油小路ニュー中猫屋
いるみなしおーん。
 



 血液型性格判断が科学っぽい体裁をしたニセ科学だということは明らかだが,血液型性格判断が根源的に差別を含んでいるということも明らかだ。科学性の議論は当然のことながら差別性の議論とは別にしなければならない。

 ナチスも異民族への差別を正当化するために,人種的優秀性や劣等性を科学的に示そうとした。そしてそれがうまくいかなければ,データの捏造もした。もちろん科学的に解明されたことが差別に使われるということは許されるものではないが,差別の問題を見えにくくするのには「科学っぽさ」は未だに有効なのかもしれない。

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 メモ。

 血液型性格判断が差別の問題を含んでいるということと,血液型を表明しないこととは別の問題ではない。血液型性格判断が差別につながっている以上,血液型をプロフィール等で表明すること自体が問題である。

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 血液型が話題になる場面で,血液型を尋ねられることがあります。話題の上で血液型を尋ねられたとき,私はけして自分の血液型が何かを答えません。場の雰囲気がまずくなろうが,仕方がないのです。血液型のことを尋ねる側にもこれは問題があるのです。あなたはいったいどういうつもりで私の血液型を知りたいのですか?血液型と性格(パーソナリティとも)が何か明らかになるということは否定されています。私との付き合いで私がこれからどのようにあなたと付き合っていきそうかが知りたいのなら,別の方法を取らなければならないでしょう。


「いや,血液型と性格が関係ないのはわかるけれど,話題のきっかけだとかネタとして,血液型はよく語られれているからいいじゃないですか。」


 いや,話題のきっかけやネタとして語るなんてとんでもない。そのような不用意な扱いが,血液型が重大な差別の問題を孕んでいることを見えにくくしているのです。血液型は遺伝的に決定された身体上の性質です。遺伝的な特徴をあれこれ不用意に取りあげるには慎重であるべきなのです。肌の色や目の色,髪の毛の色だとかと同じく,血液型も生まれつきの身体的特徴であり,遺伝的特徴によって付き合い方を変える可能性を持っている「血液型性格判断」や「血液型相性判断」は,慎むべきことです。「人種別性格判断」や「人種別相性判断」などというと,穏やかではなさそうだと思う人が多いでしょう。血液型も同じなのですよ。


 首相のプロフィールで血液型を公開していますが,ああいうことはやめてほしい。一国の首相のプロフィールに,「人種:東洋系」みたいに書いていたら,多くの人がおかしいと思うでしょう。



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 『Tritsch-Tratsch:血液型バトン』 で aozora さんはこう述べられています。

バトンにはもともとそういう「誰かを外す」が容易にできてしまう、というより、残酷にも示し合わせた訳じゃないのに「誰かが外されてしまう」という性質を持っている。

 所詮バトンなど仲良しごっこに過ぎないでしょう。さらにいえば、多くの人たちと自由に交流を深めていくのだと思い込みながら、ますます狭い価値観やコ ミュニティーの中に後退していくというウェブ上での引きこもり(世に言う「社会的引きこもり」ではない)現象のひとつなのです。

 もうひとつのバトンの問題は、やはりチェーン・メールとさしてかわらない面構えであるということです。大多数が「外されてしまう」側になるのですが、外 されなかった少数にとっても、人によっては大変な圧力を受けることになります。友好的にバトンがまわされてきたら、なんとなく嫌だとはいえない雰囲気があ るでしょう。喜ぶ人はいいのですが、やはり負担を強いられていることには変わりないのです。そして、さらに負担を掛ける相手を選ぶことまで強いられること になるのです。そんなの無視すればいいというかもしれませんが、たいていの小心な善人は、いかにも好意的に送られてきたものを無視したり付き返したりはで きないのです。そういう良心を痛めつける可能性が、小さいことかもしれないけれど、やはりバトンとチェーン・メールが共有している「悪」なのですよ。

 それから、血液型性格・相性診断とバトンの合体は、起こるべくして起こったとみてもいいかもしれません。いずれも自らの属する範疇とはちがう者たちへの無関心、無神経が生み出すものだからです。


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 しばらく静観していたのですが、「血液型バトン」なるバトンが流布しているようです。さいわいなことにこの近所には出現していないようですが。「バトン」にたいしては好意的に取る方が多いように思われますが、私はあまりバトンのことをよく思っていません。

 一昨年から昨年あたりに最近のピークを迎えた血液型性格判断・相性判断ブームでしたが、批判が多かったことからかテレビなどでは静かになりました。ここ油小路ニュー中猫屋で血液型関連記事を書かなかったのも、テレビ番組などで血液型のことを大々的には取り上げなくなったからです。しかしながら、表街道からは一歩退いた感のある血液型ブームも、「草の根」的には広がりを持っているようです。テレビなどの大きなメディアでの不在の所為で、かえって血液型判断はより潜伏的な居場所を探したかのようです。

 血液型バトンの特徴は、血液型性格判断や相性判断を信奉する人々がかくあるべしという願望を、皆で確認しあって共有するという目的を持っていることです。中猫が静観するのをやめたのは、この血液型バトンの出現が、バトンというブログ界に流布した「チェーンメッセージ」に血液型による潜在的差別が合体するという、少々不愉快なネット上の出来事であるからです。

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 第二次世界大戦中の枢軸国がいかにして国民を戦争に駆り立て、または極度の自由の制限を断行し、残虐な行為に人々を従事させたのか。もちろんそのようなことを為したのは旧枢軸国だけではないが、現代的な社会心理学の源流のひとつは主としてアメリカにおいて、そのような問いかけの下で生じた。

 第二次世界大戦でなにがナチを、ファシズムを、全体主義を生み出したのかという探索のなかで、社会哲学者であったアドルノらは「権威主義的パーソナリティ」と呼ばれるパーソナリティを人々の中から見出した。ミルグラムらは、俗に言う「アイヒマン実験」などを通して、人々がいかにして(見せかけの)権威にさらされたときに不当な服従を選択をするのかということを鮮やかに示した。

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 で,そのファシズムなり全体主義を生み出したのは,ある特殊な人たちなのかという問いが当然あった。権威主義的パーソナリティというパーソナリティに実体を持たせて,ある一部の人たちがそうであるとか,ドイツ人が,あるいは日本人が全体としてそういう傾向を持ち合わせていたのだという暴論さえ出現するのだ。しかし,そのようなパーソナリティを持った人がいるかいないかということは,あまり全体主義やファシズムの台頭とは関連がないということも,また言えるのだ。状況の力(つまりは環境)がそろえば,条件さえ整えば,ほとんどの人間はあっというまに「ファシストの手先」になってしまうということを明確に示したのだ。その代表的なものが,「アイヒマン実験」だった。

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 ある組織において何らかの問題点を見出したからといって、その組織の全否定をするというのはあまりに短絡的であるのだが、警察は意識の「低い」組織の部類にはいるのだろうな。警察関係の人たちの多くは私などが足許にも及ばぬほどまじめなひとたちであり、市民のために懸命に働いているということは理解しているのだけれど。

 警察というところは、非常に鈍感なのだ。

 ある県警が交通事故の傾向を血液型別で分類して発表していたり、最近はまた別の県警が、ある血液型が空き巣をはたらきやすいというような、明らかに差別主義的なことを平気で広報していたりする。ほかにも干支で交通行動を分析したように見せかけたまやかしもやっていたりするのだが、ここではやはり、血液型性格判断とたたかう「油小路ニュー中猫屋」だから、血液型のことを大きな問題として指摘したい。

 何度も書いたこと。血液型である種の行動傾向が導けるという説の怪しさについては、それを正しいと考える人もいるということで百歩譲って議論の余地があるのかもしれない。しかし、その議論がどうであれ、ある種の遺伝的性質が、非常に希薄な根拠でもって差別的扱いを受けること、しかもそれを警察という公的な機関が助長するということは、絶対に許してはならないことなのであるよ。

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 「ここ」は、完全に反「ゲーム濃の恐怖」です。

 ゲーム膿には根拠がありません。日大の森は「大事な場面で倫理的な行動がとれず、キレやすいというのはゲーム農(←引用者改変)の特徴」と述べていますが、もともと科学的検証に耐えないゲーム悩という概念の特徴を主張すること自体が虚構であると思います。実際に運転士に会ったこともなく、データを検討したこともないのに、専門家として専門的な見解を述べることは不可能なのです。

 「恐怖」なことは、はこれだけではありません。ゲーム野鵜という科学的には架空の概念によって、それに該当する者を規定し、社会的に抹殺しようとする流れに手を貸し助長しようとする態度を感じます。運転士が異常であったという証拠は、現在のところまったくないのです。専門家(だというのならば)こそ、慎重に発言すべきであるのです。

 

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 血液型性格判断をネタにしたおハナシを、日常の会話のなかで皆さんはしているでしょうか。私は全力で拒否しています。会話の潤滑油だということがよく言われますが、「血液型性格判断のお話をどうしてもなさるのならば、私はあなたのことを差別主義的であると見なければならなくなります」とお断り申し上げております。ですから、相手の方の血液型を知る必要もなければ、私の血液型をお知らせする必要もないのです。血液型の違いにこだわる態度は、立派なレイシズム(人種差別主義)です。

 「遊び程度」で血液型性格判断や相性判断を語るという不用意な行為を、みんなやめましょう。世の中のあらゆる差別は、日常の他愛のない会話から始まっています。「血液型で分類するのは問題だ、でも、遊びやハナシのネタ程度なら、いいかもしれない」というような発言によく出会いますが、そのような態度こそ、差別を生き延びさせることにつながってるでしょう。

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 この件については以前書いたのでしたが、また書くことにしました。

 血液型を公開するのはやめましょう。血液型のように、遺伝によって決定されている性質についてやたらと公開する行為は、そのような遺伝的性質による差別を受け入れるか、もしくはそのような遺伝子差別を宣言しているようなものですよ。したがって、「ひとづいきあいのきっかけや参考になるから」などという愚かな理由でひとの血液型を尋ねることも、「さあ、私はあなたの遺伝子によってつき合い方を変更いたしますよ」と宣言しているようなものなのです。人種の違いによってつき合い方を変えるといっているのと、さほど変わりません。

 血液型が遺伝によって決定されているということが、血液型性格判断の科学性の問題よりも重大な問題を提起しています。科学的検証に対しては、まったくおハナシにならない血液型性格判断ですが、もっと大きな問題はその差別主義にあるのです。

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 血液型性格判断とのたたかいをしばらく休んでいました。このところ、血液型関連のテレビ番組などは少ないようなので、世間的にはわりと沈静化しているのでしょうか。

 ABO式血液型によって人々の性格を分類し、判断の基準にしようという試みを批判する者は多いのです。しかしながら、その批判のなかには「駄目な」批判が含まれています。「たった四つの型に人間を分類できない」というのがそれです。四つもあれば十分に分類できるからなのです。ある分類の基準を決めさえすれば、比較的少数のカテゴリーを想定して、そのうちのどのカテゴリーにその人の性格であるとか行動パターンであるとかが含まれるのかを検討すること自体は、それほど不合理なことではないのです。「人間が四種類に分けられてたまるか、みんなひとりひとり違うんだ」のような意見は、妄信的な個性崇拝のあらわれでしょう。

 血液型性格判断の問題点は、人々を分類することにあるのではなく、根拠のない基準によって性格の分類をするという非科学性に加えて、科学的に特定可能でしかも遺伝的に決定済みである血液型によるいわれなき差別を支え続けているということなのです。少数派であるAB型とB型について、これまで多くの差別的発言が公然と繰り返されてきています。これは多くの差別主義に共通の、少数派の排斥という現象です。

 血液型問題は、心理学という学問自体が取り組む、あるいは取り組むべき課題をいくつも含んでいます。科学的であるとは何を意味するのかということに始まり、性格やパーソナリティとはどのように定義されるべきなのかということ、そして、人々が根拠なき似非科学をなぜ信奉し、それがなぜに差別主義や権威主義を支えることになるのかという問題まで含んでいます。

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 地下鉄にサリンが撒かれた日、地下鉄に乗らずにJRで迂回して帰宅した。電車に乗ること自体が恐怖だった。車内の人々の様子が普段の電車の中よりも緊張しているような気がしたし、静かな気がしてしまった。過剰に気にしていたのかもしれないが、同じような気持ちになっているひとは少なからずいたはずだ。

 無差別テロが遠い国のことのようについ感じてしまっていたが、日本にも無差別テロはあった。ずっと昔には東京の都心でも爆破事件があり、オフィス街にガラスの雨が降ったこともあった。そして、化学兵器を地下鉄で放散するというのは、多分世界初だったろう。

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 ある種の人間だけが幸福や達成を享受する権利を持っていて、それ以外の人間は何者かの手によって(特にそのような信念を奉ずる連中によって)葬り去られるべきだとする考えがある。かの教祖の宗教も、そのような類の考えをもっていたようだ。こういうのは、極端な自国・自民族優位主義や、極端な社会主義にも共通する。

 血液型による性格判断や相性判断に反対するのは、「ある種の人間には良好な特徴があって、ある種の人間には好ましくない特徴がある、しかもそれは遺伝的に決まっているはずだ」と主張するための、便利な根拠を与えることになるからなのだ。歴史上いくつも存在した極端に権威主義的な主張に、かならずや手を貸す根拠になるからなのだ。

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YOMIURI ON LINE(読売新聞) 生活ふぉーらむ:大手小町 「信じる? 血液型の性格分類」から。

 「血液型の性格分類について、どう考えますか?」との問いかけ(n = 154)に対して、「信じる」、「大人が話題として楽しむ程度ならいい」、「科学的でないのでやめるべきだ」、「その他」の回答のうち、もっとも多かったのは「大人が話題として楽しむ程度ならいい」の68人(44%)であった。

 以前から何度も言っているように、血液型による人々の分類の話を、会話のネタとして扱うような軽率なことは慎むべきだ。優劣や好き嫌いの判断に容易につながるような遺伝的性質について、不用意に語るのは不適切なことなのである。差別の根は、権力者にあるのではない。無名の個々人の不注意で無批判な会話のなかに、その源泉がすでにある。

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 gooブログの新企画の募集テーマについて抗議を書いてTBを送っておいたら、当日のうちにそのテーマは削除されていた。非常に迅速な反応だと思ったのだが、もしかしたら他の方面からもなにか抗議などがあったのかもしれない。もうすでにそのテーマで応募していた方には申し訳ないかなとも思ったが、よくよく考えればこの件について申し訳なく思う必要はないなと思いなおした。

 血液型と性格が何らかの関連性があるという信念は、非常に根強いようである。血液型と性格や相性の関係について、日常的に話題にして楽しむぐらいは問題ないと考える人が多いことだろう。ただ、血液型によるなんらかの「差別」を危惧し嫌悪している人々というのも確かに存在しているのである。そしてこのような差別について、たとえばナチが人種や遺伝子の優劣を説いて大量虐殺におよんだことと血液型性格判断とが、けして無縁ではないという信念を持っている者もいるのだ。なにも妄想的なこととしてではなく、である。

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 血液型による性格判断・診断には、いくつかの問題点がある。これまで何度もとりあげてきたことだが、以下にまとめておく。

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(1)血液型という科学的に実証できる遺伝的性質に対して、その血液型に対応する性格があるという明確な根拠が科学的に証明されたという事実はまったくない。

(2)本人の努力や責任とは無関係な遺伝的性質(血液型のこと)を根拠になされる「遺伝子差別」が存在する。

(3)(2)のような差別は、テレビや雑誌などのメディアを介して、一般に広く流布し、そのようなメディアによる根拠なき権威づけによって、あたかも根拠があり、かつ社会的に正当なことであるとしてさらに根づかされてしまう。
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 そして、こんどは、ここ「油小路ニュー中猫屋」も利用させていただいているgooブログが新企画で募集しているテーマの中に、

「合コン・飲み会」体験談募集中!:合コン・飲み会するなら何型の血液型がいい?
(※現在、上記リンク先は削除されています。)

なるタイトルがある。このテーマに沿ったコメントやトラックバックを募集しているようであり、「おもしろい話は、3月1日からの新企画の中でとりあげさせていただきます!」とある。gooブログのスタッフは、どうしてこのような不注意な企画を立ててしまったのか。おそらく、その重大性に気づかれていないからなのだろう。なにもスタッフばかりに責任のある問題ではないが、どうか問題の重大性に気づかれて、この企画については取り下げていただきたい。

 ここ「油小路ニュー中猫屋」では、以前より何度も血液型性格判断をとりあげ、その科学的根拠のあやしさに加えて、そこから生じる血液型によるレイシズム(人種差別主義というよりは、もっと幅広く遺伝的に人間には優劣の差があるという考え方だろう)の問題について書いてきた。血液型の違いを、このようにおちゃらけた話題のネタとして軽々しく扱うことは、たとえ些細なことであっても、その積み重ねが、過激な人種差別や大量虐殺を許す風潮を助長することになるのだと、あらためて主張しておきたい。

 このようなことを言うと、大袈裟だと言う声が必ず聞こえてくる。しかし、けして大袈裟なことではない。変更することができない自分や他人の遺伝的性質をとりあげて、それを人間としての価値だとか優劣だとかを含む性質の「違い」として不用意に語ることは、今すぐやめねばならない。これはすべての人たちが、自分にも深くかかわる問題として考えねばならないことなのだ。

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【補足】現在は、gooブログ新企画の上記リンク先はなくなっています。スタッフの皆様、迅速に対応していただきましてありがとうございました。

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