「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~その1~

2005年05月13日 | 「台湾への旅」

台湾総統府の蔡さんが言っていた「八田與一(はったよいち)」。彼の事は李登輝前総統の本でも紹介されており、台湾に最も貢献した日本人として知られています。植民地=悪と教えられてきた戦後教育の中では、彼のような人が紹介されるはずもなく、日本ではあまり知られていないのが現状です。

彼は日本の台湾統治に合わせて、台湾近代化のために送られた専門家の一人でした。専門は土木。当時、作物がほとんど収穫できず苦しい生活をしていた台南の嘉義台南平野地方に東洋一と言われる鳥山頭ダムを作った方です。彼の業績は私の言葉ではあまりにも偉大で説明できません。



2002年に慶応大学の三田祭で来日講演する予定だった李登輝前総統が、中国の妨害により日本政府からビザが発行されないという事がありました。その時に講演する予定であった内容が11月19日付け産経新聞朝刊に全文掲載されました。

そこで、その中から八田與一氏に関する部分をここで今回から3回に渡って紹介したいと思います。この文章から八田與一氏の功績、そして人となりを読み取って頂ければと思います。

以下李登輝前総統「台湾の声」より ~11月19日付け産経新聞朝刊~

台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一について説明しましょう。

八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称たたえられています。 

八田與一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑する農業水路の桃園大圳(たいしゅう)の調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

この工事の途中から旧台南州嘉南大圳水利組合が設立され、八田氏は総統府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。

この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3千トンの米と甘蔗=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。

その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、44歳の若さでありました。嘉南大圳の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大圳の父」として60万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。

ひとつは嘉南大圳。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大圳を抜きにして八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。

今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれます。これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。

一、まず嘉南大圳の特徴についてみましょう。

(1)灌漑面積は15万町歩、水源は濁水渓系統2万2千町歩、烏山頭系9万8千町歩。灌漑方式は三年輪作給水法

(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長1273メートル、高さ56メートル、給水量1億5千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用

(3)水路の規模、給水路1万キロ、排水路6千キロ、防水護岸堤防228キロ。



このような巨大な土木工事をわずか32歳で設計に取りかかり、34歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の10倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。

そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。

しかし嘉南大圳が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大圳は生きたものになりません。

農民への技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎を遂げたのです。

次回はその成果についてお届けします。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご了解ください。 (あき@たいわん)
2007-09-23 22:05:04
はじめまして!
今日、石門水庫に行って来まして、改めて八田技師を思っています。
貴部落格を勝手にご紹介させていただきました。
ご容赦ください。
問題があれば、ご指摘ください。
宜しくお願いします。
返信する