海外旅行

中央アジアの紹介です。

韓国一周の旅

2007-05-03 17:23:26 | Weblog
韓国一週の旅


○月○日
行き先・韓国
交通機関・成田~金甫空港(飛行機)~ソウル市内(タクシー)
宿泊・YMCA

○月○日
行き先・観光協会
目的・雪岳山、韓国全土の地図
観光・南大門市場、東大門市場、明洞通り
交通機関・徒歩
宿泊・YMCA
交通機関・市内~高速ターミナル(メトロ)~束草(高速バス)~雪岳山公  
       園(乗合バス)~雪岳洞(乗合バス)
宿泊・民宿

○月○日
登山・ 雪岳山
交通機関・雪岳洞~雪岳山公園(乗合バス)~雪岳山(徒歩)=往復
宿泊・民宿

○月○日
行き先・太田へ
交通機関・雪岳洞~ 束草(乗合バス)~江陵(乗合バス)~太田(高速バ  
       ス)
宿泊・大林観光ホテル

○月○日
観光・扶余
交通機関・ 太田~西部ターミナル(乗合バス)~扶余(乗合バス)~市内
       観光(徒歩)=往復
宿泊・大林観光ホテル

○月○日
行き先・木浦へ
交通機関・ ホテル~西部ターミナル(乗合バス)~光州(高速バス)~木   
             浦ターミナル(乗合バス)~木浦市内(タクシー)
宿泊・トリム荘旅館

○月○日
観光・木浦市内
交通機関・ 徒歩
宿泊・トリム荘旅館

○月○日
行き先・大邸へ
交通機関・木浦市内~ ターミナル(乗合バス)~順天(乗合バス)~普州 
       (乗合バス)~大邸(高速バス)
宿泊・ニューテグホテル

○月○日
観光・大邸市内
宿泊・ニューテグホテル

○月○日
行き先・原州へ
交通機関・大邸市内~北部 ターミナル(乗合バス)~安東(乗合バス)~
       丹陽(乗合バス)~原州(乗合バス)
宿泊・市場裏の旅館

○月○日
観光・焼き物の里・利川へ
交通機関・ 原州~利川駅(高速バス)~ 焼き物の里(ミニバス)=往復
宿泊・市場裏の旅館

○月○日
行き先・慶州へ
交通機関・ 原州~慶州(高速バス)~ホテル(タクシー)
宿泊・慶州観光ホテル

○月○日
観光・慶州市内
交通機関・ 観光バス
宿泊・慶州観光ホテル

○月○日
行き先・釜山へ
交通機関・ホテル~ターミナル(タクシー)~釜山(高速バス)~ホテル(タ
       クシー)
宿泊・コモドホテル

○月○日
観光・釜山市内
交通機関・ タクシー
宿泊・コモドホテル

○月○日
買物・釜山市内
交通機関・タクシー=往復
宿泊・コモドホテル

○月○日
行き先・済州島へ
交通機関・ホテル~空港(タクシー)~済州空港(飛行機)~ホテル(タク
       シー)
宿泊・HOTEL・普光荘

○月○日
観光・西海岸を西帰浦市往復
交通機関・知人の車
宿泊・HOTEL・普光荘

○月○日
観光・西海岸を城山日出峰=往復
交通機関・知人の車
宿泊・HOTEL・普光荘

○月○日
登山・漢拏山登山・オリモクコース
交通機関・知人の車~徒歩=往復
宿泊・HOTEL・普光荘

○月○日
帰国・成田空港

シルクロード 36

2007-04-28 06:38:56 | Weblog
トルコの知られざる町  ②

▲国境の町

 ポソフはグルジァからトルコに入って最初に現れる小さな町、ボーダーからバスがないのでここまでタクシーに乗るしかない。それに換金する所もないからこの町で行う。小さな町にしたら立派な銀行がある。10ドル換金すると3千万ちかいトルコリラが手に入る。大金持ちになった気分になるが、どっこいそうはいかない。桁が違うだけで中央アジアの国々と比較すると随分物価が高い。
 午前中に入国すればカルスまで行くことが出来るが、相当距離があるのでここで泊まるより仕方がない。小さいがホテルだが二軒ある。
 何といっても景色が素晴らしい。山の傾斜地にあり、町全体が緑の木々で被われている。車もめったに通らないが、ホテル近辺は人、人であふれかえっている。カルスまで町らしき町はないので、近隣の村人達の社交場になっいるらしい。
 夕刻はロカンタで世界三大料理であるトルコ料理を味わいながらビールやラキを飲むことにしよう。トルコ人は日本人が大好きで、素朴な若者達が大勢集まってくる。

▲「アニ遺跡」が近い

 カルスはアルメニアに近い小さな町、古城や博物館があるが何といっても「アニ遺跡」でこの町を世界に知らしめている。度重なる侵略により多少破壊されているものの紀元1千年、アルメニア時代に建てられた救世主教会他遺跡が点在している。
 ここに行くには許可が必要で、ドルムッシュ乗り場に行けばタクシーの運ちゃんが取ってくれる。
 メーンストリートは掃き清められ、レストラン、ブティック、ホテルと洒落た店々が並ぶ。遠距離のオトガルは中心街から相当離れた距離にある。
 ドウバイヤジットに行くバスに乗れば、アララット山のすぐ下を通るから絶景を楽しむことが出来る。(終)

シルクロード 35

2007-04-27 07:22:29 | Weblog
イランの街 ②

▲イスラム・シーア派の聖地

 マシュハドはハラメ・モタッハル広場を中心に発展した街、モスクや聖廟が密集している。イスラム・シーア派にとってはメッカに次ぐ重要な聖地なのである。
 八代目エマームであるレザーは35歳のとき父からエマーム位を継いだが816年アッパース朝のカリフ・マアムーンが突然彼を後継者にすえたところから皮肉にも運命は狂いはじめた。
 反対派の首領を倒す波が高まりつつある中、バクダッドに向う途上彼は急死した。アッパース朝は基本的にシーア派を弾圧していたから、シーア派の人達の間ではカリフ・マアムーンによって毒殺されたとの噂がひろまってしまう。シーア派の人達は彼の死を悼み、このマシュハドに葬ったのである。その棺は今も黄金のドームの下にあり、各地から巡礼者が押し寄せるようになった。
 この聖域は今もなお拡大しつつあり、完成は何年先になるのか誰にも判っていない、というから驚きだ。 
 コンパデ・サブス廟は広場から4キロほど西に行った所にある。外壁はイスラム建築にしては珍しく赤とベージュの幾何学模様。その上に青いドームがのって均整のとれた美しい廟だが、前も後も車が走る車道の中に建っている。
『質問』・イランの女性が着ているチャドル、暑い国なのに何故黒ですか。 

▲ゾロアスター教の聖地

 ヤズドはテヘランの南東約670キロ。イランのほぼ中央に位置する。13世紀後半、マルコ・ポーロが訪れたことでも知られている。「東方見聞録」の中で、ヤズドは絹布の生産が盛んで、諸外国に販売して莫大な利益を収めている、と書いている。まさにヤズドは絹によって栄えた、シルクロードの商業都市だったのである。 
 現代はゾロアスター教信者の多い街として知られている。ゾロアスター教は紀元前七世紀ごろ古代ペルシャで生まれたとされるゾロアスターが教祖。光と闇、善と悪の二元論を特徴とする宗教である。
 旧市街に拝火寺院があり、今も「聖なる火」が1540年間にわたって燃やし続けられている。火や水はゾロアスター教徒にとって神聖なもの、死体で汚すことを嫌い、郊外にある「沈黙の塔」で鳥葬が行われてきた。荒涼とした台地に新市街が進出し、その向こうの丘の上に二つの塔が見える。左が男性用、右が女性用のものだという。ゆるい坂道を登ると街が一望出来、背後はザーグロス山脈が波うつ。麓は遺跡の発掘中、キャラバンサライやカナート(地下溝)が野ざらになっている。ちなみに果物のザクロはここが原産地だという。
 またこの街はイランで最も高いミナレットを持つマスメジェデ・ジャーメ(金曜もスク)があることでも有名だ。
『質問』・ユダヤ教にも寺院はあるのですか。どんな形をしているのですか。
(続く)

中央アジアの安宿ご存知の方

2007-04-26 17:46:41 | Weblog
今年の夏、中央アジア(カザフ、キルギス、ウズベク)の旅を計画しています。安宿をご存知の方いらっしましたら教えていただけないでしょうか

シルクロード 34

2007-04-26 10:42:56 | Weblog
東ヨーロッパの街と村

▲ヨーロッパへの玄関口

 バクーはアルゼバイジャンの首都である。トルクメナバッシ対岸の港町であると同時にヨーロッパへの玄関口でもある。1859年に市制をひいたたというから歴史ある街だが日本には馴染みが薄い。
 1940年、海底油田が開発され、良質の石油が産出されることで世界には知られている。街を歩くと堂々とした立派な建物が多く、スーツ姿の男性が目につく。この街の豊さを象徴しているかのようだ。
 交通機関としてはメトロもあるが、バスが利用しやすい。ホテルに頼めば何番のバスに乗れば、行き先が一目で判るマップをくれる。殆どのバスは宮殿かと見間違う駅舎の前を経由して、郊外えと消え去る。しかし駅周辺はやたらとポリが多く、時には建物内にひき入れ、身体検査して巧みに金を抜き取るというから要注意だ。
 NO4のバスに乗ると旧市外に行ける。古い教会や宮殿もあり、土産物店もある。高台にあるから街や港が一望できる。
 バスターミナルは市内から相当離れた高台にあり、ひろーいターミナルだから行きたいバスは何処から出ているか、前日確かめておいた方がいい。

▲やたらと学生が多い

 シェキは黒海近くで隆起したカフカズ山脈が北東に延び、その最端に位置する山麓の静かな町である。バクーからミニバスで一日かかる。列車でグルジァに行くことも出切るが、次第に緑の増す草原や山中をバスに揺られながらの旅もまた楽しい。
 町の最上部に「ユカルサライ」があり、歴史的に大切な物が保管されていると聞いて訪れたが改装中で見ることはできなかった。ホテルは幾つかあるが、中腹にあるキャラバンサライがいい。昔の宿を改築して、異国情緒豊な奮意気をかもしだしている。
 この町は環境が良いせいかやたらと学生が多い。通学時は坂道が学生達でいっぱいになる。悪童どもがチャカしてくるから負けずにやり返してやろう。
グルジァに入国するにはシェキからバスでザガタラへ、ここからボーダーまで約20キロ、バスは無いのでタクシーになる。

▲スターリン生誕の地

 トビリシは黒海とカスピ海に挟まれたグルジァの首都、人口は513万人。
グルジァも日本人には馴染みが薄い国だが格闘技が強く、相撲取りの黒海が生まれた国といえば、あぁ、あの国か、と頷く人もも多いだろう。また隣町ゴリはスターリン生誕の地だ。モスクワから遥かに遠い、こんな地から彼はどのようにして中央政界におどりでたのか、調べてみるのも面白そうだ。グルジァ人にとって彼は今も英雄視され、各民宿の壁は大統領の写真ではなく彼の写真が飾られている。
 国土が豊かであることと、東西の交通の要衝であることが災いして、1922年ソ連の共和国となるまでビザンチン、ペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコ等に侵略され続けた。 
 一番苦労するのはホテルが無いことだ。高級ホテルはともかくとして、殆どがチェチェン難民のキャンプに当てられている。やむなく民宿に泊まることになる。中央アジアの情報ノートから幾つかの民宿の地図を写しとって来たからよかったが、もし安易な気持ちで入国していたら大変なことになっていた。
 民宿といっても家族と一緒で、なおかつ夜は水も電気もこないから次第に重い気分に陥ってしまう。近年、大統領が更迭される、というニュースが新聞をにぎわした。インフラの遅れに市民が怒りを爆発させたのだ。
 トビリシは古くからキリスト教が定着し、いたる所にトンガリ帽の教会が建っている。しかしソ連は宗教を弾圧したから教会は荒廃し、どこも修復中の所が多い。
 トビリシから車で一時間の谷間の村、ムツへダにも大きな教会が数等建っていて、世界遺産に登録されている。しかしここも修復中で、いつ完成するのか工人は一人もいない。資金がないのか、お国柄なのか・・・。

▲奥深い谷間の村

 カズベキはカフカズ山脈の奥深い谷間の村である。こんな村を何故訪れたか、それはちょっとした登山家ならきっと知っているカフカズの名峰、
カズベク峰(5047m)が見えるからだ。
 トビリシから軍用道路をバスで5時間、3千mはあろう峠を越して谷底を行くと南斜面と北斜面に民家の密集する村がカズベキ村である。
 広場に降り立つと、山頂に建つ教会の右に雪を被ったカズベク峰の頭が見える。
この村には二つのホテルと民宿もある。村の中の通りをなおも進むとロシア連邦、共和国がたくさんある。その中の一つがチェチェン共和国、バクーで採掘された石油はチェチェンを通過しないと輸入出来ないのだ。支配下に置きたいロシア、独立を誓うチェチェン、グロースヌイで起きた学校襲撃事件も関係しているといわれている。(続く)

シルクロード 33

2007-04-25 11:02:18 | Weblog
中央アジアの街

▲旅行者は歓迎されないのか

 アシュガバッドはトルクメニスタンの首都、カラクム砂漠の西に位置するから、ヒヴァから砂漠を横断すれば短時間で行けるが、どっこいそうはいかない。ブハラに戻って、トルクメなバッドに入国し、夜行列車で砂漠を南に迂回しないことにはアシュカバッドに着かない。
 トルクメニスタンという国は、旅行者に5日間のヴィザしか発行しないから
どの様にしてカスピ海に面したトルクメナバッシにたどりつくかが大きな鍵となっている。
 朝着くと、すぐその夜の夜行列車の予約を済ませ街に出た。独裁国家と言われるだけあって街のいたる所にニヤゾフ大統領の銅像がたち、ビルというビルには大きな写真が飾られている。それを象徴するのが「トルクメナバッシ像」だ。75 mの塔の上に黄金に輝く大統領像が両手広げて市内を見回している。1995年永世中立国として国連に承認された記念に建てられものだ。
 街中は掃き清められチリ一つ落ちていない。最初に訪れたロシア・バザールはどこの国のバザールより清潔で、かつ整然としている。しかし市民は旅行者を歓待する様子はみじんも感じられず、話しかけてくる人は誰一人いない。
「俺達の国を通らないと何処えもいけんのよ、なんかもんくあっか!」
「なーんも悪いことせんけぇ、通してくれんさい」
 この街の歴史は浅く、1881年、ロシアは当時ペルシャに勢力をのばしていたイギリスに対抗するため、小さな村に基地を築いたのがこの街の起源だといわれている。今は4百30万の人が暮らす大都会だ。ただし市民はたび重なる地震で恐怖にさらされている。すぐ近くイランとの国境をコペトダク山脈が連なり、その造山運動で1948年の大地震では11万人にものぼる犠牲者が出たというから驚きだ。

▲カスピ海に面した港町

 トルクメナバッシはトルクメの西の玄関口、カスピ海に面した港町である。
町は傾斜地の高台にあり、背後は灰色の禿げ山、眼下にモスグリーンのカスピ海が広がる。
 桟橋は国道をアシュカバッド方面に2キロほど戻り、坂道を下って線路をまたいで下の道に出る。なおも左に1キロほどいくと広い駐車場の奥に事務所がある。これぞ悪名高きフェリー乗り場だ。何故かというと、このフェリーは何日、何時に出航し、かつバクーに何時着くのかさっぱり判らないからだ。1週間に1便だったり、2日おきだったり、毎日だったり我侭いっぱいのフェリーなのだ。
 旅行者は最低でも3日で横断し、トルクメナバッシ駅に着き、その足でフェリー便を調べておいた方が良い。さもないと再度ヴィザをとらなくてはならなくなる。
 トルクメは何処も禁煙で単パンでの外出は禁じられている。見つかると罰金を要求される。それでもバザールのおばちゃん達は親切で外国人慣れしていた。さすがは港町である。(続く)

シルクロード 32

2007-04-24 06:58:57 | Weblog
中央アジアの街

▲イスラム世界全体の文化の中心地

 ブハラとはサンスクリット語で「修道院」、その名のとおりイスラム世界全体の文化の中心地である。この町もチンギスハーンによって一度は灰塵と化してしまったが、16世紀に復活して現在は世界遺産として登録されている。
 圧巻はなんといってもカラーンモスクのミナレットである。この町に攻めいったチンギス・ハーンは、あまりの高さに見とれ、被っていた帽子を落としてしまった。おもわず腰をかがめて拾うなり「この塔は私に頭を下げさせた。すごい塔だ!。この塔は決して破壊してはならん」と家来に伝えたという。それ故今も昔のまま空高くそびえ建っている。
 アルク城の城壁に沿って歩いて行くと鬱蒼と茂る林の公園に入っていく。
その端にイスマイ-ル・サマニ廟がある。892年から数年かけて建てられた最古のイスラム建造物だ。日干しレンガを積み重ねた様々な幾何学模様の側壁と、上にのっている単調なドームがうまくマッチして、一つの芸術品を見ているようだ。
 チャル・ミナルは旧市街の民家の中にある。均整のとれた4本のミナレットを持つ美しいモスク。刺繍や線画となって土産物として登場するだけある。

▲アラル海干上がってしまう

 ウルゲンチはパミール高原から流れ出た川が大河となってブハラ、ウルゲンチ、ヒヴァ、ヌクスと幾つかの町々を潤し、やがてアラル海へと注ぐアムダリヤ河畔の町である。人口は4万5千人ほどの小さな町。12世紀、ホラズム・シャーの都として栄えたが、チンギス・ハーンによって徹底的に破壊されてしまった。
 それ故これといった観光地はなく、今ではヒヴァへ向う旅人の宿泊地となっている。ヒヴァはブハラに匹敵する観光地でありながら、川が蛇行を変えたためホテルが少ないのだ.。
 かってウルゲンチがソ連の統治下にあった時代、ソ連はこの地を綿の一大産地とすべく、アムダリヤから灌漑用水を縦横に走らせたのだ。おかげでアラル海は何キロにもわたって干上がってしまい、無惨な海と化してしまった。緑豊かな農耕地はそのたまものとはいえ、無謀な灌漑施設は自然を大きく変えてしまった。

▲世界遺産のイチャン・カラ

 ヒヴァはウルゲンチからトロリーバスで一時間、カラクム砂漠の北東にある。観光客はトロリーを降りると一斉に城壁内へと吸い込まれていく。高さ8m、厚さ6mの城壁が東西400m、南北650mにわたってとり囲んでいる「イチャン・カラ」である。この中には20棟のモスクと20棟のメドレセがある。
一ヶ所にこれほど多くの宗教的建造物がある所は見たことがない。ひときわ目立つ青い塔がカルタ・ミナルだ。1852年、最も高いミナレットを目指して建設されたが、首領が戦死したため中断されたという。基部の直径は14.2mあるにしては高さが26mしかない。それ故カルタ(短い)と呼ばれるようになったらしい。
 カラクム砂漠との境に外側の城壁がもう一つある。勇猛果敢なトルクメの騎馬兵から守るためのものだ。
 金曜日に焦点を合わせれば、沢山のお供を引き連れた新婚カップルが何組も観光客に披露している。(続く)

シルクロード 31

2007-04-23 07:42:24 | Weblog
中央アジアの街

▲1泊50円のホテル

 コーカンは別名コーカンド、19世紀初頭から国土拡大の気運が高まり、フェルガナ盆地全域、西はタシケント、北はカザフ草原の南半分、東は新彊にまで影響を及ぼしたという。しかし1875年、帝政ロシアとの紛争をきっかけにコーカンド・ハーン国は瓦解した。宗教的建造物の殆どが破壊され、現代フダヤル・ハーン宮殿が残っているだけだ。

▲中央アジア最大の都市

 タシケントはウズベキスタンの首都、中央アジア最大の都市である。市内はトラム(路面電車)とメトロが走り、この二つの交通機関を利用すれば何処へでも行ける。近隣諸国の大使館があって旅人の殆どがこの街で取得している。
 街の中心は「ティムール公園」市民の憩いの場であり、観光客はその中にある「ブロードウエイ通り」に集中する。屋台やオープンマーケットが出店し、見て通るだけでも楽しい。中間あたり脇道にそれるとナヴィ・オペラ、バレー劇場がある。戦後、抑留された日本兵が建築したと日本語の説明書がついている。1966年、この街を襲った大地震で全てのビルが倒壊したが、この劇場だけはびくともしなかったという。
 BODMDIR駅(メトロ)で降りると、インターコンチに隣接する建物の中に「日本情報センター」がある。パソコン3台、テレビ4台、日本の新聞3紙、日本語が飛び交い、まさに日本にいるような錯覚に陥る。
 旧市街にはモスク、メドレセ、廟があり、決して大きくはないが建物に趣がある。
 バザールは幾つもあるが、チョルスーとイッパソロームが大きい。
 なにはともあれ、ポリの多いのにはうんざりする。メトロ駅周辺には何十人と見張りをしている。目を合わせるとすぐさまパスポートチェっクとくるから要注意である。しかし一般市民は人なつこくて親切である。
 メトロのサビール・ラヒモク駅近く、TRA HOTELというバックパッカーの
多くが泊まるホテルがある。ここの情報ノートは実に充実している。さてこの情報ノートとはいかなるものか?書いて字のごとくであるが、多くは英語、
ハングル、日本語で書かれており、①町の治安、②ホテル・民宿等の紹介、③ヴィザの取得,④出・入国の状況等がこと細かく記載されている。
『質問』・イスラム教はドーム、キリスト教はトンガリ帽何故ですか

▲チンギス・ハーンは破壊し、テぃムールは建設した

 サマルカンドは「青の都」と呼ばれ、中央アジアを代表する古都である。
レギスタン広場にある三つのモスクは、その美しさに誰しも目をうばわれる。
 タシケント通りに入るとひときわ大きいモスクが目に飛び込んでくる。ビビハニム・モスクである。
「我が帝都にふさわしいモスクを早急に建てよ」
 ティムールの号令で、ドームをカイロから、シンボルの青いタイルはイランから、各地の高名な建築家や職人を呼び寄せて築いたのがこの大モスクである。
 ティムールは西はシリア、東はインドまで領土拡大に駆け周るなか、各地のモスクに魅了され、アレキサンダーやチンギス・ハーンによって焼け野原になっていた故郷に近いサマルカンドに思いを馳せた。
 バザールの前の坂道を下り、四つ角を右に折れるとその先に、シャーヒズィンダ廟群が丘の上まで一列に並んでいる。ティムールゆかりの人々が眠る霊廟である。
 廟の上は生命感のない見渡す限りの丘が広がっている。アフラシャブの丘だ。何世紀にもわたって築かれた都が何層にもなって眠っているという。もしかすると近い将来とてつもない歴史が解きあかされる日がくるかもしれない。
 サマルカンドを歩いているとシルクロードは商業の道、宗教の道、戦のための道だったことを実感させられる。
 なおこの街には日本語学科のある大学があり、学生が日本語を教わり方々無料でガイドしてくれる。
『質問』・チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは修復に力をいれた、貴方はどちらが世界的英雄とおもいますか。(続く)

シルクロード 30

2007-04-22 04:47:50 | Weblog
中央アジアの街

▲幻の湖

 チョルポンアタばイシク・クル湖の北岸にあるリゾート都市、旅行者の殆どがこの町に宿泊する。ビシュケクから東へ190キロ、湖面の標高は1600メートル、東西170キロ、南北70キロ、琵琶湖の9倍もある。
 何故、幻の湖と言われるようになったか、この湖に流れ込む川は120本もあると言うのに流れ出る川は1本もない。また古くから怪物が住みついているという伝説がり、歴史的にも玄奘三蔵がインドに向うおり立ち寄った記録があり、ジンギス・カンやチムールも訪れたと伝えられている。旧ソ連はこの地一帯を封印してしまい、外国人の立ち入りを禁止してしまった。多くの探険家や学者の間で何時とはなく幻の湖と言われるようになった。
 泳いでみると水はほんおりと塩からく、透明度は抜群。もしかして湖底に沈んだとされる古代都市の遺跡が見えるかも、しかし湖底には短い藻が生えているだけだった。
『質問』・海と湖はどこで区分されているのですか。

▲ローマより古い

 オッシュはキルギス第二の都市、ビシュケクからはバスが出ていないのでタクシーを使うしかない。それでも10時間はかかる。
 街に入って一番目につくのはスレイマ山、中腹にはムガール帝国の創治者、バーブルの生家がある。彼はティムールから5代目の孫にあたり、チンギスハーンの血をひく子孫だと伝えられている。
 この街はウズベクと国境を接し、住人の85%がウズベク人だといわれている。街に出てみると四角いカルパック帽を被ったキルギスの男達よりウズベクのトッピ帽を被った男達の方がずっと多い。
 物価はウズベクより安いのか、太ったおばさん達が国境を越えて大勢やって来る。そのせいかバザールの両替屋ではCym(ウズベク通貨)が両替出切る。
(続く)

シルクロード 29

2007-04-21 08:23:01 | Weblog
中央アジアの街

▲森の中の大都会

 アルマトゥは1997年、首都を北部のアスタナに譲り渡したとはいえ、今もカザフスタンの商業、文化の中心的役割を果たしている。人口は113万人「南の都」である。 
 1991年、中央アジアの国々は一斉にソ連から独立したが、中でもアルマトゥは一番影響が今も色濃く残る街である。
 大きな街路樹が車道の両サイドに植えられ、4・5階建てのビルが整然と並んでいる。繁華街を歩いていると、はっ!とするような美人によく出会う.。それに金髪の女性が多いのもこの街の特徴だ。
 パスポートはホテルに預けるシステムになっているから、ポリに呼び止められるようなことはない。街の中心に「28人パンフイロフ公園」があり、人々の憩いの場となっている。ビールやウオッカも売っている。またこの公園の近くに中央バザールがあり、郊外にも中央アジア一でっかいバラホルカ・バザールがある。このバザールにほど近い墓地には日本兵の共同墓地がある。はるか異国の地で、兵隊さん達はどんな思いで亡くなったのかと思うと胸が痛む。
 市内、南西にコクトベという見晴らしの良い台地がある、ケーブルカーで登ると街が一望出来る。カフェテラスでビールでも飲みながらのんびりと過ごすのも良き想い出になる。
 交通機関は主に路面電車とトロリーバス、簡単な地図があれば乗りこなせる。
 外人登録はヴィザの取りかたによって違う。日本大使館で指示を仰ぐことにしよう。
『質問』・中央アジア、どの国の街路樹にも、地上1mほどの所に白いペンキが塗っていますが何のためでしょうか。

▲真夏でも雪山が
 
 ビシュケクは82万人が暮らすキルギスの首都である。驚かされるのは日本人そっくりの顔をした人が多いことだ。国が違えば人も違ってあたりまえ、とは言ってもアルマトゥから半日たらずのボーダーを越えただけでこうも違うものかと驚いてしまう。
 夏でも雪山が望まれ、空気は乾燥していて過ごしやすい。市内はトロリーバスが走り、これに乗れば主な所へは行ける。しかしこれといった名所、旧跡があるわけではない。ただし半日もバスに乗れば透明度世界第2位を誇るイシク・クル湖に行ける。ここはビシュケク市民の避暑地となっており、湖畔には瀟洒な家々が建っている。不思議な湖で流れ入る川は120本ちかくあるというのに、流れ出る川は一本もないなだそだ。またここからバス、ミニバス、タクシーを乗り継げば2000メートルの高地に広がる大草原と湖のあるソンキュル行ける。交渉次第ではユルタに泊まることが出来る。
 ビシュケク最大のバザールはオッシュ・バザール、生活必需品の何でも売っている。
 ここも外人登録をしなければならない。全てロシア語で書かれているから何をどう書いてよいかさっぱりさっぱりである。”この時代日本語も英語も理解出来ない君達こそ遅れているんだ”くらいの気構えでぶち当っていこう。
(続く)