じ深紅の唇から吐き出された紫煙が、まるでヨンスを包み込むように漂う。


「そうよ、彼はもう二度と音楽活動は出来ないわ」


「・・・貴女のせいよね?」


咳き込むヨンスを、容赦の無い言葉が襲いかかった。







ブログ開設四周年記念のご挨拶

2009-05-22 | Weblog
「美しき日々Beautiful Days Epilogue」を覘いてくださる皆様、四年間の月日をご一緒して頂き本当に有難うございました。
心より御礼申し上げます。

・・・といいつつ、「新年のご挨拶」の次がこれですからね。
お詫びのしようもありません・・・


今週末より、なんとか少しずつでも物語をUPしていくつもりです。
その決意を、未だこの創作を楽しみに待ってくださっている方々へのご挨拶とさせて頂きます。



イ・ミンチョルとキム・ヨンスの、永遠の幸せを切に願って・・・


2009年5月22日

lbhcjwlove



2009年 新年のご挨拶

2009-01-01 | Weblog
新年のご挨拶

「美しき日々Beautiful Days Epilogue」を覘いて下さっている皆様、新年明けましておめでとうございます。
いつの間にか・・・もう2009年!?
歳を重ねると共に、時間の経過も加速していくような気がしてならない今日この頃です。

さて、皆様にお詫びをしなければならないこの状況。
非常に心苦しく思っています。
ここのところ、とにかく「美日々」の世界に浸る時間が捻出できません。
わたしの場合、創作の世界はもう一つの(仮想)現実であり、その中に身を置く余裕が無いとなかなか言葉を紡げず場面が流れていかないのです。
個人的なことですが構成を変更したことも大きく影響しているようで、なんといおうか・・・これまでの物語と既にほぼ確定しているこの後の物語を繋げる部分で、現在、葛藤していると表現すればいいでしょうか。
筋金入り「美日々」ファンであろう皆様のお目に触れるのであれば、やはり納得できる文章に仕上がってからと思っている間に、時がサラサラと砂のように流れていってしまいます・・・

「美日々」への熱情を懐に抱いたまま、それを表現する場があるというのに悶々とするのはもう限界だと自分自身が感じていますので、なんとかして元のペースに戻せるよう尽力するつもりです。
この大きな壁を乗り越えれば、道は自ずと拓けると確信していますから。
「美しき日々Beautiful Days Epilogue」を気にかけて下さる皆様が、その過程を見守って頂けるというのであれば、こんなに嬉しいことはありません。

ミンチョルとヨンスをこよなく愛する「美日々」ファンの皆様にとって、この一年が思い出に残る素晴らしい年でありますように。

心からの感謝を込めて・・・

lbhcjwlove

第17話(3)

2008-10-04 | Weblog
第17話 清 算 

(3)

「・・・泥棒でも入ったか・・・?」

妻の肩を抱き寄せながら、ミンチョルは呟いた。


室内は未だかつて見たことのない散らかりようだ。
窓際に置かれている小振りの鉢植えが幾つか倒れ、イタリア製の優雅なソファのクッションは無残にもあちらこちらへと飛ばされている。

「あなた・・・」

あまりの惨状のせいか、ヨンスの声は微かに震えていた。
部屋の中央へ移動すると、奥のキャビネットの扉が開け放たれたままなのが目に付く。
ダイニングの椅子が二脚転がっている他、ミニカーの類いに混じりステップ・フロアのミンチョル専用デスクの上にあった置時計や書籍、フロッピーディスク、ファイルまでもが床に散らばっている。

「・・・!」

ヨンスの顔色がサッと変わった。



「マミ〜っ!」

ショーンが、突如、顔を出した。
その後を、ソンジェがヨロヨロと追いかけてくる。

「ショ、ショーン・・・」

「た、頼むから・・・」

「ま、待ってくれ・・・」

ソンジェはぜいぜい息を切らして、ミンチョルの足元に倒れ込んだ。

「ソ、ソンジェ、大丈夫か!?」

ミンチョルが跪き介抱する。

「おい、ソンジェ」「ソンジェ!」
「み、水・・・」
「わかった!」

ミンチョルは慌ててキッチンに駆けていく。


立ち尽くすヨンスの足に、ショーンが絡みついた。

「マミー!」
「・・・」
「ママ!抱っこ」
「・・・」
「抱っこぉぉぉ・・・!!」

いつもなら、すぐにショーンを抱き上げる。
が、この日、ヨンスは黙ってショーンを見つめていた。

「マミー!」
「・・・」
「マミーったら!」
「・・・」
「抱っこ!抱っこしてぇ〜!」

ショーンは大声で喚くが、ヨンスはそのままだ。
キッチンから出てきたミンチョルは、次の瞬間、立ち尽くした。

「!」

膝を折ってショーンの正面に位置すると、ヨンスは幼子をキッと睨みつけたのだ。
ミンチョルも、座り込んでいるソンジェも、そしてショーン自身も、ビックリして茫然とヨンスを見つめている。

「ショーン」

鬼のような形相のヨンス。
低く落ち着いた声がリビングに響き渡る。

「はいっ」

ショーンは目をまるくしたまま、返事をした。

「ママ、言わなかったかしら?」
「・・・?」
「あそこの机の上は絶対に触っちゃ駄目よって」
「・・・!」
「ママ、言わなかった?」
「・・・」
「なぜ、触ったの?」
「・・・」
「ショーン!返事をなさいっ!」


厳しい声だった。
怖い。
怖すぎる。
迫力満点過ぎて、ミンチョルもソンジェも身体が震えた。
当のショーンは硬直している。
それはそうだろう。
今まで大して怒られることなく、甘え放題だったのだから。


「ショーン、答えなさい」

幼いショーンが震えているというのに、ヨンスは容赦しない。

「・・・」
「ショーン、答えられないの?」


「ヨ、ヨ、ヨンス、もういいじゃないか?」

思わずミンチョルは口を挟んだ。

「・・・ね?」

「・・・だって、ショーンは反省しているよ!」

「別に重要なものはないから、問題ない・・・」


グラスをソンジェに手渡すと、ショーンに駆け寄り思わず抱き寄せた。
小さな身体が、わなわなと震えている。

(可哀相に・・・)

ミンチョルは初めて、ショーンに憐憫を感じた。


「あなたは黙っていて頂戴」

ビシリと言われ、ミンチョルはたじろぐ。

「だ、だけど・・・」
「私はショーンと話しているの」


ヨンスは「どいて」というように手を動かした。
それはショーンから離れざるを得ないほど、有無を言わさないド迫力だった。

「・・・」

不本意ながら、ミンチョルは思わず後ずさる。

「ショーン、返事は?」
「う・・・」
「・・・楽しかったの?」
「・・・うん」
「楽しかったら、何をやってもいいの?」
「う・・・」
「ママ、ショーンに言ったはずよ」
「・・・」
「あそこのお机は大切な物が沢山あるから、近寄ったら駄目だって」
「・・・」
「ショーンは、なんて言ったかしら?」
「・・・」
「あの階段の上には行かないって、そう言わなかった?」
「うぅ・・・」
「ショーン、返事は?」
「・・・はい」
「・・・わかっているのに、なぜやるの?」
「ごめんなさい」
「ママ、がっかりだわ・・・」
「ごめ・・・」「ママ、ごめんなさい・・・」

ショーンはシクシクと泣き出した。
いつもの、注意を引こうとする大袈裟な泣き方ではなく、辛そうに涙をポロポロと流した。
しかし、ヨンスはまだショーンを見つめている。

「ショーン」
「はい」
「ママとお約束できる?」
「はい」
「じゃあ、これからどうするの?」
「ハイ・・・もう・・・いきません」「ぜったい・・・さわらない!」
「本当かしら・・・?」
「ほんとうっ!」

ショーンは涙ながらに、しかし気丈に答えた。

ソンジェの目は潤んでいる。
実はミンチョルも、ウルウルきていた。

(可哀相なやつ・・・)

だが、ヨンスは冷静沈着そのものだ。
同情の欠片もみせず、ショーンにハッキリ言い放った。

「もし、今度、お約束を破ったら」
「・・・」
「ショーンは、このお家から出て行ってもらいます」
「!」

ショーンは目を大きく見開いて、首を振った。

「ママ・・・!!」

唇を震わせながら必死でヨンスに縋る。

「・・・わかったわ」「じゃあ、ママはショーンを信じます」

ヨンスはそう言うと、小さな身体をギュっと抱きしめた。



「ふ〜っ」

ミンチョルとソンジェが同時に息を吐いた。
緊迫し凍てついていた空気が、ようやく緩む。
二人は顔を見合わせ、「怖かったな」「焦ったよ」など目線で会話を交わす。


「このお洋服はお出かけ用だから、鼻水はつけないでね」

そんなことを言いつつ、胸元に顔を寄せ甘えるショーンをヨンスは目を細め見つめた。

「・・・じゃあ、ママ、着替えてくるわ」

ショーンを床におろしたヨンスは涙に濡れた左右の頬にキスをし、リビングから出て行った。



「は〜っ!」
「凄い迫力だ・・・」
「ヨンスさんって、いつもあんな風に怒るの?」
「僕は見たことないが・・・」「ショーン、ママはいつもあんなに怖いのか?」

ショーンは首をブンブンと横に振る。

「・・・ソンジェ」

不意にショーンが言った。

「え?」
「・・・出たかも」

ソンジェはショーンに近寄ると、思わず顔を顰めて鼻を摘んだ。

「・・・なんだい?」
「大・・・だよ」

「だい?」とミンチョルが聞き返す間もなく、ソンジェは新しいオムツを片手にショーンを抱き上げトイレへと走り去った。


メチャクチャになったリビングに独り残されたミンチョルは、へなへなと座り込んだ。
そして、大きなため息をつく。

「はぁ・・・」



『ショーン、ソンジェ君に似ているでしょう』

『でもね、残念ながらソンジェ君の子ではないわ・・・』

『セナはね、氏素性のわからないアメリカ系韓国人の青年と一夜だけ関係を持ったの』

『ソンジェ君のアパートを訪ねた日の夜に・・・ね』


突然、ヤン・ギョンヒの声が耳元を過(よ)ぎった。


(どうしたものか・・・)


端整な顔が、苦悩に歪む。



愛する妻との幸せな結婚生活が、実は最大の危機に直面しているということに、ミンチョルは当然ながら未だ気付いていない。

第17話(2)

2008-08-27 | Weblog
第17話 清 算 

(2)

「・・・しかし、イ社長にこのような美しい奥方がいたとはねぇ」

クライアントのソン社長は、正面に座ったヨンスを見つめ呻いた。

「あなたったら、本当に鈍いのだから」
「いや〜、参った!すっかり独身だと思い込んでいたから・・・」
「主人はね、仕事は出来ますのよ」「でも、色恋についてはサッパリで・・・」

明るく朗らか、且つ乙女チックな夫人は、今夜はピンクの花柄のワンピースを着ている。
胸元には大きなリボンがついており、イヤリングもパールにゴールドのリボンがあしらわれている。高価そうな腕時計は、なんとハート型だ。

(せめてストッキングは、白ではなくナチュラルにするべきだ・・・)

内心、そんなことを思いながら、ミンチョルは肯き微笑んだ。


確かにソン社長は潔癖だ。
女性が侍る宴席を好まないのは業界内でも知られているし、愛妻家として有名である。
アメリカ式のジョークは通じるものの、そんな堅い一面にミンチョルは好感を持っていた。


「しかし、君はどうしてわかったんだい?」
「女の勘・・・とでも言えばいいかしら?」
「ほぉ」
「イ社長がヨンスさんを見つめる目は、とても深くて慈愛に満ち溢れたものだったもの」

ヨンスは赤面して俯き、ミンチョルは咳払いをした。

「どう表現したらいいのか・・・」

夫人はウットリと視線を宙に漂わせつつ、手を打った。

「そうよっ!」
「な、なんだい?」

隣席のソン社長が驚いて身を引いた。

「つまり、二人はね」
「う、うん」
「“永遠の恋人”そのものという感じだったのよっ!!」


ミンチョルはワインを吹きだしそうになり、慌ててナプキンで口元を拭った。
ヨンスはフォークを落としたものの、すぐさまボーイが駆けつけ何事も無かったかのように振る舞った。


「・・・君は詩人だね」

ソン社長は自分の妻を見つめ、ニッコリと微笑む。
夫人も「そうでしょう?」とばかりに満面の笑みを浮かべる。


「・・・参りました」

ミンチョルが一言呟き、高級ホテルのメインダイニングが上質な笑いに包まれた。



夫妻との会食は、会話も弾み非常に楽しい充実した時間となった。
二組の夫婦は奥まった場所にある落ち着いた個室に向かい合って着席したが、社長はヨンスの向かいに、ソン夫人はミンチョルの向かいに位置し、共に機嫌がいい。


「だけど、本当にお似合いのカップルね」
「同感だ」
「こうして並んでいるのを見ると、まるで映画スターみたい♪」
「そういえば、前に見た・・・なんと言ったかな?あの映画・・・」
「あの映画・・・じゃ、わかりませんよ」
「とにかく、あの映画の主人公二人によく似てるなぁ」
「題名を思いだして頂戴!」


ゲストの立場であるミンチョルは、笑顔でソン社長夫妻の会話の聞き役に徹した。
唯一、昨年の国展の話題をヨンスに振られた時だけ、寡黙になりがちな妻をフォローし、話を巧みに変えるべく力を尽くした。

話の流れから、どういうわけかVARIOUSに有益な取引も突然、決まってしまった。
社員が数ヶ月前から先方担当者との間で悪戦苦闘していたことが、その夜、一気に解決したのだ。
それは、ヨンスが夫人に気に入られたことが大きかった。
誉めそやされたり媚びられたり、謙遜されたりといった人間関係に辟易していた夫人は、一流美大の研究生であるヨンスの率直な姿勢と言動に好感を抱いたようだ。


今夜は先方の招待で、事前にそのことは知らせてあった。
それで気を回したのか、ヨンスは帰り際、お土産を夫人に手渡した。
小振りな箱は赤い包装紙で丁寧にラッピングされており、非常に可愛い。

『あら、これは何かしら・・・?』

甘い物に目がない夫人は、手作りのケーキだと遠慮がちに説明するヨンスの細やかな心遣いにすっかり感動し、「今度は是非、女同士でランチでも」などと言いながら上機嫌で帰っていった。




「疲れた・・・?」

今夜、ミンチョルはかなりワインを飲んだので、車はホテルのパーキングに預けたままだ。
ホテルの正面玄関からドアマンの誘導で模範タクシーに乗り込むと、ミンチョルが口を開いた。

「・・・いいえ」
「本当に?」
「ええ、だって美味しいフレンチを食べて、お喋りしていただけですもの」
「それなら良かった」

「ねぇ?あなた・・・」

妻の珍しく甘い口調に、ミンチョルはゾクッとした。

「・・・な、なんだい?」

平静を装い、横目で妻の横顔を捉える。
ヨンスは、窓外を流れる夜の街をじっと見つめていた。


「ソン社長ご夫妻って、素敵ね」
「・・・ああ」
「奥様が社長を信頼しているのが、お話していてとてもよくわかるし・・・」
「・・・」
「それに、社長の奥様への愛も、こちらに伝わってくるようだったわ・・・」


『・・・君は詩人だね』

ソン社長が呟き妻を見つめた時、実はミンチョルは、苦笑いをする寸前だった。
が、目の端でヨンスの表情を認め、辛うじてそれを押しとどめたのだ。
なぜなら、ヨンスの瞳は、まるで小鹿のようにキラキラと輝いていた。
そして、その黒い瞳の中に、仄かな羨望の光を見て取ったからだ。


「十年後、二十年後に・・・」
「・・・?」
「あんな素敵な夫婦でいられたら・・・」
「・・・そうだね」

膝の上にある華奢な手を取り、ミンチョルは優しく口付けた。


「・・・そういえば、お土産なんて要らなかったのに」
「ご馳走になるっていうから・・・」

手の甲に残る唇の感触を思い出しながら、ヨンスは言った。

「いいんだよ。これはビジネスだ」
「・・・余計なことだった?」

不安そうに見つめてくる妻が、愛おしくて可愛い。

「いや、余計ってことはないけど、出がけに大変だったんじゃないかと思って」
「ソンジェさんが早めに来てくれたのよ」
「・・・」
「それでショーンの相手をしてくれたから、手早く作れちゃったわ」
「・・・そうか」
「あのね、奥様、大邱(テグ)のご出身なのよ」
「・・・なぜ、君がそんなことを知っているんだい?」
「だって、ほら、以前パーティーでご一緒したでしょう?」
「・・・ああ」
「あの時に仰っていらしたの」
「そうだったのか・・・」
「だから、アップルパイを作ったのよ」
「!」
「林檎が好きじゃないかと思ったし、アップルパイって苦手な人はあまりいないでしょう?」

大邱は林檎の産地として有名だ。
ヨンスはなかなかいいところに目をつける。

「ヨンス」
「なぁに?」
「君は、ビジネスの才覚があるね」
「ほんとう・・・?」

ヨンスが嬉しそうに笑った。

「じゃあ、セナがショーンを引き取りにきたら、仕事を探そうかしら?」
「まさか」
「・・・あら、なぜ?」
「・・・」
「研究生になったら時間は出来ると思うのよ?体調もいいし・・・」



君は働く必要ない
今までの人生は
働きづめだったはずだろう・・・?

これからは
僕が君を守る
僕が君を支える

働くなんて
とんでもない

君は
自分の好きなことをして

そう
絵を描いたり
料理をしたり

そうやって楽しく暮らせばいい



「・・・あなた?」

ミンチョルは妻を抱き寄せ、白い額にキスした。

「少し目を瞑ったら・・・?」

ヨンスは素直に肯いた。
右手で薄い肩を抱き、膝の上で白い指先を握る。
運転手が好奇の眼でバックミラーを見ていることなど、気にも留めない。


「さ・・・て」
「・・・?」
「帰ったら、あのチビがうるさいぞ・・・」

目を閉じ夫に身を委ねていたヨンスは、クスッと笑った。

「もう寝ているでしょう」
「・・・ああ、そうか」
「ソンジェさん、きっとクタクタね」
「アイツはたいしたもんだよ」
「なぜ・・・?」
「あのショーンと二人きりで留守番なんて、僕には絶対に出来ないね」
「あなたはそりが合わないから」
「・・・」
「でも、ソンジェさんとは相性がいいみたいだから、きっと楽しくやってるわ」
「わからないぞ?」
「え・・・?」
「喧嘩して、グラスの一つや二つ、割れてるかも・・・」


ヨンスが急に姿勢を戻し、目を見開いた。
そして、深刻な表情でミンチョルを見つめる。

「そうだったら、どうしましょう・・・」
「冗談だよ」
「・・・」
「ソンジェに限ってそんなことはないはずだ・・・」



瀟洒な高級ヴィラの車寄せでタクシーを降りたふたりは、指を絡ませあったまま三階の自室へと向かった。
エントランスのインターフォンは押していない。
この時間であれば、二人ともゲスト・ルームで熟睡しているはずである。


「・・・そのツーピース、とても似合ってるよ」
「奥様にも褒められたわ」
「やっぱりね」
「肌の色によく合っているんですって」
「さすが、画廊のオーナーだけのことはある」
「あなたが選んで下さるお洋服は、安心よ・・・」

どちらからともなく、二人は唇を軽く重ねた。


「本当はね、イヤリングは止(よ)そうとしたの」
「・・・なぜ?」
「ちょっと大きいでしょ?派手すぎるかな?って・・・」
「とても素敵だよ。シンプルな服だからこそ、髪のウエーブとイヤリングが引き立つんだ・・・」

そう言いながら、ミンチョルは妻の髪先を指で弄った。
サロンでセットされたウエーブは、緩やかで優美この上ない。

「ええ・・・そうソンジェさんも言ってくれたの」
「!」
「それで、勇気を出したのよ・・・」


つい悔しくなって、細い腰を強く抱き寄せた。

「!?」

背中に指先を這わせながら、今度は濃厚なディープ・キス。
慌てて抗ったヨンスも、やがて夫の求めに応じて舌を動かしてきた。

静まり返ったヴィラの中、人影は全く無い。
ワインの影響も多少はあるだろう。
ヨンスの腕が背に回ったのを感じ、満足感に浸る。
三階で停止したままのエレベーターの中で、ふたりはしばし抱き合った。


ミンチョルの右手がごく自然に臀部のふくらみを伝い、スカートを捲りあげた瞬間、その刺激的な時間が終わった。
ヨンスがその手を「ピシャッ」と叩いたのだ。

「ちっ」

舌打ちする夫を、ヨンスは軽く睨む。


エレベーターの鏡で顔を確認した彼女は、躊躇することなく「開」のボタンを押す。
軽快な電子音と共に、扉が左右にゆっくりと開いた。



静まり返った室内を想像していたヨンスとミンチョルは、玄関に立つと息を呑んだ。
ダウンライトが煌々と白い床を照らしており、二人のスリッパは四方に飛び散っている。

「・・・」
「・・・」

顔を見合わせ、慌ててリヴィングへのドアを開けた。

「・・・っ!」

ヨンスの小さな口から、悲鳴が漏れる。


それは仕方がなかった。
いつも美しく片付いているリビングの散らかりようは、半端ではない。


「これ・・・」

ヨンスは茫然と立ち尽くす。


「・・・泥棒でも入ったか・・・?」

ミンチョルは小さく呟いた。

第17話(1)

2008-07-31 | Weblog
第17話 清 算 

(1)

「カタン・・・!」

煙管(キセル)を叩き置くと、ヤン・ギョンヒはゆっくりと立ち上がった。
モダンなイタリア家具で調えられた広大なオフィテルは、整然とし過ぎていて温もりを感じない。
背後の窓の向こうには、夕闇に包まれたソウルの街並みが広がっている。

「・・・それで」
「・・・」
「今度の医者は、なんと言っているの?」


まるで捨て猫のように身を縮めたキム・セナは、「全治一ヶ月」と蒼白な表情で答えた。

「・・・一ヶ月?」

ギョンヒは忌々しげにセナを睨みつける。

「それじゃあ、ミュージカルは降板するしかないわね」
「・・・私、やります」
「・・・」
「やりたいんです!」
「・・・諦めなさい」

セナの目から視線を逸らさず、ギョンヒは冷酷に言い放った。

「あの役はこなせないわ・・・」

「そんな足・・・ではね」


細い左脚は、ギブスで固定されている。
スチール製の杖を手にしたセナは、小さな布製のバッグを斜めがけにしていた。


「まったく・・・」
「・・・」
「貴女は、いったい何度私をガッカリさせたら気が済むの?」
「・・・」
「ようやくオーディションに受かって」
「・・・」
「ソウルでの、華々しい復活を期待していたのに」
「・・・」
「それを自分の不注意で」
「・・・」
「陸橋の階段から転げ落ちるなんて・・・!」


「・・・見たんです」

蚊の鳴くような小さな声で、しかしセナはハッキリと口にした。

「・・・何を?」
「・・・」
「いったい、何を見たと言うのっ!?」

鋭い声が、室内に響き渡る。


目を伏せていたセナは、徐に顔を上げるとギョンヒを見つめた。

「なぜ・・・」
「・・・?」
「なぜ、ショーンがソンジェ・オッパに抱かれているんですか?」


ギョンヒは呆れたような表情だ。

「セナ・・・」「あなた、ソンジェ君とショーンの姿を見かけたの?」
「・・・」
「それで動揺したってわけ?」
「・・・」
「いい加減にしてっ!」

口調が激しさを増す。

「キム・セナ」
「・・・」
「貴女、もうソンジェ君に未練はないと言わなかった?」
「・・・」
「これからは、ショーンと自分のことだけを考えて生きていくと言わなかった?」


ギョンヒは、ラメが織り込んである紫色の薄手のストールをソファへ放り投げた。
身体の線にぴったりとフィットした、黒色のニット・ドレス。
その服は、豊満な肉体を強調しているようでもある。


「ミュージカルは、降板することを上手く伝えておくわ」
「・・・」
「公式発表は未だだから、大した問題にはならないはずよ」
「・・・」
「代役を抱える事務所は大喜びでしょうけれどね」

セナは唇を噛み締めた。

「荷物を少しずつ片付けて頂戴」
「・・・ロスへ・・・戻るんですか?」
「ソウルに、貴女の居場所があると思っているの?」

右の拳が微かに震える。

「それなら、お姉ちゃんのところへ・・・」
「いいえ!」
「・・・?」
「ショーンは、しばらく預けておきなさい」
「・・・?」
「その足で、ショーンの世話は無理よ」
「でも・・・」
「此処には使用人が居ないのよ、わかるでしょ?」
「・・・」
「・・・私も、少し仕事が残っているから」
「・・・」
「だから、総てが片付くまでショーンはあの女性(ひと)に任せて」
「・・・」
「貴女はとにかく足を治すことに専念して欲しいわ」


勇気を振り絞り、セナは不安を口にした。

「あの」
「・・・なにかしら?」
「ショーンがソンジェオッパと一緒に居るということは・・・」
「・・・」
「ヨンスお姉ちゃんとオッパは」
「親しくしているようよ」
「!」
「ソンジェ君は、イ室長のヴィラに入り浸っているとの報告が入っているわ」
「・・・」
「つまり、あの三人は関係を修復したのではなくて?」
「・・・どうして」
「・・・?」
「どうして、教えてくれなかったんですか?」
「・・・なにを?」
「・・・」
「ソンジェ君が、貴女のお姉さんと上手くやっているということを、かしら?」

円らな瞳が一瞬、揺らめく。

「・・・じゃあ」
「・・・」
「ソンジェオッパは、もしかしてVARIOUSに・・・」
「それはないわ」

ギョンヒは即座に否定した。

「え・・・?」
「・・・世の中、そう上手くはいかないものよ・・・」


彼女は嫣然とした表情を浮かべた。





「ご免なさいね、お待たせして」

顔を上げると、そこにヤン・ギョンヒが立っていた。
人目を引く華やかな印象は、以前と全く変わらない。

ミンチョルは、ゆっくりと立ち上がった。



平日とはいえ、夕方のホテルのグランドフロアは人が多い。
待ち合わせや食事、会合などで利用する人間が集まってくるからだ。
男性はスーツが圧倒的で、女性もスーツやワンピースといった装いが多く、カジュアルな格好の人間は観光客以外ほとんどいない。
それが週末とは一味違う、独特の雰囲気を醸し出している。
中でもこのホテルは、伝統と格式で他の追随を許さない。
フロントもクロークもドアマンも、働いている人間に自信とプライドが漲っていた。


正面エントランスから少し奥に入った右側の、一段下がった場所にティー・ラウンジがある。
ラウンジというには調度が重厚過ぎる嫌いもあるが、とにかく落ち着いた雰囲気で、ソファが余裕を持って配置されておりゆっくりと会話を楽しめる。

その、ひと際奥まった一角で、ミンチョルは待ち人を迎えた。


「ご無沙汰しております」
「こちらこそ」「イ室長」
「・・・」
「あら、室長じゃ失礼かしら?」
「・・・」
「今は、飛ぶ鳥を落とす勢いの、VARIOUSのCEO(最高経営責任者)ですものね」
「・・・室長で結構ですよ」
「ふふふ・・・」
「・・・どうぞ、おかけ下さい」

ミンチョルは慇懃に上座を勧めた。

「・・・有難う」

ギョンヒはソファに身を委ねると、脚を組んだ。
よく手入れされた美しい膝が露出する。
全身から漂う艶かしさは相変わらずだ。


「・・・コーヒーで宜しいですか?」
「ええ」

ミンチョルは軽く手を上げ、フロア係に「ブレンドを二つ」とオーダーした。

「・・・ソウルへはいつ?」
「一ヶ月ほど前かしら」
「では、MUSEに?」
「いいえ・・・直接はタッチしないつもりよ」

「直接、はね・・・」と言いながら、ギョンヒはショルダーバッグから煙草を取り出した。
ミンチョルはズボンのポケットからライターを取り出し、火を点ける。

「・・・室長は?」
「私は吸いません」
「・・・そうだったの?」
「・・・」
「まあ、でも、その方がいいわね」
「・・・?」
「病弱な奥様の為にも・・・」
「!」
「向こう(アメリカ)では愛煙家は肩身が狭いわ」「その点、この国は気楽よ・・・」


「それで・・・ご用件は?」

幾つめかの世間話が途切れた後、ミンチョルは口を開いた。



腕時計を何気に見たら、もうそろそろ七時だ。
今夜、このホテルのメインダイニングの個室で、大切なクライアントの社長夫妻との会食が入っている。
約束は七時半。
五十代前半の二代目社長はアメリカ留学の経験があり何かと話が合い、夫人は道楽で小さな画廊を経営している。
以前、何かのパーティーでヨンスと直接会話を交わした夫人は、夫を通じ絵画の話をしたいと請うてきた。


この手の類いの招待をミンチョルは滅多に受けない。
そもそもヨンスを紹介するのは、信頼のおけるごく近しい人間に限られている。
だが、VARIOUSの将来を考える時、このクライアントとは個人的にも密接な関係を築いておきたかった。
ヨンスはショーンのことだけが気がかりのようだったので、わざわざソンジェに頼んでヴィラに来て貰い、留守番を依頼したのだ。

五時にヴィラ近くのサロンに予約を入れたので、今頃はヘア・メイクも終え帰宅している頃だろう。
いや、もうタクシーで向かっているはずだ。
待ち合わせは、七時十五分にこのホテルの正面玄関横のロビーである。
それがあったから、ギョンヒと会う場所に此処を指定した。
このティーラウンジからロビーまではものの数分だが、ゲストとはいえ先方を待たせるわけにはいかない。
遅くとも五分前には、二階のレストランへ出向いていたい。


「・・・時間がないようね?」
「申し訳ありません・・・実は、先約がありまして」
「・・・じゃあ、一言だけ」
「・・・?」
「ショーン、ソンジェ君に似ているでしょう」

ミンチョルはギクリとした。

「でもね、残念ながらソンジェ君の子ではないわ・・・」
「!?」
「セナはね、氏素性のわからないアメリカ系韓国人の青年と一夜だけ関係を持ったの」
「!」
「ソンジェ君に追い払われた夜に・・・ね」



ソンジェに
追い払われた
セナが
自暴自棄になり
好きでもない男に
身を任せ
そして
その男の
子を
妊娠した・・・?


顔が強張った。
理由は、セナに対する同情でも、ソンジェに対する憤りでもない。
勿論、それも若干は含まれていたかもしれないが、何より、この事実を知った時、妻が受けるショックの大きさを慮ったのだ。



「その男はね・・・ソンジェ君に似ていたんですって」
「!」
「ソックリだったそうよ・・・」

胸が痛い。
ミンチョルは眉を顰めた。

「セナの気持ち、わからなくもないの」
「・・・」
「女って、寂しくてどうにもならない夜があるものだから・・・」
「・・・」
「勿論、ソンジェ君はこのことを知らないわ」
「・・・」
「知ったら、相当のショックを受けるでしょうね・・・」


全くその通りだ。
心優しいソンジェは、恐らく自分を責めるだろう。


「実は・・・セナはね」
「・・・?」
「もう・・・子供を産めない身体なの」
「!?」
「ショーンを出産する時」
「・・・」
「とても危険な状態だったのよ」
「・・・」
「でも、あの子は自分の命に代えても、それでも産みたいって・・・」


周囲の喧騒に包まれながらも、二人が向かい合う一角の空気は沈みきっている。


「ところで、ショーンは元気かしら?」
「ええ・・・」「元気が有り余ってます」
「・・・イ室長も大変よね?」
「はい・・・いえ、まあ・・・」
「・・・お子さん、苦手なの?」

ミンチョルは、曖昧な笑みを浮かべた。

「奥様は・・・?」
「・・・?」
「お子さんは苦手?」
「・・・いいえ、楽しんでいます」「彼女はショーンにかかりっきりです」
「目に浮かぶわ・・・」
「・・・」
「それにしても」「素敵な玩具(おもちゃ)を手に入れたようね」
「玩具・・・?」
「決して貴方には抗わない、生身のお人形さん」
「・・・?」
「キム・ヨンスさんのことよ」
「!」


ミンチョルは、ギョンヒを見つめた。


(この女は、いったい何を考えているのだろう・・・?)


取り合わないほうがいい・・・

そうわかっていながらも、つい言葉が出てしまう。


「彼女は・・・」
「・・・」
「妻は聡明な女性です」
「・・・」
「人形なんかじゃない」
「・・・」
「・・・私より、ずっと賢い」


ギョンヒは深く肯いた。

「・・・そのようね」
「・・・?」
「でも、その賢さが、貴方を追い詰める結果にならないといいけれど・・・」


ミンチョルは、面前の華やかな女性を真っ直ぐに見つめた。

「・・・どういう意味でしょうか?」

ギョンヒも又、眉目秀麗な男を見つめ返す。
両者の視線がぶつかり合う。


「妻が賢すぎると、夫は苦労する・・・ってこと」
「・・・」
「話はこれで終わりよ」

ギョンヒは微笑むと、立ち上がり伝票を取ろうとした。

「いえ、ここは」

ミンチョルが遮る。

「そう?」「・・・じゃあ、ご馳走になるわね」



ギョンヒの姿が見えなくなると、ミンチョルは再びソファに腰を下ろした。
全身が重い。
まるで、鉛が打ち込まれたような気だるさを感じる。


『ショーンは、セナとソンジェ君の子供じゃないわよ』

『セナはね、氏素性のわからないアメリカ系韓国人の青年と一夜だけ関係を持ったの』

『ソンジェ君に追い払われた夜に・・・ね』


「・・・」

ミンチョルの口元が歪む。

ショーンがセナとソンジェの子供だと、そう告白されたほうが未だマシだった。
これではソンジェが胸を痛めるし、何よりヨンスが悲しむ。
実の妹のように可愛がってきたセナへの彼女の心情を想うと、胸が張り裂けそうだ。
とてもじゃないが、真相は話せない。


『その賢さが、貴方を追い詰める結果にならないといいけれど・・・』

『妻が賢すぎると、夫は苦労するってこと・・・よ』


ギョンヒの粘っこい声が、耳元にリフレインする。

(いったい、何が言いたいんだ・・・)

言葉の意図がわからず、妙に苛立つ。



時計を見た。
七時十分だ。
ミンチョルはフロア係を呼び、会計を促した。

第16話(10)

2008-06-28 | Weblog
第16話 渾 沌

(10)

『ウチは一部屋空いている』

『いつでも泊まりにくればいい』

『お前がショーンの世話をしてくれれば、ヨンスが助かる』


あの時の言葉をソンジェが真に受けたのか、それともヨンスの誘いに魅せられてなのか、はたまたショーンが可愛くて仕方がないのか、その辺りは定かでない。
が、理由はともかく、一緒にランチを共にした週末以降、ソンジェは頻繁にヴィラへ立ち寄るようになった。



『ヨンス、君はソンジェの携帯電話の番号やメールアドレスを知っているね?』
『え?・・・ええ・・・』
『今後はよく連絡を取って、此処にも招くといい』
『・・・?』
『これまでがおかしかったんだよ。僕たちは兄弟なのに、同じソウルに暮らしていて行き来がないなんてあまりに不自然だ』
『・・・!』
『ゲストルームもあるんだ。夜、遅くなったら泊まるよう勧めなさい』
『あなた・・・!』

ヨンスは嬉しそうに肯いた。

『それに』
『・・・?』
『ソンジェがショーンの相手をしてくれれば、君も少しは僕を構ってくれるだろう・・・』

申し訳なさそうに俯く妻の顎を摘み、そっと唇を重ねたのはつい二週間程前のことだ。

勿論、これには意味があった。
ソンジェと近しくしておけば、ヤン・ギョンヒやセナの動向を察知できるかもしれないというビジネス上の下心である。


なにはともあれ、ソンジェは三日に一度来訪し、週に一度は泊まっていく。
ショーンは、最高の遊び相手であるソンジェをすっかり気に入ったようだ。


夜、帰宅すると、広々とした美しい玄関に似つかわしくない大きな薄汚れたスニーカーを目にすることが多くなり、違和感を覚えたミンチョルだったが、やがてそれは感謝の念へと変化していった。
なぜならソンジェの存在が高まるにつれ、ヨンスがショーンに関わる度合いが極端に低下したからだ。


『ソンジェさんがいてくれると、本当に助かるわ・・・』

疲れているヨンスを気遣い、会食があると嘘をついて外食してから帰宅する夜も少なからずあった。
それが最近では、「今夜は、自宅で召し上がる?」と訊いてくれる。
ショーンが登場してから、滅多に耳にしなくなった台詞である。
「何かリクエストはあるかしら?」などと言われると、本当に嬉しくなってしまう。
そして彼女は要望通りに手の込んだ料理を作り、帰宅が夜十時を過ぎても笑顔で待っていてくれるのだ!

『お♪美味そうだな』
『今夜はね、ソンジェさんがショーンをお風呂に入れてくれたのよ』
『ソンジェが?』
『ええ、明日はお休みだって言うから、泊まっていくよう勧めたの』
『・・・ああ、それは良かった』
『ショーンったら一緒に入るって、ゲスト用のバスルームを初めて体験したのよ!』
『下と違って狭いだろうに』
『それが、あの子は気に入ったみたい』

ソンジェが階下にある夫婦のバスルームを使ったとしたら不愉快極まりないが、ゲスト用ならば文句はない。

『・・・それでね、今夜はソンジェさんと寝るって』
『え♪』

思わず、声のトーンが上がる。

『心配でさっき部屋を覗いたのだけれど、二人共ぐっすり寝ちゃっているわ』

ソンジェ様様である。
なんだったら、ずっとゲストルームに滞在してくれて構わない。


ミンチョルの心と身体の均衡は、意外にも弟の出現によりバランスを保つこととなった。




「はぁ・・・ふ」

夕方、ミンチョルは企画室長室で秘かに欠伸をした。
週の真っ只中だというのに、寝たのは明け方の四時近くなのだ。
昼間、仕事に忙殺されながら、夜の長時間に亘る濃密な営みではさすがに睡眠不足を感じる。
妻の寝顔に見惚れ、ささやかな悪戯に熱中しているうちにいつの間にか夜が明けてしまった日も多い。


充実した夫婦生活に身を浸す喜びと、三十路に突入している男の悲哀が入り混じった疲労感を抱えながら、ミンチョルはパソコン画面でスケジュールを確認した。

(権限を)

(もう少しキチャンさんやキュソクさんへ移行するべきだな・・・)

彼に、夜の生活を切り詰めるという発想は毛頭ない。




昨夜、早めに帰宅すると、ショーンはソンジェにまとわりつき駄々をこねていた。
「ソンジェと寝る」と言い張っているのだ。
ヨンスは申し訳なさそうな顔をし、ミンチョルは密かにほくそ笑んだ。

「ソンジェさん、迷惑じゃない・・・?」
「え・・・?ううん、別に」
「でも、夜泣きしたりするでしょう?」
「いや・・・そんなことないよ」
「・・・本当?」
「うん・・・っていうか、僕もショーンも遊び疲れてグッスリ眠り込んじゃうから・・・」


やはり、日中の運動量が断然、違うのだろう。
チマチマとヴィラの室内で動き回っても、近所の小さな公園で遊んだとしても、ヨンスと一緒ではたかが知れている。
それがソンジェが相手だと、行動範囲がグッと広がるのだ。
時には遠くの大きな公園にまで足を伸ばす。
探検と称し、漢江沿いの市民公園まで行ったりもする。
室内でも肩車といった力技から始まり、追いかけっこなど体力勝負の遊びもソンジェはとことん付き合う。
結果、ショーンの身体能力は目に見えてグッと高まり、動作もみるみるうちに機敏になっていった。


「男親って、やっぱり必要ねぇ・・・」としみじみ呟くヨンスの横で、ミンチョルは咳払いをしながら新聞を読むフリをした。

(ショーンの相手をするつもりはない)

(僕の相手は、君だからね・・・)


夕食の後片付けといった家事を翌日に繰り越すことを好まないヨンスが、上階の明かりを消しフンワリと乾いた洗濯物などを手に階下に来るのはミンチョルより三十分以上遅い。
それから入浴し髪を乾かし、ようやく寝室に入ってくる。


彼女がベッドに横たわった瞬間から、その時間が始まった。

「あ、あなたったら・・・」

恥ずかしそうに身をくねらす妻は、本当に初々しい。
まるで、何も知らない生娘のような雰囲気さえ漂っている。

「いいじゃないか・・・」

夜着を瞬く間に脱がせ、生まれたままの姿へと誘(いざな)う。

「・・・っ」

指先で、ちょっと乳首を弄っただけなのに、ヨンスは小さな声を上げた。

「・・・今夜は」
「・・・?」
「君の乱れた顔が見たいな」
「!」

ヨンスは「冗談じゃない」とでもいうように、頭を振った。

「嫌よ・・・っ」

「もうっ」

「あなたったら・・・っ」

しかし、ミンチョルは既に動き始めている。

「あっ」
「・・・最近、僕は不満が溜まっているんだ」
「え・・・?」
「・・・君はショーンの母親代わりかもしれないが、それ以前に僕の妻だろう?」
「・・・」


深刻な表情で黙り込む姿を見ていると、ついついもっと甚振りたくなるのは男の性(さが)という奴か・・・?


「は・・・ぅっ」

ヨンスの腰が大きく跳ねた。
右の一番長い指を、まだそれほど滴ってはいない其処へ根元まで挿入したからだ。

「や、やめて・・・っ」
「やめない」
「ちょっ・・・」


頑ななヨンスの上体をグイと起こし、背後から抱きかかえる。
そして足を開かせ、自分の足で固定する。
こうすれば、ヨンスに自由は無い。

「あぁっ」

突然の成り行きと、その恥ずかしい格好にヨンスは声を震わせる。

「ねぇ、ヨンス・・・」
「・・・」
「あそこの壁に、大きな鏡を置こうか?」
「・・・?」
「そうしたら、身支度にも便利だし」
「・・・」
「君のこんな姿もハッキリと映るからね・・・」
「!」

ヨンスは血相を変えて抗った。
しかし、どう足掻いたところで、この拘束から抜け出すことは出来ないのだ。


耳朶から首筋へと舌を這わせながら、ミンチョルの左手は豊満な乳房を、右手はヨンスの最も鋭敏な場所を責め立てた。
花びらをかきわけ、小さな突起を人差し指と中指で軽く挟む。
十本の指を総動員し、懐の妻を高みへと追いやる。

「あ・・・ぁ」

「は・・・ぁ・・・」

「あぁ・・・」

「はぁ・・・んん・・・」

擦り上げるように強い刺激を与えると、ヨンスはやがて全身をピクピクと痙攣させた。

「あっ・・・」

「んんっ」

「はぁ・・・っ」

上体が幾度か弾むようにわななき、白い柔肌がしっとりと湿り気を佩びてくる。

「・・・ん・・・んんっ」

「あっ」

つま先がキュンと反り返り、震え始める。

「・・・っ」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・・っ」


どうやら昇りつめたようだ。
ガクンガクンと肢体を二度震わせたヨンスは、ミンチョルの胸元に崩れ落ちた。

まあるいふくらみの先端は、硬くピンと尖っている。
心臓が、はちきれんばかりの激しい鼓動をたてているのがよくわかる。
華奢な肩も又、大きく上下している。


「・・・大丈夫かい?」

羞恥に耐える妻を苛めておきながら、「大丈夫かい」とは身勝手な言い分だが、しかしその表情にどこか満ち足りたものを感じる。
これは、やはり夫のエゴなのだろうか?

どちらにしろ、こんな時ヨンスが自分に総てを委ねているのは明らかだ。
信頼し安心しきっている。
それが手に取るようにわかるからこそ、究極の幸せを感じる。


「・・・」

愛おしい妻を仰向けに寝かせ、長い黒髪をゆっくりと梳きながらその上から覆いかぶさる。

「綺麗だよ・・・」

薄っすらと赤みがかった白い裸身は、恐ろしいほどの魅力を湛えている。
まるで、請われているような、いや挑発されているような錯覚に陥ってしまう。
淫猥としか言いようがない。

(まったく・・・)

火照った肢体を抱き寄せながら、ミンチョルは唇を重ねた。



顔立ちこそ端整で、施設育ちには見えなかった。
しかし、第一印象は「美しい」とか「妖艶」といった印象とは程遠い。
身なりは粗末だったし、そもそも売り場のアルバイトである。
化粧っ気のない顔に、真っ直ぐな長い黒髪。
スラリとした手足の長い、肌の白い女の子、といった程度の印象だ。


それが今や、これほどまでに自分を惹きつけ放さない。


(女性というのは、残酷だが)

(不思議な生き物でもある・・・)


柔らかい二つのふくらみに顔を埋めて、目を閉じてみる。
硬く尖ったピンク色の其処を舌先や歯を駆使して繰り返し苛めた後、すっかり濡れ滴った右指先を其処から引き抜き口に含む。

「・・・いい味だ」


繰り返し達したヨンスは、今や息も絶え絶えの状態だ。
白く長い脚を大きく裂かれても、抗う力が残ってない。


「ふっ・・・」

素晴らしい眺めだった。
壮観という他、言葉が見つからない。
思わず笑みが零れてしまう。

其処は、何かを求めビクンビクンと蠢いている。

しかし、まだ、早い。


「・・・可愛いよ・・・」

柔肌を掌で撫でまわしながら、ミンチョルはその中心に唇を押し当て「ちゅーっ」と強く吸った。

「はぁ・・・あ・・なたぁ・・・」
「・・・まだだ」
「・・・お・・・お願い・・・」


羞恥に身悶えながらも無意識に懇願する妻を耐え忍ばせ、甘い蜜を強く啜る。
その都度、細腰が大きく揺れる。


「・・・はぁ・・・」

「・・・はぁ・・・っ」

「はぁ・・・あぁぁぁ・・・っ」

可愛い泣き声に耳を傾けながら、これでもかと秘所を嬲る。



ミンチョルにとっては二度目の、そしてヨンスにとっては幾度目かもわからない絶頂をほぼ同時に迎えたふたりは、明け方ようやく眠りについた。




淫靡な笑みを見られた可能性は否定出来ないだろう。
妻との交わりを思い返しながら自分の指先を動かし、ふと視線を上げたら、ユンジュ主任が室長室のガラス扉の脇に立っていた。
そして彼女は、不思議そうにこちら側を見つめていたからだ。

「・・・っ!」
「室長、何かいいことでもありましたかぁ?」


能天気な表情は言い換えれば率直そのもので、そこに疑念とか嫌悪、好奇といった感情は含まれていないようだ。
誤解をしてくれるのなら、それに越したことはない。

軽く微笑み肯きながら、「忙しいのに、申し訳ない」と言葉を添えつつコーヒーを依頼すると、主任は「はいっ♪」と嬉しそうに飛んでいった。



椅子に深く身を沈め、机上の山積みされた決済書類に目をやる。

「やれやれ・・・」

ペーパーレスを奨励しているはずなのに、近頃どういうわけか書類が多い。


その時、電話が鳴った。

『社長、2番に外線が入っておりますが・・・』

独特の濁声は聞き覚えがある。
確か、同フロアに席を置く新入りの女性契約社員だ。
やや年嵩で太め、お世辞にも美人とはいい難い容姿だったが仕事は出来たはずである。


『・・・ヤン・ギョンヒ様という女性の方です。社長と直接お話したいと仰っておりますが、お繋ぎしても宜しいでしょうか・・・?』
「・・・有難う」


回線の切り替わる音を耳にしながら、ミンチョルは顔を歪めた。

第16話(9)

2008-06-22 | Weblog
第16話 渾 沌

(9)

『あのね、ソンジェさんは子供が好きみたい・・・』


さり気無さを装い、「そう・・・」と呟きながらの小さなため息。


「ショーンもね、ソンジェさんのこと、気に入ったみたいだわ」


こちらの心の内を気付くはずもなく、ヨンスはそんなことを口にする。


「・・・」
「ねぇ・・・」
「・・・ん?」
「VARIOUSに・・・ソンジェさんにお似合いの方、いないかしら?」
「!」


ミンチョルは妻を真っ直ぐに見つめた。


女性は突如、残酷な生き物へと変身し、男の前に君臨するものだ。
そしてヨンスも例外ではなかったらしい。
しかし、妻の口から出た言葉に小躍りするほど単純ではない。


「・・・なぜ、そんなこと言うの?」


ヨンスは躊躇いがちに、小さな声で喋りだした。


「・・・私、ソンジェさんにはセナを選んで欲しかった」
「・・・」
「今でもね、その気持ちは変わらないの・・・」


言葉を切り、深呼吸する妻の表情は真剣そのものだ。


「・・・でも・・・」
「・・・」
「でも、セナはショーンを産んだわ」
「・・・ああ、そうだね」
「・・・つまり・・・」
「・・・」
「もう・・・ソンジェさんのことを愛していない、ということでしょう?」


(それは、どうかな・・・?)

そう思ったが、口には出さない。


「だったら、ソンジェさんには誰か・・・」
「・・・」
「そう・・・誰か素敵な女性(ひと)と結婚して、幸せな家庭を築いて欲しいの」
「・・・」
「私は幸せだから」
「!」
「ソンジェさんにも、同じ様に幸せになって貰いたいわ・・・」



(君は、わかっていないな・・・)

弟が妻を見る目、あれは決して義姉を見る目でも友達の目でもない。
愛おしい女性(ひと)を見つめる時の、熱い何かが籠もっている。

(そう・・・)

(僕がヨンスを見る目と同じだ・・・)


「・・・」



わかっている
君は僕を選んでくれた

君が望んでくれたから
僕は君の傍にいることを決意したんだ

ソンジェは君を愛していた
けれど
君の中に
ソンジェへの恋情は一切無かったと
好意はあっても
恋情はなかったと
今なら断言できる

そして
僕だけを見つめ
僕だけを愛してくれる君が
そんな君が僕には必要だったのだ

でも
それはいつしか
エゴになってはいなかったか?

ミンジに留学のチャンスを与えくれた君を
僕は縛り付けている
束縛しているくせに
いつも寂しい思いをさせ
そして
傷つけてばかりだ
子供を持つ夢さえ
叶えさせてあげられない

それなのに
君は
こんな僕との生活を
幸せだと言ってくれるのかい・・・?


切なくなった。

『私は幸せだから・・・』


(・・・本当に?)

(本当に、君は幸せなのか・・・?)


ミンチョルは、正面に座る妻へ腕を伸ばした。
テーブル上の細い手首を掴み引き寄せると、甲に口付ける。

「あなた・・・?」
「・・・愛しているよ」
「!」


(ああ、僕は心から君を愛している)

(これからも)

(ずっと、ずっと)

(君だけを愛するよ・・・)


ヨンスは周囲が気になるのか少し照れくさそうな表情をしつつも、嬉しそうに笑みを浮かべ肯いた。




ショーンを肩車したソンジェは、中庭の一角から二人を見つめていた。

「はやくっ!はやく・・・ぅ」
「ちょっと待ってて、邪魔をしちゃ悪い」
「・・・?」
「今、兄さんとヨンスさんはいい感じなんだから」
「・・・?」
「ショーン」
「はいっ」
「ふたりが仲良くしている時は、邪魔しちゃ駄目だぞ?」
「・・・?」
「お前もそのうち好きな人ができたら・・・」
「・・・?」
「・・・そんなこと言っても、未だわからないよなぁ」



ソンジェと二人きりで話がしたいという夫の意向を受け、ヨンスはショーンを連れて一足先に店を出た。


「・・・場所、変えるか?」
「いや、僕はここでいいよ」


二人の周囲は満席で、かなりざわついている。
一方、中庭はだいぶ空席が目立ってきた。


「・・・じゃあ、外で話そう」
「うん」

店員へ合図をし、新しいコーヒーを頼む。


「ヨンスさん、凄いね」
「・・・」
「まるで、本当のお母さんみたいだ・・・」


冷酷さなど微塵も感じられない弟の無邪気な表情が、勘に触った。
昔からそうだ。
この顔を見ていると、どういうわけか攻撃的な口調になってしまう。


「お前、わかっているんだろう」
「え・・・?」
「ヨンスが妊娠する可能性はないよ」
「!」
「自分の子供を抱くことは恐らくないだろうな・・・」


どうすることも出来ない。
あの父の血が自分には流れている、というのは言い訳なのか・・・?



一方のソンジェは、ハッとして思わず唾を飲み込んだ。
かつて医学部の優秀な学生であった彼は、骨髄移植に伴うリスクを当然ながら承知している。
度重なる投薬と放射線治療が、生殖器とその機能に大きなダメージを与えることも十分に理解していた。
が、しかし、それらを頭では把握していても、実際に兄夫婦が直面している現実と繋げることが出来ていなかったのだ。


「・・・ごめん・・・」

ソンジェは唇を震わせ、頭(こうべ)を垂れた。

「別にお前が謝る必要はない」
「・・・」
「どちらにしろ、子供が欲しいと思ったことはない」


「結婚することさえ、考えていなかったんだから」とミンチョルは自嘲気味に笑う。


(そうさ・・・)

(子供どころか)

(ヨンスと出逢っていなければ)

(結婚などしていなかった・・・)


「だが、ヨンスは子供を切望している」
「・・・」
「わかるだろう・・・?あの様子を見れば」

ソンジェは押し黙ったまま、小さく肯いた。

「ショーンを預かること自体、僕は本意ではなかった」


けれど
セナの子供では
反対することなど出来なかった

ヨンスのセナに対する深い思いを
誰よりもよく知っていたから・・・


「妙な希望でも持たれたら困るし、第一、ヨンスが可哀相だ」
「・・・」


ミンチョルはコーヒーを一口飲むと、上着の内ポケットから封筒を取り出しテーブルに置いた。


「話は変わるが」
「・・・?」
「あの時は、本当に有難う」

深々と頭を下げる兄に、ソンジェは慌てふためいた。

「に、兄さん!なんなの?急に・・・」
「・・・」
「あの時って、いったい・・・」
「・・・あの時、お前が助けてくれなかったら、ヨンスはどうなっていたかわからない」
「!?」
「お前が大学病院に振り込んでくれた金のことさ」
「!」

ソンジェは封筒を見つめながら、「兄さんだって、いざとなれば工面出来たはずだよ」小さく呟く。

「勿論、全力で金策に走っただろうが・・・」
「・・・?」
「恐らく当時の僕の力では、無理だったように思う」
「兄さん・・・」
「今なら、なんとでも言える」
「・・・」
「だが、正直、あの時は会社を維持していくことで精一杯だった」
「・・・」
「もし、資力の全てをヨンスの為に使っていたら」
「・・・」
「今のVARIOUSは無かったかもしれない」
「・・・」
「僕達がこうして不自由なく暮らしているのは、皆、お前のお陰なんだ」
「・・・」
「心から感謝している」


幼い頃から、いつも蔑まれ見下されてきた。
どんな状況になろうとも、兄は冷静で決して本心を見せなかった。
それが今、頭を下げ礼を言っている。
素直に自分の窮地を認めている。


(・・・)

(ヨンスさんの為だから・・・)


兄の生涯の伴侶に対する深い心情を、ソンジェはヒシヒシと身に染みて感じていた。


「相応の利子も付けた」
「・・・」
「どうか、遠慮なく受け取って欲しい」


小切手を付き返す行為は、兄に対して非礼である。
しかし、これをヤン・ギョンヒへ返したところで、あの契約が無効になることは決してない。

ソンジェは小さく肯くと、封筒をパーカーのポケットへ押し込んだ。


「・・・MUSEに戻る予定は?」
「絶対に、ない」


その毅然とした口調は、まるでヤン・ギョンヒとの決別を意味しているように受け取れる。
ミンチョルは違和感を覚えた。


「・・・それなら、お前、VARIOUSで仕事をする気はあるのか?」
「・・・」
「もし、あるならポストを用意・・・」
「兄さん」
「・・・?」
「僕・・・しばらく音楽から距離を置きたいんだ」
「ソンジェ・・・?」
「そういう気分なんだよ」
「・・・じゃあ、今の仕事は・・・?」
「肉体労働ってところかな?」
「!?」
「これでも、結構、稼いでいるんだ」
「・・・向こうで、音大の講義は受けたのか?」
「いや・・・」
「・・・」
「そんな余裕は・・・」


その表情からは、渡米中の厳しい生活が垣間見える。

(・・・)

ヤン前社長の援助を受けている気配は、全く感じられない。
いったい、二人の間に何があったのだろうか?


「ところで、セナさんとは」
「・・・」
「セナさんとは、会っていたのか?」
「・・・何回か会った」「アパートに押しかけてきて・・・」
「それで?」
「それでって、追い返したよ」
「・・・」
「セナの気持ちはわかっているんだ」「でも・・・」


長い沈黙。
店員達が、ランチタイムの残骸を忙しなく片付ける音だけが周囲に響く。


「お前、まだヨンスのこと・・・」


(好きなのか・・・?)


決定的な言葉は呑み込んだのに、ソンジェは真っ直ぐに見返してきた。
その瞳には、穏やかというよりは淡々とした何かが満ちている。


「・・・それは失礼だよ、兄さん」
「・・・」
「父さんが死んだ時、僕は総てを水に流そうと心に決めた」
「・・・」
「あの時、ヨンスさんへの想いも一緒に流したつもりだ」


ソンジェは視線を遥か遠くへと漂わせた。


「ヨンスさんが兄さんと結婚した時」
「・・・」
「僕はヨンスさんと約束したんだ」
「・・・」
「これからもずっと親友でいる、男友達でいるって・・・」


ミンチョルは口の端を微かに動かすと、コーヒーカップを見つめた。


「・・・さっき、ヨンスがこう言った」
「・・・?」
「ソンジェさんは子供が好きだから、早く結婚した方がいい・・・とね」
「・・・」
「VARIOUSに、いい子はいないのか?って・・・」
「・・・」
「残酷だな、女性っていうのは」


ソンジェは苦笑いすると、明るく言った。


「ヨンスさんより素敵な女性(ひと)がいたら」
「!」
「そしたら、紹介して・・・」

ミンチョルは弟を見つめた。

「・・・難しいな」
「・・・」
「・・・」


二人は、どちらからともなく視線を逸らした。



「お前、金に困っているわけじゃないよな?」

四人分の会計を手早く済ませたミンチョルは、さり気無くそう口にした。

「え・・・?」

ソンジェが身につけているものは清潔だったが、決して上質なものでも新しいものでもなかった。
MUSE社長としてミンチョルの前に現れた時とは、全くの別人である。


「今、何処に住んでいる?」
「・・・」
「言いたくないのか?」
「・・・」
「ウチは一部屋空いている」

ソンジェは怪訝な表情だ。

「お前は僕の弟だ」
「・・・」
「いつでも泊まりにくればいい」
「兄さん・・・」
「お前がショーンの世話をしてくれれば、ヨンスが助かる」
「・・・」
「僕は全くの役立たずなんでね」


ミンチョルはそう言って、笑った。
ソンジェもつられて笑顔を見せ、ようやく空気が和む。


「兄さん」
「ん・・・?」
「ヤン前社長は、ソウルにいるよ」
「・・・」
「この間、偶然、会ったんだ」
「・・・そうか」
「ということは、セナも戻ってきたんだろうか?」
「・・・なぜ?」
「セナはロスで、ずっとヤン前社長の世話になっていたから・・・」
「そうなのか?」
「ウン」
「・・・」
「兄さん」
「ああ・・・?」
「ヨンスさんを守って」
「・・・?」
「頼んだよ」


ソンジェは「ご馳走さま」と手を上げ、立ち去った。



(歩きか・・・)

あの白いメルセデスは、MUSEの社用車だったのかもしれない。
それにソンジェの手も気になった。
大きく指の長い、ピアノ向きの綺麗な手をしていたはずだったのに、今日何気なく見たら爪が汚れていた。
擦り傷もあったように思う。

『・・・じゃあ、今の仕事は・・・?』
『肉体労働ってところかな?』

「・・・」

今の彼の状況が恵まれているとは、どう考えても思えない。
そして、なぜそんな境遇に甘んじているのか、皆目見当が付かない。
ヤン・ギョンヒとセナの動向も気になるし、ソンジェとの関係も気がかりだ。

「・・・」



道路際に止めたシルバーのSLKは、春の日差しを受け光り輝いている。
そして、この車に颯爽と乗り込んだVARIOUSの若き社長であるイ・ミンチョルも又、飛びぬけたオーラを放っていた。
Vゾーンは完璧で、濃紺のスーツは一目で上質なものだとわかる。
袖口からチラリと見える腕時計も、靴も、何もかもが高級感に溢れ、しかもしっくりと馴染んでいる。

行き交う人々が羨望と嫉妬の視線を浴びせかけるが、彼はそんなことには興味がない。
運転席に座ると、そそくさと携帯を取り出し妻を呼び出す。


『・・・もしもし?』
「僕だ」
『あなた、もうお話は終わったの?』
「店で別れたところだ」
『そうだったの』
「今、何処?」
『大通りの交差点を渡ったところ』
「何をしているの?買物?」
『ううん、ショーンが疲れて寝ちゃったから、バギーを押しながら散歩しているわ』
「そうか」
『もうそろそろ帰るつもりよ。空気がまだ冷たいもの、風邪をひいたら大変・・・』
「・・・」
『あなたも会社に戻るのでしょう?お仕事、頑張ってね・・・』


こんな時、いつもなら速攻でピックアップし、口直しにホテルのラウンジへ繰り出すのだが、生憎、愛車はツーシーターだ。
そして、チャイルド・シートのないこの車に、ヨンスは決してショーンを乗せない。


「・・・じゃあ、又、後で電話する」

仕方なく電話を切ったミンチョルは、車を急発進させた。



(もう一台、車を買うか・・・?)

しかし、ヴィラの駐車場は一台のスペースを確保しているだけである。
二台目は今の状況では難しく、かといって外部に駐車場を借りるのも面倒だ。
そもそも、その駐車場に空きがあるかもわからない。

(車を買い替えるか・・・?)

だが、いつまで世話するかもわからない子供の為に、この愛車を手放すのもムカつく。
理不尽この上ない。

「・・・っ」

不機嫌さを顕わにしたミンチョルは、アクセルを踏み込みこんだ。

第16話(8)

2008-06-12 | Weblog
第16話 渾 沌

(8)

ヨンスが顔を上げると、そこにソンジェが立っていた。
ルーズフィットの洗いざらしのデニムに、灰色のパーカー姿。
足元には履き古したスニーカー。


「ヨンスさん、久しぶり・・・!」

その笑顔は、彼女をどういうわけか和やかな気持ちにさせる。
医大生の頃の、屈託の無い柔和な表情。


「ソンジェさん!」

ヨンスは満面の笑みで応じると、着席するよう促した。



大きな窓から陽射しの降り注ぐこのカジュアル・レストランは、オープンエアの席を設けている。
空気は未だ冷たい。
が、厚手のブランケットが用意されているせいか、若者の多くは敢えてテラコッタ張りのパティオで飲食を楽しんでいた。


ヨンスは、窓辺の四人がけのテーブルに座っている。

「・・・」

ショーンが訝しげな表情でソンジェを見上げた。

「さっきお話したでしょう?」
「・・・」
「ほおら、ソンジェお兄ちゃんよ・・・」
「こんにちは、ええと・・・」
「ショーンよ」
「こんにちは、ショーン」

ショーンはニヤッと笑った。

「とても人懐っこい、可愛い坊やだね」

ソンジェは感心したように肯きながら、ショーンの向かい側に腰を下ろす。

「不思議だわ」
「・・・何が?」
「この子、どういうわけか同性に対して警戒感が強いのよ」
「同性・・・?」
「ええ」
「じゃあ、兄さんに対しても?」
「駄目なの・・・全く懐かないわ」


「まぁ、兄さんも子供好きってタイプではないしね」と呟きながら、ソンジェは店員の持ってきたメニューを手にした。
なんとなく心が弾む滑稽な自分を意識しながらも、つい朗らかになってしまう。


「ヨンスさんは、もうオーダーしたの?」
「ええ、ショーンはキッズ・プレートで、私はドリア・セット」
「美味しそうだね」

ソンジェは少し考え、ハンバーグ・セットに決めた。
この店は、雰囲気がいい上に安価と評判である。
尤もソンジェからすれば場末の大衆食堂での飲食が続いているので、お洒落な場所に位置するこの小奇麗なカフェ・レストランの雰囲気はこそばゆい。
おまけに、目の前にはすっかり洗練されたかつての想い人が座っている。


「・・・で、お友達のお子さんだって?」
「ん・・・」

ヨンスは口を濁した。

「・・・ええ、まあ・・・」
「可愛いね」
「・・・」
「なんだかヨンスさんの子供みたいだよ、そうしていると」
「・・・私もね、時々そんな錯覚を起こしちゃうの」
「・・・だけど、ショーンがちょっと可哀相だね」
「え・・・?」
「こんな小さいのに、お母さんと離れ離れだなんて」


刺すような痛みを胸元に感じたヨンスは、少し顔を歪めた。

(そう・・・)

(わたしは、ショーンのお母さんじゃない・・・)


「・・・事情があって」
「あ・・・ゴメン・・・」
「・・・いいの、ソンジェさんの言うことは尤もだもの」



少しの沈黙の後、ソンジェは口を開いた。

「あの、ヨンスさん」
「・・・?」
「最近、変わったことはない?」
「変わったこと・・・?」
「うん・・・」
「・・・?」
「いや、例えば、珍しい人から連絡があったとか・・・」

ヨンスは首を傾げた。

「いいえ、別にないわ」
「そう・・・」
「なにかあったの?」
「いや、なんでもないんだ」

ソンジェは慌てて手を横に振る。

「そういえば、兄さんも来るんだって?」
「ええ、メール見てくれたのね?」
「うん」
「ソンジェさんと話したいことがあるんですって」
「・・・」
「会議が十二時に終わるから、それから直行するって、今朝・・・」

ヨンスが腕時計をチラリと見た。
小ぶりなトノー型のフェイス。
淡いピンク色のリザードのベルト。
高級品であることは、その質感からすぐに見て取れる。

「そろそろ、来ると思うけれど・・・」
「・・・」


ソンジェは小さく息を吐くと、ポケットから何かを取り出した。
その手先を見つめ、ショーンは興奮して大きな声を出す。

「あっ!」

「あはっ♪」

「ふふふ・・・」

それは指人形だった。
コミカルな動きに、ショーンは完全に惹き込まれている。


「ソンジェさんって、凄いわ」
「え・・・?」
「ショーンはね、本当は公園で遊びたかったのよ」
「そう?」
「だから此処へ来る途中も、ずっと機嫌が悪くて」
「そうだったの?なんか、ノリノリだけど・・・」



やがてキッズプレートが運ばれてきた。
ヨンスは傍らのバッグから手馴れた様子で青いスタイを取り出し、ショーンの首元に巻く。
チャイルドチェアのショーンは、フォークを片手に目を輝かせプレートを見つめている。

「食べる気、満々だね」
「この子、よく食べるのよ」
「へぇ」
「足も大きいし、きっと大きくなるわ」

目を細めながら、ショーンの小さな指先をオシボリで丁寧に拭う。

「さあ、召し上がれ」


その後のテーブルの惨状は、想像通りである。

「はぁ・・・」

ソンジェは「食欲を満たす」という動物的本能を、まざまざと見せつけられることとなった。



傍目から見ると、それは幸せな家族団欒の一場面である。
― 若夫婦と幼い長男が、外食を楽しんでいる図 ― なのだ。
ショーンの表情に愛嬌があるせいか、ヨンスとソンジェの取り合わせが目立つのか、週末のカジュアル・レストランのランチ時という喧騒の中で、その一角は際立っていた。

「可愛い!ほら、見て、あの子」
「本当だ」
「いいわねぇ、子供って」
「ウンウン・・・」

客達は、好き勝手にそんなことを語る。



入店した瞬間、窓際の席でショーンの世話を焼いているヨンスとソンジェの姿が目に飛び込んできた。

「・・・」

どういうわけか足が止まる。
その時、すぐ脇を二人組の若い女性が、お喋りをしながら通り過ぎた。

「可愛い男の子!」
「パパ似だね」
「絶対、パパ似」
「目元なんて、ソックリじゃない?」


ミンチョルの顔が微かに強張ったその時、ヨンスが手を振った。

「あなた・・・!」

ソンジェも振り返り、兄の姿を認め「こっち、こっち」と手を振る。

「・・・」

咄嗟に笑顔を浮かべると、ミンチョルはゆっくりと窓際へ歩み寄った。



「お先に頂いているわ」

腰を上げようとする妻を手で制し、「久しぶりだな」と弟の肩を軽く叩きながら座席に座る。
斜め前では、小さな怪獣が両手をも使って食べ物を貪っている。

「・・・」

ミンチョルは眉を顰めながら、視線を正面の妻に戻した。

「どうだい、ショーンのご機嫌は?」
「それがね、ソンジェさんったら子供の相手が上手なの」
「アハハ・・・たまたまだよ」
「ううん!ビックリしちゃったわ!あんなに機嫌が悪かったショーンが、たちまち大笑いよ」
「だから、偶然だってば」


妻と弟のやり取りを、ミンチョルは黙って聞いていた。
ソンジェはショーンの頭を撫でている。

「ショーンは、あなたよりソンジェさんが好きみたい」
「酷いな」

ヨンスはクスクスと笑った。
ミンチョルも又、口元に笑みを浮かべるが、しかしその瞳はショーンとソンジェの顔を冷静に見比べている。


(・・・)

確かに似ているかもしれない
目元が優しそうで
温和な顔立ち
セナに似ているところは・・・
それは、よくわからない

ただ
こうやってショーンを挟み
ソンジェとヨンスが並ぶと
親子そのものだ
なぜか、しっくりとくる・・・


「・・・」

不愉快になり、咳払いを二回繰り返した。


「ショーン、もっとゆっくり食べなきゃ駄目」
「しかし凄い食欲だよね!僕のブロッコリーまで・・・」
「ええぇ!?ちょっとショーンったら、いつの間に・・・!」


和やかな会話の聞き役に徹しながら、ミンチョルの思考はフル回転していた。


ヨンスはショーンなど産んでいない
結婚以来
ずっとヨンスだけを見つめてきたのだ
あの裸身を見た男は
自分以外にはいないと断言できる

そうさ
あの美大の副教授だって
ヨンスには
指一本触れてはいないだろう・・・


(いや、触れたかもしれない・・・)


「・・・っ」


どうでもいい
彼はもう、この世にはいない


(じゃあ、弁護士は・・・)


「・・・っ」


そんなことはどうでもいい!
そもそもヨンスは
子供を産める身体ではないのだから・・・


(馬鹿馬鹿しいっ)


ミンチョルは頭を左右に振った。


(ショーンが、ヨンスとソンジェの子供であるわけないじゃないか・・・!)


しかし
だとすると
まさか
セナがソンジェの子を産んだということか・・・?


(ソンジェが)

(セナを、抱いた・・・?)

(・・・まさか・・・)


一瞬、有り得ないと思った。
・・・が、セナはソンジェに好意を抱いているとヨンスから聞いている。
ソンジェにその気はないように見えたが、それでも師弟としての強い絆は存在するはずだ。
二人のコラボレーションは、かつて一世を風靡したことは事実だし相性はいい。
しかも、二人はアメリカで暮らしていた。
異国の地で一度や二度の過ちがあったとしても、決して不思議ではない。


「・・・」

ハンバーグを美味そうに食べる弟を、ついつい横目で見つめる。


だが、セナの妊娠・出産をソンジェは知らないだろう。
知っていたら、真っ先にヨンスへ報告するはずだ。
・・・単に音信が途絶えていたということだろうか?
いや、ソンジェは慎重な性格だ。
万が一そのような流れになったとして、芸能界に身を置くセナを避妊具無しで抱くような無責任な真似はしない。
確信犯ならともかく、弟に限ってはそんなことは絶対に有り得ない。


(わからない・・・)

(わからないことだらけだ・・・)


『パパ似だね』
『絶対、パパ似』
『目元なんて、ソックリじゃない?』

レストランを出て行った若い女性二人組の会話が、なぜか耳を過(よ)ぎる。



「あなた・・・」
「・・・」
「あなた?」
「・・・あ、ああ」
「大丈夫・・・?」
「・・・え?」
「食欲ないの?お肉が半分も残ってるわ・・・」
「・・・」
「もしかして、お口に合わなかった?」
「いや、そんなことないよ」

ナイフとフォークを手に取り、残りの肉片を片付けることにした。


雰囲気は洒落ているものの、この店の料理は値段相応である。
不味いというわけではないが、わざわざ出かけてくる場所では決して無い。
しかし子連れとなると、こういう場所が気楽なのだとヨンスは言う。


『お値段も手ごろだし、チャイルドチェアはあるし』

『それにね、トイレにはオムツを替える台もあるのよ』

『あなたが出入りするお店は高級過ぎて、ショーンを連れて行くのは億劫だわ・・・』


結果、洒落た場所での外食の機会が無くなった。
ヨンス好みの新しいリストランテを何軒か見つけたのに、彼女は全く興味を示さない。
とにかくショーンが現れて以来、すっかり生活のリズムが崩れてしまっている。



ソンジェがゆっくりと席を立った。

「ちょっとトイレに行ってくる」

ショーンがモゾモゾと身を乗り出し、チャイルドチェアから抜け出そうとする。

「あなたはオムツでしょ?」

膨れっ面のショーンを、ソンジェは優しく抱き上げた。

「その辺を探検してくるよ」

意味がわかったのか、彼は大喜びである。



二人の後姿を目で追いながら、ミンチョルは「まるで父親だな」と呟いた。

「本当ね」

冷めきったブレンドを啜り、顔を顰める。

「ねぇ、あなた・・・」


正面に座るヨンスが、真っ直ぐに見つめてきた。
ガラス越しの陽射しが、僅かな疲労感を漂わせた白い顔を柔らかく包み込んでいる。

「・・・」

そういえば、こんなにも明るい自然光の中で妻を正面から見たのは久しぶりだ。
長い黒髪は艶やかで、瞳と共にキラキラと光っている。


華奢な上半身を包むカシミアのツインニットも、細身のデニムも、手首に巻かれた時計も、イヤリングも、そして足元のバレエシューズも、総て見覚えがある。
どれもこれも自分が選び、買い与えた物だ。
いつ、どこで買ったのか、それさえもよく覚えている。
そしてそのことが、ミンチョルの自尊心を満足させる。


(いい女だ・・・)

口にこそ出しはしないが、つくづくそう思う。


素直で従順で、守らなくてはと思いたくなるような隙がある。
それでいて、到底敵わない強靭さを内に秘めている。
邪気の無い、その清廉な心が何よりも愛おしいが、しかしこの女性(ひと)の魅力はそれだけに止(とど)まらなかった。


今、目の前にいる
この女は
僕のものだ

そして
僕は
この女の総てを
知り尽くしている

その総てを・・・!



「ねぇ、聞いている?」
「ん・・・?ああ、勿論さ・・・」
「あのね、ソンジェさんは子供が好きみたい・・・」



愛する妻の小さな赤い唇から漏れ出たのは、弟の名前だった。