欲は、かならずしも快楽を目的としていない-快楽主義の批判

2010年05月05日 | 節制論
4-4. 欲は、かならずしも快楽を目的としていない-快楽主義への批判-
 欲求の充足は、快になるが、快楽自体を欲求の目的にするのは、自然的には、動物的基礎欲求つまり食欲と性欲ぐらいに限定される。所有欲・名誉欲などの社会的人間的欲求が充足するのは、快をもってではなく、目的の達成、価値ある目的物の獲得によってである。快感が伴わなくてもかまわない。
 快楽を目的にするのは食・性の動物的欲求になるから、快楽が目的の快楽主義には、下賎なイメージが伴う。食欲では快楽は必須ではないが、性欲では、なによりも快楽が目的となるから、快楽主義というと、性的快楽を人生の目的にした存在ということになる(快楽主義というとエピキュリアンであるが、欧米のepicure,epicureanは、食道楽、食の快楽を第一とするようである)。人間的欲求でも快感が目的のものがあるが、それは、遊び・賭け事等になり、やはり、遊び人ということで、下賎ということになる。
 しかも、人間的なレベルでの性的欲求は、快楽主義のように快楽を専らとするものではない。「一緒に暮らしたい」「一生つれそって生きたい」というような「希望」などの精神的な形式をとって社会的な欲求となる。肉欲としての快楽は寝室に閉じ込められる。人間的な性欲について、快楽を見るだけの快楽主義者は、衣服をまとった男女の前で性器を露出させる下品な存在である。
 食の快楽にしても、厳密にいうと、飢えを充たす場合は、欠乏の苦痛を解消したいということであって、快楽を味わいたいというのではない。食道楽の快楽主義は、飢えの時代には、贅沢だった。飢餓を横目に贅沢を謳歌する無慈悲なエゴイストでないと食道楽(快楽主義者)にはなれなかったであろう。
 快楽主義が嫌悪されてきたのは、もっともなことである。
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