東大寺は太っ腹である。
境内のほとんどを行き来することが、訪問者の自由なのだ。
国宝の二体の金剛力士が身構える南大門も開放してあるし、二月堂の舞台へも出入り放題。
何より、そこからの一望できる絶景がタダっていうのがいい。
大仏さんや三月堂、戒壇院はさすがに拝観料がかかるのだけど、ほかはまったくもって思いのままにぶらぶらできる。
京都あたりじゃそうもいかない。門をくぐるたび、ホトケさんに会うたびに、こちらを値踏みしているような視線で「ハイ、ナンボ」とくる。
なんだか、時間と空間を金で買わされている感覚がある。
その点、東大寺は境内に居ながらにして、その空間にいる贅沢さ・心地よさを味わえるっていうのが何よりもいい。
奈良には、こちらが粗相をしないかぎり、咎め立てしたり干渉したりはしない放任さを感じるのだ。
そんなありがたさを感じながら、境内を自転車でうろうろしている。
運慶と快慶による金剛力士像
大仏殿に着いた。
平重衡や松永久秀の戦火により焼かれ、今は江戸時代の再建の姿。
再建のたびに大仏殿の形は変化しているが、高さおよそ49mは変わらない。
平安時代、「雲太、和ニ、京三」といわれ、出雲大社に次ぐ大きさを誇った大仏殿。
回廊から望むと、入り口の扉でさえも人間の数倍の高さ。周りにいる見学者がアリンコほどにちっちゃく見える。
そのあまりの大きさに距離感が狂ってしまうのだが、その感覚もむしろ敬意をもって楽しめるというもの。
中にはいると、整ったお顔立ちの大仏さんにため息をつく。
見上げれば、その天井の高さにまたため息。
奈良時代の台座、戦国時代の胴回り、江戸時代のご尊顔。
よく見ればツギハギだらけなのだけど、その存在感は抜群である。
しかし、この大仏さん、聖武天皇はどうして作ろうと思ったのだろうか。
国家鎮護と言うけれど、それはもちろん建て前。
ホントのとこはやはり、咎なくして命を絶たれた長屋王の恨みを恐れて、、、というのが本音なんだろうと思ってる。
今よりももっともっと霊や魂を信じていた時代なんですからね。
もしホントに民衆の平和を願っているのなら、大仏造営なんて大事業をするはずがないと思う。
大仏を造ることで、どれほどの重税を課せられ苦しめられるかくらいの想像が出来るだろうからだ。
民のための仏教ではなく、天皇家のための仏教であった時代だからしょうがないこと。
この巨大金銅仏も、渡来人の技術あってはじめて造営ができる。
つまり、たとえ国内のどこに鉱脈があろうとも、、銅や水銀や金も、渡来人の鉱山師が発見し鍛錬してこそ使い物になったのだと思う。
その渡来人自身も、おそらく「ゴールドラッシュ」をもくろんで日本にやってきたのではないか。
ようやく見つけた鉱物資源の消費地が、遠い大陸ではなく国内の奈良であれば、これほどコストのかからないものはない。
祟りを恐れて仏教に頼った聖武天皇と、特殊技能を売り込んだ渡来人。
双方の思惑が一致した産物が、この奈良の大仏さんだったんじゃないのかなあ。
ついでに言えば、造営の最中に、陸奥で金が発見されおかげで大陸から輸入せずに済み、自前で賄えることとなった。
喜んだ聖武天皇は年号を天平感宝とあらためた。喜んだのは、聖武天皇だけでなく、売り込みに間に合った鉱山師もそうだと言えるかもしれない。
ちなみに、その逆の立場の人といえば、かの鑑真和上。
本来大仏開眼のスペシャルゲストであったはずなのに、それに間に合わずに立場を失った。
おかげで、その後の日本の仏教界から受けた待遇は、けして良いものではなかった。
せっかく大仏さんを作っても、都には疫病が流行った。
いまでこそ、それの理由のひとつが鍍金(つまり金メッキ)行程の際に蒸発する水銀によるものと解明されてはいても、
当時はそれもまた、長屋王の祟りと怖れられた。
となると「大仏さんのご利益が効かない」という理屈になる。とんだとばっちりである。
江戸時代の端正なお顔立ちで、泰然と座し、涼やかな視線を配る大仏さん。
右手の施無畏印と左手の与願印は、人々の願いを叶えますというサイン。プリーズ&OK。
1200年以上も間、さまざまな仕打ちを受けながらもそれでも救済を施す姿だと思うと、とてもありがたさが増してきた。
不便なことおおいに結構!
本来、参拝というものは多少の難儀があるものです。ようやく行き着いたお堂にいらっしゃるホトケさまの優しい表情、仏閣や景色のうるわしさというものが感動を深くするものですよね。
それが、駅を降りたら目の前にあるとかじゃありがたさが足りません。
ホトケさまも、邪鬼という脇役がいてさらに引き立つもの。邪鬼の苦渋の表情と、ホトケさまの涼やかさな顔付きの対比があってこそ。たまに、苦渋というよりはお茶目な邪鬼もいますけどね。