ひとは、動物と同じ自然的忍耐をしても、自由でありうる

2017年03月31日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-2-5. ひとは、動物と同じ自然的忍耐をしても、自由でありうる
 ひとも、鞭うたれてする奴隷労働では、牛馬(動物)のように、鞭の激痛を避けるために労苦の忍耐をとる。快不快の自然的反応としての忍耐である。だが、この動物的自然的忍耐においても、ひとは、これを自由の営為にと転じることが可能である。
 同じく快不快の自然にしたがっての忍耐であるとしても、これに埋没しているのと、これを死よりはましだと考えて意志して受け入れるのとでは異なる。奴隷的苦痛を忍耐するとき、それで生の損傷は少なくてすむのだと自身が理解している場合、自然状態から一歩距離をとれているのである。快不快に自然的に(本能・衝動の場の大脳辺縁系で)反応するに留まるのではなく、この自然反応でよしと(理性の場である大脳新皮質のもとで)受け入れているのである。そういう意識のもとでは、場合によると、苦痛甘受をやめて死を選択することも可能となる。動物も苦痛を忍耐するが、それは快不快の自然的反応にしたがっての選択である。だが、ひとは、現にあるのは苦痛のみとか、快不快の選択で最大の苦痛でも、未来の目的のためにこれを選ぶことがありうる。苦痛を麻痺させて、なくする道も場合によっては選びうる。快不快の感性自然にとどまることなく、これを超越した理性・知性の世界に立っておのれの感性を制御・支配し自由にできるのである。
 苦痛甘受の忍耐を手段・踏み台と位置付け、先に目的を描いている場合、その苦痛に一層の距離をおくのである。手段は捨てるべきもので、目的が自身の魂であり守るべき価値である。その奴隷化の苦痛に耐えるなら、命は奪われず、従順にしていることでやがては解放の日も来るであろうと未来を描けば、現在の忍耐は、自由になるという目的のための歩みとなってくることである。自然状態での苦痛と忍耐のあり方に埋没することを脱して、これを優れた目的に到るための踏み台と位置付けた、より人間的な忍耐となる。 
 動物は、死を迎える以外ない激痛であってもこれに苦しみ続ける。ひとは、その動物の苦が無意味と分かれば、苦しみ続ける動物を銃殺・薬殺して楽にしてやる。その銃殺の役をひとでは、自分の理性が担い、もし、激痛の後には死があるのみと分かれば、忍耐はそれまでとして、死を選ぶ自由を自身がもてる。逆に、七転八倒の長い激痛のあとにかならず健康の復活がなるとわかれば、確かな希望があれば、ひとは、どんな地獄の責め苦にも耐え抜くことができる。そういう自然離脱・自律的な心構えをもってするなら、同じように自然的忍耐をしているとしても、その忍耐は、動物のとはちがった、自由な人間的なものになると言えるであろう。
 

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