峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

亡くなった親友を「人工知能」として甦らせる?!

2016-10-14 20:32:23 | 哲学・思想
まずは、こちらを...



この試みそのものに対しては、評価を控えます...
こうした行為の背景には、様々な思いがあり、経験があり、おそらくは秘められたパッションがあり...余人が介在することのできない領域でもあるからです。
しかし、やはりここでは、大切なことが抜け落ちてしまっていますね...

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自分の人生から、大切な誰かを永遠に喪ったとき、そうした過酷な事実とどう向き合うかは、その人その人の問題です。
言うまでもないことですが、いくらAIの技術を駆使して、生前のその人がそうしたであろうような応答をする「そっくりさんのブラック・ボックス」を作ろうと、その人の代わりは務まりません。
その人の思い出の品々を大切に自分の許にとどめ置く...そしてその人を偲び、慕い続ける...私たちができるのは、所詮はその程度のことなのです。だから、こうした、その人そっくりの応答をするブラック・ボックスも、セピア色に色褪せていく写真やスクリーンの中で繰り返し再生される動画以上のものにはなりません。厳しいことですが、その人の命は、永遠に失われたのです。

悲しみの中でこうした試みをする人の行いを責めるつもりはありませんが、どれほど精巧な、その人のような「そっくりさんブラック・ボックス」を作ろうとも、それは実は、私たちの一人一人が、誰もがこの世界にたった一人しかいない唯一の存在であり、そうした一人一人がたった一度しかない人生を生きている...だからこそ生命は尊いのだ、という、最も大切なことを忘れた行為でしかないのです。

繰り返しますが、私たちの一人一人は、誰にも代わることができない存在なのです。そして、誰にとっても人生は一度しかないのです。そして、私たちの生命はあまりにも脆く、あまりにも儚い...だから、尊いのです。まさしくここに、私たち一人一人の生命の尊さがあり、さらには、そうした儚く脆い一人一人が出会い、愛し合い、短い人生の中で、限られた時間を共にすることの素晴らしさがあるのです。

この脆さ、儚さを、力ずくで乗り越えようとする努力や執念は、気づくと気づかないとにかかわらず、生命の尊厳を冒さないわけにはいきません。
一人一人の人生、一つ一つの生命には、代わりはないのです。残された者の心の傷、心の疼き、癒やされることのない悲しみは、失われた生命の唯一性、代替不可能性、尊厳の証なのです。だから、心の奥底に傷を抱え続け、心の疼きに耐え、繰り返しこみ上げる悲しみを味わい続けることは、喪われた生命に対する残された者の誠実なのです。
この記事では、

AI(人工知能)の発達で、親しい人や愛する人を忘れる必要そのものがなくなるかもしれない...

と初めに書かれていますが、「親しい人や愛する人を忘れる必要そのものがなくなるかもしれない」というのは、日本語としてもおかしいですが、同時に「必要がなくなる」というところに、そっくりの代用品で済ませて悲しみを味わわなくてもよいようにしよう、という身勝手さが垣間見えます。

そしてもう一つ、これも言うまでもないことですが、AIで人間の個性を再構成することは、基本的には不可能です。少なくとも、いまの時点では、そうなのです。
記事の中では、

「原始的なものなら、彼の個性を持つAIを作れると思った」とエフゲニアさんは言う...

とありますが、「原始的なものなら」と条件付けをしているところからして、本人も本当はそのようなものではない、ということをわかっているようにも受け取ることができますが、人間の脳が行っている膨大な量の情報処理の再構成ですら大変な課題であるのに、人間一人一人の「個性」など、はるかに複雑微妙な内容のものなのです。この「複雑微妙」な「個性」を「原始的なものなら」作れるなど、言葉の矛盾でしかありません。
記事では、
 

それからエフゲニアさんは、彼の写真や、彼に関するニュース記事、彼がこれまでに送った何千ものテキストメッセージなど、あらゆるデジタルデータを集め、自社で開発している人工ニューラルネットワーク(人工神経回路)に入れた。

その結果生まれたのが、彼そっくりの個性を持つSNSチャットボット「ロマン AI」だ...


とありますが、誰か特定の個人の「写真」や「ニュース記事」「テキストメッセージ」といった「デジタルデータ」の集積で「個性」が再現できるなどということは、断じてありません。人間の個性は、データの集積によって形成されるのではないのです。同じ景色を目にし、同じニュースを耳にしても、10人いれば10人とも受け取り方や感じ方は違います。その人の性格によって違いますし、同じ人であっても、その時その時の体調や気分によって受け止め方は変わってきます。同じ情報であっても様々に変わってくるそうした受け止め方感じ方の違いを、私たちは「個性」と呼んでいます。ですから、情報を入れるだけではそもそも情報の量が増加するだけで「個性」など望むべくもありません。
ある特定の個人の情報を集中してインプットすれば、その情報の全体は、その人ならではの傾向性を持った情報となるはずだから、そこに「個性」が生まれる萌芽があるのではないか...という想定をする人がいるかもしれませんが、私たち一人一人の性格の相違や、その都度その都度の体調や気分の違いというのは、単なる情報の偏りによって生まれるのではないのです。「個性」というのは、そんな単純なものではありません。それでは原始的」な「個性」とは、いったいいかなることを言おうとしているのか...そのようなものは、せいぜい情報の偏りバイアスでしかありません。「個性」というものがかくも難しいものであるのに、さらにそれに加えて、複雑な人間の誰かに似せた個性など、夢のまた夢ではないですか...

さて、もう一度繰り返しますが、私はこの記事に書かれている試みそのものについては、評価をするつもりはありません。経緯からしても、そこにはとても個人的な事情があり、個人的な情熱があるはずであるから...
私はただ、この記事を、ただ「ふーん...」ではなく、もう一歩踏み込んで考えて欲しい、と言いたいだけなのです。
「個性」とは何か、人とはいかなる存在であるのか、生きるとは、死ぬとは、出会うとは、別れるとは...そして、AIとは、テクノロジーとは...
考えるべきことがこの記事にはたくさん現れているのです。
記事の最後に、とても意味深いくだりがあります。

現在「ロマン AI」は、インプットされたロマンさんの「個性」をベースに、人々との会話を通して新しい事を学習している。それを見ると「子供を育てているような気になる」とエフゲニアさんは言う...

ここに、とても人間的なものが現れています...私には、AIよりも人間の方が興味深いし、面白いのです。
AIが「子供を育てているような気になる」と語るエフゲニアさんの「個性を」構成できる日が、いつかやってくるのでしょうか...