栗太郎のブログ

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那須の旅(2) 東山道のなごりを見つける

2007-04-23 18:17:44 | 見聞記 栃木編

さて。
小旅行当日、地図上の点線を目印に車を走らせる。

国道4号バイパスで鬼怒川を渡り、宝積寺・キリンビール工場前・仁井田駅前を過ぎて、
北向きに田んぼ道に入る。
高根沢町とさくら市の境をまたぐ地点で車を止めた。

「このラインだ。」
右手の山と左手の宇都宮方向を交互に見比べて、心がはずんだ。

さらに車を進めると、途中『将軍桜』の看板を発見。
誘われるまま間道に入ると、果たして年代ものの桜の木が!
この道は、蝦夷エミシを成敗する朝廷軍の大将、征夷大将軍様が通った軍用道なのだ。
かつて玄海灘の守護兵・防人たちもこの地で別れを惜しんだという。
センチメンタルな風情だ。
(この桜で、余談があるが後日機会があれば紹介します)

道を振り返り、地図と重ねる。



まっすぐだ! しかも、町境の上をまっぷたつ!!

やはり、この小道はかつての東山道なのだ。
ここから那須官衙(カンガ)までの道のり、僕の中でがぜん盛りあがってきた。
ただ、そのせいで長者ヶ平遺跡を見忘れたのだが。...。



さて、那珂川町(旧小川町)に到着。
市街のやや北の山際に、那須官衙跡がある。



すぐ近くに、なす風土記の丘資料館・小川館があり、その発掘状況を展示してある。
入場料100円。しかも、数km北にある湯津上館との共通券。
安いィ~。
中の職員に声をかけ、パンフを受け取りながら、東山道についてちょいと質問してみた。

以下、要点。
・東山道は道幅6mで、陸奥の情報をこの道で都への早馬を飛ばした。
・当時は20kmおきに駅舎があり、乗り換えの馬をおいていた。
・東山道は山越えしてきて、神田城(那須与一の育った城)にたどり着く。
・北は、白河を越えて多賀城(その後胆沢城)まで。
・南は、薬師寺までまっすぐ。(序文の赤線の通り)
・薬師寺からはやや西方向、後の中仙道のルート。
・ここは、交差点の地。東山道と交差するもうひとつは、
 那珂川沿いに上ってきて、塩原・会津を通り新潟に抜けるルート。
・朝廷の蝦夷討伐は、金を求めての侵略。
 しかも、この辺でも金は採れた。

話をしながら、僕の頭の中で何度も、電球がピカ!ピカ!とひらめいた。
知ってる話、初めての話。
嬉しそうに説明してくれた熱意に感謝。


結論、
僕の考えをまとめるとこうだ。

そもそも那須の国は、常陸から那珂川沿いに遡上してきた弥生人が、この地を中心に住み着き国の態を成した。
その弥生人とは、渡来人=海人=稲作=製鉄技術なのだ。
古代より、大陸から稲作文化と耕作用鉄器の技術をもった渡来人たちが、日本各地の海岸線にやって来ていた。
鹿島灘にあった豊富な砂鉄を見つけた彼らは、近くの山の木を燃料に、鉄で道具を作り、稲を育てて住み着く。
しかし、タタラつくりは、1度で山ひとつ伐採すると言われるほどの木を燃やす。
当然、集落が大きくなれば賄い切れず、燃料と耕作地を求め、何代にも渡って川沿いに勢力を広げていく。
分かり易くいえば、「もものけ姫」の世界。
文明人(弥生人=たたらの衆)が、先住民(縄文人=もののけ達)の地に踏み込み、蹴散らしていく。
今風にいえば、勝ち組みと負け組の対比。
そうやってやってきた、燃料・砂鉄・耕作地の条件を備えた豊穣な地が、ここ那須の大地なのだ。そしてここがその中心地。
改めて思い返せば、那須の「那」も「那珂」も渡来系の字ではないか。
太平洋側の常陸からやって来た彼らの集団移動は、遠く日本海側の
新潟へ貫いていく。
そしてこの時点で、信州と那須のイメージが被ってくる。
あそこも、松本の北に安曇野(アズミも渡来系)があるじゃないか!
天竜川沿いに、はるか今の上越付近まで移動していたのではないだろうか。
それじゃ、那須はさしずめ、ミニ信州ということか!!
ここは、そのルートを東山道が横切っている場所なのだ。
これで、下野国内の東山道のキーポイントが、薬師寺とここ那須官衙だった訳が解せた。

もうこれひとつで、僕は満足感いっぱい。


気がつくと、一人満足していない奴がいる。
太郎だ。(勿論本名じゃないが、ウチじゃそう呼ぶことがある)
鰻はまだ先だし、ひとまず蕎麦でも?と、隣の店で早飯。

これが、かき揚げもり蕎麦で600円。
安い、美味い♪

太郎も満足感いっぱいになった。



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