京都園芸倶楽部の元ブログ管理人の書笈

京都園芸倶楽部のブログとして2022年11月までの8年間、植物にまつわることを綴った記事を納めた書笈。

ミモザを贈ってみませんか?

2017-03-08 06:35:07 | 歳時記・文化・芸術
今日3月8日は「国際女性デー」です。

1904年3月8日にアメリカのニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたことがきっかけとなり、1910年にはデンマークのコペンハーゲンで開かれた国際社会主義女性会議で「女性の政治的自由と平等のために戦う」日と提唱し「国際女性デー」が制定され、以後各国で実施されました。しかし戦争等で中断した国などもあり、国連が国際婦人年の1975年にこの日を「国際女性デー」とあらためて定め、加盟国に呼びかけています。

そしてイタリアではこの日を「Festa della Donna」と呼び、男性が日頃の感謝を込めて、お母さんや奥さん、会社の同僚などの親しい女性に、ミモザ(ミモザアカシア:フサアカシアあるいはギンヨウアカシアのこと)の花を贈るのだそうです。最近は女性同士で贈り合うこともあるそうですが、このことから「ミモザの日(Il giorno della Mimosa)」とも呼ばれています。


(ギンヨウアカシア)

女性たちは、ミモザを贈られるだけでなく、この日は家事や育児から解放され、女性同士で外食したり、おしゃべりに興じたりして束の間の自由を楽しむんだそうですよ。

この「ミモザの日」は、1922年にイタリアで「国際女性デー」が導入され、1944年に結成されたイタリア女性組合が1946年3月8日に組織のシンボルとしてミモザを選んだことから始まりました。

贈る花(シンボルとしての花)は、当初はスミレがふさわしいとされたそうですが、当時からスミレはとても高価な花であったため、イタリアでこの時期にあちこちで咲く身近な花で、貧富の差に関係なく誰でも感謝の気持ちを表すことができる花としてミモザが選ばれたそうです。

男性の皆さん、ホワイトデーが控えていますが、少し早めにミモザを贈ってみるというのはいかがですか?
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江戸時代の武士が椿を嫌っていたって本当?

2017-03-07 09:14:45 | 雑学・蘊蓄・豆知識
江戸時代の武士は「ツバキを“武士の首がぽとりと落ちるようで縁起が悪い”と思い、嫌っていた」という話を聞いたことがあると思いますが、これって本当でしょうか。

(落花したツバキ)


どうもこれは俗説のようです。実は20年以上前に兵庫県立フラワーセンターの滝口洋佑さんがこの俗説を明らかにするために行われた研究によると、この「武士の首がぽとりと落ちるようで縁起が悪い」という説は、明治時代に作られ広まったものであるそうです。幕末から明治初めに薩摩や長州の出身者から “やられっぱなし” だった江戸っ子たちが、ツバキ好きの薩長出身の政府高官らが大手を振って歩くのに対する鬱憤晴らしで言い出したのが始まりで、これがあたかも本当の話として全国に広まったようです。

(獅子咲きのツバキの落花)


この研究が神戸新聞の1993年1月8日付夕刊の記事に紹介され、それを読んだ作家の半藤一利さんが自著『永井荷風の昭和』で、夏目漱石の小説『草枕』から《余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い》や《落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい》の部分を引用し、文章内の「椿」を「薩長人」に読み替えれば、漱石が『草枕』で椿をくさした表現も合点がいくと述べられているそうです。江戸っ子だった漱石も「椿」に置き換えて薩長のふるまいに対して反論していたのかもしれませんね。

ところで、ツバキは花を愛でるだけでなく、椿油を利用したり、酸性土壌でも生育し土壌のアルミニウムをよく吸収するため、木灰をムラサキ染めの媒染剤としても利用してきました。また冬の間にも緑を保ち、早春から花を咲かせる植物であることから、仏教においても、土葬だった頃に野生生物に遺体を荒らされないよう墓地に植えた、アニサチンという毒性物質を持つシキミ同様、神聖な植物と考えられていたようです。

(紫根を染料にするムラサキの花)


(シキミの花)


さらに、武士の間でも花ごと落ちるツバキをかえって「潔い」として好み、武家屋敷にも植えられていたそうです。肥後藩では藩主が藩士にツバキの育成を奨励し、肥後六花のひとつである肥後椿として現在にも受け継がれています。

ただ、ツバキの落花は首がボトッと落ちるように見えますので、武士が嫌ったのではと連想してしまうでしょうね。

あと、もうひとつ、余談ながら上記の “椿好きの薩長” という箇所から、薩摩や長州の人はツバキをこよなく愛していたのかな?という疑問がわいてきたので調べてみたところ、山口県萩市の市花がツバキ、鹿児島県出水郡長島町と枕崎市の市木がツバキでした。また薩摩藩の島津家には「薩摩」という固有種のツバキがあるそうで、やはりツバキに親しみのある藩だったのかもしれませんね。
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桃の節供の花は「桃」ではなかった?

2017-03-03 08:01:44 | 歳時記・文化・芸術
今日3月3日は五節供のひとつである『上巳』ですが、一般的には『桃の節供』というほうがわかりやすいですね。

昔は旧暦で節供を祝っていたので、モモの花が咲く時期と重なっていましたが、新暦になってからは1か月ほど早いので、モモの花も節供にあわせて促成管理され流通しています。


(ハナモモ)


さて、この『桃の節供』ですが、昔はモモの花を飾っていたのではなかったそうです。

といっても日本の話ではなく、上巳の発祥の地である中国の話で、昔といっても紀元前9~7世紀ごろの話ですから3000年ほど前の話になりますが、中国最古の詩篇である『詩経』の中に「鄭國之俗、三月上巳之辰、采蘭水上、以祓除不祥」という上巳に関する風習の一文があり、わかりやすく言い換えると「鄭国の風習で、三月上巳の辰に、蘭の花を水辺で採って邪気を祓った」ということだそうです。中国古代の上巳の節供は、川で禊を行い穢れを落として、その後に宴を催す節供だったようです。この禊を行う風習が日本に伝わって、形代を川に流すことで穢れを落とすようになり、質素な形代もひな人形へと姿を変え、ひな人形も流さずに室内に飾るように変化してきたといわれています(今でも流し雛を行う地域もありますね)。

さて話を花に戻すと、このラン(蘭)は皆さんが想像するラン――洋ランや東洋ラン、エビネなど――のことではありません。


(ランの仲間のエビネ)


実はフジバカマ(藤袴)のことで、中国の歴史書等に出てくるラン(蘭)はフジバカマを指すそうです。


(フジバカマ)


「でもフジバカマって、春ではなく秋の七草で、花期が違うよ」という声が聞こえてきそうですが、フジバカマには花だけではなく茎葉にも香りがあります。五節供のひとつ『端午』でもショウブ(菖蒲)を用いるように、邪気を祓うには花ではなく香りのほうが重要だったのではないでしょうか。

日本へ行事として渡ってくる前の昔々の中国では、モモではなくラン(実はフジバカマ)であり、時代を経るにつれ、そして日本に行事として伝わってきてからも徐々にかたちを変えて現在のような風習になったようですね。

ところで、この中国の詩経に書かれた一文ですが、裏(?)の解釈もあり、邪気祓いのためにフジバカマを摘みに行ったのではなく、フジバカマを摘みに行くのを口実に男女が会う機会をつくり子孫繁栄にいそしんでいた風習だったとも言われているとか。枝に沿ってたくさんの花をつけるモモも「子孫繁栄」の象徴として神聖視されてきましたので、フジバカマがモモに代わったのは、案外こちらの解釈のほうが大きな理由だったりして......
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