どこにも満ち溢れている苦痛と忍耐

2017年12月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-5. どこにも満ち溢れている苦痛と忍耐
 忍耐(我慢・辛抱)に類する格言は多い。それだけ多方面に忍耐は必要になっているということであろう。あるべきひとの姿勢・心構えとしては、正義・節制・勇気などの徳目がある。だが、正義を自身の行為において意識する人は、日本ではあまりいない。節制は、肥満の人では日々必要となる心構えであるが、痩身のひとにはダイエットとしては用がない。出された食事を享受するのみのこどもなど、はじめから必要量しか美味のものは出されないので、節制する必要がない。が、不味いものは、いやでも食べる必要があり、「ニンジンを残さないで、我慢して食べなさい」と、忍耐は、親から求められる。勇気は、最近は、危険が予め排除された生活であれば(川があってもプールでしか泳がず、身近に自然があっても公園でしか遊ばず、危険のない空間に過ごしている)、これもあまり登場することがない。危険や勇気を意識しなくてもよい学校や職場であるが、勉強や仕事では、いやなことでも我慢し辛抱する必要があり、忍耐は不可避である。
 忍耐は、おそらく、毎日、だれもが何らかの形でしている。子どもも大人も男も女も老人も、周囲のことに我慢し、自分自身のことに辛抱することである。生きている限り、生を妨害したり傷害を与えるものに遭遇するが、ひとは、しばしばその不快・苦痛を回避せず受け入れて、苦痛の犠牲を手段にして、より高度の生の営みを実現していく。苦痛・不快に逆らわず甘受しようという忍耐は、人間的生には必須の日々の営みである。
 

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