栗太郎のブログ

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信州の旅’13 木曽路を行く(5) 神坂峠

2013-11-30 00:44:50 | 見聞記 箱根以西

しかしまあ、今どきのgoogle mapはすごい。
ストリート・ビューときたら、立て看板のような黄色い人形(ペグマン)を捕まえて、地図上にポイッと置けば、周辺の景色がまさに車窓から見ているかのごとくである。
おまけに、地図モードから航空写真モードに変えてもまたすごい。
市街地と山間部がはっきりと見て取れるだけでなく、傾斜ボタンを押すと、まるでもたげていた頭を持ち上げるようにずずずっと遠くへ視点が延びて、鳥瞰図のようなアングルへと変化する。



それで、今回の旅先の地形を眺めてみるとこうなる。



いやはや、これはもうヘリにでも乗っているような視界だ。
地図フェチの僕にはもう、水着姿のアイドルのグラビアをながめる少年のような興奮をおぼえてしまう。


で、もう少し木曽谷と伊那谷に寄ってみると、こうなる。
中山道と東山道のルートも書き込んでみた。



やはり、空から見れば、伊那谷の方がゆったり広くて通りやすいんじゃないか?と思える。

しかし。
まあ、馬籠のあとに神坂峠を目指してみた僕らにはもう、木曽谷を通るようになったわけがわかった気がしている。
やはり、はじめに思っていた通りに、神坂峠が険しかったのだ。


その、神坂峠。落合から登る道筋はこうなる。
落合から左、馬籠へ向かうのが中山道。落合から右、神坂峠へ向かうのが東山道。




僕は、旅から帰ってきてから、こうしてgoogle mapで遊んでばかりいた。
おかげで実感してきたものの裏付けをしているようで楽しい。




さて、とりあえず、その東山道を訪ねた話に戻る・・・・。




馬籠の宿場を発ち、中央高速神坂PAの横を通り抜け、神坂峠を目指す。
途中、伝教大師(最澄)の銅像があった。



ヤマトタケルも坂上田村麻呂も通った東山道。
その険しさゆえに、比叡山延暦寺を開山した最澄が、旅人の便宜を図る目的で、無料の布施屋(休憩所)を建てた。
布施屋は峠の双方に建て、信濃側を広拯院(こうじょういん)、美濃側を広済院(こうさいいん)と名付けた。
美濃側の広済院は、はっきりこことは比定されてはいないらしいが、地形や残された地名から、まあこの辺であろうということ。
その地に今は、延暦寺が営む特養老人ホームがある。


道はどんどん上へ上へ。
鬱蒼とした杉の森を走らせる。
まだ明るい日中なのに、森の中は暗い。
運転をしながらちらちらと森を覗き込んでいるT君は、「森が黒いよぉ」と何度も叫んで、怯えているのか、喜んでいるのかわからない。
ところどころで、伐採した杉が集積されて山積みになっていて、そこだけ空が顔を出す。時たま明るさに触れる、といった具合だ。


しばらく行くと、湧水があった。
看板には「強清水」と書かれてて、標高1100mもあるらしい。
そんな高いところでも、これだけの水量を誇るのだから、山の保水力には驚かされる。




その上には、風穴があった。
明治期、蚕種の冷蔵貯蔵庫として開発利用されたという。こういった石室が、この神坂地区で29もあったらしい。




近くに休憩所があり、そこから山の中を分け入るように東山道の旧道がある。
今でも、登山道として利用されている。



自動車道は、つづら折りのくねくねした道だけど、その分、傾斜はゆるい。それに峠まできちんとアスファルト舗装されていて、整備が行き届いていた。
東山道はといえば、とにかく直線で短距離、という感じ。
だから、峠までの道すがら、何度も自動車道と東山道は交差を繰り返した。
まるで獣道のような東山道は、石ころがごろごろし、足場も悪い。
これじゃあ、馬に乗ってやってきたとしても、乗り心地の悪さがとても堪えきれずに、馬を曳いて歩くしかあるまい、と僕は思った。




馬籠を出てから、、もう10kmは走ったころだろうか。
馬籠では、いやそれこそ、木曽谷のどこでもまだ色付いていなかった樹木も、赤や黄色に映えている。
それだけ高いところまで来た、という実感が湧いてくる。
もやっているので視界が良くないのが残念。






振り返って見ても、来た道が見えない。




ようやく、峠へたどり着いた。
どうやら、ここから恵那山へと登れる遊歩道があるようだ。




美濃と信濃の国境、神坂峠。標高1569m。(データの出処によって若干の差異がある)
たしか、馬籠の標高が600m(本陣あたりか)とあった。
気になって調べると、馬籠からここまでの直線距離がざっと8.4kmくらい。
8.4kmで、高低差1km(1000m)近くものぼった位置になる。

ちなみに、落合からだと直線10km。
本陣の標高が330mなので、10kmで高低差1.24km(1240m)ということだ。
こりゃあ、当時の道も険しいわけだ。


神坂峠には、古代より逸話が数多くある。
ヤマトタケルが、白鹿に化けた山の神様を蒜で退治した話、
『万葉集』には「ちはやぶる 神の御坂(みさか)に 幣(ぬさ)奉り斎(いは)ふ命は 母父(おもちち)がため」の歌があり、
『今昔物語集』には、谷に転落した藤原陳忠がヒラタケを採る話、
ほかにも、『古今和歌集』、『源氏物語』、また『雨月物語』などにも出てくる。
ここがそうか。そう思うと、嬉しくなった。


その向かい側(北側)に、神坂峠の遺跡の看板があったので、行ってみた。
どうやらこの獣道が東山道だな、と感心しながらその先へ・・・





看板があった。
ここが峠かあ、と感慨深い思いに浸った。




遺跡の調査には國學院大学が関わっているらしく、その内容は興味深い。
、このあたり。たぶん他にも公開されていると思うがとりあえず)

峠での祭祀跡だというが、古くからあるほかの峠ではあまり発掘例がないらしい。
ほかにない「祭祀」という目的の行為が、なぜこんな高い峠で執り行われていたのだろうと疑問が湧いてくる。
もしかしたら、遠い遠い神代の時代、ここから東の国は、全くの異国だったのだろうか。
だから、中世の集落の境界で魔除けの道祖神やらを祀るように、東から魔物が入り込まないように結界を張った。そんなところかも。






さて、ここから信濃側へ降りるとしようと、車を進めた。
園原までたどり着く辺りには、広拯院や御坂神社や、まだ見ておきたい場所がある。



と、思い、


先へ進んだところが、



・・・・・行き止まり。




(あまりのショックで画像を撮りわすれたので、ストリートビューから拝借。というか、こんな山の中までカメラが来たことにも驚いたが…)


右が麓への道路のはず。それが、ゲートでとうせんぼしてあるのだ。
左はおそらく、リフト関係の道路。行っても意味がない。
ここから麓まで、おそらく数kmくらいだろうに。
三人して、唖然となってしばし言葉を失った。

「またあの道を戻るの?」
三人共通のつぶやきだった。


そう、この道をまた戻ったのです。







峠から、国道19号に出るまで20km近くあった。
おかげで中津川ICに乗る頃は、もう陽が暮れていた。
伊那に着いて、伊那名物「ローメン」を食してからT君宅を辞した。



さて、栃木に帰ってきてからの僕は、Google mapやほかの地図サイトでも旅の追体験を楽しんだ。
その中でgoo地図や国土地理院では、標高までわかる。

そこで、ふと思いついた。
中山道と東山道と、街道のアップダウンはどうだったのだろう。
街道を地道に辿り、標高を丹念に調べてみた。
すると、こうなった。(個人調べなので、差異はご了承を)











中山道も、鳥居峠(1200m)と馬籠峠(801m)は確かに難所ではあったけど、神坂峠(1569m)に比べれば、まだマシだ。
前後の宿場からの高低差も、鳥居峠が、奈良井から258m差、藪原から275m差。馬籠峠が、妻籠から369m差、馬籠から201m差。
かたや東山道の神坂峠ときたら、落合から1239m差、阿智から1023m差。 〔※数字はすべて個人調べなので若干の誤差はあり〕
端的に言えば、中山道の峠越えが、麓からいいところ369mの高低差に対し、東山道は1239mもあるのだ。その差、歴然。
奈良や平安の頃の旅人は、相当の覚悟をもって、峠を越えていたのだ。航空写真で確認して感じたように、神坂峠こそ東山道の急所だったのだ。
だから江戸時代に中山道を木曽谷経由としたのは、それだけが原因じゃなかったとしても、それが大きな原因になっていたことはたしかではある。
それを確信できたことが、今回の旅の一番の収穫だった。


そして。

いずれ、信濃側の神坂峠も行ってみたい、そう誓って、木曽路の旅のまとめを締めくくるとしよう。




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2 コメント

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はじめまして (baseballnovel)
2016-08-23 08:17:48
はじめまして
東山道のルートを説明するのに便利な画像を見つけ、勝手ながら拙blogで紹介させていただきました。
ご容赦をお願いします。
返信する
>baseballnovel様 (栗太郎)
2016-08-23 15:33:00
はじめまして。

こんなのでよければ、どうぞ、一言いただければご自由になさっていただいて結構ですよ。
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