忍耐には、不定の未来への漠然とした目的も多かろう

2017年09月08日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-4. 忍耐には、不定の未来への漠然とした目的も多かろう
 少々の苦痛ならばこれが続いていても、へこたれることなく忍耐できる。だが、激痛が持続するとか、つらい状態が果てしなく続く捕虜・奴隷の生活になると、その眼前のつらさに耐ええなくもなってくる。忍耐をやめて暴発し反抗して殺されたり、あきらめて消極積極の自殺もすることになる。そういうとき、未来に希望を描ければ、解放の可能性などの漠然としたものであっても目的を描ければ、耐えることに意味・価値を見出して、よりよく忍耐できることである。
 日頃の些細な苦痛とこれへの忍耐では、ことさら未来(目的)に注目することはなさそうだが、意外に多くの場合、なんらかの目的を描いているのではないか。苦痛では自暴自棄になるより、忍耐する方がましな結果をもたらす、ということが反復されると、なにか苦痛になることがあると、まずは、忍耐するのが一番とだんだんと刷り込みがなされてくる。無駄に抵抗したり暴発して散々な目にあうことを繰り返せば、「ちょっと我慢すればすんだのだが・・」と後悔して、忍耐放棄の自暴自棄だけは、やめよう、今回こそは、まずは我慢してみようとなる。それで未来に安寧な状態、よりましな状態が可能になるのだと楽観的に、漠然と目的を描くわけである。その忍耐が無用となれば、そのときになって、暴発でもすればいいのである。騒ぎ立て抵抗する方がいいとか、逃げる方がましと思えてくれば、忍耐をやめることにもなろう。耳鳴りに即効的な治療があるとか薬が売りに出されたと知れば、無駄に忍耐することはやめる。だが、そうでないのなら、さしあたり、我慢しておくのが無難(穏やかな明日という目的)となるのである。
 

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