海外旅行

中央アジアの紹介です。

シルクロード 36

2007-04-28 06:38:56 | Weblog
トルコの知られざる町  ②

▲国境の町

 ポソフはグルジァからトルコに入って最初に現れる小さな町、ボーダーからバスがないのでここまでタクシーに乗るしかない。それに換金する所もないからこの町で行う。小さな町にしたら立派な銀行がある。10ドル換金すると3千万ちかいトルコリラが手に入る。大金持ちになった気分になるが、どっこいそうはいかない。桁が違うだけで中央アジアの国々と比較すると随分物価が高い。
 午前中に入国すればカルスまで行くことが出来るが、相当距離があるのでここで泊まるより仕方がない。小さいがホテルだが二軒ある。
 何といっても景色が素晴らしい。山の傾斜地にあり、町全体が緑の木々で被われている。車もめったに通らないが、ホテル近辺は人、人であふれかえっている。カルスまで町らしき町はないので、近隣の村人達の社交場になっいるらしい。
 夕刻はロカンタで世界三大料理であるトルコ料理を味わいながらビールやラキを飲むことにしよう。トルコ人は日本人が大好きで、素朴な若者達が大勢集まってくる。

▲「アニ遺跡」が近い

 カルスはアルメニアに近い小さな町、古城や博物館があるが何といっても「アニ遺跡」でこの町を世界に知らしめている。度重なる侵略により多少破壊されているものの紀元1千年、アルメニア時代に建てられた救世主教会他遺跡が点在している。
 ここに行くには許可が必要で、ドルムッシュ乗り場に行けばタクシーの運ちゃんが取ってくれる。
 メーンストリートは掃き清められ、レストラン、ブティック、ホテルと洒落た店々が並ぶ。遠距離のオトガルは中心街から相当離れた距離にある。
 ドウバイヤジットに行くバスに乗れば、アララット山のすぐ下を通るから絶景を楽しむことが出来る。(終)

シルクロード 35

2007-04-27 07:22:29 | Weblog
イランの街 ②

▲イスラム・シーア派の聖地

 マシュハドはハラメ・モタッハル広場を中心に発展した街、モスクや聖廟が密集している。イスラム・シーア派にとってはメッカに次ぐ重要な聖地なのである。
 八代目エマームであるレザーは35歳のとき父からエマーム位を継いだが816年アッパース朝のカリフ・マアムーンが突然彼を後継者にすえたところから皮肉にも運命は狂いはじめた。
 反対派の首領を倒す波が高まりつつある中、バクダッドに向う途上彼は急死した。アッパース朝は基本的にシーア派を弾圧していたから、シーア派の人達の間ではカリフ・マアムーンによって毒殺されたとの噂がひろまってしまう。シーア派の人達は彼の死を悼み、このマシュハドに葬ったのである。その棺は今も黄金のドームの下にあり、各地から巡礼者が押し寄せるようになった。
 この聖域は今もなお拡大しつつあり、完成は何年先になるのか誰にも判っていない、というから驚きだ。 
 コンパデ・サブス廟は広場から4キロほど西に行った所にある。外壁はイスラム建築にしては珍しく赤とベージュの幾何学模様。その上に青いドームがのって均整のとれた美しい廟だが、前も後も車が走る車道の中に建っている。
『質問』・イランの女性が着ているチャドル、暑い国なのに何故黒ですか。 

▲ゾロアスター教の聖地

 ヤズドはテヘランの南東約670キロ。イランのほぼ中央に位置する。13世紀後半、マルコ・ポーロが訪れたことでも知られている。「東方見聞録」の中で、ヤズドは絹布の生産が盛んで、諸外国に販売して莫大な利益を収めている、と書いている。まさにヤズドは絹によって栄えた、シルクロードの商業都市だったのである。 
 現代はゾロアスター教信者の多い街として知られている。ゾロアスター教は紀元前七世紀ごろ古代ペルシャで生まれたとされるゾロアスターが教祖。光と闇、善と悪の二元論を特徴とする宗教である。
 旧市街に拝火寺院があり、今も「聖なる火」が1540年間にわたって燃やし続けられている。火や水はゾロアスター教徒にとって神聖なもの、死体で汚すことを嫌い、郊外にある「沈黙の塔」で鳥葬が行われてきた。荒涼とした台地に新市街が進出し、その向こうの丘の上に二つの塔が見える。左が男性用、右が女性用のものだという。ゆるい坂道を登ると街が一望出来、背後はザーグロス山脈が波うつ。麓は遺跡の発掘中、キャラバンサライやカナート(地下溝)が野ざらになっている。ちなみに果物のザクロはここが原産地だという。
 またこの街はイランで最も高いミナレットを持つマスメジェデ・ジャーメ(金曜もスク)があることでも有名だ。
『質問』・ユダヤ教にも寺院はあるのですか。どんな形をしているのですか。
(続く)

シルクロード 34

2007-04-26 10:42:56 | Weblog
東ヨーロッパの街と村

▲ヨーロッパへの玄関口

 バクーはアルゼバイジャンの首都である。トルクメナバッシ対岸の港町であると同時にヨーロッパへの玄関口でもある。1859年に市制をひいたたというから歴史ある街だが日本には馴染みが薄い。
 1940年、海底油田が開発され、良質の石油が産出されることで世界には知られている。街を歩くと堂々とした立派な建物が多く、スーツ姿の男性が目につく。この街の豊さを象徴しているかのようだ。
 交通機関としてはメトロもあるが、バスが利用しやすい。ホテルに頼めば何番のバスに乗れば、行き先が一目で判るマップをくれる。殆どのバスは宮殿かと見間違う駅舎の前を経由して、郊外えと消え去る。しかし駅周辺はやたらとポリが多く、時には建物内にひき入れ、身体検査して巧みに金を抜き取るというから要注意だ。
 NO4のバスに乗ると旧市外に行ける。古い教会や宮殿もあり、土産物店もある。高台にあるから街や港が一望できる。
 バスターミナルは市内から相当離れた高台にあり、ひろーいターミナルだから行きたいバスは何処から出ているか、前日確かめておいた方がいい。

▲やたらと学生が多い

 シェキは黒海近くで隆起したカフカズ山脈が北東に延び、その最端に位置する山麓の静かな町である。バクーからミニバスで一日かかる。列車でグルジァに行くことも出切るが、次第に緑の増す草原や山中をバスに揺られながらの旅もまた楽しい。
 町の最上部に「ユカルサライ」があり、歴史的に大切な物が保管されていると聞いて訪れたが改装中で見ることはできなかった。ホテルは幾つかあるが、中腹にあるキャラバンサライがいい。昔の宿を改築して、異国情緒豊な奮意気をかもしだしている。
 この町は環境が良いせいかやたらと学生が多い。通学時は坂道が学生達でいっぱいになる。悪童どもがチャカしてくるから負けずにやり返してやろう。
グルジァに入国するにはシェキからバスでザガタラへ、ここからボーダーまで約20キロ、バスは無いのでタクシーになる。

▲スターリン生誕の地

 トビリシは黒海とカスピ海に挟まれたグルジァの首都、人口は513万人。
グルジァも日本人には馴染みが薄い国だが格闘技が強く、相撲取りの黒海が生まれた国といえば、あぁ、あの国か、と頷く人もも多いだろう。また隣町ゴリはスターリン生誕の地だ。モスクワから遥かに遠い、こんな地から彼はどのようにして中央政界におどりでたのか、調べてみるのも面白そうだ。グルジァ人にとって彼は今も英雄視され、各民宿の壁は大統領の写真ではなく彼の写真が飾られている。
 国土が豊かであることと、東西の交通の要衝であることが災いして、1922年ソ連の共和国となるまでビザンチン、ペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコ等に侵略され続けた。 
 一番苦労するのはホテルが無いことだ。高級ホテルはともかくとして、殆どがチェチェン難民のキャンプに当てられている。やむなく民宿に泊まることになる。中央アジアの情報ノートから幾つかの民宿の地図を写しとって来たからよかったが、もし安易な気持ちで入国していたら大変なことになっていた。
 民宿といっても家族と一緒で、なおかつ夜は水も電気もこないから次第に重い気分に陥ってしまう。近年、大統領が更迭される、というニュースが新聞をにぎわした。インフラの遅れに市民が怒りを爆発させたのだ。
 トビリシは古くからキリスト教が定着し、いたる所にトンガリ帽の教会が建っている。しかしソ連は宗教を弾圧したから教会は荒廃し、どこも修復中の所が多い。
 トビリシから車で一時間の谷間の村、ムツへダにも大きな教会が数等建っていて、世界遺産に登録されている。しかしここも修復中で、いつ完成するのか工人は一人もいない。資金がないのか、お国柄なのか・・・。

▲奥深い谷間の村

 カズベキはカフカズ山脈の奥深い谷間の村である。こんな村を何故訪れたか、それはちょっとした登山家ならきっと知っているカフカズの名峰、
カズベク峰(5047m)が見えるからだ。
 トビリシから軍用道路をバスで5時間、3千mはあろう峠を越して谷底を行くと南斜面と北斜面に民家の密集する村がカズベキ村である。
 広場に降り立つと、山頂に建つ教会の右に雪を被ったカズベク峰の頭が見える。
この村には二つのホテルと民宿もある。村の中の通りをなおも進むとロシア連邦、共和国がたくさんある。その中の一つがチェチェン共和国、バクーで採掘された石油はチェチェンを通過しないと輸入出来ないのだ。支配下に置きたいロシア、独立を誓うチェチェン、グロースヌイで起きた学校襲撃事件も関係しているといわれている。(続く)

シルクロード 33

2007-04-25 11:02:18 | Weblog
中央アジアの街

▲旅行者は歓迎されないのか

 アシュガバッドはトルクメニスタンの首都、カラクム砂漠の西に位置するから、ヒヴァから砂漠を横断すれば短時間で行けるが、どっこいそうはいかない。ブハラに戻って、トルクメなバッドに入国し、夜行列車で砂漠を南に迂回しないことにはアシュカバッドに着かない。
 トルクメニスタンという国は、旅行者に5日間のヴィザしか発行しないから
どの様にしてカスピ海に面したトルクメナバッシにたどりつくかが大きな鍵となっている。
 朝着くと、すぐその夜の夜行列車の予約を済ませ街に出た。独裁国家と言われるだけあって街のいたる所にニヤゾフ大統領の銅像がたち、ビルというビルには大きな写真が飾られている。それを象徴するのが「トルクメナバッシ像」だ。75 mの塔の上に黄金に輝く大統領像が両手広げて市内を見回している。1995年永世中立国として国連に承認された記念に建てられものだ。
 街中は掃き清められチリ一つ落ちていない。最初に訪れたロシア・バザールはどこの国のバザールより清潔で、かつ整然としている。しかし市民は旅行者を歓待する様子はみじんも感じられず、話しかけてくる人は誰一人いない。
「俺達の国を通らないと何処えもいけんのよ、なんかもんくあっか!」
「なーんも悪いことせんけぇ、通してくれんさい」
 この街の歴史は浅く、1881年、ロシアは当時ペルシャに勢力をのばしていたイギリスに対抗するため、小さな村に基地を築いたのがこの街の起源だといわれている。今は4百30万の人が暮らす大都会だ。ただし市民はたび重なる地震で恐怖にさらされている。すぐ近くイランとの国境をコペトダク山脈が連なり、その造山運動で1948年の大地震では11万人にものぼる犠牲者が出たというから驚きだ。

▲カスピ海に面した港町

 トルクメナバッシはトルクメの西の玄関口、カスピ海に面した港町である。
町は傾斜地の高台にあり、背後は灰色の禿げ山、眼下にモスグリーンのカスピ海が広がる。
 桟橋は国道をアシュカバッド方面に2キロほど戻り、坂道を下って線路をまたいで下の道に出る。なおも左に1キロほどいくと広い駐車場の奥に事務所がある。これぞ悪名高きフェリー乗り場だ。何故かというと、このフェリーは何日、何時に出航し、かつバクーに何時着くのかさっぱり判らないからだ。1週間に1便だったり、2日おきだったり、毎日だったり我侭いっぱいのフェリーなのだ。
 旅行者は最低でも3日で横断し、トルクメナバッシ駅に着き、その足でフェリー便を調べておいた方が良い。さもないと再度ヴィザをとらなくてはならなくなる。
 トルクメは何処も禁煙で単パンでの外出は禁じられている。見つかると罰金を要求される。それでもバザールのおばちゃん達は親切で外国人慣れしていた。さすがは港町である。(続く)