栗太郎のブログ

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そうだ行こう、京都の旅(4) 豆大福と上賀茂神社

2017-03-03 06:20:00 | 見聞記 箱根以西

清水寺から宿へもどり、自転車にまたがる。
さあ、どこに行こうかと悩んだ。頭に浮かんできたのは、史跡でもホトケ様でもなく、出町ふたばの豆大福だった。
どうせ今回の旅は時間を持て余しているのだ。その人気ゆえに、大阪にいたときでさえ一度も口にしたことのなかった、あの豆大福を食べよう、と思った。
ついでにほかの餅菓子も買おうと、高島屋で中村軒の麦手餅を求めてから、麩嘉の麩饅頭を買いに錦市場へ行った。
しかしその錦市場は、正月ものの買い出し客で狭いアーケードの混み具合がハンパない。もうどこやらわからず諦めた。




つぎに浮かんだのが、先斗町にある駿河屋のわらび餅だった。



小粒の餅が6個入って1,456円。結構値が張る。
当然国産だろうと思って、奈良ですかと聞いてみると、どうやら今は九州産のものが多いらしい。
店舗内に掛けられた、大きな木彫が目についた。
以前は店の入り口に掛けられていたらしく、雨風に晒された経年劣化がみられるが、それでも十分に惹きつける魅力を感じた。
ご主人に断って一枚撮らせてもらった。




帰宅してから調べてみた。
刻まれている歌は「橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹」。
「橘(たちばな)は、実さへ花さへ、その葉さへ、枝(え)に霜(しも)降れど、いや常葉(とこは)の木」と読み上げる。聖武天皇の詠まれた歌(巻第6-1009)だった。
橘は実も花もその葉までも、枝に霜が降りても枯れ落ちるどころか、いよいよ栄える常緑の美しい木であるよ、という意味。
聖武天皇という方に対して僕には、やや精神不安定なところがある人というイメージがあったので、こんなの明るい気分の作風は意外だった。
作者は「昭雲」とある。おそらく、作風からして山田昭雲という方であろう。


高瀬川に出て、陽だまりを浴びながら川沿いに北上。




三条通りに出た。
そのすぐ左手(西側)が、幕末、新選組が踏み込んだ池田屋があったところ。



いまは同名の居酒屋が営業していて、店前にある「維新遺跡池田屋騒動ノ址」の石碑にその名残をわずかに感じるのみ。




東に向かえば、鴨川に。江戸時代、ここが東海道五十三次の終着点。
川に架かる三条大橋がいまでも木造の欄干であることに改めて驚く。



かつてこのたもとは高札場で、河原は刑場だった。石川五右衛門の釜茹での刑もここ。
石田三成、近藤勇の晒し首が行われたのもここだった。

年季の入った擬宝珠を撫でようとして、刻印に目がいった。
「天正十八年」「豊臣」「増田右衛門尉長盛」などの文字に気づいた。









どうやら、天正18(1590)、豊臣秀吉が、増田長盛を奉行として石柱の橋に改修したことが刻まれているらしい。
すぐ後ろに立てられた石柱がそれなのだろう、「天正」の文字が見えた。
天正18年と言えば、小田原征伐の年。なるほど、秀吉はこの橋を渡って出陣していったという。
京の街を整備し、三条大橋とあわせて五条大橋も改修し、それらの事業を行うことは、まさに我こそは天下人であると世間に示していると同じだ。
その時の秀吉。欄干の前に突っ立っている僕。この空間にざっと400年以上もの時間が流れている。
これだけのものが、さらりとたたずむ何気なさ。京都にはかなわない、と思った。

橋の西詰、南側には、弥次喜多の像があった。
陽気に笑うふたり。




三条大橋をわたり、この日もうどん。仁王門うね乃へ。
1時近くになっていてもまだ外に10人弱並んでいる。前日の免疫があるので想定内。



それでも、40分待った。とても清潔感のある店内。和食というよりは家庭的なフレンチの雰囲気。
入口の看板で紹介してあった「みぞれうどん」(1500円)と炊き込みご飯(300円)を注文。
すりおろした賀茂大根と吉野葛でとろみをつけた出汁に麺がよく絡む。薬味のわさびが効いている。
京都風のふんわりした柔らかいうどんとの相性がいい。




腹ごなしをすませて、いよいよ出町柳にあるふたばへ。
案の定、相当な混み様。店の軒幅いっぱいに4重、5重に折りたたまれた行列は、ゆうに4,50人は並んでいた。
それでも、店内で働く人はバイトを含めて結構いるおかげで、ものの30分で僕の番まで回ってきた。
前に並んだ客がみな、豪快な物量を注文している中、僕は、豆餅(豆大福のこと、@175円)4個と、田舎大福(草大福、@185円)1個を買った。



餅菓子をたんまり手に持って、さあ、どこでおやつにしようか、と鴨川へ。
川筋にそって遠く北を望めば、鞍馬山が見えた。



河原のベンチに腰掛けて、



ふたばの豆大福と、中村軒の麦手餅を食らう。
寒風に晒された身体にあったかいお茶を流し込みながら、対岸で筋トレしている学生たちをぼんやりと眺めている。
その向こうには大徳寺があって、その先に金閣寺もあるのだが、もう今日は行く気もしなかった。







鞍馬の山まで行く気はないが、せめて上賀茂神社をお参りだけしておこうと自転車に乗った。
が、思いのほか上賀茂神社まで距離があり、20分ちょっとかかった。

上賀茂神社は通称で、正式には賀茂別雷神社(かもわけいかずち)という。
山城の国の一之宮、かつては伊勢神宮に次ぐ社格だったらしい。
主祭神はその名の通り、賀茂別雷命。
二の鳥居をくぐってすぐの細殿(祭殿ではないのか?)の前には、きれいな円錐形の盛砂があった。立砂(たてずな)というらしい。
一種の神様の依り代で、「清めのお砂」のはじまりという。




楼門は、修復の最中。終われば、鮮やかな朱色がまばゆいのだろう。



この奥に、国宝の本殿と権殿が並ぶ。



おみくじがあった。お馬さんだった。
こういう御神籤だけは買う僕である。



御神籤を結ぶのも、馬の形をした竹籠。




ちなみに、中吉。
多くを望まぬが得策、とある。今回の旅はまさにそうだ。
ついでに家庭、蛙の子は蛙、とあった。やけに意味深である。







京都に古くから居住していた氏族と言えば秦氏が浮かんでくるが、ここの神様を祖先にもつ加茂氏との関わりもある。
ふだんの僕ならばその辺をぐりぐりっと掘り下げて、好き勝手に持論を展開してみるところだが、今回そのモチベーションはない。

ということで、お参りを済ませて、ここから鴨川沿いに一目散に自転車を漕いで宿へ。
清水五条から阪急電車に乗り込み、乗り継いで大阪の天満まで。
天満天神繁昌亭にて落語を聴く。無駄になった一枚も持って。
上方落語は性にあわなかったのか、斜め後ろに座っていたゲラの子供しか印象に残っていない。



夜の9時を回っていた。
よこを向けば、目の前に天満宮の門。閉まっているが、まもなく初詣の参拝客であふれるのだろう。
胃袋にお好み焼きをおさめて、僕はひとり京都に帰った。

(つづく)



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