LanguageStyle

■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

暗記から理屈への流れか

2008年07月30日 | 放言

 例によって7時30分前に出勤。スポーツ界などでいうところの朝練を朝学に変えたり。

 本日の授業は3限目の60分。音読に時間を割いた。全員を立たせて、通読後、リピートアフターヒム/ハーをした。個人個人の発音が聞けたが。はて。音読後は問題演習。とはいってもテキストの問題に触れたのは1問だけ。文章の構成を確認。あとは個人作業。文中における表現を文法的に確認するワークシートを容易。時間は15分程度しかなかったので、次回提出。答えは裏面に印刷済みのため、各自で解答確認するように指示。最近の自分の中でのテーマは「教える」のではなく、いかにして「学ばせる」のかというもの。説明たっぷりの授業というよりはむしろ、生徒自身の勉強を優先させたい。

 放課後は個別補習。本当に個別。2人だ。毎日同じ。固定化か。やる気のある生徒、いらっしゃい。今日は構文の暗記会。暗記とは言ってもヒントを用意して負荷の軽減。今日のメニューは、

(1)指定構文(日本語⇒英語、ヒント有)をノートに書く(タイム測定)
         ↓
(2)生徒が読み、教師が正誤を述べる
         ↓
(3)誤りのある部分を訂正
         ↓
(4)(1)でやった作業を口頭で繰り返す
         ↓
(5)重要だと思われるところに下線
         ↓
(6)重要部分を確認
         ↓
(7)(1)の作業を再び繰り返す
         ↓
        終 了

である。今日やったのは「代名詞を含む構文」。明日は「比較を含む構文」の予定。伸びようとする生徒は応援する。

 それから今日は9月に行われる英語教育関連のシンポジウム&講演会への参加申し込みが完了。今から楽しみではある。明日は授業OFF。図書館当番をして帰宅しようかとも考えてみたが、個別補習もしたい。がんばる生徒は応援する。



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考えるために書くのかぁ

2008年07月29日 | 放言

 授業担当無しの今日はその代わりに図書当番が。図書室で一人仮眠一時間。図書当番は9時から12時。意識のあった2時間はあれやこれやの雑務。まずは備品のチェック。次に図書の整理。さらには個別に課題を与えた生徒の答案採点。残り時間は読書。内容は「書くこと」の意味について。書くために考えるのではなく、考えるために書くのだそうな。誰でも知っていることを自分の切り口で書くのではなく、自分にしか書けないことを誰でも分かるように書くのだそうな。

 午後からは机の前に張り付いてのお仕事。朝の採点した答案を該当生徒に返却。ここで与えている課題は中学校から高校3年にいたるまでの段階的な復習課題(文法)であるが、これと同時に構文暗記をすることを指示。暗記対象は英語基礎力(構文編)に登場しているもの。そのまま暗記しなさいというのは酷なので、構文をすべてワードに打ち込み、ヒントが与えられたものに加工して配布。専用ノートを用意し、(1)声に出して書くこと、(2)時間を計って書くこと、(3)同じ事項を2度連続して繰り返すこと、(4)その後は声に出して音読すること、などのやり方を指示。プラスアルファとして自分で何かしらの工夫をしてくれればさらによい。A4で8枚程度に収まっているわけだから、何日かに分けても一回りするまでそう時間もかからんだろう。とにかく集中してやることが大切です。

 帰宅後、久しぶりに爆笑問題のポッドキャストを拝聴。いつ聞いても面白いというのはすごい。あるお題についてリスナーが投稿したネタを読み上げて、それについて爆笑の2人がコメントをする。今日聞いたのはほとんど下ネタであったが楽しかった。以前気に入っていたのは「上手いこと」というコーナー。だがこのコーナーはすでに終了してしまったらしい。残念でならない。

授業におけるリスニングの扱い方を少し調べて入浴。やはり本を読まねばならんな。授業中のリスニング活動について書かれた本で何か良いものはないだろうか。



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burnable, unburnable, not to be burned

2008年07月26日 | 放言

 8時前に起床。朝飯抜きでの掃除開始。布団を外に出して、服を洗濯へ。机はベッドの上にあげて掃除機をかける。ごみというごみをごみステーションへ。「燃えるごみ」と「燃えないごみ」に分けて出すのは当たり前となっている今日、その流れに逆らうだけの勇気はなし。時間をかけて分別。しかし考えてみると、「燃えるごみ」というのはいいが、「燃えないごみ」というのはどうだろうか。ビンや金属ならともかく、プラスチック類までもが燃えないごみとして分類されている。これは「燃えない」ではなく、正しくは「燃やしてはいけない」ではないか。屁理屈をこねながらごみの分類に没頭。

 昼過ぎから昨日放送のルーキーズ最終回を見る。無茶苦茶な設定に驚く。キムタクの総理ドラマといい設定をもう少し考えよといいたい。試合に負けたら一年間の活動停止などという決定を高野連がするものか。議員なりたての総理が誕生するものか。ドラマといえばそれまでだが、「3億2千万当てた男」とは別のもどかしさを感じる。

 午後は月曜の授業準備。訳読が訳毒にならぬように気をつけなくては。ちょうど扱う内容も薬と毒の話。薬毒がそうであるように、訳読と訳毒は紙一重なのかもしれない。指名をした生徒が沈黙をしてしまう授業はその生徒に対しても他の生徒に対しても毒である。問題演習などをしているとついつい生徒に正しい答えを求めてしまうが、本当は生徒が正答を言おうと誤答を言おうとたいした問題ではないのかもしれない。なんならば答えを先に配ってやろうかとも思ったりする。答えを先に渡してなぜその答えになるのかを考えさせても面白そうだ。授業が停滞せぬように何かしらの仕掛けを作らねばと思う。

 それにしてもリーディング・スキルというのは何だろうか。パラグラフリーディングもそうであるが、例えば次のような英文がきちんと読めない者にとっては文の全体を把握するスキルを学ぶ前にすべきことがあるように思われる。

An object that is too hot to be touched for more than a second with our hands or lips can be in contact with a fingernail for some time.

雰囲気で文意を汲み取るという力技にしか頼れない生徒がかくれんぼをしている。



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I spy with my little eye something beginning with

2008年07月25日 | 放言

 7時20分出勤。個別メニュー用の問題印刷。夏休み期間のこのような個人単位の努力は欠かせない。見える形で実力が伸びてゆくようにしてやらねば。「同じタイプの~」で頻出のthe same...as~におけるasが出てこなかった生徒がいたのでチェック。来週の金曜日にもう一度同じ問題を出すことを確認。地道な努力が大切です。

 2年生のWは前半で否定の慣用表現を確認。後半は個人作業。このようなプリントを30分かけて取り組ませたわけだが、時間内に終えた者は数名。意外と時間がかかる。できなかった者は放課後までにすべてをやってから提出するように指示。それにしても声が出ない。読むことに喜びを感じる生徒は少ないようだ。音読の楽しさはいかにして伝えられるのか。

 1年はR。TTでやっている。休み明けからはコース分けの予定。今日は時間が余ったためゲームを行った。むしろ今日の授業全体がゲーム的要素満載の授業であった。授業者に見習うべき点多し。答えた生徒の名前を黒板にどんどん書いてゆき、ポイントを与える。1ポイント、2ポイント。この問題は3ポイント。生徒はどんどん手を挙げる。説明的になりがちな事柄をこのようなゲーム形式で進めることによってポンポンと授業は進む。時間のあまりはそういった理由。日本語と英語の発音の違いを確認した後、英文におけるアクセントの位置を確認。その後、さらに時間があったためにI spyゲームへ突入。さらにさらに時間があったためにWho am Iゲームに入り、タイムオーバー。I discovered Americaでコロンブスがなかなか出てこなかった。discoverの意味がはっきりしていなかったのだろう。

 明日は休み。大掃除の予定。

 最後に生徒が残した前置詞の使い分けを。その生徒曰く、

in年 in月 in季節
at時間だ 曜日にon
日付が付いたら絶対on!!



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母語を反省

2008年07月24日 | 放言

 夏期講座2日目も無事に終了。1年はリーディング教科書の文法事項を整理。不定詞用法の見分け方の伝授と現在完了形・現在完了進行形の整理。不定詞で始まる文はTo+V+コンマであれば副詞的用法であり、To+V+Vであれば不定詞が主語として入っているわけだから名詞的用法となる。単純ではあるが知っておくべきことである。むろん、センスのよい者はすでに気づいていることであろう。

 3年はR。4パラある文章の2パラまでをスラッシュ訳のような形で確認した後は少しだらけた感が出てきたので内容整理のプリントへ。最初の音読はよかったのだが、訳してゆく授業となると目をこする生徒がチラホラ。各設問への答えあわせ等は次回へもちこし。問題演習と部分訳を宿題とした。設問の文中にincomeが登場。次回の授業でoutgoを生徒から引っ張り出さねば。教師の役割というのはそういったところにあるのかもしれない。全訳は英文と模範訳があれば生徒個人でできるだろう。分からないところは個別に質問に来ればよい。授業で扱うべきは生徒の自習では気づかないと思われる部分。income-outgoのような関係は「ああ、そうか」とすぐに納得が行く。が、生徒個人では気づきにくい部分でもあろう。

 午後はまったり。といきたいところだったのだが、印刷に追われる。訪問客の対応もあった。今日の訪問者も一味も二味もある人物であった。面白い。雑用が終わるとある生徒が職員室へ。3年生(高校)であったが、その生徒曰く、「私の英語は中2で止まっている」とのこと。慌てて中2、中3を振り返るプリントを手渡す。ページ数はかなりあったが、問題数はそれほどでもないために来週の頭までにやってくるように指示。これが終了した後は、別の問題集にて本格的な復習へ移る予定。音読も入れたい。授業外で見てやるほかはないだろう。夏休み期間中にどれだけ濃い時間をすごせるかが勝負。

 5時15分に終業だが、明日の準備がまだであった。明日は1年のRと2年のW。2年のWは否定の3回目。否定は最終回だ。There's nothing like...やcannot help -ingなどの慣用的なものを取り上げて練習をするのが30分程度。残り30分は否定の総合的な復習へまわす予定。部分否定やら否定語句の文頭移動による倒置やらを練習する。そのためのワークシートを作成するのに少し時間を使った。『東大英語基礎力』の中からも問題を数問拝借。クラス分印刷後に帰宅。8時をまわる。

 夕食を済ませてから帰宅。9時をまわる。ネットで「7割超が「ぶぜん」の意味誤解 文化庁の国語世論調査」という記事を見つけたのでクリック。わたし自身「ブゼン」の誤用はないが、「『足をすくわれる』を『足元をすくわれる』と間違える人」には当てはまる危険性が。いや、むしろこちらのほうは間違いなく誤用常習犯だろう。「世界一受けたい授業」のホームページ内にある解説を読んで納得。こういった「誤用」を言葉の乱れというのかどうかは知らないが、それが乱れだとしても変化だとしても、いずれにしてもこのような問題意識は言語意識の高まりへとつながるだろう。母語は話者にとって自由であるがために普段は意識の対象にのぼらない。言語意識とは母語に関して反省的になることではないかと思う。



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中学文法の復習

2008年07月23日 | 放言
 夏期講座一日目。1年生はRの教科書内容。2年生はW。内容は否定。notを使った否定文の作り方から入り、語否定、句否定、節否定へ。その後、和訳にて知識を整理して否定呼応による倒置へ。Neither V+Sのパターンに慣れ親しむ。その後、頻度や程度を表す語を整理して和訳。和訳が終了したところで残り5分。確認用の問題演習をやらせてタイムオーバー。夏期講座はチャイム音が無い。そのため時間が来たところで号令。問題演習が終わっていない生徒は号令後も続行。ノルマ式の授業構成もよいと感じた。
 午後はゆっくり。大学説明に数名が来校。その対応によって仕事がたびたび中断されたが仕方がない。話を聞いているといろんな方がいて面白い。中には「ぎっくり腰なのよ」といって「よいしょっ」と席を立ち上がる人やすごくおしゃべりな方がいる。個性か。
 6時近くになり帰宅。帰宅して少しすると注文しておいた本が届く。数万円分の大出費。これで数ヶ月は金欠生活。いたしかたない。『東大英語基礎力』のシリーズを購入してみた。うちの生徒の中にこの問題集の存在を知るものは皆無と思われる。きちんと使えばそれなりに優れたものだろう。Vol.1では中学英語の範囲を復習する内容になっている。中学英語といえば公文から出ている『完全マスター中学英文法』というのを購入してみた。こちらはその名の通り中学範囲の文法を総復習する内容となっている。これを短期間(例えば夏休み期間中)のうちに一冊上げれば確かな学力がつくか。3回繰り返すようになっているが、1回目はすべて行い、2回目は間違えた箇所のみを行うという方法でよいかと思われる。3回目は趣味的範囲で。本書の内容を見ながらつくづく中学英語の大切さを感じさせられた。『東大英語基礎力』に困難を感じる生徒はまずは公文シリーズを通じて中学英語の基礎を固めておきたいところ。
 ただ、『完全マスター中学英文法』はそれぞれの問題に対する解答が見当たらない。どこにあるのだろうか。解答は。
 明日は3年はR。2年はW。1年はR。普段の授業と大差の無い夏期講座となっている。3年のRの進め方について悩んでいる。センター試験で問われた長文問題が題材であるが、これを果たして端から端まで授業中に訳しあげるべきかどうか。訳すとなれば教師主導となりがちである。スラッシュごとにヒントを与えながら訳していくのだが、この作業にどれだけの意味があるのか。60分という限られた時間をいかに使うかが勝負のはず。訳す時間に授業の大半を取られていては身も蓋もない。だが、訳さずパラグラフリーディングのみに頼っていては英語自体が分かっているのかどうかの確認があいまいになる。訳させてみてはじめて生徒がどのように英語と向き合っているのか分かる場合だってあるのだ。ん~、困った。授業には音読も入れたいしな。やりたいことが山ほどある中でやるべきことを選択するつらさと困難さに悩まされる。

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副詞節におけるある試み

2008年07月23日 | 放言
(A)After I eat dinner, I brush my teeth. 

(B)I brush my teeth after I eat dinner.

(A)と(B)の文は節を逆転させただけの文である。ただ、これを生徒に訳させてみると面白いように訳し分けてくれる。典型的な失敗例は次のような訳し方である。

(a)私は夕食を食べた後に、歯を磨く。
(b)私は歯を磨いた後に、夕食を食べる。

 (a)が正しい和訳であり、(b)は構造を読み間違えた誤訳である。どうしてこのような間違いが起きるのかに対する説明はafterの意味が及ぶ範囲を理解していないからというものであろう。(A)にしろ(B)にしろafterはafter I eat dinnerという副詞節を作っている。しかし英語が苦手な生徒はここが見抜けない場合が多い。彼らは次のように英文を捉えていると思われる。

(A-1)( After I eat dinner), I brush my teeth.
(B-1)( I brush my teeth after ) I eat dinner.

(B-1)は間違いであるわけだが、この間違いは日本語の影響を受けていると言える。

(b-1)私は歯を磨いた後に、夕食を食べる。

 英語における“after”と日本語における「後に」を対応させてみるとこのような間違った和訳が完成するのだ。(A)ではコンマがあるおかげで、afterが作り出す副詞節はたやすく見抜ける。しかし(B)となると英語の構造が見抜けずに日本語にひきづられて誤訳に結びついてしまうと思われる。それではこのような場合どのような対処法が考えられるだろうか。まずは副詞節を見分けさせる訓練をすることである。そのために副詞節を導く接続詞が登場したら( )でくくらせることをルールにすることが大切であろう。(接続詞+S+V)をひとくくりにすることを授業で確認しなければならない。もちろん関係詞が作り出す形容詞節やthatなどが作り出す名詞節もどうじにルール化しておくことが大切である。
 それでは次にすべきことはなんだろうか。節の見分けがきっちりとできていればこの問題に関してこれ以上特質して何かすべきことはないだろうが、以前次のような試みを目にしたことがある。旧来の分析方法と比べてみよう。

(試み) ( After I eat dinner), I brush my teeth.
               ~後に
(旧来) ( After I eat dinner), I brush my teeth.
      ~後に

 両者の違いは「~後に」という読解における補助としての日本語を( )の終わりに置くのか、単語の下に置くのかという部分である。(試み)の方のねらいは一目瞭然である。afterを日本語として訳すべきところに「~後に」が置かれているのである。この実践者曰く、単語には2種類ある。意味を覚えるべき単語と機能を覚えるべき単語。接続詞はその機能を覚えるべき単語に分類される。したがって、単語の下にその意味を書くのではなくて、日本語に対応するところに意味を書くのだというのだ。これは一つの試みとして私は理解できる。授業で実践するかどうかは横においておくとして、いろいろな教え方があるのだなと感心した。

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量か質か

2008年07月22日 | 放言
 午前中は野球の応援に。県1の野球校に中盤までは健闘。我が校もなかなかのものだ。5回を過ぎたあたりからはやはり実力の差か。
 前回の応援で肌がヒリヒリ。今回は太陽光線から身を守るべく帽子+長袖+日焼けクリームの完全防備。
 強豪校の試合を見ているとつくづく思う。彼らはどんな練習をしているのだろうと。私が高校生の頃、「あるところは365日休み無しで練習をやっているらしい」というのがうわさになったことがある。真偽の程は分からないが、後に練習のやりすぎが問題になり、定期的に休養日を設けなければならないことになった。数年前のことだ。強豪校の練習風景を見たことは無いが、どんな練習をしているのかも気になる。おそらく基本に忠実な練習をしているに違いないが、彼らは徹底的な弱肉強食の中で戦っているのだろう。年功序列は関係ない。結果を出した者がレギュラーとなり、そうでないものはスタンドで声を枯らす。
 量か質か。進学校が追求すべきはやはり質であろう。2時間なら2時間。その中で何ができるのか。フリーバッティング時に外野でぶらつく時間があるならば、ティーバッティングの1つでもやったほうがいい。ティーバッティングができる場所が限られているのならば、別のことを考える。とにかくグランドにいる選手たちが休む暇を作らないような仕掛けが必要である。いつも何かをしている状態。理想だ。言うは易し。いかにして体系立てるのか。選手たちの意識が鍵となる。

 ひるがえって英語教育。こちらは量か質かと問われれば迷わず量と答えたい。英語に取り組んだ時間の量と成績とは比例するのだとどこかで呼んだ記憶がある。外国語なのだから量をこなさなければできるはずも無いことを思えば当たり前といえば当たり前だ。しかし質が重要でないわけではない。生徒に量を求める分、教師は生徒が行う学習の質を確保してやる必要がる。努力の方向を間違わせてはならない。和訳課題に対して生徒が英文とにらめっこをする時間が30分、1時間と続いてしまうような学習は勧めたくはない。もちろん趣味的な範囲でそういった学習が実を結ぶことはあろうが、英語学習の本質はにらめっこにあるとは思えない。
 言い尽くされていることだが、鍵を握るはやはり音読だろう。声に出して読めること。意味の分かった英文を徹底して読むこと。ただ音読に際してスッと入ってゆけない生徒もいる。むしろ英語が苦手な生徒は音読ができないから苦手なのだろう。声に出して読もうとするが、英語が読めない。読めないから読まない。読まないから読めないの堂々巡りを繰り返しているのかもしれない。
 今日、応援から帰る車の中で先輩教員から授業中の音読についてアドバイスをいただいた。授業で読むこと。言語とは音なのだ。もちろん手話の例外はある。が、音が使える以上、使わなければ損というものである。ある教員は音読にまで手が回らないのだというが、やはり音読はすべきである。授業のどこかでやはり取り入れるべきだ。音読の方法については典型的なものしか知らないが、それでもやらないよりはましだ。教員の範読を聞かせるというのはあまりやらない。主流はリピーティング。いろいろなブログを読んでいると他にもLOOK-UP READINGやらSHADOWINGやらいろいろバリエーションがあるようなので勉強しないといけない。
 明日からは夏期講座が始まる。3年はセンターの解法の授業となるようだが、解法というのはどのようなものなのだろうか。マーク対策の授業とやらを想像してみるが、具体的に「これだ!」というのが思いつかずあたふたしている。何か魔法のような解法があるのだろうか。ん~。

私と寮の生徒と英語と

2008年07月14日 | 放言
 舎監をする時は寮生の勉強時間というものがある。1時間くらいだ。舎監に入る先生は英語、数学、国語と教科別に割り振りがされている。私が入る時は英語。英語についての質問なりを受けつける。今日も勉強についての質問が出た。何やら竹岡本を知り合いからもらった生徒がいて、それをどうやって勉強したらいいのか尋ねられた。問題となっている英文を書きうつすのもいいし、音読するのもいい。その組み合わせとしての音読筆写というのもいい。問題は解説文の扱いだが、自分なりに整理してみることをすすめた。解説というのは問題についての考え方が書かれてあるので大切にしたいところだ。答えがなぜそうなるのかについて理詰めておかなければ問題集をやる意味がない。これから先同じ問題が出なくても、同じタイプの問題は山ほど見ることになるだろう。
 進路の話なども時々やる。今日は私がなぜ先生になったのか聞かれた。成り行きで教壇に立つことになったのだとつまらない話をした。ただ、思うことは自分に与えられた仕事を一生懸命にやることが大切なのだということ。
 ところで話は変わるが、世間で近年聞かれるようになった言葉にSやMやらというものがある。SMプレイというのが語源だという。Sはサディスト、Mはマゾヒストの頭文字らしい。Sは攻めることを喜びにするタイプの人間であり、Mは攻められることを喜びにするタイプの人間だという言い換えが可能だ。この2分法できっちり分けられるほど人間は単純ではないことは前提だが、大きな傾向としてどちらのタイプに属する人間なのかについて考えてみることは面白い。

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全訳課題の欠点か

2008年07月12日 | 放言
 定期試験が終わり、成績を出す時期になってきた。生徒のほうも出し忘れている提出物を今のうちに出しておこうと必死になっているようである。3年のRでは毎回指定したところの全訳を提出させることにしているが、これまでの出し忘れているところを今日出すからと生徒の一人が今朝私のところに言いにきた。しかし、その生徒が5時ごろ再びやってきて「明日にしてください」と言う。理由は全訳に結構な時間がかかるからだというが、いったいどのくらいの時間がかかるのか尋ねると早くても1つに1時間はかかるという。その生徒は4つも5つも提出していないのだから少なくても5時間はかかるということになる。生徒も大変だなと思いながら、「じゃあ、明日パソコンの上に全訳を置いておいてください」という具合に対応した。
 ひるがえって考えてみると、提出物というものはなるほど出さなければならないが、それにしても1つにつき1時間やそこらの時間がかかるということに問題を感じてしまった。予習で要求している水準をクリアしようと思えばこの生徒は1つにつき予習で2時間、復習(全訳)で2時間程度かかってしまうことになる。復習とはいっても全訳なのだから内容は薄い。本当に大切なのは授業が終わった後の全訳ではなく、音読なのに。全訳課題は授業で扱った英文に対して個々人が授業後にもう一度取り組んで整理してみるという意味でやらせている。これを提出させることによって本当にやっているのかどうかの評価もしやすい。しかし考えてみれば分かるように、この生徒のように何時間もかかってしまう生徒もいるのである。思えば、私が担当しているクラスの生徒の大半はこのような状態なのではなかろうか。私は全訳よりも徹底的な音読のほうが大切だと思っている。全訳に何時間もかけるのであれば、その文の時間を音読をその行ってほしいというのが本心である。が、音読課題というのは外から評価がしにくい。音というのは本人が口にしたとたんに消えてしまうからだ。全訳であれば証拠が残るが、音読は証拠が残らない。だから全訳レベルの課題に終始してしまっていると言ってもいいかもしれない。音読を評価する方法さえあれば、全訳はきちんとしたものを配布し、どんどん英文を声に出して読ませたいところだ。
 そういえば、今、図書費において「音読教材」の購入を予定している。来月のことになるだろうが、その一覧はこちら。音読をするにはやはり音源が必要になる。正確な音での音読が好ましいからだ。購入予定の本の内容は以前にチラッと見たことがある。やさしい英文を徹底して音読すること。英語は言語なのだから、声に出さないと始まらない。予習復習を何時間もしなければならないというのは苦痛でしかないだろう。それをいかにして音読に切り替えてゆくのか。考えなければならない問題である。

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模範訳と生徒の和訳

2008年07月12日 | 放言
 本日は土曜出勤。記述模試の監督者だ。ただ、私にとっては都合がよかった。というのも、たっぷりと採点の時間がとれたからだ。おかげですべての丸つけが終了した。あとは点数を出すだけだ。
 試験で一つ引っかかったことが。それは和訳問題についての採点である。今回の試験では1年、2年、3年、いずれも和訳問題が2~3題出題された。「出題された」という言い方なのは、私が作ったテストではないからだ。ここで痛感したのは和訳試験の難しさである。和訳の基本は語の意味とそれらの支配関係を見据えたものであろうが、意訳をする生徒がいるのに困るのである。意訳は意味を中心にした訳し方である。英文法にがんじがらめになるあまりに和訳のほうが滅茶苦茶になることがあるが、その意味では意訳は必要だといえる。が、意訳の前提には語の支配関係、つまり英文の構造が理解されていなければならない。構造がきちっとつかめたものにのみ与えられる権利が意訳権なのだ。しかし生徒の訳はどうだろうか。英文に対して中途半端な理解にとどまっているにもかかわらず、意訳権を手にしたと勘違いしているものがチラホラと見られる。これでは意訳ではなく違訳、つまり違反している訳だといえる。具体的に提示してみよう。

They are afraid that cloning will lead to the production of human beings for body parts, or to attempts to create "superior" humans.(2004年度センター試験追試験問題に出題された英文を一部改変)

生徒たちの訳を見ていると次の4つのいずれかに分類される。
(1)言葉足らず
(2)言葉多し
(3)意味不明文
(4)違訳的意訳
 中にはスラッシュ訳を書いている生徒もいた。和訳しなさいという問題なので、スラッシュ訳は勘弁を。部分点を与えた。
 (1)の言葉足らずは「訳すべき語を訳していない」答案である。(2)の言葉多しはその逆で「この和訳は英文のどの部分に相当するのか説明のつかない」答案である。(3)の意味不明文は英語文法を無理やり日本語文法に当てはめようとした結果として意味があるようでないような意味不明文になってしまった答案である。(4)の違訳的意訳は意味の拡大解釈もあるし、具体的な事柄を非常に抽象的な訳に変えてしまったりしている答案である。ここで生徒の答案をお見せすることはできないが、これら4つの和訳については部分点を与えたり、正答としたりとなかなか苦労した。Aの答案とBの答案とで見比べてみて判断することも必要だろうが、今回は私の独断的絶対評価において点をつけさせていただいた。配点が3点であったり、5点であったりと、結構な高配点なので部分点は与えやすかったように思う。全体的には少し甘めの採点となったと思う。それにしてもつくづく思うのは日本語が日本語として成立していない答案が多いということだ。一例を挙げると、「彼らはクローンが身体の部分を求めて人間を生み出したり、優秀な人間を作り出したりしてしまうだろう」で文を閉めている答案があった。これでは「彼らは」が宙ぶらりんの状態になってしまうのになぜ気づかないのだろうか。言語意識の問題である。

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SCHOOL WARS

2008年07月11日 | 放言
 テスト監督が1限と3限にあったが、3限目のほうは冷房が停止していてサウナ状態。その後、採点を少しやってから、昼過ぎに学校を退散。指定休を使った。近所のファミリー・レストランで昼食を済ませてからレンタルビデオショップへ。『スクール・ウォーズ』を借りた。昔、再放送か何かで見て面白かった記憶がある。
 夏の夏期講座について少し考えてみたが、普段の授業のようなことをやる計画で本当によいのだろうか。はじめてなので想像ができないのだが、生徒が攻めの姿勢で勉強できる体制を整えたいところ。講義形式だと、どうしても受身の勉強になってしまうのではないか。その結果、せっかく夏休みにわざわざ学校に来ているにもかかわらず、教師の子守唄でレム睡眠を体験している生徒が現れはしないだろうか。この夏で受験につながる英語学習の方向性をがっちりと固めてもらいたいところ。何をどうしてゆけばいいのかについての一応の方向性は教師が与えてやるものだろうが、生徒も創造的にならなければ進歩はない。与えてもらうばかりでは先にすすめないのだ。現に今回の試験でそのことは証明されただろう。授業で扱った内容をただ聞いているだけではできるようにはならない。自分で理屈を理解しようとし、自分でその理屈を使って文を作ってみたりする。また、それが使われている英文を何度も声に出して読んでみる。そういった地道な学習がいずれは結果となって現れてくるだろう。英語を自分の世界に引き込もうとする態度を示さなければ。自分の世界にいったん引き込んでしまえば、それは苦痛ではなくなり、日常となるのだから。

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生徒の日本語

2008年07月10日 | 放言
 来週1週間が終わればいよいよ夏休みに突入。待ち遠しいと思うのは生徒たちだけだろうか。それはさておき、今週は定期試験。すでに3日が過ぎた。2年のWを最終日の明日に残しているが、それ以外は終了。少しずつ採点に取りかかるわけだが、はかどらない。丸つけをしていると生徒の解答について何かと考えてしまう。英語の基本的なルールをまるっきり無視している生徒が目につく。並び替え問題などは英語の基本に立ち戻って考えることができれば、それほどたいした問題ではないはずだが、なにやら当てずっぽうに答えを出している感がある。授業できちんと確認したはずの英語が書けていない。やはり一筋縄ではいかない現実があることを痛感。
 そういえば、3年生のWのテストの前にここだけは押さえておけというプリントを配布したら生徒が職員室に怒鳴り込んできた。怒鳴り込んできたという表現は穏やかではないが、文句を垂れに来たといえば正確な表現となる。今回もいつもと同じようにテスト一週間前に試験範囲を発表しているわけだが、3年の1学期ということでそれなりの点を取らせたいとの配慮から対策プリントを前日に配布したのだ。だが、それが裏目に出たらしい。その生徒曰く、私が試験前日になって試験範囲を増やしたのだと言う。今回の3年のWの試験範囲は否定、強調、倒置、省略、代用であったが、その生徒は「なぜ○○の問題集が試験前日になって追加されているんですか」と迫ってきたのだ。「いやいや、別に範囲を追加したわけではなくて、今回の試験範囲は『否定、強調、倒置、省略、代用』なんだから、その範囲をやっておけば十分対応できるよ」といっても聞く耳持たず。「なぜ前日になって追加するんですか」の一点張りだ。「試験で点が取れなかったらどうするんですか」という始末。「そんなの知るか!」と言いたい気持ちを抑えつつ、「今回の試験範囲は『否定、強調、倒置、省略、代用』だよね。○○の問題集が範囲になっているからといっても、試験範囲の文法事項をきちんと押さえられていたら大丈夫なように作ってあるよ」と説明をした。だが、その生徒は納得せず他の教員に諭されて職員室を出て行った。私からしてみればまったく意味不明。親切心で対策プリントを配布してあげたにもかかわらず、それを逆手にとっての逆ギレ。あきれ果ててしまった。○○問題集が範囲になっていようがいまいが、試験範囲は「否定、強調、倒置、省略、代用」なのだ。問題集の問題をそのまま出題するわけでもないのに何を思ったのか、未だに不明だ。
 さて、話は再び採点へ。採点をしていると「面白解答」が時々ある。Make sure that...(略)を訳しなさいという問題に対して「マイクは~」と訳し上げる生徒は別にウケを狙っているわけではなくて、本当に深刻な英語音痴なのだから笑ってはいられない。何らかの救済措置を講じなければならない。さらに採点をしていると首をかしげるような場面に出くわす。それは生徒の日本語の問題である。英語の問題に対して日本語での解答を要求する設問がテストの中に含まれているわけだが、生徒の日本語が壊れている、と疑ってしまう解答が時々ある。「学校や会社に入るのが(  )となる」という問題の正答は(困難)であるが、中には(難しい)や(難しく)とやっている生徒がいる。(できない)と解答した生徒もいる。彼らは何かしらの「違和感」を感じないのだろうか。「難しいとなる」「難しくとなる」「できないとなる」という日本語を見たとき、私が最も問題だと思うのは彼らの言語感覚である。このような解答を定期試験でやれるという緊張感の無さもさることながら、私がもっと問題だと思うのは彼らの言語感覚の希薄さである。空欄を見たときに前後をどのようにむすぶべきかについて彼らはさほど意識的になっていないように思われる。このような言語感覚でもって外国語である英語と向き合いましょうというわけだから伸びないのも当たり前といえば当たり前だろう。このような事実を持って私は「国語教育をしっかり!」などと叫ぶつもりは無いが、言語感覚なり言語意識なりを高める試みは必要なのだと思う。英語はその一つの手段になりうるし、言語意識の高まりは英語力の向上にもつながりをもちうるだろう。

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